追伸 (601′) 
哲学者ガブリエル・マルセルは言いました、「『私』とは『私の過去』である」、と。前節の森氏のリルケ理解と重なる人間理解です。「過去」あっての「自己」なのです。わたしがこれを言いましたのは、日本では、過去は過ぎたこととしかとらえず、断念するという発想しかないからです。だから人間の魂をほんとうにかんがえていないのです。「過去は現在よりも生きるに価する」と森氏がリルケにならって言うとき、どういう意識境位で言っているか解らないならば、「魂」というもの、したがって「人間」というものを正しくかんがえることは不可能です。・・・真に思索する者や芸術・音楽を生きている人々は、マルセルのとらえている根源的なものを感知しているのですが、・・・正しくかんがえることなくして人間をかんがえることは不可能です。


(506) 覚書(前節に関連して) 
優しさと怒りはわたしのなかでは矛盾していない。優しくなれるほんとうの根源を自らのうちに蔵していなければ、真に怒ることも出来ないであろう。


告白  附 過去節より  若き先生像  

彼女を愛することは神を信じ祈ることであり そこにおいてぼくは先生の世界とともにある


きみの孤独

裕美ちゃん

きみの海音の曲(「ハイヒール脱ぎ捨てて」)を二度聴いたところです〔きみの指の息づかいまできこえる再生装置で〕。何度無数に聴いても無限の発見があるのです。ほんとうの「存在」がそうであるように。「存在」そのものであるこういう作品を生めるきみはほんとうの本物です。きみの世界がいかに本物であるかということ、聴く側の真剣さがいかにいつもその「存在」を受容するのに足らないかということ、きみは、聴者の注意力をいつも遙かに超える次元を歩んでいるということ、きみの創造世界、経験世界のゆたかさ深さ厚さを実感します、きみの世界が充実した包括者の存在そのものであるように。

謙虚に多くの聴者がそのことを実感するよう期待します。

〔これはぼくの感覚であり確信であり きみのための「証言」であるから言うのです。〕

音楽の霊性を認めるメタフィジシアン マルセルの日にあらためてこのことを記したのはよかった



覚書 判断の傲慢
「普通並にできない」のは、人間の価値とは無関係である。「普通にやれる」ことは何ら創造ではないからである。「普通」を価値判断の基準にするのは傲慢な人間冒瀆である。普通でない積極的創造のみが価値あるものであり、この創造を中心に生きることが価値ある生なのである。「普通にできる」ことでは全く無い。「普通にできない」のは創造に集中しているからでありうるという忖度が普通にならなければならない。創造する者に凡人が「そんなこともできないで」と言うのは非創造者の傲慢な詭弁的自己弁護であるが、この凡庸の自己正当化、〈価値〉化が、社会規範原理となっていて、創造者も意識倒錯し、正当な自己評価を不当に足止めされてきた。もう欺瞞が暴かれるべきだ。
 苦悩しつつ作曲する深淵なベートーヴェンのテーブルには おもちゃが散乱していた。創造する者の自己バランスの保ち方は、平凡者の単純な一律思考が届く事象ではない。凡人ほど傲慢な輩は無い。何に真に謙虚になるべきかを知らない。
 所謂〈凡人〉とは 「自分自身」となっていない者のことである。ぼくは毫も所謂〈エリート〉主義者ではない



自画像 補筆
草花には草花の教養が、つまり美意識、イデアへの志向がある。命あるものはそういう根源的な愛を宿している。それが創造主の生物界法則によって修羅の場に織り重ねられている。だから、人間は一方では、生物自然界の可能なかぎりでの調和に配慮し、生物の霊に畏敬の念をもちながら(なぜならそれは純粋な愛を懐胎しているから)、もう一方では人間自身の純粋な魂の相関者であるイデア的な「神」を、万物も懐胎的にはそれへの志向をもつものとして、創造主の意志に反してでも「信仰」してゆかなければならない。なぜならそれは万物自身の懐胎的な「信仰」でもあるから。こうしてあらゆる存在者は、遠い、過去と未来に架け渡された「神」の祖先であると言い得るものである。この動的な二元論的二律背反性こそが、「信仰」の実践的エネルギーなのである。


品格 信仰と文化 801  

信仰のない者は例外なく悪である。これは昔の西欧人の偏見ではない。そのことをいま痛切に思う。信仰とは心の祭壇であり、教義ではない。イデア的に聖なるものへの感覚であり志向である。

