一極に主観の意識の世界が、もう一極に客観の情感の世界がある。いま、こういうふうにしか表現できない。どちらか一極に閉じ籠れば、その世界の論理は なかなか説得力がある。しかしじつはどちらも、ありのままの人間の生世界の、他極の忘却むしろ抽象(捨象)によって成っているのである。そういうことを思想家自身がわからなくなってしまっており、その思想を受け取る側も、陶酔的に その忘却・抽象(捨象)を意識しなくなっている。それが、西欧と日本の思想的対立齟齬のように論じられる。真実は、人間はそれほどただ意識的にも、ただ情緒的にも生きられない。素直に創造的に生きようとするかぎり、意識的自律も情緒的他律も、その底に向って超えられている。ぼくがずっと、高田先生の精神に沿って開示しようとしてきているのは、そういう境位であり、そこにおいて「自己」も「神」も了解されるのだ。この根源的な域に繰り返し立ち戻らせるのが美と愛と魂の経験であり、創造的行為の実践経験である。

〔ここでヤスパースの包括者の諸様態論を想起した。包括者の各々の様態は、自己絶対化して己れが存在のすべてだと見做したがる。超在、実存、世界、現存在、意識一般、精神、すべて己れだけで存在として自己完結したがる。彼の包括者論は、相互に還元不可能な包括者の諸様態各々の原理的独立性と、同時に事実的相互依存性とを、確認し、「本来的現実」を包括者のあらゆる諸様態が謂わば一元的に結晶する境位においてのみ見出すよう、思惟操作的に訓練するものである。本来一なる存在である包括者が諸々の様態(die Weisen)へ分裂するのは、人間意識の「主観-客観-分裂」構造に原理的根拠がある。〕







( ぼくがここに書くことによってさえも、他者を触発することをこのまないので、ぼく自身が他からの触発経験を意識しないかぎり、本質的な自己に関することのみ書いてゆくつもりだ。)