高田博厚先生と友と神に ・ 形而上的アンティミスムの思想    

   ――― 「僕の愛と美と信仰」 ――― 




―― 集合容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害者です。――
自分の本来の魂的生を貫くため、そして
集合容喙と強制薬害の事実を証言し国に問題を解明解決させるため、
この電子欄を書いています。

彫刻家・高田博厚先生の思想と共に生きる電子欄(ブログ)です〔2014年3月25日開始〕。
自著『形而上的アンティミスム序説 ‐高田博厚による自己愛の存在論‐』(2009)の初志を、集合的容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害状態にも拘らず、継続実践します。



 revue  「かけがえのないもの」  船より  

信仰  「祈り」  魂感   一行詩  きみの翳  

信仰:人間の愛  思想は人間自覚である  

「純粋」の直接性と意識性 自分の信にしか神はいない

自己愛と他者愛、そしてイデアとしての神


思想の憲法前文   高田博厚と高橋元吉

高田先生とマイヨール美術館のこと  マイヨールの言葉   

マルセル 形而上学日記   ヤスパース ノオト 

魂の実証 ―記憶と意志― 序説(高田博厚論)   

わたしはかんがえる、ゆえに神を信ず  

高田の作品の形而上性  高田先生の言葉

     

きみのために  品格 信仰と文化  いのちの二行詩 

je suis tout près de Toi  Que ce sourire reste en Toi 

album 1er  album 6e  installation d'essai   裕美さん

album cinquième  ひとの本質  納得  夜明け  Suite 

「空」   祈りの世界   誕生日   愛と神 シャルトル聖堂    

信仰の緊張   「美」の次元  「知性」   平和の行為   

彼女のバッハの精神性

きみのショパン、ドビュッシー、ラヴェルを




地中海彫刻の音楽  信仰   一元化   本質  

「神」の感得的探求  自己委託・信仰  違う力  人間の力  

感覚倫理  自分の魂からの招き  

自節紹介     II   III   IV   VI( V)


拡大・内容

本書は、著者の intimisme métaphysique 〔形而上的アンティミスム〕とよぶ哲学理念の許、彫刻家にして思索家である高田博厚(1900‐1987)の根本思想を初めて本格的に明らかならしめようとする貴重な試みである。その意義は普遍的かつ根源的であり、人間の創造的生の条件が稀な真摯さで反省されている。学問・芸術の魂的原点の確認の為に、また、人生の意味の正面からの示唆を得る為に、

「人間」であろうとする総ての人々に開かれた永続的価値をもつ書である。





*七生報国の鬼魂となる

かけがえのない身体と神経組織を壊されたうらみは恐ろしいぞ
必読節:集合容喙関連  日本放送協会の大罪  


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ぼくの愛の祈りは、きみがぼくのことを思ってくれますように、という祈りに落ち着きます。 

 

このとき、ぼくはきみとの間になにものも介在させない。神でさえも。高田先生すらそれを言っている。愛するものの現前においては、神は介在者ではない。包括者であり背景である。魂は神なくして存在しない。無や空ではないのだ。 この、きみへの愛、きみとの愛と、神の感知との、いうにいわれぬダイナミズムがわかるだろうか。

 

 

 

ぼくがいまきみの演奏を聴いていて涙を流している曲は何だと思う?「あの微笑みを忘れないで」をアルバムで聴いていた。とてつもない愛のエネルギーを感じた。  ひとを愛するならば「神」を思うはずだ。神を思う者しか、ほんとうの愛の力はない。 

 

何度でも聴くよ  

 

 

 

 

 

 

全魂で弾いているきみの演奏の世界を、なにか批評できるような者は、ぼくもふくめてまだひとりもいない。そういうこととはまったく次元のちがうところにきみは生きている。 ロランの演奏を聴いた大先生は同じ感慨だったろう。それほどきみの演奏はすばらしいことに、ぼくは目を見開かされている   

 

きみの世界は 全魂で弾いている者の世界である   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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昨日、何故かとつぜん、まったく自発的に25接続された。こういうことは異例である。

 

これを書いた日付をみると、今年の正月である。自分で書いたのにその感覚がない。数年前に書いたようなつもりでいた。全文、高田さんの貴重な文章なのに、その時はそれほど注目されなかった。 

 

ぼくも高田さんと中也のような「出会い」があればよかったが、ぼくの不徳のせいではなく、現代では「人間」がいないのである。 

 

高田さんの文章の「文学性」は、生活そのものが文学となったひとのものである。構想力のなかに魂の秩序が光っている。言葉が芸術となるにはそれしかないとおもう。

 

