私は、高田には、創造主に帰依服従のみしている人間は遂に偽善者たるを免れないという人生経験があったと思う。創造主として思惟される存在、人はこれを普通素朴に神と呼ぶであろうが、人生は遂にこれを「死神」と呼ぶことを教える。高田と友誼厚く繰りかえし胸像となった武者小路実篤が、その入魂の作『愛と死』(一九三九)で証言しているように。それ、創造主は、遂に神ではなく「自然」なのである。高田は決して創造主、造物主としての神を求めていない。自然美を讃嘆しても自然崇拝を問題としない。高田の求める神は、創造主への反抗であるかのごとく、あくまでイデアとしての神であり、「人間、「人間の愛の投影としての神、《自我の投影なる「神」》(「自我の投影の「神」」一九六六、著作集第四巻)なのである。ここに、「全き放棄(
Renonciation totale)」、「全き服従(Sumission totale)」(「メモリアル」)を求めるパスカル的な「福音書の神」との深刻な亀裂があることは明らかである。

 しかし、たとえ、自然の、創造主の、「神性」を否定しても、ということはつまり、その「人間性」を否認しても、「愛」が「人間」に求めるものは変わらないであろう。愛ゆえにこそ生は魂に自己犠牲を求めることがあるであろう。自然が悪魔だとしても、人間の愛の理念すなわち神のイデーが自我に求めるものは変わらないだろう。そこで自己を選ぶか他者を選ぶかは、あくまで人間の意志に委ねられている。自己を存在とするか、他の一切を存在とするか、である。神の命(めい)はどちらにあるのか? 「信仰」の分岐点、分水嶺である。パスカル的賭けの意味はここにこそあり、どちらの方向に神を求め、「自己委託」するか、の問題である。「人間の愛」そのものの岐路である。「信仰」の問題に生涯慎重であった高田であるが、既に『薔薇窓』期に、「なにものかに自分を委託することとしての《信仰》に自覚的であった(『薔薇窓』第一部Ⅷ)。自ら入れられた戦争難民収容所で出会い、一生の忠実な友となったドイツ人フェルディナント・ライヘル――高田に、《「僕はあなたによって、人間というものを再発見しました。僕はあなたを一生の先生とします」》(同Ⅶ)と言ったという。高田の、自我への根本決断に基づく生は、同時にそれに共感共鳴するこのような友情の縁(えにし)によって、困難な状況の中まっとうされ得たと言いうる――に、自身の生の自己委託的根本態度を、《西欧的エゴイズム即ち信仰》(同Ⅷ)と言い表わしている高田の自覚はきわめて興味深い。とまれ、芸術の道に賭けた高田には、自我を選択することによって、この選択そのものを含めての自己にたいする「神の審判」を待つより、〈他にありようがなかった〉であろう。この〈不安〉を高田は終生持っていたであろうと私は思う。いずれ、高田自身に即して、この「最後の審判」の意味を私は再びとりあげるであろう。