「祈り」

根本思念
「存在」する先生 実感と照応 -魂の言葉-
〔これほど緻密で深い文章を落ち着いた自然体で書く精神実体が、いまの日本の誰にあるであろうか。〕
信じさせられること・信じること
先生は生きておられます。・・・ われわれは、一般に「生」という個別的統一的全体を思惟するとき、自然科学的次元にはない、「在ること」への問いに、必然的にとらえられる。「生命」こそが「存在」の問いと切実に結びついているのである。「霊」と「魂」を問う次元はここに、「生」を問う次元にある。霊はその存在を信じさせられざるを得ないし、魂の存在はわれわれはこれを信じる自由と切実性がある。


証言「ああいうひとは他にいません」 | 自著の構造 | 「完璧な人」

この像の前で恥じるべき人間が大勢いる
知性と伝統 〔補〕
高田博厚「偉大な芸術家たち」2 記
自分の内部の世界が外部の世界より重さを持ち秩序を持つようにならなければ 人間はけっして落着かない。「思想」(を持つ)とは ほんらいこのことである。
 この窮極に「神」が「実在する観念」として在る。

きみは
たとえ全世界を得ても 
五月の海  月の音楽  あなたより美しい像はつくれない
きみのように優しくて明るくて繊細な 純粋で透明な 鍵盤を打つことで「心を打つ」ひとは 誰もいない
青い空の五月です 東京の最後ののどかな日をおもいます
あの状況でぼくは 明るい青空のような自分の日々の連続しか思っていなくて平静で温和だった

10月19日 先生月誕生日 魂と知性 金木犀満開
Si c'est pour Toi …
journal intime  journal intime (suite)  
愛海(きみ)へ 
詩歌  31.7.2014
あなた御自身のイデアを信じてください。それはぼくのイデアでもあります。

真剣にひたむきにピアノを弾いているきみが好きでいとおしい

 
Violet Dusk 
裕美さん
神戸 
神戸の教会堂
彼女の撮った写真, 地中海の光景, クロード・ローラン作品
-言葉は美の現実に意識を向けさせ得るのみである。それ自体が美の現実であるような言葉があるであろうか。それは魂が感じられる言葉である。高田博厚の文章にその証を見出す。-
マイヨール「地中海」 〔 - le 1er janvier 2015 〕
覚書 愛と神 補筆シャルトル聖堂
843 そのつど唯ひとりの読者・思想の憲法前文 
ぼくにとって、この先生の文の形而上的至純さの感動と、彼女の最初のピアノ・アルバムが経験させてくれる世界の感動とは、同一質であると告白する。
866 日本の恋愛と愛情における神の不在 / 〔※補〕
人間における愛は、自分の反省と愛する者への想いを通して、本来かならず「神」に高まるものなのだ。


amis solitaires ou DIGNITE

Gabriel Fauré Quintette n°1 op.89 en ré mineur

Hiromi Haneda -Anata ni Kaeritai-
信じられる 
きみへ
ぼくはきみしか愛せないことを自分でよく経験している。きみのように親しく逆らわない気持には誰にもならない。
 きみのことについてはぼくはかなり書いた。もうこの世の塵にふれさせたくない。これからは大事にぼくのなかで黙ってぼくだけの思いとして愛するだろう。まだ誰にも言わなかったときのように。

きみへ
友へ 

リルケ「秋」
リルケ「第一詩集」(Erste Gedichte, 1913)より 〔*Suite*〕
純粋
品格 信仰と文化 801
「内なる祭壇」 796 加筆(高橋元吉とのことなど) 16 - 19日
519 十月です (内なる「祭壇」)

521 黄金の林檎
836 結婚を生む愛
思念
航海
10月22日 朝昼夕 裕美さんが恋しい・・

生活を思い出す


根本態度
松明の継承  
反〈融通無碍〉  
「断罪構造」を断罪する / 思想の基礎としての「存在する自己」
覚書・書留 679
想念は命であり記憶である…
誠実とは  608

覚書 (愛の美・幸福の形) 564
Suite シチリア タオルミーナ・エトナ山・神殿 606
心を籠める 575 人は惑星  紫色の薄明
確認 : 熱情と知性の統合  573
à vous     (sans numéro)
省察(反省) 意識と実感 ・判断の本質  574 〔補〕
SUITE

