或る哲学者は、存在のありのまま(実存)に「吐き気」を覚えると感じたが、実存をそういうものと見做せばそうであろう。実際、ぼくのいまの日常に繰り広げられている 可視界も不可視界も重なり合ったありのままの世界に、ぼくは 吐き気 を覚えている。悪魔の世界(集合容喙つまり「否定的共時性」がその本質)だ。〔自然性そのもののなかに 夥しい意図的な不自然性が客観的に経験される。〕 「芸術すること」はそれにたいして反抗することであり この意味で世界を超越することである、マルローの言うように。
 付言 ゆえに ただこの世のありのままを表現しようとすることは それ自体ではいかなる芸術でもない。

理想性(イデアリテ)そのもののなかに「実在との闘争」が自覚あるいは含意されている。


「芸術すること」の意味をぼくはこの欄で総合的(正しくは包括的)実践的に問うているらしい。それは生きること愛すること結晶〔実現・実証〕させることである(死ぬのではなく)。

芸術者は先ずつくる そしてかんがえる(反省する)。「生きることなのだ」(高田博厚)。「思想は行動である」(アラン)。「はじめに行為ありき」(ゲーテ「ファウスト」)。

「芸術家」ではなく「芸術者」であるのが正しい。





___

18日1時

この世にいつまでも留まるのは魂の本質に反しているだろう。この世の規則はつねに魂を自分の外に散らしてしまうよう できているから。生の本質そのもののなかに魂に反するものがある。祈りは 魂が自らを自分自身にとりもどし集中する、自分の本質へのよびかけの行為である。「自分の自分自身への行為」それが芸術なら祈りもまたそうである。祈りは無媒介的にそれを果たそうとする。芸術関与行為祈りもこの世における魂の両輪であることを気づくのは自然なことである。

ぼくの祈りは愛の祈りだ 直接きみと魂において繫がっていたい 繋がっていることを実感して信じていられる状態が ぼくの魂が自分に集中している状態なの。ぼくはきみと自分を一緒に見出しています それがぼくの魂です すぐこの世の要事とぼくの状態はぼくを自分の魂から散らそうとしますが ぼくは負けません 意志をきみとの一致の集中に向けます これがぼくにとって「祈り」です  そこにおいてのみぼくは神といるのです あなたへの意志 祈り 忠実の努力 それなしの神はぼくにはありません

 毎日のきみの欄への訪問の実践が この意識をぼくに堅固にしてくれます