心理学は案外役に立たないとぼくは直感する。だからヤスパースは心理学から哲学に移った。観察分析することと自らが真理探求することとは違う。このこともいま痛切に感じる。

現代の〈知識人〉と〈芸術家〉はよほどしっかりしないと、社会的特権を乱用して人間を悪方向へ誤導する。ネット世界の無秩序ぶり、規制以前の秩序(美醜)感覚崩壊ぶり、即ち無良識をみるだけでそれは明瞭である。信仰に基づかない行為が悪であることの証左そのもの。自由についての現今フランス人の履き違えを嘲(わら)えない。現代への破壊的反逆を非難できない(現代そのものが聖なるものを破壊している)。美と醜の区別がつかない。美醜の区別は倫理の基本である。それを破壊しているのだからぼくは現代に同情し得ない。

信仰とは 美の存在への信仰であり これに基づいて生き行為し この世を秩序づけることである。これが文化である。現代は技術による野蛮であり 文化の対極である。信仰がない(信仰を生きない)からである。

 なぜ、死ぬことを哲学者まで殊更に問題にするのか? 死ぬより問題な おそろしいことがある。人間の魂に、その痛みに、無感覚になること!!
 
 人間が「人間」であり得るかぎり、つまり魂であり得るかぎり、魂は死よりおそろしいものを実感する。生命からでなく魂から生じる実感。自分が魂である証を感じなくなること!!

 いまの〈知的指導層〉、学者・芸術者の、〈大衆文化〉語を躊躇いもなく口にする完全大衆化ぶりは何だ! どんな古典解釈も大衆並にしてしまう!その、耐えられない軽い存在性は、生活意識を反時代的なほどに根源から改めなければ、けっしてなおらず、本物を期待し得ない。





芸術作品と真の反省
真の芸術作品は、最も核心的な自己反省へと鑑賞者を強いる。
文字通り、自己との対話である。
これは先生の 芸術本質の定義でもあるが、先生の作品に面して まともな人間はおのずからこのことをなすことを、幾びとかにはからずも証言してもらった。
所謂反省と 真の反省との 区別を知ろう。
所謂反省は、過去の唯の否定に傾き、真の反省は、創造的改悛であるような自己肯定である。 傲慢であるような偽の謙虚と、自己尊厳への回帰であるような真の謙虚が、対応する。



821 根本態度
いま、知性者に必要なのは、世相の非文化から文化をひねりだすことではなく、文化の普遍的理念に照準を据えて自らその理念の具現に全身全霊を賭けることだ。私はそれ以外の意図でこの欄に取り組んでいないと、この理念の観点からは言える。同時に意図的に私はそれをやっているのでもない。私自身の魂を彫ることしかかんがえていないとも言えるのだ。私の個人的な欲求が、そのまま普遍的理念の具現をもめざすことになることを、私自身が直観していなければ、これを書かないであろう。文化は本来、誠実な魂の率直な告白以外のなにものでもない。その自己感覚そのものが普遍的なものを、理念を、孕んでいる。


ぼくは今日から、いままできみの欄の訪問欄に午前零時きっかりに毎日押印してきたことをやめる。そういうことをつづけていても、ぼくの信じるきみはほんとうによろこばないとぼくはおもうから。〔だけどね、これをつづけていることが きみと繫がっていることの証の行為のように思えて やはり可能なかぎりいまでもずっとつづけています。 9月1日〕

弦伴奏なしのきみのピアノ独奏動画がひとつしかないのはさみしすぎやしないだろうか。〔ほんとうにかけがえのないものになっている。〕


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おい、読者はぼくの欄とかこういうものを読んでおけ:

〈  www.gohki.com | 若き日の出会い: 〉

《私は「クールベが一番絵の具がしっかりついていて堅牢です。」といったら、武者小路さんは合点してクールベの画集を持ってきてくださったので二人で見た。》

《「とらわれずにやるのだね」という武者小路さんの言葉は「妥協してやるのだね」ではなかった。若い頃はそうもとれたが。
「善きにつけ、悪しきにつけ、他人に左右されず、自分の孤独な道を往くことだね」「無碍の道をゆくことだね」という意味だったと思っている。》

《私の青年時代に私が武者小路実篤翁からうけとった氏の人格は、今も私の精神と絵の中に、真面目な人間性から出た深い実在感のある色彩となって生きつづけているのである。》

