本当に自分を相手にしている者は少ない。そうして言われる〈エゴイズム〉はエゴイズム自体の偽善であろう。だから所謂エゴイズムなのである。自分を真に愛していないのだから。自分に本当に賭けていないのだから。自分に賭け、その方向に「神」を求めて自分を委ねる、それが本質的「芸術家」の道であり、高田が《西欧的エゴイズム即ち信仰》とよぶものであろう。西欧が人間主義的に求める「神」はそのような質を持っている。宗教的なルオーが自らの仕事の道において「神」を求めたとき、キリストの受難、人間への憐憫の文学的(そのような意味での宗教的)感情の表現欲求が出発点にあったとしても、その仕事の道においてやがて「表現」よりも「自らを委ねて自ら〈それ〉に近づいてゆく」道程の〈象徴〉の如き作品を産むに至った時、真の「宗教的ルオー」が生まれた。そのような先生の西欧精神理解(感得)をここで想起すべきだろう(高田「ルオー論」および拙著参照)。愛の理念、神のイデアが求めるものは、実在世界におけるその有無にかかわりなく、常に「犠牲」であり、「賭け」である。いかなる〈安全なもの〉でもない。「自分のために血を流す」ことの意味をいまこそ悟られるがよい。