みな、裕美さんの演奏を、一音一音くっきりとていねいに(弾いている)という印象を言うようだが(ぼくもそうだったのだが)、結果としてたしかにそのような音づくりになっているけれども、裕美さん自身は、だいいちに、とてもゆたかな楽想を読みとることのできるひとであって、その楽想をピアノの音で表現しようとして、そのことに集中することによって自ずと彼女独特の手指さばき、鍵盤のあつかいかたに達した、といまぼくはおもうに到っている。鍵盤で立体的な楽想の世界を造形する、それが彼女の演奏趣旨なのだ。だから、彼女は、ひとなみはずれて「夢みるまなざし」を、「音の世界の天蓋を仰ぎみる」まなざしをしている。それは彼女の音楽づくりの本質構成次元なのであって、彼女の「天才」の核心領域なのだ。彼女の、楽曲の世界のイマージュをまず自分のこころのなかではぐくむ、イマジナシオン(想像力)のゆたかさ卓越さ、そしてその読みとった世界を忠実に鍵盤のあつかいかたによってレアリザシオン(実現)するにいたる、名画家の筆さばきにも比すべき手指の表現力、工夫力、これらが、一糸みだれぬ演奏の基本技術力の基礎の上で為されることによって、彼女の余人にできぬ立体的響きの音楽世界が生まれているのであり、彼女の独創性はここに遺憾なく感得される。その想念界を、ピアノという楽器の能力の限界を超えるかのような扱いかたで実現する彼女の、必然的に威厳と優雅が結婚したような手指さばきは、まさしく「神の手」のように神々しくみえる。これは物理的な技術力などを質的に超えた、神的な技であり、まさにこれこそ芸術の名に価する。彼女の「一音一音」は、完成されたギリシャ彫刻が隅々までくっきりと彫り込まれた造形体としてわれわれに無上の幸福感をあたえる、その立体作品の完璧さの謂いであり、ここにおいて彼女の音による彫刻は、すこしの細部の曖昧さ、輪郭のぼやけも本性的にありえない、その明晰判明性の本質のゆえに、無限の空間をみずからの内に香り高く包摂する真の彫刻と、まったく同質な「存在」なのである。彼女の本質である知性性は、まさにそのような古代ギリシャ、あるいは地中海の知性性と本質的に重なる、「人間」の幸福感の証であるような知性であると、いまぼくは感得するに至っている。地中海の愛と平和、それが彼女と彼女の音楽の本質だとぼくが言ったら、きみたちは目が覚めないだろうか。こうしてぼくはふたたび、彼女のおかげで、以前と比較にならぬほど深くゆたかになって、高田先生の「地中海」にもどってゆく。彫刻と音楽、これはともに「人間の真」に、一元的に直截に迫り、これを開示する力をもつ。彫刻が古代アルカイックの芳香に原形的・根源的に憧れるとしたら、古代の彼らはどういう音楽を聴いていたか不肖にしてわたしは知らないが、信念のように確信していることは、裕美さんの調べは、あの彫刻群をつくった彼らを、彼らが憧れていた愛と平和の音楽として魅了するだろう、ということだ。あるべき彫刻と音楽創造の方向をしめすものとして、その本質をこそ会得すべきものとして、ふたりの世界はわれわれがそれに向き合うべくわれわれの前に「存在」している。このことにもう気づいてよい。

彼女の音楽をこころのなかで想起しその響きを受けるだけでぼくのこころは愛と平和であふれる。「人間」を感覚する。どんなに感謝(ほかによびようがない)することか!













両陛下、今日までパラオ御訪問。戦没者へ白菊を手向けらる。