もう遅くなったから、ながく話すつもりはない。自分のため覚え書く。森有正はパイプオルガンを長年弾いており、こう言っている: 大事なことは、楽譜どおり弾くことだ、と。詳しく書けるが、ぼくはもう本質を咀嚼しきっており、何をもって個性と云い表現と云い感動と云い美と云い理解と云い普遍と云うかということであって、ずっとこの欄で言ってきたことである。数学や科学は誰から学んでも 理解してしまえば、それは自分で発見したのと同様であるゆえに普遍的であるが、ここに「個人性」と「普遍性」の直接的照応関係がすでに原型的にあらわれている。「楽譜どおりに弾く」ことが本質的にすべてだと言いうるのも、これと同じである。「普遍」の具体的象徴物が楽譜なのである。演奏者の個性の表現などけっして意識的にかんがえてはならぬことは、普遍性をもつ創造行為の根本基本である。クラシックとは、主体より前に、数学的真理のごとく「もの」としての作品が存在することである。自分が創造した作品でも同じで、主体はこれに献身することによってはじめて、「自己」を生む。創造活動の過程での「自我のめざめ」とか、「演奏者から表現者へ」など、本末転倒の意識であって、一貫しているのは、ものがあるとおりに弾くことであり、この修練が深化してゆくなかに必然的に認められるようになる「そのひとらしさ」が、本物の自我なのである。客観に取り組むことなしには主観は意味あるものとして成立しないのだ。音楽はファンタジーであるが、客観に即したファンタジーであり、だからイデアに参与する敬虔さを必要とする。「別の世界」を我々に経験させてくれる秘密である。彫刻でもまったく同様なのである。この過程を踏まずにいきなり自分の味を意識態度で出そうなど、もっとも浅薄な効果本位であり、そういうものが氾濫していることに、わたしは絶対に寛容ではありえないのである。人間の根源価値にかかわる問題であり、この価値を真面目にかんがえれば、肯定できる芸術者などじつに僅少である。多様な価値観というのはじつに表面上の体裁であり、価値あるものは一つである。すなわち、人間本性の道理に即しているか、それによって真実なものであるか。この真実性の上で、そのあり方は無限に多様である。それは「多様であってよい」のではなく、同一の原理に拠って、素材と状況に応じて「必然的に多様」になるのである。これが「多様」であって、価値の多様では断じてない。価値観は、正しい、窮極的に唯一の価値観があって、これは不動なのである。指先がナビゲートしてここまで書くことができた。ここでひとまず置く。

詩も、自分の感情や知覚感覚、そのひとつとなった純粋意識を、どのようにこれに密接した言葉で表現するかであり、「もの」への献身なのである。およそ「真」なるものが展開される条件である。嘘のないものはそこからしか生じない。すべて本人の生き方が根源であり、これは倫理以前あるいは倫理を超えた問題である。




これを書いたあと、裕美さんのバッハ JESUS, JOY OF MAN'S DESIRING を聴き、あらためてその荘厳さ、力強い格調に満ちた精神性にびっくりした。ぼくもこよなく愛するZardの曲を弾いているのとは全然別の彼女が、しかもZard演奏から感じる彼女の本質(心ある繊細さと力強さ、完璧な構成力)そのままに、これこそ彼女の本当だと唸らされる威厳で(あの細い体躯のどこにこんな底力が!)、感動的に精神的な純正クラシックを聴かせてくれて、精神的尊敬でぼくは一杯になった。これでショパンやドビュッシーを弾いたら、その壮麗さダイナミックさは大変なものになるだろう!!! とおもわずぼくはいまかなり現実的に想像した。その演奏を予感できた。多分、誰も容易に想像できないような感動的で驚かせる個性溢れる演奏をわれわれは経験することになるだろう。馴染みの曲もはじめて聴くようにその真価がわかったと感動するだろう。それを彼女はいつも自分のためには弾いているのだ!どうして聴かせてくれないのか !!!
 ぼくは他者のための説明をこのまないが、ここで最後にぼくが言ったことは、「芸術はすべて自分と自分自身との対話である」という高田先生の言っている真実を、彼女が「自分独り」のうちにあまりに純粋に行なっていることへの讃嘆の表現なのである。





















16日早朝

ほとんどぜんぶ蕾です。二期めの数がすごく多い!こんどは本格的かも・・立派に咲いてください・・・






そうそう、嘗てチャイコフスキーの未完成交響曲「ジーズニ」をロシア交響楽団で指揮した西本智実氏は、大阪音楽大学出身で、現在母校の教授であるとか。裕美さんの学んだ大学はすごいところなのですね。