「あるがまま」とは何だろうか。人間が意識をもつゆえに、人間は即自と対自の間を運動する存在である。「あるがまま」とは、対自を排した即自なら、人間には不可能で不自然である。それは意識的に動物となることである。「本来的在り方」は、即自と対自を全人格的に運動する果てに達せられる「本来的自己」である。

「いい子」とは何だろうか。これは奥深い言葉である。イデアとしての神の御旨に適う幼子(おさなご)の意味でありたい。

男同士の交わりは志-理念(理想を念じる)-の交わりであろう。高田博厚と高橋元吉〔ここまで書いた時に計ったように外で自転車の軋み音があった。偶然であるわけがない。やはり魔物は殺すのみだ。僕は必ずやる。あの根性の卑しさは魂の敵だ。和解は無い。絶対闘ってやる。殺す。僕の心は瞬時に怒りに燃える。これが此の世の実相なのだよ。僕がどういう状態で努力しているかをわかってやっている。死ね。〕の交わりこそは、卑俗を超脱した高貴な魂と魂の交わりである。高田先生は欧州と日本に同時に生きたと言いうる。僕の論述も同時平行的になる。イストワール・パラレル(平行する歴史-物語-)である。今報告したように不愉快な雑音が入ったのでここで休息する。





彼 と 私

高田博厚    

 高橋と私が知り合った時、彼は三十歳私は二十三歳だった。五十数年前である。しかし、会う以前から私は彼の詩と、友人が持っていた写真で彼の顔を知っており、作品にも容貌にも「卑(いや)しさのない」品格があるのに注目した。彼については、半年ばかり下宿を同じくしていた尾崎喜八からきいていたのだが、その時から私は彼に親密さを感じていた。それは互いが直接に識り合わなくても好いものであった。
・・・・・・

(「高橋元吉詩集」全五巻刊行に寄せて)
-第一集「遠望」巻頭より-

魂ある者ならこれだけで両者がなにものであるかを解られるであろう。


詩集「遠望」(「内生のかげ」詩篇)は、主題名と副題名を反響させるだけで、この詩人の世界の本質を予感させる。 最初の頁にあるのが、多分彼のもっとも識られているであろう「秋」である。




秋が来た
空を研ぎ雲を光らせて
浸み入るやうにながれてきた
すべてのものゝ外皮が
冴えわたつて透きとほる
魂と魂とがぢかにふれあう
みな一様に地平の涯に瞳をこらす
きみはきかないか
萬物が声をひそめて祈つてゐるのを
どこかに非常にいゝ国があるのを感じてゐるのだ!

一九一六・一〇


外的情景と内的感性がこれほど気取りなく純粋に素直に表出された〈詩〉、多分自らが詩であることをも意識しない境位で成った詩がほかにそれほどあるだろうかという思いがする。思想と感覚の分裂齟齬がない、清冽に一元的だ、とも言えそうである。高田の印象評の言葉がここで既に実証されている、とわたしは断じたい。ふたりに共通している〈魂の原質〉をこの詩は証していると思う。思想以前の思想、イデアリストの本性である。