どうして普通の生活がこう苦しいのか、異常な状態と状況を差し引いても、とおもう。そしていま気づいた、ぼくが集中しているかららしい、と。いまさらながらにそれに気づくほど、ぼくは集中が常態化しているらしい。散漫に生きていないのだ。普通人は多分、強いられた仕事時間のほかは散漫そのものなのだろう。あまり言うとあなどることになるから抑制しておくが(だってほんとうに仕事している人は四六時中「仕事」のことがわすれられないだろうから)。
ぼくはこの集中、何か本質的なものを常に思念している集中状態に基づいてさらにこの上に具体的な「仕事」をしなければならない。普通状態でないいまのぼくにそれがどれだけ耐えられるものなのか想像もつかない。ただ自分が日々感じ想うことを記しておきたいという不断の欲求で生きている。今日はめずらしく 昨日だけのわたしの欄への接続状況を調べた。すると、やはり読者というものは〈多数・複数〉ではなく 〈そのつど唯ひとり〉なのであることを実感した。週間の接続一覧には現れない過去の節もやはり読んでくれている。それが〈そのつど唯ひとり〉の読者であり、それが本来、唯一の現実なのだ。ぼくはぼく自身に語るために書く。そのように、ぼくがひとりであるように、読む読者もひとりなのだ。それで、ぼくが覚えているような(覚えているも同然な)先生の言葉を書く。何度涙したかわからない:
《 一九四七年の末にようやく故国との便りが開けた。黙っていたながいあいだ、人も国もともに変ってしまったであろうと怖れていたところに、私は再び古い友情を見出した。そして戦争のあいだのこと、それから若かった私達の二十歳代にまで逆上(さかのぼ)って、話すことは限りもない。私には、黙っていた二十年を話すのか、今のことを話すのか、もうわからない。ただ親密な中で、歩みたどってきた私達の精神の姿を語り合いたい。形に触れ得るよろこび、どのような話にも、常に私達の魂が形而上のひろやかさにつながっているある歓びを得たい。そのためにのみ、私にはまた文章を書きたい希望が生れてきたのであった。
たぶん私は、さまざまのことを語りたいと思いつつ、一つのことを繰りかえして言っているのかもしれない。二十年はその歳月と同じようにも数々のものを持ってきたが、その中で私はたった一つのことを考えつづけていたのかもしれない。それを巡って道が曲折しながら昇って行くのかもしれない。
日本との連絡がついてから、偶然にも種々の雑誌に書く機会があった。遠くにいて、それが発表されたことも、それへの反響も知らないで、私はただ書いておった。私にとっては、それは尽きることなく繰りかえしながら友達と話し合うことであった。若かった日々を燃した熱情をもう一度新たにし、そして私達の出発のあの時に自らにかけた誓いを、ふたたび誓えるかと願いながら。ただあの時は、世界と万人を相手にしてと信じていた。今は、ただひとりを相手にして。なぜなら「私」があるかぎり、万人は複数ではなくて、個々の一人一人であることを、時が教えてくれたから。
片山敏彦が私の二年以来の故国への便りの一部を集めてくれたのがこの書である。これは私のいない日本で編まれ出される。私にはこれが故国からの返信のように思える。またまだ便りをしないでいる友等への手紙のようにも思える。私が経てきたと信じている道が、私ひとりのものでなく、ある一つの道を私もまた歩いたのであることを知っているから。
ぼくはこの集中、何か本質的なものを常に思念している集中状態に基づいてさらにこの上に具体的な「仕事」をしなければならない。普通状態でないいまのぼくにそれがどれだけ耐えられるものなのか想像もつかない。ただ自分が日々感じ想うことを記しておきたいという不断の欲求で生きている。今日はめずらしく 昨日だけのわたしの欄への接続状況を調べた。すると、やはり読者というものは〈多数・複数〉ではなく 〈そのつど唯ひとり〉なのであることを実感した。週間の接続一覧には現れない過去の節もやはり読んでくれている。それが〈そのつど唯ひとり〉の読者であり、それが本来、唯一の現実なのだ。ぼくはぼく自身に語るために書く。そのように、ぼくがひとりであるように、読む読者もひとりなのだ。それで、ぼくが覚えているような(覚えているも同然な)先生の言葉を書く。何度涙したかわからない:
