虹の出る空。雲が映える晴天。アディールたちは霊草テンスを求めて、洞窟を探していた。
「なあ、シンイ。」歩きながらアディールが声をかける。
「はい?」うつむいて歩いていたシンイが顔を上げた。
「アバ様が言っていたことって・・・ホントなのかなぁ。」
「それは・・・わかりません・・・」シンイはまたうつむいてしまう。
「でも」と、今度はリリーネが口を挟んだ。「でも、テンスの花があれば大丈夫なんだよね?」
「そうだよな、シンイ?大丈夫なんだよな?」大丈夫であってほしい、という希望を込めたようなアディールの言葉。
「シンイさん?」答えないシンイに催促するようにリリーネ。
そこでやっと足を止めて再び顔を上げ、シンイはアディールとリリーネに目を合わせた。
「・・・おふたりとも、聞いてください。実はおばあさまはこうおっしゃったんです。村は滅びる。しかしテンスの花があれば助かる。ただ、生き残れるのはただのひとりだ、と。」
アディールの表情がこわばる。
「そんな・・・。それじゃ、・・・そのひとりってのはいったい誰なんだ?」
シンイは首を横に振った。「わかりません。」
「それ以外の人たちは、みんな滅びてしまうのか?」
「それもわかりませんが・・・、おばあさまは最悪の事態のことを言っているだけかもしれません。光明が残されていると言われた以上、その可能性を信じてテンスの花を採りに行くしか・・・。」
「そう・・・だな。」
アディールは頷き、3人は、目を合わせて、そして歩き出した。
北へ。
村を出てから一昼夜。ごつごつした岩場の奥に洞窟が見えてきた。
「ここは足場が悪い。リリーネ、大丈夫か?」
「うん。でも、ちょっと休憩したい、かな。」
リリーネは、座りやすそうな岩をひとつ見つけ、そこに腰掛けた。と、その途端、リリーネの下の岩がせり上がる。
「きゃあ!」と驚いたリリーネは、岩から飛び降りた。
今まで別々の岩だと思っていたものが、次々とせり上がり、まとまった集合体となる。岩の魔人ゴーレムだった。
ゴーレムはアディールに顔を向け、左拳をゆっくりと振り上げる。その動きは大きく、緩慢なものだった。拳を振り上げながら、上半身をゆっくりゆっくりと捻っていく。完全に振り上げたときには、ゴーレムの背中が見えていた。
よし、あの遅い動きならば、拳をかわしながら攻撃できる。アディールは剣を構えてタイミングを測る。
ゴーレムが振り下ろす拳を半身でかわしながら逆走して飛び上がり、頭部に斬りつける、つもりだった。しかし、ゴーレムの拳の速度は、そんなアディールの予想をはるかに超えていた。振り上げる速度の緩やかさからは想像もできないほど速く鋭く、そして重い拳だった。
ドガガ!
結局アディールは、斬りつけることも飛び上がることもできなかった。唯一の救いは、直感的に恐怖を感じて、その場に尻餅をついてしまったこと。ゴーレムの拳は、さっきまでアディールの顔があった空間を打ち抜き、アディールの後ろの岩は粉々に飛び散っていた。
助かった、と、ホッとして、アディールはゴーレムを見直った。しかし、その安堵の表情は一瞬にして凍りつく。次の瞬間にはまた同じ恐怖が襲いかかってきていた。左拳を振り下ろしたときに、すでにゴーレムの右拳は振り上げられていたのだ。アディールの脳裏に、粉々になった岩の破片がよぎる。
ダメだ!足がすくんで動かない。アディールは目をつぶった。ゴーレムの右拳が降りかかる自分の姿が、頭の中で見えた。
しかし、その想像もまた現実にはならなかった。アディールは片目を開けて、いつまでも振り下ろされない拳をそっと見た。その拳は振り上がったまま燃えていた。いや、拳だけではない。ゴーレムが燃えていた。
「危なかったですね、アディールさん。」シンイが小走りに寄ってくる。「私は裁縫だけじゃなく呪文も得意なんです。」
