-「覚書」(おぼえがき)ときに「かく・しょ」と読む。覚の書。-







やるべきことをやっていないと人間はいらいらする。良心はまず自分への義務感覚である。これが充たされないあらゆる活動は平和とは逆のものを結果する。たとえ何らかの事実的効果があったとしても、本質からの、根源からのものではない。自分の魂の平和は多かれ少なかれ毀損されている。

自分への義務の行為、真に創造的な行為が、もっとも本質的に平和な行為である。自分で充ち、他者をいかなる意味でも脅迫しない。北風に対する太陽のような行為である。

自分の仕事をしよう。







 










 自分を打ち込む仕事に根をおろしていることが、ひとを愛し得る条件であることに、ぼくはむかしから気づいてきた。

 他とはちがう道を歩んできた。先人の薫陶によって。

 いまますますぼくは他とはちがうだろう。

 いま 愛とはなにかということに他はますます想到しなくなっているようだから。

 自分を培わない者はけっしてひとを愛せないことにも想到しないから、愛する資格というものがあることすら気づかない。彼等が愛とよんでいるものは愛でもなんでもない。


自分が深まっただけしか愛せないのだ。そうでないものは「人間の愛」ではない。



**いま 真剣さ 真摯さ ということが日常空間からまったく消えてしまっている。日常の生そのものが自己疎外状態である。これをもたらしているものは、言わずと知れたコマーシャリズムの社会支配である。「楽しみいっぱい」と「非情性」の同居結託、これは必然である。利益主義による「客寄せ」と「徹底搾取」。嬉々とした上辺(うわべ)の下で、みな、生産側も消費側も、「人にとって狼である人」 -homo homini lupus- の言動で充足している。社会を批判する側が社会と同質であり、「社会」の底を破って「人間」という根源に達していない。愛も真剣さもこの根源にしかない。「救いの宗教」も この「人間」を根源に据えなければすべて仇(あだ)となる。ヤスパースは「人間実存」を「哲学的信仰」の「根源」とする態度を徹底的に貫き、既存の「啓示信仰」と生涯対決した。現代人の正しい宗教性は、ヤスパースが示した方向にしかないことが、現在ますますあきらかになってきているとわたしはおもう。高田先生と共に開く わたしの形而上的アンティミスムは、この方向において、ヤスパースと創造的に対決した、わたし自身の哲学的信仰である。

ヤスパースと高田先生とが一致していることがある。己れの仕事への実存的集中沈潜によって己れの根を獲得すること。真の気魄と根性、不動心と敢行力はこれによって魂の内側から培われる。ぼくの愛するひとは、これらがすごいですよ。勁草の力ですね。君等はちゃんと気づいてるのか。自分を高めぬ者に他者の高さが分るか!

ふらふら自分探ししたり論じたりして何となく感情的に自己納得した気になる段階じゃ駄目なのだ。自分が自分に根を下ろすに至るまで実践すること、「もの」と取り組むこと。自分は、創造することによって見出すものである。与えられたように見出すものなどあるか!







自分の仕事をしよう。

 きみに倣って  きみを愛するために