心を籠めて
高田博厚における「触知し得るイデー」二十 ・ 補筆
888 自分のための言葉

855 覚書〔補筆〕
ルオーの言葉 889 自分に向って ・ Suite

高田博厚作ジョルジュ・ルオー像 清春白樺美術館にて 886
356 ルノワールの言葉
757 芸術行為と修練

覚書(思想としての感情・イデアリストとスピリチュアリスト) Suite 626
Notizen(覚書) 572 自分を語り他人に語らず

627 affirmation・impression
514 ソリロック(独り言)
483 休みのまえに
おやすみなさい (547) 

「魂」の天才 (sans numéro)
メッセージ
いまのぼくは (二つの決断 ・ きみの像のこと)
「自我の内的自由」・『経路』1949 (全)
ピアノ演奏と彫刻 // 自己が自己にあたえる権威 733
847 霊感と知性 | 真の思い遣りは魂への配慮である・自覚と覚悟

「生きるための道徳」の提唱 -裏切りのすすめ- 870
紹介: 唯在 「一元館」 〔補筆〕(871)
184 イザベル・ルオー像 高田博厚作
843 そのつど唯ひとりの読者・思想の憲法前文
何故 「日本は一般国民に冷たい社会」 なのか 872 Suite 愛とは純粋さでしかありえない
管見 自由について
646 BとAの対話
873 覚書 - pur ou non - / 〔他節紹介〕 
自著講読
覚書 (合理と感情) 568
人間音楽  553
470** 魂の平等 ・ 芸術としての音楽の根源
クワッチさんのプロフィール(他欄)
ブログ節紹介 rose bleue
覚書 観念と判断 ・ 意識的主張性の存在退落性 878
音楽は沈黙の世界である 881
ほんとうの意味において美しい女性 883
僕にとっての「感謝」  581 / 限界状況の思惟と経験・再考
805 失念の克服  彫刻がひとを作る ** 〈補筆〉
811 道程 いかなる目醒めへの?  天才
覚書 887 内面は「遠いもの」である ***
862 一元化 〔補筆〕
798 ふと思うこと // 所謂〈統合失調〉の実体 〔他〕
天啓 786 
確認記
意志の無限と罪 ガンディーの「魂」

___

世に悪魔崇拝とよばれるもの 876

異変(2010-2011)〔補〕
質問 ・ 補記
394 状況に関する報告資料・補  395 補 II 
371 経緯報告 (手紙二三二)
367 模造品の世界 (自分への手紙二二八)
確言・2000%の確信(更新)
337 わたしの基本状況・自分への二つの義務(手紙206)
9月27日 (日) -10月3日 (土) 検索語 
欄外記(創造主の本性)
関係節より a
関係節より b
再録 650節より〔「集合的容喙現象」の定義〕
629 集合的容喙現象
日本政府への要望
真心の喪失
237 怒りは魂への義務(自分自身への手紙百二十七)
363 孤独
「品定め」の為の思考盗聴 補筆
生きることを試みよう Il faut tenter de vivre |北岡伸一?〔重要補〕 
容喙現象に伴う薬害報告
公にたいする覚書 
 ___

Gabriel Marcel
666 マルセル「形而上学日記」一節
覚書890(マルセルのこと・戯曲の翻訳)
(490)マルセル音楽・かなしみのなかのきよらかさ / 強い愛をもつ強い希望が神意にうち勝つとき
702 覚え書・「美」の次元 補筆
438 魂美・人間の可能性
(498) 自分の美意識に則して生きることがそのまま私の信仰である
496 左手の演奏
652 書留(白昼に神を視る) シュヴァイツァー (ピアノ)
自画像  598  
覚書(生は愛)
(759) 性格  // 「恥」の意識 | 寺田政明さん
感謝   人生の勝利
失念の克服  彫刻がひとを作る ** 〈補筆〉
800 notes ・ sens métaphysique
裕美さん(Suite)8.16*  
電子欄を始めて一年経ち、あらためて言っておきたいこと 
840 現代の神話 ・ 魂の善 
過去節より 「確認」のため:加藤周一氏の「証言」等
自分への手紙 (認識)
771 真言

