面白い記憶を思い出したので書いておく。福音主義系の人が、自分は人間の力で真理など極められないと思うからパスカルの賭けの思想で信仰している、と言った。まったく別に、カトリック系の人が、うちは自分がカトリック、父は禅宗、母はプロテスタントで、それぞれの信仰があるが、それで宗教抗争など起きない、所詮宗教は人間の造ったものだと思っているから、と言った。前者と後者では人間精神の有限性をともに認めているようであるが、同じ精神なのではない。前者は宗教戦争を場合によっては起こし得る。
上の話は味わい深い、かみしめさせる話だ。信仰を真理意識で求める人と、愛で求める人とがあることは、厳然たるぼくの経験した事実だ。後者の人にはぼくはむかし随分不躾なことをしてしまった。よく寛容に精神秩序をもって宥恕してくださった。ここに改めて心からの祈りの感謝を捧げます。
ぼくははっきり言うが、信仰による奇蹟などなにものでもない。そこに愛があるのでなければ。神の前での断念を中核に孕んでいない愛も信仰も信用できない。自分においても他人においても。 ぼくはあたりまえの浄い美しいものを観たい。真面目な魂の深さはあらゆる奇蹟にまさる。
上の話は味わい深い、かみしめさせる話だ。信仰を真理意識で求める人と、愛で求める人とがあることは、厳然たるぼくの経験した事実だ。後者の人にはぼくはむかし随分不躾なことをしてしまった。よく寛容に精神秩序をもって宥恕してくださった。ここに改めて心からの祈りの感謝を捧げます。
ぼくははっきり言うが、信仰による奇蹟などなにものでもない。そこに愛があるのでなければ。神の前での断念を中核に孕んでいない愛も信仰も信用できない。自分においても他人においても。 ぼくはあたりまえの浄い美しいものを観たい。真面目な魂の深さはあらゆる奇蹟にまさる。