遠藤剛熈
           


*** この武者小路氏のような歩みが、いまの時代、ぼく以外の読者の皆はできているだろうか。ぼくには 生まれついたように しっかりその感覚があるがね。12.17




263 フランスへ(手紙百四十六・ランス大聖堂薔薇窓)

ぼくのとらえた「深く沈潜する意志の力」(小論 I)を、先生は「その底のところでは(精神力が)非常に明瞭な無意志」としての自己委託力として表した。これが先生の「信仰」、〈自己に賭ける〉信仰の必然的なあり方であり、核なのだな。この人が同時に〈思想・芸術は自己が自己自身にたいする行動である〉と言う。いかにも、彫刻させ、記録させる同じ意志動機が、この「無意志」の根本動機であるものをめざして、帰仏の行動へと〈賭け〉させる。この静と動の振幅と同一性。




覚書 887 内面は「遠いもの」である ***

眼差しが内を向いているひとでなければならない。そうでなければぼくは美も感じなければ彫刻にしたいともおもわない。先生の彫刻をみているぼくにとって、現実の生きているひとで みられる表情というのはめったにない。ぼくはきみの像をやはりつくりたいな。きみのお母さんも きみだから絵に描こうとしたのだとおもうよ。観たかったなあ。

眼差しが内を向いているとは、魂の想念の世界に実質的に真面目に向き合っていることだ。それは表情にはっきりあらわれる。そういうひとが いまほんとうにひじょうにすくない。よほどおもしろいことに囲まれているらしい。

 何か真剣になれるものを持っているひとは、それが「自分自身のイデア」であっても、自分のことだけかんがえている人間ではない。そういう「自分」への愛に生きているひとは、〈自分のことだけ〉の人間ではない。そういうものを突破している。それはもう歴然としている。まず高田先生がいる。このひとの生き方 生き様がエゴイズムか。こう問えば 「エゴイズム」に通常とは別の異質に高い意味をかんがえる必要を気づくだろう。たいていは 主観的には真摯であろうが メタフィジックに直面するに至らない次元での逡巡を〈文学・芸術〉にしているように思える。



内面とは「遠いもの」であり、真面目にさせるようなものをもっている。外界は内面よりはるかに手前の近いところに留まっている。外界のおもしろいものに気が散っている みるに耐えない表情が多過ぎる。日頃の生活における意識のありようはすべて表情にあらわれる。空虚や自己満足が悦に入ってる表情ほどおぞましいものはない。ほんとうに真面目になれるものがあるか、この一点からすべての実質は形成されるとぼくはおもっている。この生活の芯になるものが おもしろおかしく営まれていることが、現在、学問でも芸術でも多いのではないか〔政治すらそうなのではないか〕。どうもぼくは以前からそう感じている。ぜったいに本物も感動も生まれない。
〔完全に同意 そのとおりだとおもう '15.12.17 〕

―12月17日はベートーヴェンの生誕洗礼日―



10月20日 朝昼夕 精神が 他の精神にふれうるのは…

「ひとり」の読者がいればよい。「大勢」ではなく。ということは、社会変革など いかにむなしいかということである、「人間」に関しては。ぼくは「自分」しかもとめていないのだから。そういう窮極の境に身を置くこと。

この欄は 魂が来て自由に汲める泉である


《精神が、他の精神にふれうるのは、それが生みだしたものを通して、いかにそれが現実と闘い、そのなかから自らの糧を汲みだしたかに注意するときだけだ》
 辻邦生「西欧の光の下」1961
彼もヤスパースとアランの「教養」をしっかり受け継いでいる。
 



覚書 彫刻の要求するもの 思想:魂の秩序 

体質的に敏感で感性が繊細であるが 同時にそれに即して立派にこれを客観視し組織的に統御し得るような緻密な内的意志としての知性が働いている。メーヌ・ド・ビランの哲学思想の特質そのものを語って 裕美さんの演奏創作の特徴を示す言葉となる。



高田博厚・森有正 重要文紹介



高田博厚「偉大な芸術家たち」2 記
・自分の内部の世界が外部の世界より重さを持ち秩序を持つようにならなければ 人間はけっして落着かない。「思想」(を持つ)とは ほんらいこのことである。
 この窮極に「神」が「実在する観念」として在る。
・「創作活動」にぼくの場はある。「自分自身を相手にする」ことのなかに。
 それに集中するかぎり、どこにいるかは問題ではない。
  創作とは 「別の世界」を告げること
〔これがビランの言う「内的人間」である〕