シンイの手を借りて立ち上がりながら、アディールは振り返ってゴーレムを見た。岩の魔人は、燃えながら砂と化した。
アディールたちはゴーレムを背にし、洞窟へと足を踏み入れた。光の差し込まない洞窟の中に入り、何も見えなくなる。視覚を奪われた3人は、耳で音を聞き、肌で風を感じながら、そろりそろりと洞窟を進む。
だんだん目が慣れてくると、洞窟に浮遊している無数を光る小さな点が見える。ふよふよと漂う虫たちの放つ光で、奥へ続く道がほんのりと見えてくる。少しずつ歩を進めていくと、リリーネが立ち止まって壁を指差した。
「おにいちゃん、これなんだろ?」
「壁画だ。」
アディールは、わずかな光で壁の文字を読む。壁にはこう書かれていた。
・・・この世界の全ての生きとし生ける者は滅亡の危機にさらされた。空にはふたつの太陽。忌まわしきふたつ目の太陽は、自在に空を駆け、大地を焼き、海を干上がらせ、人々を灼熱の絶望に陥れた。この地獄と化した世界で、地上のすべての生きる者が滅亡しようとしている・・・
3人は壁の前でキョトンとしていた。
やがてシンイが口を開く。「以前森の中で、石碑を見たのがずっと気になっていました。」リリーネと一緒に見た石碑と同じもののことだろう。五つの種族の石碑。「もしかしたら。」シンイが続けた。「もしかしたら、ずっと昔は人間以外の種族もいて、しかし彼らは滅亡し、人間が最後に残った種族なのかもしれませんね・・・。そして・・・」神妙にひと呼吸。「そして、最後に残った人間もまた滅亡のときを迎えようとしているのかもしれません・・・」
不吉なことを言うシンイに、アディールは反論しなかった。半ば上の空でしか耳に入っていなかった。
「ふたつ目の太陽・・・」アディールはボソリと言った。
ふたつ目の太陽。それがエテーネを襲う災厄の正体なのか?カメ様はそれを予言したのか? アバ様はその予言を伝えた。そしてテンスの花があれば・・・。テンスの花があれば、他の種族のように滅亡せずに済むのか・・・。そう、テンスの花。テンスの花が滅亡を防ぐ鍵なんだ。
と、アディールが考えていたそのとき。
「ほう。テンスの花を採りに来たか、エテーネの民よ。」
洞窟の奥から声が聞こえた。まるでアディールの心が読まれたかのようだった。
「誰だ!」アディールは咄嗟に剣を抜いて、声の方向へ構えた。
奥は暗く、見通しが悪かったが、大きな車輪が近付いて来るのがうっすらと見えた。人間の背丈よりも大きな車輪。
「わしの名はベドラー。魔導鬼ベドラーじゃ。」
近付くにつれ、車輪の中の緑色の魔物が本体だとわかった。尖った耳。白いあご髭。緑色の魔物は、自分の体がすっぽりと収まるほどの車輪の内側を両手で握り、器用にバランスを取っている。
「もっとも、死にゆく者に名乗る必要などないのじゃがな。キヒヒ。」魔導鬼は口をニッっと開いた。開いた口からは並びの悪い歯が見えた。
「この奥には確かにテンスの花がある。じゃが、時を越えるチカラを持つおまえたちには、この花を渡すわけにはいかんのう。」
「時を越える・・・?時を越えるってのはどういうことなんだ!?」アディールは声を荒げた。
「その様子だと、お前は能力者ではないようじゃな。それとも、まだ覚醒しておらんだけかの?」 ベドラーはアディールのつま先から頭の先端までを値踏みするように見ている。
「覚醒・・・?」そう繰り返したアディールに、ふと、アバの言葉が蘇る。「自分に隠されたチカラ」と、アバは確かにそう言った。ベドラーの口ぶりと共通するものがある。
「どうやら平和ボケして、エテーネの民はそんなことも忘れてしまったのか。愚かなことよ。」魔導鬼はキヒヒと笑いながら、車輪を回転させる。
「じゃが、忘れてしまったからと言って・・・」魔導鬼は車輪ごと飛び上がり「わしが教える道理はないわ!」と、アディール目掛けて落下する。
「くっ!」アディールは、剣でべドラ-の車輪を受け止める。