「生活そのものが文学となる」と言った。「生そのものが芸術本質のものとなる」ということである。すなわち、生が神への路となり神の証となる、そういう生へ入った生である。 

 

  『私は私の全存在がまだ懸っている私の人生の一部をとりあげる。その中に踏みこんだばかりで、さながら私はそのために生れたかのように思い、そうして私の運命に感謝する(マルセル・アルラン)。』

                高田博厚訳。 『薔薇窓』第一部、冒頭より。

 ( Je reprends une part de ma vie où je me suis encore tout engagé. A peine y étais-je entré, il me semble que j'étais né pour elle, et je remercie mon destin.)

 

 この言葉の境位が漸くにして解ってきた。理解するとは、自分の事として理解することである。


 


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 パリの羅典区(キャルティエ・ラタン)からリュクサンブール園を回ってモンパルナスの方へぬける近道がある。サン・ミシェル大通(ブルヴァール)を鉱山学校(エコール・デ・ミーヌ)の角で曲り、リュクサンブール園とプティ・リュクサンブール園を区切るオーギュスト・コント街を公園の果樹園沿いに伝い、アッサス街に出て横切ってヴァヴァン街へ入る。公園(ジャルダン)の一部だから静かで、巨きなマロニエの街路樹が茂っている。私のよく通る道で、昔は、ソルボンヌ広場(プラース)の角にあったカフェ・ダルクールなどで飲んでまだ家に帰る気がおこらず、もっとにぎやかなモンパルナスへ行ってみようと、深夜のあの通りを歩いた。秋が短くて十月にはもう霧が深くなる夜など、つきとめられない寂寥にしめつけられるようで、自分の靴の音だけをききながら行くと、磨(と)ぎだしたように光沢(つや)のある大きなマロニエの実が音をたてて足下に落ちる。するときまって私は中原中也を思いだすのであった。なんの連絡もない。一度ずっと昔にそういうことがあったのだろう。そうしてきまって私は「雲母の口して歌つたよ、背(うし)ろに倒れ、歌つたよ、心は涸れて皺枯れて、巌(いわお)の上の、綱渡り。知れざる炎、空にゆき! 響の雨は、濡れ冠る!……われかにかくに手を拍く……」の句を思いだした。これにも連想などなんにもない。そういう結びつけを自分の中にしてみようとするのが望ましくないほど生理的なものだった。それから十年、二十年、三十年。私はよくあのプティ・リュクサンブールの通りを抜ける。そうしていつも変りもなくあそこに並んでいる家々や庭の柵や樹木のように、私はかならず中原を思いだす。自分の方で考えなくても向うの方で待っているもののようになってしまった。

 

 私がフランスへ行こうと決心して、しかし行けるだけの金ができるかどうか判らない頃、ある日中原が外で一緒に飯をたべようと言った。多分彼がどこかで金を工面してきたのだろう。二人で西荻窪から神田へ出た。中原はすり切れて光っている黒い服をいつもきていたが、その日は私も洋服をきた。フランスへ行こうと思うのだから初めて背広の服をこしらえた。そうして「フランスのみやげ」だと言ってある人がくれた靴をはいた。歩くと妙にかつかつ鳴る靴だった。フランスの本を売っていた三才社という本屋が神保町の九段寄りの裏通りにあって、その前に会芳楼というシナ料理屋があった。そこで食べてから二人で歩いた。九段の坂を濠側を伝って上って行った。星空がひときわ冴えていたが、私の靴がかつかつと鳴っていた。中原はふいに立ち止って、「あ、これは実に高田さんだ」と言って、ふーっと空に向って息を吐いた。なにがなぜ私なのか判らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

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愛の修道院は、主体的内面性の路とかわらない。ぼくはこの世との関係を整理して、ひたすら本道に生きたいとおもう。それをじぶんに常に意識させるために、「愛の修道院のなかで」という枠を設けた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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きみを愛して愛して愛しぬく。ぼくの救いより大事なこと。そこにのみ

ぼくはいる。

       ―これがぼくの信仰の生の核心であり自由である。信仰は天のご機嫌とりではない。天に逆らっても自分の本心を敢行することを自分で肯定することを、信仰という。―

〔神がどう思うかをぼくは知り得ない。神の意思に基づいて生きるということは、よって、欺瞞である。信仰は、自分の決断と決意に基づいて生きることを敢行しつつ、神に面する態度において絶えず自分を問うことである。信仰内容は、個としての人間の歴史性の集積の深みから生成する。17.6.10〕

