人にはそれぞれ持ち場というものがある。その持ち場に徹することがほんとうは人の本来の姿なのだ。〈ほんとうは〉というのは、やむをえず自分の持ち場から離れて臨時的にやらねばならない行為が、時々はあるからで、それはその都度各々良識で判断すべき事柄である。正常な社会では各自の持ち場というものは自然と生まれ、あるいは与えられ、各々において自覚されてくる。それを内面的にも引き受けることにより、各自の生における「自己同一性」というものが培われてくる。その持ち場への内的自己集中・自己練磨が、己れを培う道そのものとなる。私がこのように言うことは、或る状況下の人々にとっては理想論に思えるであろうことは勿論承知している。ただ私は、人間本性のめざす自然な道として、そういう「持ち場に徹する」生という方向が、自覚されるであろう、と言っているのである。これは本来の「人の道」そのものであり、人間の生の「秩序」の根幹を成すべきものであろうと、私は思っている。善悪道徳は勿論基本であるが、私がここで言っている「道」、「自分の道」を各々自覚することも、それと共に、基本道徳(モラル)と言ってよい、言うべき、事柄だと私は判断している。社会の秩序なるものも、各々の持ち場意識とその徹底の、総和に他ならないことに、読者諸賢も異存はあるまい。そういう社会しか「人間」と調和しない。そういう秩序においては、たとえそれ自体は善き行為と見做しうる行為であっても、場合によっては各自の本来の道にとって文字通り「命取り」になることもある。こう言って私は少しも消極的生を弁明してはおらず、かえって積極的生を主張しているという確信がある。自分の事も出来ずに自己犠牲だ社会奉仕だと言うことの、そこから生じ得ることの結果論はともかく、それ自体の自己瞞着を、指摘する要もないだろう。善悪の判断に、自己への忠実・不忠実の判断が、加えられなければならない、ということだ。このことを痛切に経験しない者は余程迂闊に生きている。西欧では道徳的教科のなかで「死」を意識させる教育が為されているそうだが、私の言う「道」(持ち場)の意識を呼び醒ます教育が、人間と社会の総合的規範(道徳)の学びの中で行われてよいと思う。


最近やっと欄の「テーマ別」編成の操作を覚えたので、今迄の節を内容的に整理・分類している。「一覧」の通りである。読者の役に立てば幸いである。

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広島の土石流災害で、子供を救おうと、身動きのとれない父親からその子を受け取った救助隊員が、自然の力によってその子と共に殺された。子供の父親の胸中はいかばかりだろうか。人の命を救おうとしたのに当の子と共に自分の命も落した救助員の魂はどうだろうか。報道者はどう忖度しているのだろうか。自然は斯くの如しである。人間の心中を具体的に察する想像力があれば、馬鹿な大衆娯楽の有様は生じず、存在の深淵への眼差しを懐きつつも、それだからこそもっと落着いた人間生活がいとなまれているだろう。
 私の学生時代、講師をされていた或る優秀な論理学者が、自動車事故によって奥様を亡くし、御本人も知性活動が出来ない体になられた。同乗していて無事だった子供の娘さんは知人に預けられたと聞く。家族崩壊である。私はこの方の講義をとっており、よく知っていた。学外から来られていたが、その人間と実力を認めて頼んで来てもらっていたのだ。ところが最も彼を評価し招いた教授が、この不幸な事故を学生等との茶飲みの場での話にし(私も居た)、相当スピードを上げていたらしい、とか、彼は他人の悪口を言っていたからなあ、とか言って興じていた。囲む学生等(哲学専門の)もそれに応じて、自分もじつは車の運転で失敗し、と興じ笑い合うさまをみて、私は、何だこの連中はと心底あきれ軽蔑した。思わず、それにしても悲惨な事故だ、と言ってやったら、やっと、ああそれはそうだ、と言葉だけは返ってきたが、こういうのが抽象の世界に住んでいる人間実体である。こんな連中を夜郎自大と私が言うのは誇張でも何でもない。こいつらが哲学をやってどうなるというのだ。そんな精神で作った論文(しかも哲学の!)に何の意味がある?見え透いているじゃないか。勿論、こういう連中に、真摯なヤスパースへの本質的共感力などあるはずはなかった。お決まりのように〈深淵な〉ハイデガーを持ち上げ、ヤスパースに何様のつもりか〈情け〉をかけつつ〈二流だ〉と言う者ばかり。馬鹿野郎!こちらは勉強のために強いて居てやってるだけだ。私は孤独だった。
 〈学〉の有る無しは「教養」とは無関係という話である。