親切、思いやり、好意の行為、すべてのことは、結果がどう出るか分からない。
あらゆる行為は両刃の剣だ、賭けだ。
些細な事でも覚悟の無き事せぬように。
失敗からも学ぶ、それはその時の話、結果論。
作用には反作用、それはそうだろう。
それで、善には善、どうして解る?それが善だと、自分にとっても、相手にとっても。
相手も自分の状況と念を持っているんだよ、機械じゃないんだ。
法則に他律して無闇に自分の圏を譲りなさんな。
平和な時世!究極の油断!戦国の世なら寝首を掻かれるよ!
今だって!
僕は自分の魂を、自分の記憶と意志とを信じている。そして人間理念を信じている。この信は如何なる権威にでもなく僕の主体性にのみ懸っていることを自覚しているから、他者の自由に干渉しない。但し自分の信の自由とその哲学的根拠とに関しては、これを護る論陣を徹底的に張る。 匆々不一
普遍的な優しさと普遍的な厳しさは表裏である。
誇りと純粋を蔵しているような高慢は、卑俗に無限に勝る。卑俗で高慢なのは、対極にもならないおぞましいものである。
哲学者が文字(原義)通り「知を愛する者」、即ち、何よりも普遍的な認識を求める者を意味するならば、私は哲学者と呼べない。私は何よりも自分を恋しく思う者、自分を求める者だからだ。元々そうであり、字義通りの「哲学」の精神に取り付かれた時期も長くあったが、自分で意識して決断し、そこから脱した。所謂「普遍知」は、私にとって、私自身を探求し語る〈中で〉問題にされてこそ、その本来の人間的均衡性において論じ思惟され得るものと思われる。そのような意味では、「愛知」そのものが人間的迷いの一段階と見做されるものと思っている。なるほど「汝自身を知れ」がソクラテスの根源的主張とされている。しかしそれは普遍的絶対知を求めるために自分の無知を知ることに意味の重きが置かれている。文字通り「自分を知る」ことに賭けるのであれば、「愛知」ではなく「愛自」である。僕は〈愛自者〉となろう。それは哲学者であるよりも〈芸術者〉である。本来の自分自身を求める営為の〈中で〉こそ、普遍知は実質的な本来の重さにおいて問われ得る。この大事な根本態度を自覚的にしてくれたことを、僕は最初期において森有正に、それに続き今に至る迄、そしてこれからも高田博厚先生に感謝する。最初期、森氏の「経験無くして観念無し」の思想は僕にとって決定的に本質的な、己れの精神態度を実に方向転換させる内面的事件だった。そして人間の本来的自己たる〈実存〉を自覚的に中心問題としたヤスパースの哲学は、僕の志向する哲学の在り方に唯一適うものであった。これは、客観知自体に偏向していた当時のドイツ哲学に根本的な質的変化を齎すものであり、その徹底した誠実さの自己展開というべき哲学思想に僕は、学者の思想としては唯一真剣な感銘を受けていた。ただ彼も「人間」を主題としても哲学者であり、「実存」を中心原理とした普遍的哲学知を構想するに及んで、一種の先祖返りのような態度を顕してきた。そのような「普遍知」の探求に彼が専心してきた様子に、僕は、これ以上彼に付き合うと〈自分〉を失うと気づいた。自分を求め生きるために、この「実存の哲学」そのものを謂わば〈実存への愛〉のために「突破(ドゥルッヒブルーフ)」する決断をした。その具体的行動が、ドイツ風土への幻滅とフランスへの感動という、僕の内的方向決断と重なった、両国の対照的経験に後押しされた〈独仏国境越え〉だった。内的方向としては、ヤスパースの世界から高田さんの示した世界への突破だった。しかし僕は自分の状況から、フランス固有の哲学を地道に学ぶ道をとった。それが新たな精神の基礎固めであり、僕がフランスに滞在するのを許す唯一の現実の選択肢だった。
この〈愛自者〉の態度はこの欄を書く態度にも現れている。僕は事実的に〈発信〉しても、目的意識的には〈自分に向って〉しか書いていない。それが結果として〈発信〉にもなるという意識姿勢で書いている。これは本質的に重要な姿勢で、これからも変わりえないだろう。僕はただ自分の想念に形を見出し与える自分の喜びのために書いている。この態度が僕の「美意識」となって僕の書き方を規制している。この規制作用そのものが僕の内実ある自由をもたらしている。僕は僕の自由のためにこの欄を書いている。それを通してでなければ何も〈発信〉していない。すべては僕自身を語っており、書いていることのいっさいの意味はこの「僕自身」に収斂する。僕の欄を正しく読むためにはここに留意してほしい。
あらゆる行為は両刃の剣だ、賭けだ。
些細な事でも覚悟の無き事せぬように。
失敗からも学ぶ、それはその時の話、結果論。
作用には反作用、それはそうだろう。
それで、善には善、どうして解る?それが善だと、自分にとっても、相手にとっても。
相手も自分の状況と念を持っているんだよ、機械じゃないんだ。
法則に他律して無闇に自分の圏を譲りなさんな。
平和な時世!究極の油断!戦国の世なら寝首を掻かれるよ!