 

 

きみの演奏を聴き きみの魂を愛することは 他のいかなることにも優る

 

内部の世界に集中せよ  espoir

 

内部の世界に集中する、これはまことに「神の召命」なのであり、修道精神の本質である。このゆえに美意識は生の路を宗教的たらしめ、そのかぎりで倫理的たらしめる。倫理とは、生を「愛の修道院の路」たらしめる魂の希求である美意識の、美意識そのものからの自己統制であるほかの意味をもたない。「内部の世界に集中せよ」、この意味するところがぼくはきょう(17.6.9)身に染みて痛切に解った。ぼくの今後のすべての生を支配するだろう。 

 「神」に導かないのなら芸術にはいかなる真面目な意味も無い。そして芸術の意味を知ったのなら修道士の生を生きざるをえない。このことがいまぼくに真剣な実践として自覚された。 

 夢想であったものが真剣なものとなった。

 

            愛の定義  3月23日

 

 愛の修道院の路  3月25日   書き始めて三年の日      

 

*日々の誓い 信仰(個人)   非公開 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛とは、生活すべてが神聖な儀式となることである。おのずから生活が修道院となる。

ほんとうの愛 ほんとうの仕事 音楽への感謝    3月31日 21:52

 

裕美さんの 魂の意識を籠める音楽づくりには 聴くたびに尊敬します。

 

 

4月2日(日) 00:08:19

 

自分の過去の思索を担わなければならない。

「愛の修道院」のなかに生きながら思索をする。それは「問いの集中」である。この集中がぼくには「祈り」であり「作品の路」である。

ぼくはいま 問うものの外部からではなく 問うものの内部から問う境位にある。すべて裕美さんのおかげである。 

 

 

 

永遠というものがあるとしたらそれは「記憶の王国」であり、そこではすべての愛と美の記憶が生命をもって生きており、生の本質と現実そのものであり、そのすべての記憶はその意味と内実をますます深く無限に開示しつづけるような世界である。

 

 

無限を知るとは、いのちに共振することである。

 

無限でない いのち はない。

 

 

支える言葉 

 

ぼくは人間の本性は愛であると思っている。自分に反さず生きていれば、愛の方向にゆくしかないと思っている。愛のほかに、自分のほかに、なにを得ようとするのであろうか。自分を得ることは世界を得ることではない。愛を得れば世界を捨ててよい。自分は自分にしかない。愛は自分にしかない。生きていれば、「愛の方向にゆくようにできている」。これが運命であり自由である。 

 

 

読書とは、自分の創造の合間にするべきものである。高田先生が勁く深い理由は これである。

 

 

 

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焦点が煮詰まってきたいまのぼくの思いでは、思想ということで、何か単に理論的な世界観や観念形態を思ってはならないと思う。思想とは、自分でよく理解された、「普遍で不変なるもの(神)への讃美」であることに窮極する、と思う。だからこそ思想は、言葉の構築としては教説よりもむしろ本質的意味において詩の形で、そしてもっとも感動的で直接的には音楽として、表明される。それは、外界の圧力に勝利した人間内面の力の証である。それでこそ神の証明なのである。美も愛もこの力である。思想とは、成就された魂である。 

 

高田博厚とともにぼくがずっとかんがえてきたのはこのことである。このひとは、思想ということでなにを思っているのか、と。それは、造形と同じで、このひとの外形を克明にたどりつつも、ぼく自身のなかに照応するものの生成するのを待つよりほか理解し得ないものであった。

 

 

幸福なことに、裕美ちゃんの優しくも勁(つよ)い音楽造形は、そういう「人間内面の力の証」そのもので、古典的意味で立派なものとしてぼくとともにあり、ぼくを人間として導いてくれた。 

 

造形が神を証するものならば、造形する人間は神とともに造形しなければならない。造形においてわれわれは「神と在ること」を感得するのである。「一元化」そのもののなかにそれがあるとぼくはおもう。〔このことを理論的にではなく志向的に理解すること。そうしなければ、「神」を観念的に空や無に置き換える誤りを惹起する。〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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文章を書くということは怠け者のすることであって、ほんとうに創造に打ち込むひとは文章などあまり書かないものではないかと感じるように最近なっている。 文章書きというのはまだほんとうの創造ではないのではないのか、と。 じぶんで「造形」の真似事をするようになってからそう感じているのである。〔創造とは、永遠存在である生命を直接現前させることなのだ。〕

 

だから書き留めたいこともできるだけ簡略にすませたい。 

 

 