10月19日 先生月誕生日 魂と知性

あらためて言うけど、「魂」が伝わるには同時にどれだけ完璧に自分を統御し得なければならないか、その力が「知性」であることを、きみは、それを、繊細きわまりない配慮にみちた優しさとして、演奏の姿において ぼくたちにしめしてくれています。
- きみに捧げる入魂の言葉 -
Pour que l'âme se transmette, conbien on doit pouvoir se maîtriser parfaitement en même temps ; c’est cette force que l'intelligence : ce que tu nous fais reconnaître, toi dans cette figure de jouer où se trouve cette intelligence comme une tendresse pleine d'attentions extrêmement fines.



「この世のあらゆる書物も
 おまえに幸福をもたらしはしない。
 だが、書物はひそかに
 おまえをおまえ自身の中に立ち帰らせる。」

  Hermann Hesse

「私は、自分の中から独りで出て来ようとしたところのものを生きてみようと欲したに過ぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」

「すべての人間の生活は自分自身への道である。・・・いかなる人間もかつて完全に自分自身ではなかった。しかし、だれでも、そうなろうと努めている。」

「実際に生きている人間とは何か、それを今日の人々は確かに昔ほど知っていない。そのひとりひとり、自然の貴重な、ただ一度きりの試みであるような人間が、大勢弾丸に当って死んでいる。」

「利口なおしゃべりなんかまったく無価値だ。自分自身から離れるだけだ。」

「私にとって、自分自身に達するために自分が一生の間に成した歩みだけが 興味を惹くものである。」

  「デミアン」より




「立ち位置」の自覚確認


247 註釈 XII 自己委託・信仰(自分自身への手紙百三十三)



自画像大 「自分に向って」1000節目
男性でぼくより優しい人間はいない 自画像にその内側があらわれている
ぼくが冷たいと思うならそれはぼくの意識力による偽悪である
他の男性は 自分は優しいと主観的に思い込んでいるだけのナルシストでありその意識には実際は他者不在なのである。だから現実には本性から自己中心的な粗暴さ粗雑さが出て それが実相だと知られるのである。他の男性はぼくとは本性構造が反対なのである。ぼくのやさしさは押しつけがましい感情的な優しさではなく 相手に注意する知性からくる優しさであり だからぼくと一緒にいる女性は安心しきり 不安になることがけっしてない。この知性をもつ男性のみが相手の心を自由にする雰囲気をつくることができる。優しさとは知性のわざである。これは他者が攻撃してくるときぼくが抜き身の刀になることとまったく矛盾しない。





2014年12月のブログ|―高田博厚先生と共に― 古川信義の電子欄
ぼくのなかには、三つの関心のみがのこり、この三つの世界にいればよい。敬愛する男性と女性と自分。



Violet Dusk
あの完璧な演奏は 並の神経の使い方から生まれてくるものではないとぼくは確信している
 こんなに大人の緻密な知性と神経が感じられる演奏家が現在ほかにいるだろうか、そのレベルの高い気品とともに。 談話をし人前で装うときの彼女と全然次元の違う、大人の奥深さに充ちた彼女を納得してほしい。
 





855 覚書〔補筆〕 愛は個的全体への関心である

人は外見で内面を勝手に構想し悪人だと判断する。そういう独りよがりの念が飛び交っている。どうして、この人はこんなにしてるけどほんとはいい人で何かの理由でわざと(例えば)不親切の振りをしてるんだ、というふうに解さないのか。人間の判断を絶対だなどと思ってはけっしてならない。思い込みの強さに騙されてはならない。自分に関しても他人に関しても。
 人の構成する表象にけっして惑わされてはならない。ましてや自分で読み込んではならない。
 〈天の御使い達〉の判断も地上の人間の判断と同レベルである。そういうものの無責任な集積によって〈審判〉がくだされることの根本的な虚偽。〔こういう連中のために〈悪人〉がでたらめに作り出されて世界がおかしくなっている(ほんとうの悪人がいることをぼくは否定していない。それは積極的に悪を為す者だ)。勝手に他者を断罪する倫理主義者こそ、積極的悪人に次ぐ、或いはそれ以上の悪人だ。〈正義〉の名で積極的加害行為をなすのだから。〕
 〈他者の判断〉を権威化・神聖視してしまったら「人間」はおしまいである。〈安定〉を求める者はすべてこの罠にかかる。



