2015-12-30 15:06:23


203 マルセルとイデアリスム(自分自身への手紙百十一)
ぼくが付け加えたいことは、彼が可能的・現実的な心霊的世界に「形而上的希望」を託したことに、まさにかの世界が応えることを、ぼくはかなりな不安を抱きつつ期待せざるをえない、ということである。かの世界は、ほんとうに「人間の理念からの信仰」(イデアリスムの信仰)に応えるようなものなのか、希望の空間は不安の空間と実はないまぜなのではないか。彼の霊媒体験の報告記そのものからも、このことが垣間見られると思うのである(死んで人格が変わった死者の報告等)。彼は「存在論的なもの」と「形而上的なもの」とをきわめてナイーヴに重ね合わせて思惟している印象を受けるが、いまのぼくにはそれは単純なことではないように思える。「真の愛は愛する者が永遠に存在することを欲しかつ断定する」という彼の思想はまぎれもなくイデアリストのものであり、ぼくはこれに全的に共鳴する。先生の師ロランの精神の恩人マルヴィーダの魂的信仰と同一であろう。マルセルの希望の思想は、謂わば実在的な次元からその可能性の空間を受けとりながら、根本においてはその空間に己れの「理念」と「意志」を果敢に投げ入れるものであり、そのようなものとして、まさしく不安の只中における希望の信仰である。全的に肯定的な意味での「人間主義」である。「存在の神秘」の中核にこれがある(だから神道に共感しても自然崇拝とはならないだろう)。
 
〔2016.1.3 : 「死んで人格が変わった死者の報告」は興味深いものである(「道程」の中に記録されている)。わたしとしてはそこでの死者と生者とのやりとりにたいするマルセル自身の反応の叙述こそ今興味深い。マルセルは、死者の言い分(創造主による措置にたいする弁護)にたいして居合わせた生者である女性が「そんなこと許せないわ!」と強く抗議したことに深い感銘をうけたことを記しているのである。他所でマルセルは繰り返し、当時のナチズムに少しでも加担した者達にたいしては「わたしはいささかの寛容も示さない」と確言していることと合わせると、マルセルはあきらかに、わたしの言葉で言う 「創造主に反抗しても愛の神の側に立つ」思想家、すなわち生粋のイデアリストであることを、わたしは微塵も疑わない。〕



リルケ「第一詩集」(Erste Gedichte, 1913)より 874 〔*Suite *〕
これがぼくの闘いだ:
あこがれに身をゆだね
あらゆる日々をとおして彷徨うこと。
それから、強くそして広大に、
幾千もの根筋をもって
深く生の中に食い込むこと―
そして苦しみをとおして
生から出て遠くへ熟すること、
遠く時(とき)から出て!

森有正、辻邦生、高田博厚、ぼくの私淑する精神者はみなこのリルケの「生きる理念」に自己の覚醒あるいは照応を経験している。ぼくもまたそうである。ゆえにいつかはこの詩を呈示したかった。ぼくの出発点にこの詩は「存在」しているのである。
 初心に戻ってリルケをいまはじめてしかし懐かしく読むように読みなおしたい。人生の状況はぼくの精神の状況ではないのだから

裕美さんが演奏録音した唯一の古典クラシック曲、バッハの Jesus, joy of man's desiring ・・・この誰でも聴き知っている曲が、彼女によってどんなに荘厳に精神的に弾かれるか、いまあらためて聴いてびっくりしている。・・・このバッハの一曲を聴くだけで、ぼくの言うことに強制的に納得するだろう。この一曲のために収録作品 Christmas Non-Stop Carol を一万額でも購入する価値がある。いまのクラシック奏者の誰も、このように堂々と神々しく力強い演奏はできないだろう!ほんとうにびっくりした。彼女は「信仰」をもっているとぼくはこの演奏で信じてしまう!これは本格的な感動であって、ぼくは彼女の精神性の力強さと奥深さに心底打たれた。

覚記 演奏と表現ということ 彼女のバッハの精神性
・・・ これを書いたあと、裕美さんのバッハ JESUS, JOY OF MAN'S DESIRING を聴き、あらためてその荘厳さ、力強い格調に満ちた精神性にびっくりした。ぼくもこよなく愛するZardの曲を弾いているのとは全然別の彼女が、しかもZard演奏から感じる彼女の本質(心ある繊細さと力強さ、完璧な構成力)そのままに、これこそ彼女の本当だと唸らされる威厳で(あの細い体躯のどこにこんな底力が!)、感動的に精神的な純正クラシックを聴かせてくれて、精神的尊敬でぼくは一杯になった。これでショパンやドビュッシーを弾いたら、その壮麗さダイナミックさは大変なものになるだろう!!! とおもわずぼくはいまかなり現実的に想像した。その演奏を予感できた。多分、誰も容易に想像できないような感動的で驚かせる個性溢れる演奏をわれわれは経験することになるだろう。馴染みの曲もはじめて聴くようにその真価がわかったと感動するだろう。それを彼女はいつも自分のためには弾いているのだ!どうして聴かせてくれないのか !!!
 ぼくは他者のための説明をこのまないが、ここで最後にぼくが言ったことは、「芸術はすべて自分と自分自身との対話である」という高田先生の言っている真実を、彼女が「自分独り」のうちにあまりに純粋に行なっていることへの讃嘆の表現なのである。





