『 われわれはふたたび若者になって、素朴に制作するようにつとめなければならない。私は何も学んだことがないように制作する。私は、彫刻する最初の人間なのだ。』


『 人によっては、私が自然を愛していないと言いはる者がある。私は自然しか愛さない。私のつくる一切のものは、自然の中で見出したものだ。しかし自然を翻訳できるのでなければならない。』


『 「自然は辞書である」とドラクロワは言った。辞書を使って本を書くのだが、しかし、辞書は本ではないのだ。』


『 セザンヌの作品でまず君が打たれるのは、りんごではない。それは色調の均衡なのだ。自然にはがっかりさせられる。もし私が、もう少しよく見なかったら、私のつくるものは現実でなく、真実になってしまうからだ。』

〔わたしは最初、「現実」と「真実」は逆ではないかと思った。しかしこれでもよいのである。「現実」ではなく「真実」が探求すべきものであることには変わりない。つまり、あまり対象そのものを厳密に見つめ過ぎると、対象そのものには無い「真実」を取り逃がしてしまうから、謂わば主観と客観の間の中庸が「真実」を見出す境位なのだと言っていると解される。(古川)〕


《 マイヨールの彫刻においては、「形(フォルム)」が「理念(イデエ)」なのである。ただ観念の説述ではない。「存在」することそのものが「理念」を証拠づける。このような「存在」。並み大抵の努力や工夫で生み出せるものではない。「存在」の真の安らかさが作品に現われる時、多様性を必要とせず、単純化、一元化する。これはあらゆる芸術、つまり「人間」が創り歩む道である 》 高田博厚


 あまり説明は要らないと思う。わたしがこの欄で述べてきた根本態度、イデー(思想・理念)は形を得ることにおいて〈実証〉されなければならないのであり、これがギリシャ以来の西欧・フランス精神の本道であり、精神の伝統体質であることの確認である。実践者マイヨールのオリジナルな言葉においてその確認が新鮮で、あらためて意味深い。思索するアランも同じことを言うだろう。真の伝統は人間本質そのものに根差すものであることをかみしめよう。



『 誓って言うが、あらゆる近代彫刻のなかで、こんなに完全に美しく純粋で全き傑作であるような一塊を私は識らない。』〔私訳〕 オーギュスト・ロダン(マイヨール作「レダ」1900 -下掲- への感想)






バニュルス生れのマイヨールの作品には、地中海の本質(イデー)に固有の穏和さと生命が漲っている。