ぼくの人生はいったい何だったんだ。



いまおもう。全体に関わろうとする愛に基づかないで、自分の関心のあるところだけを読む者のためにぼくは書いているのではない。愛とは、個別的全体への関心である。個別的全体(相手の存在全体)を知解しようとする意志であり、能力である。




(500) 「高貴なる意志」(意志と感覚の統合)

〈根本感覚〉と〈根本意志〉は「一つ」なのである。これは「自我」そのものの定義でもあるのではないか。自我とは何と具体的で実感的なものなのであろうか。それはそれ自体意志であると同時に感覚(美意識)でもあるかぎり、けっして抽象概念でも恣意的意欲でもない。或る〈秩序意識〉を持っており、しかもそれはきわめて〈美的志向〉なのである。このことをわれわれは自己実感に深く密着して了解しなければならない。

(505) 覚書 ( 母  /  無底の怒り / 健康ということ)



507 覚書(純粋の力)  中川一政「駒ケ岳」





この欄の理想
この欄の営為  アラン「デカルト」より 補筆
この欄を書く基本態度


魂感


2015年05月のブログ|―高田博厚先生と共に― 古川信義の電子欄
先生の生涯は、生きた 愛した 仕事した 思索・勉強した だろう。これいがいになにもなかった。ぼくは自分への自己同意として言っているのである。

品格 信仰と文化 801
ぼくは健常者よりはるかに文を苦心して、苦しんでつくっている。書き遺すのは今しかないといつも思いつつ。作曲できないはずの状態のベートーヴェンが(だからこそ自殺を一度ならずかんがえて)そこから創造を魂の力で引き出しているのと同じだ。〔どちらが凄惨か。ぼくのほうだと思っている。ぼくのようになったら彼はピアノも弾けず精緻な作曲もできない。〕 ぼくが書くすべては魂の証(実証)であり、それいがいのことなどぼくの情熱はかんがえたこともない。自分を一元化する実践なのだ。ここにすべては溶かし込まれる。そのためにぼくはいっさい意図などはたらかさない〔意図などはたらかしたら「神に面する」ことなどありえない〕。「あるがまま」は この一元化の方向性を、非意図的に、精神本能的に志向していなければ何の意味もない戯語である。すなわち、日本人には苦手らしい「己れの神」に臨む態度を感得しなければ、人生性そのものが成立しない。

談話か講話記録で森有正がこのように言っていたことを覚えていて、いま痛切に噛み締めている:「他者というものが いかに執拗に私達ひとりびとりの生活を注視しているか。しかもそれは愛によってではないのです。」 ・・・ 品位なき者どもはすべてこれの予備員だ。こういう連中の一人になるかいなか、いま決めたらどうだろう。
 この世界はけっして無意志な物理法則世界ではない。或る意志をもっており、この意志は一と同時に多であるような集合的な意志であり、・・・


覚書・書留 裕美さんのバイブル 679  
寝る前にふたつのことを書いておきたい。
バーネットの「小公女」のどこにもイエスやキリストの名さえ一度も出てこないが、あきらかにイエスと(マルタの)妹マリアの面影がカリスフォド氏と主人公サアラとの関係に投影されている。これはキリスト教の最も人間主義的な精神と信仰につらぬかれた物語であると思う。1905年に書かれたことを思うと、普遍的「教養」の確固とした精神を培うのに戦争の洗礼など必要なかった、戦争など要らない、と思う。サアラの救い主は隣りに居た。これは架空の奇蹟ではない。現実の奇蹟である。僕は知っている、それを ・・・。この書は裕美さんのバイブルである。ならば僕にとってもバイブルである。〈ならば〉に作為は無い。根源的必然を示す。世が外見に関わっているときに僕は存在の地下水脈で出会ったのだ。自ずとそうなった。これは「教養」のある者同士の出会いであって、・・・。この書は聖書と同等の価値がある。裕美さんの精神もキリスト教の精神によって培われている。稀な純粋さで。キリスト教徒か否かなど僕にも裕美さんにも訊く必要はない。ぼくには高田さんの生涯も聖書物語である。これを教義的に否む者は信仰にも愛にも無縁な者である。
 もうひとつは、イエスの祈りの最大のものは、創造主を愛の神と信じたことである。「祈り求めるものは既にかなえられたと信ぜよ」という原則をイエスは創造主に向けた。これが自ら神と人間の仲介者と任じた意味である。



《現代の人間は社会的、経済的、生理的諸条件に支配されて、個人としての自立性や人格の統一性を失いやすい存在だ・・・ 個人が個人の意識を超えた何ものかにたえず脅かされている》 「評伝 伊藤整」曾根博義(新潮文学アルバム)37頁.

