Gabriel Marcel

(490)マルセル音楽・かなしみのなかのきよらかさ / 強い愛をもつ強い希望が神意にうち勝つとき

Gabriel Marcel 1889 1973 : 2ème partie


幸せ
ふたたびきみが有名になっても、いつもぼくと一緒にいてください   きみに必要なのは、いっさいうわついたところなく、心底真面目にきみを愛するひと
PV



10月24日 午前夕 リルケ ヴァレリー ・ 自惚れと自尊心


昨日の接続数が多かった節

15 接続
suite 602 リルケ「秋」
2014年12月4日 21:12
13 接続
628 ヴァレリー「海辺の墓地」訳・註解あるいは随感
2014年12月25日 18:52

この独仏ふたつの訳文を掲載した過去節が、突然読まれた原因は不明。




自惚れと自尊心

人間を思うたびに嫌にさせるのが個々の抱いている自惚れである。自尊心はどう違うか。人間はすべて自惚れか自尊心のどちらかを抱いている。表立っての謙遜はすべて偽りである。繰り返しにこれはなるが、「神」に面することを知っている者のみほんとうの自尊心と謙虚を同時にもつ。「実存」と「超越者」は相即的であるということである。ようくみてごらん、これを知らない者はすべて自尊心ではなく自惚れを抱いており、これは、「神」ではなく「俗」を交えていることである。ここからすべての問題が生じているとぼくは思っている。「神」は言葉や観念ではない、感覚されるものだ。「感覚される観念、もはや存在すると断定せねばならぬ実在」である。「純粋」とはこれを感覚するところにのみ自己を確かめる状態である。
 自惚れと卑屈ではなく 自尊と謙虚を事実的にいだいているひとは、表立って意識しなくとも「神」を心の何処かで感じているひとである。「神」は〈有るか無いか〉の詮索議論の対象ではない。


 散りし花びらは土にかへれど
 咲きにし花は天にかへるなり

     高橋元吉


鎌倉の高田邸の前にはこの句を台座に刻んだ先生の作品が据えられてあった〔台座であったか石碑であったかもう定かではない〕。常夫人と電話でこのことをも語り合った。


いま付け加えるが、「かへる」先の「天」が当てになるわけではない。人間は「天国へ行ってもなお欲する」と云われるが、「あの世でもなお信仰する」と言うべきだろう。真の信仰心の当然の帰結である。永遠のイデアリスムである。そういう意味での「天」である。




再 557 人間の「自由」と「権威」 より 510 感想(芸術の幸福)より| ’16.1.10
きょう付加した諸観点はきわめて大事で重要である。ぼくは「神」を求めてきたつもりであるが、この節で自分に再呈示あるいは付加した内容によってきわめて「神」に深入りしたという感動がある。「自分のみ」の「美」の問題と「コムニオン」の問題とが「神」において結婚するのである



咲いています ・補 |Suite

2016年2月19日 02:26

888 自分のための言葉
これは昨夜書くつもりでいたのだが忘れてしまっていた。書こうとしていた同じ言葉ではないだろうが、こう言うことができる(やはり想念そのものは言葉を超えているらしい):

「自分で思う自分の本質のままに自分のことを思い言動すればよい。他者がどう言ったか、自分が(既に)どう言動したかは、どうでもよい。」

核心はこのことであった。付帯して他に何を思ったか いま判然と想念に浮ばない。これはぼくのための言葉なのである。上の言葉を受けとれると思う者は受けとればよいだろう。誰でも受けとれるものではないだろう。

言動は、他者に干渉するものであってはならない。他者が地獄に行きたいと思えばそうさせなければならない。これは誰でも言いそうなことである。しかし優越感からではなく相手への敬意からこれを言う者は数えるほどだろう。そこには相手への信頼があるのだ。純粋にこれが思える者がぼくのほかにまだいるか。

「行くがよい、ただなんじの賢さに気をつけよ」(ヘッセ「シッダルタ」)。 この言葉さえ言って貰える者も何人いるか。

そんなに信頼と敬意の抱ける相手になどぼくは、現実に接触できた人間のなかでは まだ会ったことがない。そういう相手とは、ほんとうにものをかんがえる人間か、純真無垢なひとだろう。大先生か 彼女のようなひとだ。もちろん自分を尊敬し信頼できることが基本だ。

