しるしをもとめずに信じる者はさいわいである。これがあらゆる精神性の原点だろう。

なにかをつくっているときだけが否定的気分をわすれるからぼくは書く。人間はほんらいそうできているようだ。意志のオプティミズムは創造的であるかぎりにおいてである。意志するとは行動することである。自分に向って。これは誰の言葉だと言う必要はぼくの読者にはもうないだろう。思索、行動、信仰、創造、すべては一元化されてあるありかたにおいて真実である。デカルト、メーヌ・ド・ビラン、アラン、高田博厚、ぼく、のかんがえることはひとつなのである。精神の合理を自覚している。

人間は工作する存在である。造形する存在。形を得ようとする。分野が何であれ。工作することを本性的にこのむ。或いは、工作することをこのむ者、この意味での行動をこのむ者はさいわいである。ね、そうだよね。

「形」のなかに「自分」を籠めるよろこび。いや、これは結果としてそれを見出すのだ。これが芸術の根源だ。「触知し得るイデー」はまったく普遍的な根本思想である。人間の積極的ないとなみの根源を言っている。

この「実証」行為は「人間感情」を「存在」せしめる。「実存」とはこれである。それが可能なかぎりはそれに努める。可能なかぎりは・・・ その窮極に「もうひとつの言葉」を思念する

「実証」と「神秘」がもつれあう。アランとマルセルはその両極である。排除しあってなどいない。その両質の美しい統合を高田博厚の世界にみる。





自分の言葉もすべて放棄してきみの開く宇宙に身を沈める幸福 耳まで涙で濡れたよ 嬰児のような純真な率直さと 聖母のような深い襞の幾重にもある配慮 思慮のある優しさとが きみのなかでひとつであるのは ぼくには宇宙の奇蹟だとおもわれる これが人間のすばらしさなのだよね







8.13 2012

hiromi







森有正が CONSOLATION と DESOLATION がひとつのものとなる境位があることを言っていたと記憶している。コンソラシオンとデゾラシオン、「慰め」と「深いかなしみ」とがひとつである。発生的秩序は逆であったか、そうであったかもしれぬし、そうでなくともよい。メック夫人がチャイコフスキーの音楽で経験するものはそういうものであったかもしれぬ。
 なぜそうであるかは各々みずからの心に訊いてみるがよい。



最初にふれた「しるし」と、「実証」(証-あかし-)とは、もちろん違うとおもう。明晰に理解してみてください。




きみは独りでいるとき どんなふうに呟くの

どんな表情をしてるの ぼくはそれを知っている

すこしだけれども
それを隠すのも きみの優しさだということも






  



人生に真剣な者のみ人生の甘美を知る
ぼくの欄を訪れた者はそれに
気づくのでなければならない




悟り心を捨てよ