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はじめて〈埋め込みコード〉を試したら、CMは入らないし 音質がものすごく佳いのでびっくりした。前節の二つも〈埋め込みコード〉に代えました。

いまこの節で上に挙げた二つの一つめの十曲めと、二つめの二曲めを、ぜひさっそく聴いてみてください。ぼくは「星空」と「海波」の曲と呼んで極愛しています。彼女の音楽の醍醐味を堪能するでしょう。 そして 二つめの十曲め「愛は暗闇のなかで」は彼女の芸術性のひとつの真骨頂と感じます。



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〔楽譜を見ながら演奏する。眼をつぶって弾ける彼女が暗譜で弾けないはずがない(実際、空をみながら弾いている時が多い)。「仕事」への責任感からの完璧主義、慎重さなのだ。ぼくとまったく同じ気質、意識だ。あれこそ知性だと思う。気苦労すれすれのところで生きている。だからぼくは彼女を思い遣る。「真摯」ということが彼女が人から評され自らも好む態度だ。換言すれば「純粋さ」の必然的一側面はこれである。「真正面から対象に挑む純粋さ」とぼくは自分の研究態度を学部長教授から評された。このぼくだから彼女が同じ意識だということがよくわかる。 あなたがたにわかりますか。こういうぼくを潰したのだから天は本当に馬鹿だ。今更一切信用しない。





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この場で言うことが適切かどうかわからないが、ぼくはだいたい相手にしうるような人間を見出さないのがふつうの人間なのだ。しかしそれではこの世的に生きてゆけないから、無理して付き合わなければならない。そうなるとぼくは相手に敏感だから、相手の意に逆らうようなことはめったに口に出さない。無神経なやつとはちがうのだ。だからできるだけ相手を立てる。そうすると凡庸な相手はかならず図にのる。その言動にこちらがいらいらしてくる。もともと対等にみてなどいないのに、と次第にくすぶりはじめる。やがてキレて関係の〈和〉が破れてゆく。だいたいこちらが器量がないことになってしまう。鈍感なやつが器量があるかのようにこの世はできているのだ。ぼくのほうが蔭で不評をかう。そういうことのくりかえしが多かったようだ。しかしおもうにこういうことは敏感な「才子」につきものではないか。ほんとうはこちらのほうがずっと誠実で純粋なのだ。人間の秩序感覚に確固としたものがある。それができていない連中の間で暮さねばならないからやっかいで不利なことになるのだ。狭隘でも高慢でもなく、そういう外観は強いられたものなのだ。それが自分でよくわかっているから、ぼくは才子に同情共感することを知っている。ぼくはいつもそんな強いられた外観の奥をとっくに見ている。
 たしかに、ただの才知と分析意識だけで人を見下すはなもちならないやつは一杯いて こちらのほうがずっと多い。そういうやつら(第二俗物種と言っていい)にはほんとうの純粋も思いやりもない。そういうことを明瞭に判別できるほどにはぼくは本物であるつもりだ。




806 notes  // 読者の方々へ お知らせ / 〔ぼくの聴き方〕
811 道程 いかなる目醒めへの?  天才
 この二節が並んでこの一週間で接続が最も多かった。




いま思い浮んだ想念を書き留めておく。人間はなぜ死ぬのか。マルセルは、人生において堆積した罪のためではないかという直感をもっていた。ぼくはすこしちがう見方ができるのではないかとおもう。あまり長くこの世に生きていると、魂にどうしても汚れた意識が付着してしまう。これはけっして魂の好むところではない。純粋な魂はほんとうはそんなに長くこの世に居ることを好まぬのだ。だから、産れてすぐ死ぬ嬰児を、何のために産れてきたのか、この世の美しさをまだ殆ど経験もせずに、とわれわれは慨嘆しがちだが、嬰児の魂がどんなにわれわれにとって眼も眩むような美しい純粋な輝きをもって他界するか、すぐにほんとうの「目醒め」に復帰するか、ということも想像したほうがよい。この世の美しさはしょせん魂の根源の美に敵うはずがない、と。死後にまだ此の世に徘徊する霊魂を鎮めるのは追い払うためではない。此の世への錯覚と執着を解いてやるためだろう。花の命は短くて苦しみのみ多し とは、裏から真の光に照らされれば逆の様相が現われる。美の永遠を想わぬ潔さの美学からわれわれはもう自由になろうではないか。