(これが いちばん上の言葉を受けとれる条件である。)

ぼくは自分の内部の韻律にしたがって書いている。自分の秩序があるのだ。他者のいちいちの〈評価〉になど関わらない。





覚書(病者デカルト)  579

テーマ:
この世の社会を成り立たせているのは健常者であって、そこでのあらゆる道徳(常識)規範も健常者のものである。この規範の土台を欠く病者には適合しない。健常者の病者へのあらゆる判断は不適当で不当である。この健常者の社会で生きている病者はそれだけで強者の中の強者である。彼は黙してデカルトの精神で生きている。〈神〉の判定すらも不当である(創造主は健常者の側にしかいない)。病者に最も酷いのは、創造主の後ろ盾を受けた健常者の所業である。これは現実のことである。だから積極的創造とは常に想念の次元でおこなわれるものでしかありえない。これがイデアリスムの真理であり、敢えて想念こそ「真の存在」であると信ずること(そして本当にそうしてしまうこと)である〔パスカルの「賭け」はこの意味でこそ真理である〕。これに躊躇する者はすべて悪魔すなわち創造主の傀儡となる。悪魔の道徳はつねに力を背景とする強引強力なものである。私はこれに屈しない(だからなにものにも屈しない)。
 きみたち全員に言っておく、悪魔という、魂の徹底的否定者は、確実にいる。〈これ〉を絶対に「イデアである神」と取り違えるな。〈これ〉はこの世の本質そのものであり、きみたちが常日頃自らの幸福のため跪拝しているものである。デカルトが〈狡知邪悪な霊神〉malin génie として排した(拒否した)ものである〔デカルト「第一省察」終頁参照〕。
 願わくはわれわれの思念力により此の世そのものを再創造せんことを〔そこに「人間」の意味がある〕。




175 書くこと(自分自身への手紙百三)



855 覚書〔補筆〕 愛は個的全体への関心である

全体に関わろうとする愛に基づかないで、自分の関心のあるところだけを読む者のためにぼくは書いているのではない。愛とは、個別的全体への関心である。個別的全体(相手の存在全体)を知解しようとする意志であり、能力である。




100 自分自身への手紙七十七(人間という想念)

ぼくが今でも「人間」として言動しているのは、繰り返すが、「人間」というぼくの内にある想念にもとづいているのだ。自律的に培ってきた想念(理念)なのであって、断じて自然に生じてきたものではない。「神」とは、人間という自律的想念の極限象徴なのであって、これを「自然」原理と同一視することは常に「人間」そのものを不純にすることだ。自然崇拝も造物主崇拝も自然保護主義もすべて巧妙な全体主義への道である。自然美への感動は、それに感動している人間の魂への感動にと還元されるべきことを知るがよい。人間精神のみが音楽をつくった。これは人間の魂の自律性の証である。その極北に「神」を感じる。それに「賭ける」のが本当の信仰なのであって、デカルトもパスカルもその純粋真意においては照応し合っている(彼らで権威づけることではない)。この「態度」に忠実であれば「人間」は再び目覚める。



「尊厳」に関する断定


孤独でない芸術者はありえない。創造そのものが孤独を要するから。孤独を知る(感覚する)者は「神」を知る(感覚する)者である。

彼女が孤独のひとであり「神」を知るひとであるのは当然である。「孤独の影」は 周囲がいくら消そうとしてもおのずから発せられている。「孤独」がなければ人間にはいかなる「尊厳」(DIGNITE)もない。「尊厳」が発しているのは「神」から、「神に面している人間」からだからである。「神」は「尊厳」の別名である。この感覚がない者はことごとく尊厳に欠けている。日本の思想学徒に尊厳がつまり真の魅力が感じられないのは真面目に「神」に面しようとしていないからである。「『神』は『無』によってはけっして置きかえられない」(高田博厚)。「人生」に「神」をもてない者は「真の美」を知らない。「真の美」は「神」の別名なのである。