今だって!
僕は自分の魂を、自分の記憶と意志とを信じている。そして人間理念を信じている。この信は如何なる権威にでもなく僕の主体性にのみ懸っていることを自覚しているから、他者の自由に干渉しない。但し自分の信の自由とその哲学的根拠とに関しては、これを護る論陣を徹底的に張る。 匆々不一
普遍的な優しさと普遍的な厳しさは表裏である。
誇りと純粋を蔵しているような高慢は、卑俗に無限に勝る。卑俗で高慢なのは、対極にもならないおぞましいものである。
哲学者が文字(原義)通り「知を愛する者」、即ち、何よりも普遍的な認識を求める者を意味するならば、私は哲学者と呼べない。私は何よりも自分を恋しく思う者、自分を求める者だからだ。元々そうであり、字義通りの「哲学」の精神に取り付かれた時期も長くあったが、自分で意識して決断し、そこから脱した。所謂「普遍知」は、私にとって、私自身を探求し語る〈中で〉問題にされてこそ、その本来の人間的均衡性において論じ思惟され得るものと思われる。そのような意味では、「愛知」そのものが人間的迷いの一段階と見做されるものと思っている。なるほど「汝自身を知れ」がソクラテスの根源的主張とされている。しかしそれは普遍的絶対知を求めるために自分の無知を知ることに意味の重きが置かれている。文字通り「自分を知る」ことに賭けるのであれば、「愛知」ではなく「愛自」である。僕は〈愛自者〉となろう。それは哲学者であるよりも〈芸術者〉である。本来の自分自身を求める営為の〈中で〉こそ、普遍知は実質的な本来の重さにおいて問われ得る。この大事な根本態度を自覚的にしてくれたことを、僕は最初期において森有正に、それに続き今に至る迄、そしてこれからも高田博厚先生に感謝する。最初期、森氏の「経験無くして観念無し」の思想は僕にとって決定的に本質的な、己れの精神態度を実に方向転換させる内面的事件だった。そして人間の本来的自己たる〈実存〉を自覚的に中心問題としたヤスパースの哲学は、僕の志向する哲学の在り方に唯一適うものであった。これは、客観知自体に偏向していた当時のドイツ哲学に根本的な質的変化を齎すものであり、その徹底した誠実さの自己展開というべき哲学思想に僕は、学者の思想としては唯一真剣な感銘を受けていた。ただ彼も「人間」を主題としても哲学者であり、「実存」を中心原理とした普遍的哲学知を構想するに及んで、一種の先祖返りのような態度を顕してきた。そのような「普遍知」の探求に彼が専心してきた様子に、僕は、これ以上彼に付き合うと〈自分〉を失うと気づいた。自分を求め生きるために、この「実存の哲学」そのものを謂わば〈実存への愛〉のために「突破(ドゥルッヒブルーフ)」する決断をした。その具体的行動が、ドイツ風土への幻滅とフランスへの感動という、僕の内的方向決断と重なった、両国の対照的経験に後押しされた〈独仏国境越え〉だった。内的方向としては、ヤスパースの世界から高田さんの示した世界への突破だった。しかし僕は自分の状況から、フランス固有の哲学を地道に学ぶ道をとった。それが新たな精神の基礎固めであり、僕がフランスに滞在するのを許す唯一の現実の選択肢だった。
この〈愛自者〉の態度はこの欄を書く態度にも現れている。僕は事実的に〈発信〉しても、目的意識的には〈自分に向って〉しか書いていない。それが結果として〈発信〉にもなるという意識姿勢で書いている。これは本質的に重要な姿勢で、これからも変わりえないだろう。僕はただ自分の想念に形を見出し与える自分の喜びのために書いている。この態度が僕の「美意識」となって僕の書き方を規制している。この規制作用そのものが僕の内実ある自由をもたらしている。僕は僕の自由のためにこの欄を書いている。それを通してでなければ何も〈発信〉していない。すべては僕自身を語っており、書いていることのいっさいの意味はこの「僕自身」に収斂する。僕の欄を正しく読むためにはここに留意してほしい。