ボロッ。剣が刃こぼれするのを感じた。
今度はアディールがべドラ-に斬りかかり、べドラ-は車輪でそれを防ぐ。
ボロッ。また刃こぼれを感じた。攻防が続けば続くほど、剣の刃がこぼれた。
「キヒヒ。この車輪は冥界の円月刀。そんな剣で耐えれると思うてか?」ベドラーは薄笑いを浮かべている。
アディールは後ずさった。ベドラーの言うとおりだった。その剣では、もう戦えないことをアディールは薄々感じていた。
「キーヒヒ。もはやその剣ではわしは斬れぬ。さらばじゃ、エテーネの民よ!」べドラ-は高速で車輪を回転させ、アディールへと突進する。
「くそっ!もう防ぎきれない。どうしたら・・・」
そのとき、印を結んでいたシンイが叫んだ。「アディールさん!」そしてメラを放った。放たれたメラの火球はベドラーではなくアディールへと向かう。
「シンイ!ちょ、これオレの方に打ってるじゃないか!」
「アディールさんの剣に打ちました。これで奴を斬ってください!」
火球は剣に当たり、剣は激しく燃え上がる。
アディールははじめ驚き、そして強く頷き、剣を握りしめた。
突進してくるべドラ-に対して、アディールは横薙ぎに剣を振り抜く。振り抜いた剣の刀身は、アディールの視線と並行になったところで止まる。アディールの焦点は切っ先に合っていた。
ベドラーは、アディールを通り過ぎてから立ち止まる。アディールとベドラーは背中合わせに立っていた。
静止。
静寂。
そしてべドラ-の声。
「キヒ。レベルの高い戦士だけが使えるはずの火炎斬り。まさかおまえたちのような戦い慣れぬ者が使えるとは・・・」
パキン、とベドラーの車輪が割れ、カラカラと転がる。べドラ-のわき腹は鋭くえぐられ、大量の血が噴き出していた。べドラ-の血は、べドラ-の体の色よりも深い緑色だった。緑色の血は地面に流れ、まるでべドラ-自身が液状に溶けているようにさえ見えた。
「これは火炎斬りと言うのか。」アディールは、右手に握った炎の剣を見ていた。「でも、オレひとりの力じゃない。仲間がいたからできたことだ。・・・さあベドラー、時を超えるチカラとは何なのか、いったいお前はなにを知っているんだ。」アディールは剣を振って火を消してから鞘に納め、もう戦えないであろうベドラーに向き直った。
ベドラーは目をつぶって、ぶつぶつと独りごとを言いながらふらりふらりとアディールのほうへ歩く。一歩一歩と、血だまりが広がる。
まだ戦うつもりか?アディールはまた鞘に手を掛けた。
しかし、ベドラーのほうにはすでに戦う意思がなかった。よろよろとアディールの横を通り抜け、洞窟の奥へと歩く。
すれ違いざまにアディールの耳にベドラーのつぶやきが聞こえた。
「冥王様、お許しください・・・。せめて・・・、せめてテンスの花だけは・・・。あとは冥王様の手で・・・・。」
ベドラーはアディールに背を向け、大きく息を吸い込む。吸い込んだ息は、ベドラーの体内で燃え上がる火炎となる。十分に息を吸ったベドラーは、体内の火炎を口から吐き出した。炎は、口だけではなく、ベドラー自身のわき腹からも漏れ出している。アディールに斬られたわき腹から漏れ出る緑色の血に、自身が吐き出した炎が引火した。自分の身をも炎上させるベドラーの炎の矛先はアディールではない。洞窟の奥だった。そして、ベドラーは自分が吐き出した業火に焼かれながら言う。
「キヒ・・。これで・・もう・・エテーネは助からぬ・・・。」
アディールは、ベドラー越しに洞窟の奥を見た。何かが燃える音がした。
「まさかっ!」
アディールの顔がこわばった。
まさか!まさか!ベドラーはテンスの花を燃やしたんじゃないのか。アディールは駆け出した。倒れるベドラーを飛び越えて、洞窟の奥へ走った。
テンスの花だけが、唯一エテーネを救えるかもしれないのに。急げ!急げ!間に合ってくれ!あの奥の部屋!炎が燃え尽きる前に!テンスの花が残っているうちに!