 この状態を克服するものは独立的信仰によって己れの神への態度を内面的に見出すことのなかにしかない
 日本人の特性云々をもちだすのは、この近代的危機状態に屈する言い訳として機能する。
 所謂日本人特性は、集合無意識的容喙力に最も容易に呑み込まれるものである。




811 道程 いかなる目醒めへの?  天才 ぼくは世に曖昧に云われている「天才」という概念を否定した(前節)が、この概念を再定義することができる。ぼくの判断では、「天才」-天の才- には、ただひとつの本質的な意味があるだけである。「魂の天才」。「魂」の開示者、啓示者ということである。この「魂」はメタフィジックの境位にあるものでしかありえない。「人間」の形而上性を具体的に美的に証する者が「天才」なのである。本来的人間の実現者。それをこの欄でずっと言ってきている。真の「天才」とは何かを示すよう努力してきているのである(そのことに気づいた)。天才とは、魂を証するために、形而上的感覚に耳を澄ましみちびかれて、この動機のために努力集中を集積しうる者のことである。



875 覚書 裏づけが見えてきた 〔補〕 ぼくがこの欄で言ってきた根本は正しいということが様々裏づけられてきた。客観的に証拠立てるような次元ではなく、それは正しいだろうと得心できるということだ。ぼくはそういうことを主題にしたくないので、副次的事柄扱いにしかすぎぬが、霊界悪魔は存在し、それと共謀する生者どもがいるということだ。スプーン曲げと同じくらい非精神的でくだらぬことだが、これらが積極的悪意(破壊意志)を行使しているかぎり看過できない。やっかいなことだ。・・・ 裏社会の魑魅魍魎は霊界とつながっている。つまり霊力と科学技術力は今や結託しているということだ。このぼく自身の経験による感得は、いくらでも裏づけられるということだ。

本来の精神的なこと、魂的なことを展開しつづけることは、だから ますます重要なのである。言ったように、霊の力と魂の力とは、物質と精神がちがうようにちがうという自覚が、ある意味ですべてである。

要するに、〈悪魔の存在を抜きに陰謀論を調べても、いずれ袋小路にぶつかり、出口が見えない迷宮の中をさまようことになってしまう〉。
〈悪魔は、人間達を自分の下に従わせ、拝ませ、彼等を使って自分を頂点とする世界を創造しようとまで画策するようになっている〉。
〈そのような霊的存在が此の世に実際にいるのである。それを信じないで 陰謀論の全体はいつまでも正確に掴むことはできない〉。

この論にぼくは全面的に同意する。しかも まったく自分自身の経験からの断定として

社会のなかで社会に組み込まれて生きるということは、生きるために「人間」を犠牲にして悪魔に服従することである、と、社会組織に入る際に知らされるのだよね。その経験の強烈さのために、大方は、それが「おとなになる」ことだと自己説得するのだよね。形而上意識すなわち自己意識を堅持できない者はすべてそうなる。それが日本の特徴だから、「坊ちゃんでなければ純粋でありえない」などと社会通念されることになる。それにたいし 「西欧の理想主義者(イデアリスト)はもっと悲劇的だ」 と高田先生が指摘することになる。





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自分の言葉もすべて放棄してきみの開く宇宙に身を沈める幸福 耳まで涙で濡れたよ 嬰児のような純真な率直さと 聖母のような深い襞の幾重にもある配慮 思慮のある優しさとが きみのなかでひとつであるのは ぼくには宇宙の奇蹟だとおもわれる これが人間のすばらしさなのだよね




433 8月9日・文化・平和 / (コロー)   フランスの風土・雰囲気、そこに造られた文化物には、他にはない、不思議な、しかしそれ自体は明瞭な、わたしが、人間の魂をアペゼ(apaiser)する‐鎮まらせ平和にする‐ものと言いたい、無言の或るものがある。一見激情的、悲壮と思われる作品にもすべてこれがある。フランスに体質的な「グラース(優美)」と言ってよいものなのだろう。これは表面的な効果の底を抜けて瞬時に魂に達するものだ。フランス人が他と同様どんなに野蛮で罪悪なことをもやったにしても、その底に不断に在る人間理念のようなものだ。