薬のために眠いのを堪えて書いておく。 ぼくの状況はデカルトと酷似している。自分の異常経験のゆえに、この世のこれまでのあらゆる思想・宗教が役にたたなくなり、ぼくは自分を納得させる思想・信仰を自分で得るよう、状況から謂わば強いられているのである。




《メーヌ・ド・ビランにおける哲学と宗教》
パリ第四大学(ソルボンヌ)提出博士論文


学者など観念の人間で、ほんとうに空しいものだ。ぼくは学者などまったく怖れて(畏れて)おらず、その意識様態を自分で苦労して知っているゆえに、想うだけでうんざりして気分がすぐれなくなる。ぼくは学者をやめたい人間、卒業したい人間で、そのためにパリ・ソルボンヌ大学で独学精神で博士号を取るという道場破りをやった(しかも高成績で)。だからいま、学者について好き勝手なことが言えるのだと、忘れていたものを思い出すように気づいた。だからこそ、この前提を意識することを忘れて、「自分が自分自身になればよい」などと人にも公然と言えるのだ。ほんとうに人間はしょうがない。そういう課程を修了しなければ「自分自身」として堂々と言動できぬのか。学者という架空存在(権威)に下手に出なければならぬのか。この人間の意識構造はどうにかできぬのか。そんなことをしているうちにも人生は過ぎてゆくのに。「結論」はわかっているのに。



これを書いているきょうは17日なのだな。高田先生の命日だ。ぼくはほんとうに自分にとって「生きて」いるひとの亡くなった日には関心はない。誕生日はいつもしっかり意識している。きょう6月17日は「他界」した日とおもおう。べつの世界に先生の存在が生きる舞台を移した日だ。 デカルトもクリスチナ女王の招きで赴いたスウェーデンで客死した際、「今度はほんとうに出発するのだ」、と言った。しばしば水と油のようにいわれるフランスの両哲学者だが、「いかなる目醒へ」と言ったマルセルと、人間意識は等しい。




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じっさいぼくは、数的順位や読者評価はもとより、読者数もまったく関心あるはずないのである。読み手の動向を間接推定するのみであり、社会報道に接する以上の意味はない。他人事なのである。だから、自分でその意味合いが合点されていれば、外面的に不整合に思われるかもしれないような自分の言葉表現にも無頓着である。読み込めない読者は去ってゆくかもしれぬが、それを慮っての穏当な表現に終始する気になどならない。真の表現者が多数に理解されることなどないのが普通だ。大芸術家達は自分に納得のゆく表現にのみ運命的に生きた。力量の問題でなく態度においてわたしも彼等と等しくありたい。正確には、自分の本性にしか従わない態度において彼等と等しいなら名誉なことである。他の書き手と意図が根本的にちがう。それでもやはり読者はいる。それで充分だ。いちばんはじめから言っている。


この電子網世界も大衆社会そのもののようだ。大衆とは自己の内に基盤をもたない者だろう。それで社会に反応しこれを批判しても底が知れている。ぼくに言わせれば、「己れの神」に直面し根ざすことをせずに、自己の基盤をもつことはできない。それのない批判に興味はない。〔ぼくが、人の好い日本保守論客達の主張に、致命的に物足りなく思うものを感ずるのはそこである。「人間」を突き詰める素養に殆ど欠けている。詳論すれば言いたいことは山程ある。〕


有象無象は要らない。心の籠った真の読者がぼくが求める実体である。そういう人にこの欄に気づく機会をつくりたいのみである。



名誉だなどと言う価値もないが、ぼくはイデオロギー左翼からは右翼に、同様に右翼からは左翼にみえるだろう。ほんとうは左右を絶してぼくがいちばんラディカルなのだ。この世界の原理自体を断罪している。