息を切らせたアディールが部屋に着いたとき、火は消えかかっていた。もう燃える物がなくなっていたからだ。黒こげになった草花が部屋を満たしていた。花園は灰と化していた。
「そんな・・・。もうテンスの花は全部燃えちゃったの?もう村は助からないの?」リリーネはその場にへたり込んだ。「どうして?どうしてこんなことになったの?時を越える力ってなんなの?」
「古い書物によると。」リリーネに答えるようにシンイが話し始める。「私たちエテーネの民は遥か昔、自由に時を超えられる時渡りの術という能力を持っていたそうです。ですが時渡りの術を使える者は時代と共に少なくなっていき、数百年前に完全に失われたのだとか。」
「そ、それじゃ!」リリーネは肩を震わせる。「それじゃ、もうなくなった能力のせいでこんなことになったの!?」
シンイは黙って下を向いた。
「そんなことあるの?」リリーネの目は涙で覆われた。「そんなことって・・・。」
と。
リリーネの視界の端に青白い光が見えた。
岩陰のほのかな光が、涙で屈折して、リリーネの目に飛び込んでいた。
はっとリリーネが振り返る。「お兄ちゃん。」
灰の中に一輪だけ残った花。針のように尖った緑の葉。ユリにも似たその花びら。そして、花が放つ青白い光。
「リリーネ。」妹の肩にそっと手を置くアディール。
そして、シンイ。「間違いありません。これがテンスの花です。」
テンスの花を持って、アディールたちは灰の花園を後にした。燃え尽きたベドラーを通り越し、洞窟を抜け、もと来た道を戻ってエテーネに向かって草原を走る。
洞窟の外は、いつの間にか夜になっていた。月明かりもなく、黒い雲に覆われた草原は、日の入らない洞窟と同じくらい暗かった。
走りながらアディールは違和感を感じていた。魔物がまるで見当たらない。さっきまで逃げるので手いっぱいだった魔物たちが、今は全くいない。
なぜだ?なんでだ?アディールはえも知れない不安を感じていた。
その刹那。
雷鳴が轟く。
草原の先のエテーネが一瞬明るく見えた。いや、一瞬じゃない。明るいのは雷のせいじゃない。
燃えている・・・。村が、燃えている・・・
アディールたちが村に着いたときには、もう全焼に近かった。それだけではない。村中に魔物が飛び交っていた。見たこともないような凶悪そうな魔物たち。次々と家を壊し、人々が逃げ回るのを嘲笑う。火を吐き、高度な呪文を使い、怪力で村を破壊する。
「そ、そんな・・・。」惨状を見たリリーネが立ちすくむ。「テンスの花を採ってきたのに・・・。これで村が救われると思ってたのに・・・。」絶望的なリリーネの表情が、アディールには耐えられなかった。
と。
「冥王様。冥王ネルゲル様。」
空の上から会話が聞こえた。
めいおう・・・?アディールは上空を見上げ、会話の主を探す。
・・・あいつか!声の主は三又の槍を持った翼のある赤い牛だった。すると、その隣りにいるのが冥王?
アディールは、冥王と呼ばれた者を見上げた。
手には大鎌を持ち、長い銀髪は天を突くように立ち上がっている。
アディールは、ベドラーの最後の言葉を思い出す。たしか、あいつも「冥王様」と・・・。
村の滅亡を救うテンスの花。花を焼き尽くそうとした魔導鬼。魔導鬼が自らの命を持って従ずる存在、冥王。
冥王こそがエテーネの災厄であるならば、その災厄からエテーネを守るのがテンスの花ではないのか?冥王が、テンスの花のチカラを恐れて、魔導鬼に花を焼くように命じたのではないのか?しかし、魔導鬼を倒し、テンスの花を手に入れ、こうして今、霊草テンスを持って災厄と対峙しているのに、なぜ村は救われないのか。アディールは激しく憤り、激しく狼狽した。
「ほう。戻ってきたか。」と研ぎ澄まされた声が響く。
冥王ネルゲルが自分に目を向けているのにアディールは気付いた。アディールはキッとネルゲルを睨み「降りて来い、冥王!」と叫ぶ。
「威勢のいいことだ。霊草を持っているところを見ると、ベドラーを打ち破ったということか。しかし、それも無駄なこと。貴様はそれがなんなのかをわかっていない。」ネルゲルが冷笑の表情を浮かべている。
アディールは唇を噛んだ。そのとおりだった。霊草テンスがなんなのか、全くわからないでいた。しかし、冥王のその言葉は、裏を返すと意味深いものになる。
「シンイ!」アディールは冥王を睨んだまま叫んだ。「花をアバ様に届けてくれ!すべてはアバ様が知っている!急いで!」
「はい!」シンイが教会に向かって駆け出す。
「この状況下でなかなかの明察。」ネルゲルは少し感心したように言い「が、それでどうにかなるものでもない。おい、シルバーデビル。」と続けた。「教会にギガデインを落とせ。」
「はい。ご指示どおりに。」銀白の猿は翼を広げて飛び立った。
「さて。次はあいつだ。」ネルゲルは、今度は牛の魔物に言う。そして、その指はリリーネに向けられている。「やれ。」
「は。」ネルゲルに命じられて、翼の牛が息を吸い込んだ。
アディールは咄嗟には動けず、心の中で叫ぶ。
まずい!ベドラーと同じだ!あれは炎を吐くための前準備!リリーネが危ない!