平等主義というのは、人間主義の理念の一極にたしかにあるものであるが、ほんとうに自分のうちで「人間」を生きている者は、「自己の圏」をおのずと形成して生きているのであり、それが「歴史性」の実体であるかぎり、誰も言葉どおりの平等主義を生きているのではない。「かけがえのないもの」とともに生きている人間はみなそうである。 そしてじぶんの愛する存在は、その存在を全体直観して愛するのである。ある評価基準のようなものに適するから愛するのではない。だから、「自己の圏」という「歴史性」の意識においては諸存在の所謂ランクづけがなされているのではけっしてない。親密さの度合いを承認することを敢えて主観的なランクづけと表現することができるのか。言葉そのものの不適合性を感じる。  ところで、言葉にあざむかれて不適切な観念を形成したり、相手のその都度一部的な言動を勝手な評価基準に則って人格的に即断したりすることを、事実、広義のスピリチュアリズム系の者たちはやっている。ランクづけも仲間意識も、イデオロギーにすぎず、愛とも歴史性とも関係ない。これをぼくは、人間哲学が不在であると言ったり、人間の路に入っていないと言ったりしているのだ。  哲学的な反省というものは、誰も無視することのできない力をもっていることを、感得してもらいたい。哲学という学問の徒になったり、哲学のみで充足したりするためではないのである。 

 平等主義とか、貴族主義とかいうものも、それを形成するに至った判断の根源を想起することなしには、われわれを誤導する見せかけの観念でしかない。哲学的人間主義とは、そのような根源へのたえざる立ち返りであり、その根源に意識的に根ざすことで自己生成し深化する路そのものである。

 

 「形而上的アンティミスム」(メタフィジックな親密論)とは、この哲学的人間主義を、可能なかぎり本質表出的に換言したものにほかならない。  

 

 

 

 

 

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ぼくがどんなにきみの魂を愛しているか、ぼくの胸を開けてみてもらえたらいいとおもう。 

 

この愛すべては、きみの音楽がぼくにあたえてくれたのです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

真実にとどまりたいなら多弁にならないほうがいい。

認識癖的に正確に分析して言おうとすると、真実を対象化する代償に、真実の外に出てしまう。 

 

 

きみは、どんなに神々しい美の世界に、神そのものの世界に、奉仕していることだろうかと、ぼくは途方に暮れる想いを、きみのアルバムを聴きながら懐いていた。 やはりきみは「神に仕える天使」だね  

 

この言葉だけはぼくの真実として記しておく 

 

 

きみの音楽は きみの「意識」であり きみの「思想」なのだ  

 

そのくらい、きみの演奏には、きみの「思い」が、隙間無く ぎっしり くっきり充満している。 そしてその「思い」の内容がとてつもなく神々しい

 

 

真実を刻み留めておくために書いた   

 

 

 

 

あらためて新鮮に言うけれども、演奏で現れるきみの精神の成熟・練達した大人の驚くべき高さ・密度と、演奏を離れたきみの無邪気な外見との間の、見かけのすごいギャップを、未熟な観察者は自分の内心で埋めることができず、自己分裂しないためには差し当たり、きみの無邪気な外見を演技だとして否定しなければならないだろう。これはまだ、きみの演奏のすばらしさに直接心打たれることのできた者であり、寛容にしてやらねばならない。一つの路を自ら真摯に長く積み重ねた者か、ほんとうの「天才」にしか、きみの真価と、見かけのギャップとを、調和させる展望は懐けないだろう。 

 

きみが辛苦を重ねた熟練者であるにせよ、ほんとうの天才であるにせよ、きみの精神のほとんど超人間的な内実に満ち溢れた高さは真実のものであり、ぼくはそのきみの世界と魂を崇拝する。

 

この気持ちはぼくはずっと変わらないのだ。

 

 

 

 

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人生において楽をしたいとおもえば、芸術も愛もいらないのである。芸術と愛、それは夢をいだくことである。夢は、人生において楽をしないためのものなのである。 

 

わかっていますか。  愛を放棄しないことがどんなに苦しいか。 

 

 

 

だから愛も芸術も 神とともにあるのです   

 

 

 

愛は、感じると同時に意志するものである。芸術行為そのものがそうであるように。

 

 

 

 

 

 

別事 

 

魂そのものに間違った信念が入っている者は、強制的に生を断たれる。

 

本意ではない出会いの他人というものは、自分のなかで処理すべき第一の基本的なものである。そういうものを処理しないでおいては、自分の生など一歩も純粋にあゆめない。

 

 

 

 

 

 

 

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