Suite シチリア タオルミーナ・エトナ山・神殿 606


 想像とは、一般的に言っても記憶を意志が加工することだ。記憶にもとづかない想像はない。しかもこの想像は記憶から指示を受けている、美を志向する想像であるかぎりは。効果狙いでないかぎり、恣意的な美というものはありえないのだ。ここは美の偽りと真実のものすごく大事な分岐点だね。現代人は絶望的なほどにこの自覚を忘却している。美の前での謙虚さという宗教的なものを想起しないかぎりけっして魂の真実に立ち返れない。美こそは魂のふるさとに直結するのだ。
 ふるさとってどこにあるんだろう。ぼくたちの内部の感覚のみが羅針盤になる。
 
 ぼくはいまあらためてはっきり感じた、思想を求める努力、ぼくは思想を求めているんだけど、それは宗教家が神を求める全魂を挙げての努力とちっとも違わない。いや同じことなんだ。思想を求めることは神を求めること。この瞬間ものすごく明瞭に得心した。思想には人間のすべてが注ぎ込まれる。思想の真実性そのものがそれを要求する。究極において思想が神の自己証明となることは当然なんだ。そういう思想のみが本当だ。ぼくは自分を求める殆ど本能的な思索反省において、必然的に神に差し向けられている。





(759) 性格  // 「恥」の意識 | 寺田政明さん

小学生の時からなのだけれど、ぼくは、ある事象に意識が向くと、そこから容易に意識を引き離せなくて苦労する。倉田百三が、心のなかで数をかぞえ始めると、やめようと思ってもやめることができなくて心が地獄の苦しみになるという自分の経験を記しているが、それと似た気質だろう。これはまったく精神的な素質なのか、身体的な素質なのか、本人にもわからない。ぼくは、身体が破壊されても、思考力があるかぎり、この性格(気質)は残っているようだ。倉田がそこからの解脱をもとめて禅や宗教に接近していった精神経路は、ぼくもぼく固有の仕方でたどった。一般に神経質とか神経衰弱とか、言うのであろうが、いかに適当な呼び名であっても、これは精神病とは根本的に違い、本人も周囲もそう認めていることは、彼の場合もぼくの場合も同様だ。森田正馬博士という、いまとなっては懐かしい名前だが、その本に二十歳前後の頃お世話になった。ぼくはそこから、より充実した生を求めてヤスパースの思想に共鳴し、勉強に集中すること自体によって、この粘着気質そのものを活かす方向で〈解脱〉していった。とまれ、博士によると、この種の神経質者は、「生きようとする意志」が強すぎるから、「完璧主義」すぎるから、そういう〈症状〉を呈するのだという。心根が誠実・堅実であり、負のスパイラルを積極的方向へ克服できれば、社会でも信頼される有為の人間になりうるのだという。これをもっても、破壊的な病気の類では全然ないことはあきらかだ。ぼくも当時、これで自殺なんて一瞬も一度もかんがえなかった。強すぎる生への意志をもって生きることしかかんがえなかった。まあしかし余計な気苦労が多い性格とはいえる。いまも、こういうことでむかしのように祈るのもめんどうなので、おまじないの言葉でやりすごしている。
〔上に書いたことは、現在の異常な状態・状況を齎している要因とはまったく関係無い、「正常」な昔の時代以来のことである。〕


寺田政明さんの作品に久しぶりに接した。人間性に安心する。このくらいの作者がいつもいてもらわなくては。いいなあ。

 
 
 


企業は社会における文化的使命を自覚せよ ・ Suite「生きる意識」





10月18日 朝昼 イデア信仰の必然 

世の様相をみていると、いろいろ思うことがあるが、こらえるかぎりで、美しいことのみ実現してゆくつもりだ。

物事との関係を恋愛としてでなければ生きられない人間がいる、ということを森有正は、自分のこととして言っている。あることに関心をもつと 関心をもっているかぎりはそのことしかかんがえられなくなってしまう、ということである。人間であると学問であるとを問わない。あるいみでこれは人間として当然の自然なことではないか。真にかんがえるとはそういうことである。理解の条件。ぼくもそうしてきた。体が十全だったらもっと徹底してそうしただろう。