七生報国の鬼魂となる

〈自分の「路」〉   補遺
生は運動である
*自他のための言葉 ・ 真の保守主義の原理 / 勁さ

 




ピアノを弾くアラン(多分ショパンをであろうと云う)
〔「もの」に実際に取り組むアランのこのように真摯・敬虔で純粋な表情をみるのは本当に感動的である。〕
-847節より-





アラン「デカルト」紹介  577

notes (覚書) 569 le 8 ~ le 9 novembre (生きるとは)


72 自分自身への手紙五十五(品格)

(再)自分自身への手紙七‐十七

151 (再)自分自身への手紙七十九(「神」への直面)・八十(親密なる超越性)


152 自分自身への手紙九十四(余白と形)

149 (再)自分自身への手紙八十二(二重人格?)
148 (再)自分自身への手紙八十三(教養)
145 (再)自分自身への手紙八十四(「人間の権利」について)
144 (再)自分自身への手紙八十五(悪魔を殺す)
143 (再)自分自身への手紙八十六(きみの態度は)
141 自分自身への手紙九十二(読書案内・ぼくの経路)
150 (再)自分自身への手紙八十一(愛の想念と知性)
136 ロンダニー二のピエタ (再)
383 マイヨール「イール=ド=フランス」・手紙243
「おお 思索の後の褒賞よ 神々の静けさをとおく見はるかすという!」を想起する-628ヴァレリー「海辺の墓地」-

628 ヴァレリー「海辺の墓地」訳・註解あるいは随感
454 セザール・フランク (1822-1890)
ゲーテの人間感覚
地元美術館訪問 ・ 姿態と存在 〔補:ぼくの中にこそ神はいる〕 
146 自然樹木 

過去節より なぜぼくが自分への無礼をゆるさないか
すべての主題の収斂するところ (689) 
「立ち位置」の自覚確認 一極に主観の意識の世界が、もう一極に客観の情感の世界がある。いま、こういうふうにしか表現できない。どちらか一極に閉じ籠れば、その世界の論理は なかなか説得力がある。しかしじつはどちらも、ありのままの人間の生世界の、他極の忘却むしろ抽象(捨象)によって成っているのである。そういうことを思想家自身がわからなくなってしまっており、その思想を受け取る側も、陶酔的に その忘却・抽象(捨象)を意識しなくなっている。それが、西欧と日本の思想的対立齟齬のように論じられる。真実は、人間はそれほどただ意識的にも、ただ情緒的にも生きられない。素直に創造的に生きようとするかぎり、意識的自律も情緒的他律も、その底に向って超えられている。ぼくがずっと、高田先生の精神に沿って開示しようとしてきているのは、そういう境位であり、そこにおいて「自己」も「神」も了解されるのだ。この根源的な域に繰り返し立ち戻らせるのが美と愛と魂の経験であり、創造的行為の実践経験である。
 〔ここでヤスパースの包括者の諸様態論を想起した。包括者の各々の様態は、自己絶対化して己れが存在のすべてだと見做したがる。超在、実存、世界、現存在、意識一般、精神、すべて己れだけで存在として自己完結したがる。彼の包括者論は、相互に還元不可能な包括者の諸様態各々の原理的独立性と、同時に事実的相互依存性とを、確認し、「本来的現実」を包括者のあらゆる諸様態が謂わば一元的に結晶する境位においてのみ見出すよう、思惟操作的に訓練するものである。本来一なる存在である包括者が諸々の様態(die Weisen)へ分裂するのは、人間意識の「主観-客観-分裂」構造に原理的根拠がある。〕

魂感
魂感というものがあって、これは不死感、永遠感と結びついている。人間は魂として、永遠を思って生きている。これは思惟し感覚して生きる人間の本性にぞくすることである。思惟と感覚のなかに永遠がある。こういう魂が死滅するとかんがえることはあまりに不自然なこととぼくにはおもわれる。永遠とむすびついているから魂なのである。これは理屈でなく感覚である。誰にとってもそうだと思う。ぼくは、動物でも魂を感じるかぎり その不死を感じる。あれが消滅するとはおもえない。固有の個性ある魂として永続しているとおもう。いつからこういうことを理屈で信じぬつもりに人はなったのか。これこそ大いなる不自然ではないか。愛は、固有の存在の不死を感覚する力である、といえるとおもう。愛は愛する相手の永遠存在を断定する、というマルセルの言葉を、さらに一歩踏み出すのがぼくの正直な感覚だ。
 魂は なによりも 根源的で自由な独立性であるような個である。

教えてください・・ 春のあたたかいお陽さまのような長閑(のどか)なきみと、文字通り身を削るように神経を使い 鋭敏になりきって演奏に打ち込んでいるきみと、この間に感じられる深淵は どう橋渡しをされているの?

