これはぼくの「形而上的アンティミスム」の骨格を示すものであるので、ここに特別に再呈示させていただきたいと思う。

ぼくがここに坐ったのは或ることを書きたいからである。自己愛と他者愛を分けてかんがえてはならない。真の自己愛は孤独の中に真理を求める。これは人間普遍の真理を自覚する唯一の場である。するとかならずきみは自分の感得した人間の真実を人に伝えたくなる。そうしてそれを試みることによってきみははじめて他者愛を実践することになる。その人が「人間」となることに貢献することになるからである。自分が「人間」となることを自分がたすけ、相手が相手自ら「人間」となることをたすける、それがほんとうの人間らしい人間関係なのだ。イデアとか何とか難しいことを言わなくても、プラトンの「哲学(愛知)」の本質はそこにある。イデアとは、そのような人間関係において自他共通の人間真理として互いに自覚し合いたいその共通の、つまり普遍の、なにものかなのだ。人間を「人間」にするもの、それがイデアであり、これは本来抽象的に議論するものではなく、人間が人間であるためにそれに当面するものなのだ。だからきわめて感覚的に感じるものでなくてはならない。内面的精神的な感覚によって。これこそ、「形ある真理」を探究したギリシャ人にふさわしい真理のありかたであって、このような真理が「イデア」(理想・理念)であったとかんがえられる。だからきみ、イデアというのは究極的には自分で当面して実感できるものでなければ人間にとって真実とはならない。このようなギリシャ人のイデアの特質こそがのちのキリスト教の「普遍の神」の感覚を生んだとぼくは理解する。これはあきらかに、ただ律法を与える旧約的な「民族の神」を越えている。民族や家や集団・社会単位の神ではなく、個人としての思索者に対応する神が生まれた瞬間だった。そしてこの瞬間を準備した精神土壌こそ、個人としての人間が生き考え文化の中心となったギリシャだった。のちのデカルトはあらためてこのイデアとしての神、キリスト教的神の原型としての神を、自覚してみせたと言い得るのだ。きみ、キリスト(教)の神そのものを生んだのが哲学者だったのだよ。パスカルが批判した「哲学者の神」は、たいしたものなのだ。
 以上はぼくの大先生理解でもある。