この言葉は彼女へのぼくの最大の讃辞のひとつである、同時に「ぼく自身」の自己実感を籠めたのである :
「真摯で潔癖でそれだけにひと知れず孤独なきみがこころを開いたときの慈悲そのものであるようなかがやく美しさをぼくは知っている」

彼女は「神」に面しているひとである。ひとことも「神」という言葉を発さず話題にもしなくとも。それは彼女の賢明さなのである。「言わなくとも私は神を大事にしています」という意識と示唆としるしを その画像からも 彼女はいつもはっきりとしめしていることを いちども感じも気づきもしなかった者があろうとはおもえない。



843 そのつど唯ひとりの読者・思想の憲法前文
 
どうして普通の生活がこう苦しいのか、異常な状態と状況を差し引いても、とおもう。そしていま気づいた、ぼくが集中しているかららしい、と。いまさらながらにそれに気づくほど、ぼくは集中が常態化しているらしい。散漫に生きていないのだ。普通人は多分、強いられた仕事時間のほかは散漫そのものなのだろう。あまり言うとあなどることになるから抑制しておくが(だってほんとうに仕事している人は四六時中「仕事」のことがわすれられないだろうから)。
 ぼくはこの集中、何か本質的なものを常に思念している集中状態に基づいてさらにこの上に具体的な「仕事」をしなければならない。普通状態でないいまのぼくにそれがどれだけ耐えられるものなのか想像もつかない。ただ自分が日々感じ想うことを記しておきたいという不断の欲求で生きている。今日はめずらしく 昨日だけのわたしの欄への接続状況を調べた。すると、やはり読者というものは〈多数・複数〉ではなく 〈そのつど唯ひとり〉なのであることを実感した。週間の接続一覧には現れない過去の節もやはり読んでくれている。それが〈そのつど唯ひとり〉の読者であり、それが本来、唯一の現実なのだ。ぼくはぼく自身に語るために書く。そのように、ぼくがひとりであるように、読む読者もひとりなのだ。それで、ぼくが覚えているような(覚えているも同然な)先生の言葉を書く。何度涙したかわからない:

《 一九四七年の末にようやく故国との便りが開けた。黙っていたながいあいだ、人も国もともに変ってしまったであろうと怖れていたところに、私は再び古い友情を見出した。そして戦争のあいだのこと、それから若かった私達の二十歳代にまで逆上(さかのぼ)って、話すことは限りもない。私には、黙っていた二十年を話すのか、今のことを話すのか、もうわからない。ただ親密な中で、歩みたどってきた私達の精神の姿を語り合いたい。形に触れ得るよろこび、どのような話にも、常に私達の魂が形而上のひろやかさにつながっているある歓びを得たい。そのためにのみ、私にはまた文章を書きたい希望が生れてきたのであった。
 たぶん私は、さまざまのことを語りたいと思いつつ、一つのことを繰りかえして言っているのかもしれない。二十年はその歳月と同じようにも数々のものを持ってきたが、その中で私はたった一つのことを考えつづけていたのかもしれない。それを巡って道が曲折しながら昇って行くのかもしれない。
 日本との連絡がついてから、偶然にも種々の雑誌に書く機会があった。遠くにいて、それが発表されたことも、それへの反響も知らないで、私はただ書いておった。私にとっては、それは尽きることなく繰りかえしながら友達と話し合うことであった。若かった日々を燃した熱情をもう一度新たにし、そして私達の出発のあの時に自らにかけた誓いを、ふたたび誓えるかと願いながら。ただあの時は、世界と万人を相手にしてと信じていた。今は、ただひとりを相手にして。なぜなら「私」があるかぎり、万人は複数ではなくて、個々の一人一人であることを、時が教えてくれたから。
 片山敏彦が私の二年以来の故国への便りの一部を集めてくれたのがこの書である。これは私のいない日本で編まれ出される。私にはこれが故国からの返信のように思える。またまだ便りをしないでいる友等への手紙のようにも思える。私が経てきたと信じている道が、私ひとりのものでなく、ある一つの道を私もまた歩いたのであることを知っているから。