「彫刻存在」をめざす。〈天の摂理〉(その正体をもう知っている)すら超えている。



すべて、「出来た」外見は嘘である。ぼくが当ればすぐ判る。慇懃、磊落、すべて仮面である。



〈有象無象〉と言ったが、そんなもの在るわけない。ぼくはそういうふうに誰もみることはできない。傷つけられた者の反発感情の表現として言うのみである。実際のぼくは誰をもあまりにまともに相手にしすぎる。フランスで博士号を取得し帰国してしばらくの間、本屋に行っても、思想哲学関係の場所に来ると、その雰囲気だけで気分がわるくなり、避けていた。雑学的歴史観関係の本で気を晴らしていたのだが、ぼくは目立つ雰囲気があるのか書店員のほうでぼくの買う種類のものをチェックしていたらしい。たまに本来の領域でアウグスティヌスの研究書などを買うと、店員が露骨に以外そうな表情をする。こいつら何をかんがえているんだと腹が立った。青二才のくせに何様とおもっている!それだけぼくがそんなやつに傷つけられたということで、まともに相手にしすぎるぼくの実際である。ぼくを誰だと思ってる!ということで、そういうときはじめて、思いっきり相手を貶めてやるために〈この有象無象!〉〈大衆!〉という侮蔑観念を発動するので、最初からではない。用がないのにそんな架空観念を最初からもってぼくは誰をも処理しない。具体的なひとりひとりは対等な「人間」として敬意をもって遇したい、それがぼくの身についた感覚なのだ(純粋な人間はもともとそういう感覚をもっているとおもう。フランスで一層自覚しただろう)。相手がぼくを侮辱して「忘れていたこちらの義務を思い出させてくれる」(アラン)のだ!それにしても若蔵のくせにこの思い上がった、他者への高慢な観念形成は何だろう。いちどそれを形成すると、こちらが当然その観念解釈内で行動すべきだというように見る。青山二郎の本など買ったときには顔を歪めてチェッと言う、あれは人格失格で首にすべき手合だ。久しぶりに日本に帰ると田舎も人間がおかしくなっている、いやもとから〈客〉という概念でしか見ず、「人間」を感覚した上での礼儀心が不在らしい。こういう者が人間秩序と縁があるわけはない。(パリの日本書店でも、そういう店員の客への無礼が、ああいう国だけに余計に異様に目立った。ぼくが相当腹を立てて堪えていたら、次に行った時に、そいつは死にそうにうなだれていたから、そらみたことか、何かあったな、と思った。)こういう出来損ないを有象無象、大衆と、不快な経験のあとでこちらも思念するようになる。内的復讐のように。「人間」を裏切った連中だ。


しかしこんなことは状況も身体も産れたときのままの自然な持続状態での日常事のことであった。普通感覚で何の不自然なこともなかった。この日常世界がどうしてぼくが産れてからまったく経験したことのない世界に変貌することになったのか。全然異質な侵略的意志がぼくの生活世界に入ってきて、以前の問題などまったく問題でも何でもなくなった。「集合的容喙現象」としてぼくがこの欄でまとめている主題別欄を読んでほしい。ぼくがどうして現在のような烈しい態度をとるかがわかる。

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 そろそろ節をあらたにしたほうがよいとおもうが、〈天才〉という概念について付言しておく。一般にこの概念の使用者は、特定存在をそう呼ぶことで擬似普遍的に権威化し、みずからが真っ先にこれを承認することで、自分をこの擬似位階の追随的第一人者とし、他の者達を見下したいのだろう。〈天才〉概念はこれの使用者なくして存在せず、なによりもこの使用者の意識のありようをしめす。ぼくはまずこの概念使用の場で不快な反発を感じ、この反発を分析するとこういう意識様態があぶりだされる。ぼくはまず使用者の高慢を直感したということである。見かけは謙遜のつもりの使用者自身が気づかないだけだろう。一言で言えばルサンチマン概念なのである。ルサンチマンを超える(脱落させる)道を見出した者、もともとこの怨恨と無縁な者が、この概念を根源から再定義しうる。ぼくの天才再定義はこの意味のものである。自分自身になる、これが魂である。