きょう朝9時です
ほぼ満開にちかいでしょうか
昨日半開だった蕾もこのようです
小蜂も寄ってきています
「ひとり」の読者がいればよい。「大勢」ではなく。ということは、社会変革など いかにむなしいかということである、「人間」に関しては。ぼくは「自分」しかもとめていないのだから。そういう窮極の境に身を置くこと。
この欄は 魂が来て自由に汲める泉である
昼
空気がうごくとよい香りが一面にただよいます・・・
いま自分の過去節を読み返した:
覚書 (愛の美・幸福の形) 564
(いまは番号をつけるのもやめている)
そのなかから:
《精神が、他の精神にふれうるのは、それが生みだしたものを通して、いかにそれが現実と闘い、そのなかから自らの糧を汲みだしたかに注意するときだけだ》
辻邦生「西欧の光の下」1961
彼もヤスパースとアランの「教養」をしっかり受け継いでいる。
夕
ものをつくるとは、自分と対象とが火花を発して触れ合うこと、ぼくにとって。誰に教えられたのでもない。写真もそうして撮っている。
きょうの最高傑作と思っている 夕1枚めの写真の全体をあらためて:
しかしそれにしてもみごとに咲いてくれたもんだなあ!!!
きみが好きだからぼくも好きになった
ずっときみのことばかり思っている