何かをやっていて時間を忘れるというのはすべて或る意味で至福の状態と言ってよい。時間を忘れるところに不安心配などあるはずがない。
 こうしてあとさきかんがえずにぼくはいつも徹夜してしまう。いまさら身体のために気を遣おうという気持はない。「自分を生きる」ことがすべてだ。
ぼくの生きざまをみていてもらおう。


現代社会は自由と多様な価値観の原則は守るが正しい自由と価値の方向を示せないから駄目だ。この点でやはり社会を超越しつつ基礎づけるキリスト教を持ち、精神が上を向いている西欧は文化的に優越している。


きみ、人間というのはね、死んでいるのに生きて(存在して)いる人があり、生きているのに死んでいる(不在の)人がいるのだよ。これがマルセルが問題としたことであり、高田先生が危惧したことなのだ。


ぼくは、知識や観念だけ多くてそれで自分の人格の埋め合わせをして他より上位の人間のような雰囲気を発している〈教養俗物〉を嫌う。彼等は自分の実体以上のことを言うが、既にその傲慢によって「一人間」より以下である。誰も「一人間」以上になることは出来ない。何故なら「一人間」とは人間であることの上限なのだから。 勉強によって得るものは努力の成果と一応言えるであろうが、先ずその努力を為し得る自分の幸運に感謝すべきである。そして学んだことが自分の実体で真に定義し得ているか、つまり学んだ思想と照応し得るものが自分の実体に獲得されているか、を自分できびしく検証出来ねばならない。そういう自覚営為は日本の学者共は殆どやっていないだろうと思う、すべては学界での研究発表論文の作成を中心に回っているから。それでなくとも日本人は、自己との厳しい対決や摺り合せで思想営為などやっている者は殆どおらず、勉強・読書が滞りなく出来ているだけ好事家・ディレッタントである。その分自己を真摯に生きておらず高慢だけは強いので人間としてはなもちならない。日本インテリは「人間」になどなっていない。高田先生や森氏、辻邦生氏(僕はささやかな人間交際があったからよく確認した)は稀有の例である。あとは日本的なお茶濁し学者だった。自己と対決できる学者はそのくらい日本にはいない。向こう(西欧)の学者の学問態度は根本的に違うというのは本当なのである。日本の〈教養人〉の本質的雰囲気を僕は本当に嫌う。一言で言うと、思想以前に人間がなっていない。僕は違うと思わなければこういことは書かない。表面を〈コンセプト〉に合わせただけの連中ばかりだ。マルセルや高田先生を〈時代(過去)の人〉にするような資格など彼等の誰一人にもあるはずが無く、ただ取り組む素養さえも無いのである。〈学者〉は越えられねばならない。思想・思想家と照応対決しつつ自分が「人間」となるところにのみ真の「思想」が生れる。思想は〈客観〉ではないのだ、思想主体である個人の全要素がかけられる「人間自覚」である。






 
Château de Chambord