高田博厚における「触知し得るイデー」二十三
ぼくが裕美さんの音楽は天使の経験だというのは比喩ではないと言うのと同じだろう。

再 vues 794 補遺 〔articulation et confirmation〕
自分の言葉もすべて放棄してきみの開く宇宙に身を沈める幸福 耳まで涙で濡れたよ 嬰児のような純真な率直さと 聖母のような深い襞の幾重にもある配慮 思慮のある優しさとが きみのなかでひとつであるのは ぼくには宇宙の奇蹟だとおもわれる これが人間のすばらしさなのだよね
意志のオプティミズムは創造的であるかぎりにおいてである。意志するとは行動することである。自分に向って。これは誰の言葉だと言う必要はぼくの読者にはもうないだろう。思索、行動、信仰、創造、すべては一元化されてあるありかたにおいて真実である。デカルト、メーヌ・ド・ビラン、アラン、高田博厚、ぼく、のかんがえることはひとつなのである。精神の合理を自覚している。
 「形」のなかに「自分」を籠めるよろこび。いや、これは結果としてそれを見出すのだ。これが芸術の根源だ。「触知し得るイデー」はまったく普遍的な根本思想である。人間の積極的ないとなみの根源を言っている。
 「実証」と「神秘」がもつれあう。アランとマルセルはその両極である。排除しあってなどいない。その両質の美しい統合を高田博厚の世界にみる。


覚書再読〔今年九月末〕
ぼくの心中は、世の愚劣な人間どもへの怒りで充ち満ちている。
いまのぼくにとっての「祈り」は、形而上的次元を信ずることそれじたいだ

覚書 〔802〕 平穏な生活と創造の意志
愛と信仰にもとづかない 被造物のあつかいは、すべて悪であり醜であり罪である。

ぼくの初志
現今の魂的・美意識的に劣悪な社会と状況にあって、この人間主義境位に向って私はみずからの全魂をもって自分を掘り下げ沈潜してゆく。


三人の「存在」
哲学とは自己評価力である
人の平等(自己肯定) 自分と神へ 何が人の心を安らかならしめないか、自分に安住させないか、自己肯定感を奪うか。すべて、人との比較意識(あらゆる次元で)である。これを克服するのは一つしかないと私は思っている。既に言った、祈りと美感動であると。これを或る意味で繰り返す。各人が各々の生活の中で、己れの「神」と向き合う内的習慣を深めること、これのみである。これのみが、肯定的に己れの孤独を深めることであり、真の精神的独立はここにしかない。だから人間の本当の独立は、各々の神の意識なしにはない。「神」は、いかなる宗教にもかかわりなく、必要なのである。・・・ 「人間は、己れの内で神の意識が生成するに応じて、自分自身となる」、とヤスパースは哲学者として言った。高田博厚は、ベルクソンの臨終期のカトリック帰依の言葉にさえ、ベルクソンの独立的思索の一貫と成就を看取して感動するほど、「神」の独自の思索と感得に生きた。われわれもこれに倣おう。
 自分に向って以外には私はいかなる創造もしていない。そのような私にとってその先にあるのは私の神以外の何であるというのか。このようにして私は神を必然的に探求している。自分を求める態度が本物であれば必然的にそうなる。自分を求める先にのみ神はある。これが真の神の探求のありかたであることが解ったら、此の世に〈神の為の争い〉など無いであろう!


管見
感想 / 悲しみから怒りへ

135 学校で教えるべきこと (再)

田舎をなくせ
自国企業へ

国は美感覚教育を企業に施せ





〔自節紹介〕続 につづきます