思考に一瞬遅れて体が反応し、アディールがリリーネの方へと駆ける。
牛が炎を吐く。アディールが走る。炎とアディール。・・・炎のほうが早い・・・
アディールがリリーネに手を伸ばす。その手は、リリーネには全く届いていない。
炎がリリーネに届く。間際。
「リリーネ!!」
「お兄ちゃん!!」
アディールの手が届くより前。炎が届くより前。アディールの声が届いた後。
世界が停止していた。すべてが止まっていた。
眼下を指差す空中の冥王。炎を吐き出す牛の魔物。吐き出された炎。手を差し伸べるアディール。まるで精巧に作られた彫刻のように、まるで名のある画家が筆を滑らせるキャンバスのように、止まったまま動かない世界。
その止まった時の中で、唯一動けた者がいた。ライトブラウンのセミロングヘア。光沢のある黒い瞳。薄小麦色の肌。リリーネ。
リリーネはアディールに向かって叫ぶ。アディールに向かって手を突き出す。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」
その声はアディールに届かず、その手もアディールには届かない。
アディールとリリーネの間には、目に見えない空間の隔たりがあった。リリーネとリリーネ以外の存在の間には、時間の壁があった。ただリリーネだけが、時空の半球の中にいた。半球に護られていた。半球に閉じ込められていた。
半球は次第に縮んでゆく。その半径が縮み、壁に押されるようにリリーネも中心部に押しやられる。
「いやだ!お兄ちゃん!わたし行きたくない!!」
リリーネの声は、誰にも届くことなく、半球の中だけに響く。声が反響しながら半球が縮む。
「お兄ちゃん!」
さらに縮む半球。
「お兄ちゃん!」
声は半球から抜け出すことはできず、縮みゆく半球は最後には消滅した。
半球の消滅と同時に動き出す世界。動き出すアディール。動き出す炎。
リリーネがいたはずの場所には、リリーネはもういない。リリーネがいないその場所を炎が襲い、次いでアディールの手が届く。
「え!?リリーネ?」
リリーネを掴むはずだった右手は空を切った。
なんだ?いったいどうした?リリーネ?
「見たぞ。」空から降りてきた牛が言った。「おまえが術者だ。」
なんだ?なにを言っているんだ?術者?時渡りの術のことか?でも、何かをしたつもりはない。リリーネが消えたのだって、どういうことかわからない。いや、・・・わからないわけじゃない。アバ様とベドラーとこの牛の魔物は同じことを言っている。そして今、リリーネに起こったことを考えると、答えはひとつしかない。今のが時渡りの術なのだ。
「ネルゲル様。こいつです。」牛はまた空に羽ばたき、冥王に報告する。
「そうか、やはりか。」冥王がアディールを見据えた。「貴様を探していた。どうやら術を使ったのは初めてだと見える。覚醒が遅かったな。」冥王は大鎌を振り上げる。「灼熱の業火で焼き尽くしてやろう。」そう言うとネルゲルは、宙を滑るように飛び回り、大鎌で空を切り裂いた。村を飲み込むほどの巨大な裂け目から、溢れるように黒い霧が流れ出す。
もうアディールにはどうすることもできなかった。アディールの脳裏に壁画のことが浮かんだ。灼熱の業火・・・自在に空を駆ける冥王・・・こいつが、ふたつ目の太陽・・・?