《 一九四七年の末にようやく故国との便りが開けた。黙っていたながいあいだ、人も国もともに変ってしまったであろうと怖れていたところに、私は再び古い友情を見出した。そして戦争のあいだのこと、それから若かった私達の二十歳代にまで逆上(さかのぼ)って、話すことは限りもない。私には、黙っていた二十年を話すのか、今のことを話すのか、もうわからない。ただ親密な中で、歩みたどってきた私達の精神の姿を語り合いたい。形に触れ得るよろこび、どのような話にも、常に私達の魂が形而上のひろやかさにつながっているある歓びを得たい。そのためにのみ、私にはまた文章を書きたい希望が生れてきたのであった。
たぶん私は、さまざまのことを語りたいと思いつつ、一つのことを繰りかえして言っているのかもしれない。二十年はその歳月と同じようにも数々のものを持ってきたが、その中で私はたった一つのことを考えつづけていたのかもしれない。それを巡って道が曲折しながら昇って行くのかもしれない。
日本との連絡がついてから、偶然にも種々の雑誌に書く機会があった。遠くにいて、それが発表されたことも、それへの反響も知らないで、私はただ書いておった。私にとっては、それは尽きることなく繰りかえしながら友達と話し合うことであった。若かった日々を燃した熱情をもう一度新たにし、そして私達の出発のあの時に自らにかけた誓いを、ふたたび誓えるかと願いながら。ただあの時は、世界と万人を相手にしてと信じていた。今は、ただひとりを相手にして。なぜなら「私」があるかぎり、万人は複数ではなくて、個々の一人一人であることを、時が教えてくれたから。
片山敏彦が私の二年以来の故国への便りの一部を集めてくれたのがこの書である。これは私のいない日本で編まれ出される。私にはこれが故国からの返信のように思える。またまだ便りをしないでいる友等への手紙のようにも思える。私が経てきたと信じている道が、私ひとりのものでなく、ある一つの道を私もまた歩いたのであることを知っているから。
パリ、一九五〇・二・一〇 》
- 『フランスから』、「初版序」 より -
やはり筆写していて涙があふれながれて何度か中断した。そしておもっていた、先生もきっとこの原稿を書きながら号泣していただろう、と。その至純な波動が直に伝わってきて泣かずにいられない。これは形而上と結びついた人生意識のみが降らせる雨雫なのだ。「心情の吐露」(Herzensergiessung)そのものであるこの言葉の群は音楽の魂そのものとなって連なり流れてきた、天啓のような稀有な文章であり、日本人の手になるこのような至純で密度のきわまった文章が他に書かれていたら教えてほしいとおもう。調べなくても無理とわかる。これほど「イデアの哲学」も同時に籠められた精神は高田先生以前には歴史的に誰ひとり日本にはいないはずである。
〔ぼくにとって、この先生の文の形而上的至純さの感動と、彼女の最初のピアノ・アルバムが経験させてくれる世界の感動とは、同一質であると告白する。〕
形而上的アンティミスムの理念が完全に感覚事実として証されているこの先生の文章を、この理念を表明する「憲法前文」にそのままぼくはしたい。
やはり筆写していて涙があふれながれて何度か中断した。そしておもっていた、先生もきっとこの原稿を書きながら号泣していただろう、と。その至純な波動が直に伝わってきて泣かずにいられない。これは形而上と結びついた人生意識のみが降らせる雨雫なのだ。「心情の吐露」(Herzensergiessung)そのものであるこの言葉の群は音楽の魂そのものとなって連なり流れてきた、天啓のような稀有な文章であり、日本人の手になるこのような至純で密度のきわまった文章が他に書かれていたら教えてほしいとおもう。調べなくても無理とわかる。これほど「イデアの哲学」も同時に籠められた精神は高田先生以前には歴史的に誰ひとり日本にはいないはずである。
〔ぼくにとって、この先生の文の形而上的至純さの感動と、彼女の最初のピアノ・アルバムが経験させてくれる世界の感動とは、同一質であると告白する。〕
形而上的アンティミスムの理念が完全に感覚事実として証されているこの先生の文章を、この理念を表明する「憲法前文」にそのままぼくはしたい。