この世の「断罪構造」そのものが悪魔のものである。悪魔の利用物である。
慣れというものはおそろしい。ぼくは自分がどういうむちゃくちゃなやり方でこの不当きわまりない「断罪構造」に嵌められたか、それへの怒りが全然たりない。
この世のこの構造そのものを毎瞬毎瞬断罪すること、それがぼくの第一の倫理的な使命だ。

日々の、ゆるしがたい時宜で起こる日常生活事象が、このことを繰りかえし想起させてくれる。

〔後記: ぼくを物理的に攻撃し不具の身体にし弱らせた上で、「こうなったのはお前の罪でこれは罰だ」、という観念と感情をぼくに入れ込もうと、周囲の人間、事物、自然、総がかりで、人間は不可解な方法・仕方で洗脳しつつ、或る大規模な力が、ぼくを精神的にも徹底的に虐待しぬいたのである。どこからそんな得体の知れない力が、ぼくを潰すために結集されたのか、そういう力に、ぼくを潰すことをどういう連中がどういうやり方で同意させたのか、ぼくは知りようがない。ただこの「断罪構造」が事実であることを圧倒的現実経験によって知っている。ぼくは一つ一つ、その現実の事実を報告することができる。既に顕著な事例を相当報告した。これは夢物語ではない。〕




___
___
昨日から、教育放送の映りが、最近との比較において、かんがえられないほど良い。機械はそのままなのに。今までの〈映らぬ映り〉は何だったのだ。素朴に、きのうぼくは特別に何か善いことをしたかな、と思ってしまった。 〔数日後、ふたたび真っ暗。なぜこういうことがひとりでに起るんだ。〕




___




 









762 きみは鍵盤で造形する  芸術の定義 への個別接続数が異例に多い。




人生経験が教えることは、ぼくは自分の本音感覚に従って間違わないということだ。すくなくともそれへの信仰が強まるように経験は展開してきた。その根拠は知らない。





詩にたいしては、読んで沈黙するのがほんとうである。〈評価〉はおかしい。






いまのぼくは時間感覚がずたずたで、目の前の事象にその都度呑み込まれている。時間的前後に架かっているべき自分の意図性・目的性を、目前の、前後関係なき刹那的事象への直接的関心のために、容易に忘却してしまう。この傾向が、薬害による神経組織の不具化から直接生じていることを、ぼくは自己経過観察によって判明に断定している。そういういまのぼくに「自己の連続」が確認されるのは、ぼくの効かなくなった意図意識ではなく、ぼくの「本質」そのものがぼくの「意識」とは関係なく自らの同一性をいつもぼくに示してくれるからである。だからぼくが経験するぼく自身の「本質」は、いわば存在論的な本物であり、ぼくの質料的基礎(身体)にはそれ自体依存しないものであるとぼくには思われる。この繰り返し現れて確かめられるぼくの「形而上的本質」こそ、ぼくの形而上的アンティミスム展開の、存在基礎であるとおもう。この「存在する自己」がぼくにとって「純粋自己」であり、この自己が経験する時間が真の時間なのだ。意識の時間を超えた、あるいはそういう時間の根底に沈んでいる、「時間ならぬ時(とき)」である。〈怪我の功名〉で、この、自分の不変の自己に頼らざるをえないという自覚が、いまのぼくの「逆説的な強み」なのである。ぼくのいまの「生のリズム」の根底にこれがある。




文章も、曲も、表現の裏にある経験と修練の蓄積が厚いほど、繰り返しのアプローチに、表現そのものがそのゆたかな内実を示しつづけてやむことがない。それは真の芸術作品そのものの条件であろう。この集積の厚みは、自己が真面目でなければ成らない。向き合うべきものに向いていなければ。自己の深化、一元化、の道程そのものの証として成るのである。

  4月9日未明