黒い霧が村を覆い、アディールも霧に飲まれる。冥王の姿も、もう見えない。
・・・間に合わなかったのか、シンイ・・・
・・・最後の言葉はこういう意味だったんですね、アバ様・・・
・・・無事でいてくれ、リリーネ・・・
・・・リリーネ・・・
冥王ネルゲルはエテーネの村全体が黒い炎に包まれるのを見下ろして、しかし、不服そうな表情を浮かべていた。
「おい。このままここを見張っておけ。」ネルゲルは牛の魔物に言う。
「は?しかし・・・」牛は首をかしげる。
「巨亀め。魂を隠したか。」ネルゲルがボソリとつぶやいた。そして「それもまた興か。」と鼻で笑い、いま一度牛に言う。「あいつは必ずここに戻ってくる。」
そう言い残して、ネルゲルは自らが切り裂いた空の切れ目をくぐる。ネルゲルが通り抜けた後、空の裂け目が次第に小さくなり、そしてゲートが閉じるように消えた。切れ目のない空へと戻った。
「アディール。」
声が聞こえた。
「聞こえますか、アディール。」
優しい声。
「え。オレ、どうなったんだ?」
アディールは周りを見渡した。いや、見渡す、という表現は適切ではない。目が見えるわけではない。
「アディール。あなたの体は、もうありません。」
声は言った。いや。声、という表現も適切ではない。耳が聞こえるわけでもない。
「あなたには、もう目も耳も、手も足もありません。ただ存在があるだけです。誰にも認識されない存在です。」
耳から聞こえているわけではなかった。存在に語りかけてきている。
「オレ、死んだんですか?」
「はい。冥王の力によって、あなたの命は尽きました。ですが」声は続けた。「魂にはまだ果たすべき使命があるのです。」
「使命?」
声は直接的には答えない。
「エテーネの民は知らないでしょう。あなたたちの島の外にはアストルティアと呼ばれる大地が広がっていて、人間以外の種族が今も暮らしているということを。」
「アストルティア・・・?」
「力強きオーガ。」と、声が言った。
オーガ?カインは森の石碑を思い出していた。確か石碑に書いてあった。
「感受性豊かなウェディ。」
ウェディ・・・。これも石碑に書いてあった。
「笑いの小人プクリポ。」
プクリポ・・・。器用で魔法が得意、だったっけ。
「精巧なる技師ドワーフ。」
ドワーフ・・・。大地の民、みたいなことが書いてあった。
「そして、明晰なるエルフ。」
エルフ・・・。森に生きる可憐な者・・?
「人間以外に、彼ら五つの種族が暮らす世界。それがアストルティアです。」
「アストルティア。」
アディールはもう一度繰り返し、フワフワした意識の中で強く頷く。
「あの光の向こうです。」
声はアディールを光の中へ導く。
「探すのです。あなたの使命を。生まれ変わることの意味を。」そして、「時が来れば、わかることでしょう。あなたはいつもエテーネと共にある。」と付け加えた。
アディールが光へと進み、後ろから声が言う。
「さあ、お行きなさい。母なる大地アストルティアへ。」
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序章:誕生【1】【2】
1章:エテーネの民【1】【2】
2章:旅立ち【1】【2】
3章:ランガーオの戦士【1】【2】【3】
4章:ジュレット【1】【2】
5章:グロリスの雫【1】【2】
6章:赤のエンブレム【1】【2】【3】
7章:港町【1】
8章:嘆きの妖剣士【1】【2】
9章:風の町アズラン【1】【2】
10章:世界樹の約束【1】
11章:ガラクタの城【1】【2】
12章:五人目の男【1】
13章:団長の策謀【1】【2】【3】【4】
14章:娯楽の島【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】
15章:三つの願い【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】
16章:太陽の石【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】【13】
17章:白き者【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】
18章:恵みの歌【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】【13】
19章:錬金術師【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】
20章:時渡りの術者【1】【2】【3】【4】
21章:ふたつ目の太陽【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】
22章:冥府【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】【13】
終章:レンダーシアヘ【1】【2】
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【目次】
序章:誕生【1】【2】
1章:エテーネの民【1】【2】
2章:旅立ち【1】【2】
3章:ランガーオの戦士【1】【2】【3】
4章:ジュレット【1】【2】
5章:グロリスの雫【1】【2】
6章:赤のエンブレム【1】【2】【3】
7章:港町【1】
8章:嘆きの妖剣士【1】【2】
9章:風の町アズラン【1】【2】
10章:世界樹の約束【1】
11章:ガラクタの城【1】【2】
12章:五人目の男【1】
13章:団長の策謀【1】【2】【3】【4】
14章:娯楽の島【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】
15章:三つの願い【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】
16章:太陽の石【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】【13】
17章:白き者【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】
18章:恵みの歌【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】【13】
19章:錬金術師【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】
20章:時渡りの術者【1】【2】【3】【4】
21章:ふたつ目の太陽【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】
22章:冥府【1】【2】【3】【4】【5】【6】【7】【8】【9】【10】【11】【12】【13】
終章:レンダーシアヘ【1】【2】
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