パリ、一九五〇・二・一〇 》

  - 『フランスから』、「初版序」 より -


やはり筆写していて涙があふれながれて何度か中断した。そしておもっていた、先生もきっとこの原稿を書きながら号泣していただろう、と。その至純な波動が直に伝わってきて泣かずにいられない。これは形而上と結びついた人生意識のみが降らせる雨雫なのだ。「心情の吐露」(Herzensergiessung)そのものであるこの言葉の群は音楽の魂そのものとなって連なり流れてきた、天啓のような稀有な文章であり、日本人の手になるこのような至純で密度のきわまった文章が他に書かれていたら教えてほしいとおもう。調べなくても無理とわかる。これほど「イデアの哲学」も同時に籠められた精神は高田先生以前には歴史的に誰ひとり日本にはいないはずである。

 〔ぼくにとって、この先生の文の形而上的至純さの感動と、彼女の最初のピアノ・アルバムが経験させてくれる世界の感動とは、同一質であると告白する。


形而上的アンティミスムの理念が完全に感覚事実として証されているこの先生の文章を、この理念を表明する「憲法前文」にそのままぼくはしたい。




「内なる祭壇」 796 加筆(高橋元吉とのことなど) 16 - 19日


ぼくは純粋な人間だ。この純粋さが何か ぼくは痛いようにじぶんのうちで実感している。よく、〈自分は寛容だ〉と言う者がいる。これは何の徳でもないとぼくは思っている。むしろ自認寛容は俗物のしるしだ。そしてこれこそ自惚れである。これとは違う、ぼくが自分は純粋だと言うときは。偽りでも通用する〈寛容〉に比して、何人のひとが自分は純粋だと偽りなく言い得るだろうか。ここでは偽りは通用しないのである。寛容そのものが偽りでも通用するような、そういうことはここではない。そして純粋こそは至高の価値である。なぜなら寛容が美を生むことはないが、純粋のみが美を生むからである。〈世間〉が意図すれば、最も純粋な者も不純であると言いくるめられるだろう。そういうとき、判断をくだすのは何であるか。自分の実感のみである。〈自分は寛容である〉と言う者が得々と外的人間関係におぼれているとき、ぼくは純粋だ と言うぼくは ひたすら自分のみの自己実感に密接しているのだ。自分のみが判断をくだしうる。ほかのひとの自己判断は知らない。ぼくは自分のみを判断しうる。感動するとき、美に接するとき、ひとは自分の実感に忠実なのと同様である。そこには偽りがない。そのようにぼくは自分の本心を判断する。そして ぼく同様に純粋なひとの純粋さを その美を 感じるのにぼくは敏感であり この自分の実感を明証的に確信するのである。このような純粋なひとは必然的に自分のこころのなかに不可視の祭壇をもっている。けがしてはならない聖なるものの、魂美的に聖なるものの感覚をもっている。それをぼくは知っている と言い得る。ぼくがそうなのだから。〔そういうものをひとつでも抱いているひとをぼくは認める。それいがいの者 聖なるものをなにひとつもたない者は何をするか分らない。狂信者と結果的にあまり違わない。〕
 
 「内なる祭壇」は高田博厚が莫逆の友 高橋元吉を語る際にかならず筆にする言葉である。いまここでは普遍的な意味で語った。

 〈天の判断〉なるものはない。あるとすればそれは偽りか、闘うべき悪魔の破壊意志である。自分の判断のみが判断である。 悪魔は存在し、殺すべき対象である(いまこの瞬間にもぼくの判断の気概の邪魔をする)。この感情を常に断固として強く持しなければ自己は滅びてしまう。詭弁は禅坊主に ごみ箱で勝手にやらせておこう。

ぼくは自分の状況で精いっぱいのことをする。悪魔の状況に感謝などしない。その向きの悟り人は立ち去ってもらおう。思惟と実感が安易なだけの戯言(たわごと)だ。ぼくの精神に通用しない。

自分を実証的に示す者のみをぼくは尊重し相手にする。一般的法則論の輩は久しく葬った。


 ぼくもいま随分角が立ってきているが、言っていることは真実で、言う時宜を得たものである。すべてはリズムと抑揚のある音楽の流れに即するようなものだ。じきにおさまるだろうがぼくはいま敏感になっている。