緑と橙の宇宙です・・・

甘い香水の芳しい空気が漂っています

人間は美を想起的にのみ経験する。経験そのものが「美が来たその先」を志向しているのだ。これが我々の精神が「イデア」を求める根源的普遍的な必然的契機だろう。「信仰」は〈「人間」であること〉にとって必然的である。








510 感想(芸術の幸福)
紹介した高田博厚と中川一政の作品を並べみていると、ぼくの志向(嗜好)する両極がみごとにあらわれているのを感じる。この両作品を紹介できたことはひじょうな満足である。両者とも唯一無二の個性であるが、作品から、芸術家であることの幸福を感じる。白樺派の縁でふたりはこだわりのない対等な「親友」同士であったことが、両者の著作における各々への言及によって知られる。其々の仕方で「世間」を超えていた。「人間」とはこれなのである。



449 訓 ・ 信 ・ 〈愛自者〉 
哲学者が文字(原義)通り「知を愛する者」、即ち、何よりも普遍的な認識を求める者を意味するならば、私は哲学者と呼べない。私は何よりも自分を恋しく思う者、自分を求める者だからだ。元々そうであり、字義通りの「哲学」の精神に取り付かれた時期も長くあったが、自分で意識して決断し、そこから脱した。所謂「普遍知」は、私にとって、私自身を探求し語る〈中で〉問題にされてこそ、その本来の人間的均衡性において論じ思惟され得るものと思われる。そのような意味では、「愛知」そのものが人間的迷いの一段階と見做されるものと思っている。なるほど「汝自身を知れ」がソクラテスの根源的主張とされている。・・・ 文字通り「自分を知る」ことに賭けるのであれば、「愛知」ではなく「愛自」である。僕は〈愛自者〉となろう。それは哲学者であるよりも〈芸術者〉である。本来の自分自身を求める営為の〈中で〉こそ、普遍知は実質的な本来の重さにおいて問われ得る。この大事な根本態度を自覚的にしてくれたことを、僕は最初期において森有正に、それに続き今に至る迄、そしてこれからも高田博厚先生に感謝する。最初期、森氏の「経験無くして観念無し」の思想は僕にとって決定的に本質的な、己れの精神態度を実に方向転換させる内面的事件だった。そして人間の本来的自己たる〈実存〉を自覚的に中心問題としたヤスパースの哲学は、僕の志向する哲学の在り方に唯一適うものであった。これは、客観知自体に偏向していた当時のドイツ哲学に根本的な質的変化を齎すものであり、その徹底した誠実さの自己展開というべき哲学思想に僕は、学者の思想としては唯一真剣な感銘を受けていた。ただ彼も「人間」を主題としても哲学者であり、「実存」を中心原理とした普遍的哲学知を構想するに及んで、一種の先祖返りのような態度を顕してきた。そのような「普遍知」の探求に彼が専心してきた様子に、僕は、これ以上彼に付き合うと〈自分〉を失うと気づいた。自分を求め生きるために、この「実存の哲学」そのものを謂わば〈実存への愛〉のために「突破(ドゥルッヒブルーフ)」する決断をした。その具体的行動が、ドイツ風土への幻滅とフランスへの感動という、僕の内的方向決断と重なった、両国の対照的経験に後押しされた〈独仏国境越え〉だった。内的方向としては、ヤスパースの世界から高田さんの示した世界への突破だった。しかし僕は自分の状況から、フランス固有の哲学を地道に学ぶ道をとった。それが新たな精神の基礎固めであり、僕がフランスに滞在するのを許す唯一の現実の選択肢だった。

この〈愛自者〉の態度はこの欄を書く態度にも現れている。僕は事実的に〈発信〉しても、目的意識的には〈自分に向って〉しか書いていない。それが結果として〈発信〉にもなるという意識姿勢で書いている。これは本質的に重要な姿勢で、これからも変わりえないだろう。僕はただ自分の想念に形を見出し与える自分の喜びのために書いている。この態度が僕の「美意識」となって僕の書き方を規制している。この規制作用そのものが僕の内実ある自由をもたらしている。僕は僕の自由のためにこの欄を書いている。それを通してでなければ何も〈発信〉していない。すべては僕自身を語っており、書いていることのいっさいの意味はこの「僕自身」に収斂する。僕の欄を正しく読むためにはここに留意してほしい。







450 持ち場 





 
 


〔通常設置時場:2015-11-30 23:52:10〕