《〔・・・〕これは結局相手を語って「自分」を見ているのであった。私たち〔高田・高橋〕は心の奥底に共通する祭壇を持っていた。この同一性は二人の生いたちや境遇や性格が似ているためのものではなかった。しかし「これ以外に自分の在りようがない」という点で通じ合い、それは私たちの精神態度を「宗教」的にした。〔・・・〕信仰的とか一つの宗教に帰依するとか、「観念」が「人間感情」に依存し得るものを越えて、「自分」の中に一つの「存在」を感じていた。「神」・・・。》

 高橋元吉詩集1遠望 「彼と私」高田博厚 (一九七六年六月一五日発行)

全文を本来紹介すべきだろう。

06「あなたに帰りたい」(六枚目)の神秘な調べを聴きつつ

きみのなかにも「神」は「存在」している でなければこの真剣さは生れない

十七日一時



人生の勝利
人生の勝利とは、比較上のことではなく、自己同一性の内的感覚の全うであり、これはそれ自体、悪魔力(「俗」の力)に対する闘争における勝利なのである。

人生は、深い自己同一性のための闘争である。ヤスパースは勿論、マルセル、大先生も、一生、〈闘争ではなく受容だ〉などという一言も発していない。そういう思索の怠惰の叫び、放棄は、問題外であって、論外である。



テーマ:

此の世に信頼してはならない。林の中をゆく犀の如く独り歩め
「ノスタルジア」の一情景
フランク ニ短調交響曲 第二楽章
 〔日本人はどうしてこういうものが生めぬのか?環境が、積み重ねてきたものが違う。しかしわれわれも異国のものに感応し自己を照応させることができる。本質的な事は、自己照応の事実であり、それがなければ生じなかったであろうような、自己の生意識の深化覚醒である。無論われわれの側の生への真剣さを前提とする。〕



讃 2月2日  (本質)


きみの所作のひとつひとつに、きみの真心と知性が籠められていることが現われている


ぼくがいちばん学ぶべきは もの言わぬきみの心持だとおもっています


愛し過ぎるぐらい愛しています


きみの曲を聴きはじめるともう離れられなくなってしまいます 籠めたきみの心から





谷口隆之助「愛と死の思想」冒頭  想 

人生の機微が解るとは、多分、自己の「限定性」と「絶対性」とを同時に肯定しなければならないところにあるのだ。「時」を真に生かすとはどういうことか、誰も他者に範例を示すことはできない。ただ己れの深部で納得するかどうかがあるのみである。「限定」と「絶対」を
 そう思い感じながらぼくは「今日」の反復を過ごし生きている
 



覚記 '15.12.17 「芸術すること」の意味 ぼくの祈り

望愁

印象記

「聖なるもの」  それを実証する創作への欲求  祈りの定義    
ぼくの前にはいま、裕美ちゃんの像が醸し想起させるものと「エル・スール」の情景から伝わってくるものとがあり、それをぼくははっきり「感覚観念」として受けとめているところなのだ。この「感覚観念」は具体的であることによって普遍的なものであり、ぼくに「聖なるもの」をひじょうに洗練かつプリミティヴにはっきり教えてくれている。これをしっかり感じつづけていないとぼくは観念詭弁に陥るだろう。そういう〈解釈鑑賞〉だけは徹底的に排斥しなければ、「ぼくの魂主義」は成立しない。魂の観念思弁ではないのだ。ほんとうの芸術創作は、「聖なるもの」に自覚的意識的に沈潜する努力によってこそ成る魂の仕事だろう。ぼくもこれからそういう仕事をやりたい。知性的自覚的に芸術創造がしたいのだ。真の創作者が為しているように。そのような創作の知的努力は、論文作成に無限に優る。

祈りとは、内的秩序の再建であり、その都度の新生であり、持続の確認である。


「自分に向って」再読節
 

 


テーマ:
 https://youtu.be/_XqhI1Rkcbo?list=RD_XqhI1Rkcbo

  https://youtu.be/cTuP9F0D9Hs?list=RD_XqhI1Rkcbo



紹介映像 https://youtu.be/0kPKIky7OIs 







(2016-03-14 15:00:01) (03-31 23:11:10)