日本庶民と日本人 (731) 〔補〕 
本質的なものいがいはすべて一過性のものだ。持続するのは前者しかないことをぼくは知っているから、非本質的なものも状態によっては自分をたのしませることを禁じていない。持続しないからである。 本質的なものは、これこそ思想であって、精神の本能のごとくそれ自体で持続し深化展開する。ぼくは注意してその都度舵をとっていればよい。「思想とは自分の連続を見出すことである」とアランが言うのは、精神運命的にそうなのである。そのような思想・観念は、もはや絵空事ではなく、それ自体で「存在」を定義する。〈本質が存在〉であるというのはこのことである。同時に、そのような本質観念、つまり理念は、個を離れないが個を超えたイデアとみなされる。このようなイデアが真の存在として西欧伝統では確認されてきた。これがキリスト教的神であり、徹底的に自己思惟を通してのみ触れられる「人間の神」なのである。
〔これだけの文章、いま日本でぼくいがいの誰が本気で書ける?〕





きみへの手紙   追伸 「形而上的知性」 732(*) 
 あなたは、第三者にはつとめて謙虚な自己演出をしていらっしゃいますが、ほんとうはぼくに負けないくらい、音楽世界ではどんな大先生達にも対等な意識で対峙するほど、自信と自負に満ちていらっしゃるひとであることを、ぼくは感じています。
 それでいて真実にナイーヴで、どんな子供や動物とも対等にまごころから純粋に接するのです、自然にそうなのです。この両極があなたのなかで同時に生きているということ、それがあなたが真実得がたい本物の芸術者であることをしめしています。あなたは本質が真実なだけ、たやすく把握されるようなひとではないのです。ほんとうに優れた次元の高い人のみが、あなたの真実を直観することができるでしょう。それはあるいみぼくにもいえることかもしれません。教授連にとってぼくは容易に把握し難い存在として一目置かれていましたからね。





マルティネと(IV) 532 「高田博厚」の不朽性

テーマ:
(高田)「この社会の大動乱の中で、戦争の破壊よりももっと恐ろしいのは、個人がみな無くなってしまうことなのだ。僕はそれを見てきた。戦争が終ると、更におそろしい力が僕達を強いるだろう。僕はね、この戦争の五年間、絶望の中で自分の魂が何に耐えられ、どこで生きられるかをばかり考えていた……」
「僕はね、いままた小説を書いている。いま君に筋は話さない。けれどもこれは僕の君へのいちばん親密な答えになるだろう……。最後の小説の気で書いているんだ。題は、孤独な人間(ル・ソリテール)……」
 食後、彼と私は二階の書斎に昇った。小さな裸の部屋に書物と紙だけが積もっており、壁にただ、私達共通の友のシニャックやその他の画家の絵が掛っていた。隅の寝台に彼は臥って休んだ。
(高田)「僕達は彷徨する。その中でまちがいもする。けれども、たった一つたしかな、まちがわないことがあると思う。美しいものがあり、それを感じることのすばらしさ。これが僕達を信仰させるのだ。これは僕達にたしかに在る。どんな秤(はかり)にも掛けて重さを見ることを止した時にね……。僕はあなたの詩の中にそれを感じていた
「僕の詩集を出した時にも、だいぶ前に君はそう言ったね」
「そう。他のことを放棄しろとは言わなかったが、あなたの本当はあそこに現れている
それは、僕だけなのだ。僕だけがある日自分に解ることなのだ。絶望をくりかえして行って……。君、僕はいまそれを書いているのだよ。君が考えていたように、僕も考えていた。こいつは大したことだね
 十数年の年齢のちがいが、知らぬあいだに二人に無くなっていた。きわめて自然に私達は「お前、おれ(テュ・トワイエ)」で話していた。



_____

マルセルの戯曲にも比すべき魂の形而上的対話

同内容の殆ど重複するマルティネとの記録が『フランスから』「季節」 IV に収められている。中心的なくだり(高田の言)を特別に次に記す:
___

・・・皆が戦争を終ることを願っている。けれどもその後に来るものには誰も自信がない……
「僕は戦争と政治を心ならずも中に入って見てきた。見通しをきかれたら、僕も即座に返答できる。けれども、どちらが勝つか負けるか、それは問題ではなかった。この社会の大動乱の中で、もっと恐ろしいのは『個人』が皆無くなってしまうということなのだ。戦争になってから、僕はね、絶望の中で、自分の魂が何に耐えられ、どこで生きられるか、をばかり考えていた……」
・・・・・・
「僕達は彷徨する、限りもなく。彷徨は僕達だけでは終らない……。そしてその中で僕達は間違いもする……。けれどもね、たった一つ確かな、まちがわないことがあると思う。信仰と言ってしまうのは、僕はまだ嫌だ……いやまだ恐ろしい。自分の力を知らないから……。けれども、そういう一番確かな美しいもののあることを感じるすばらしさ。これは僕達にある。どんな秤(はかり)にも掛けて重さを見ることを止した時にね……。たとえば、僕はあなたに就て、あなたの詩の中に、それを感じていた……」

_____

「高田博厚」が不朽なのは、永遠の人間課題の証言であるからなのだ。いまこの現代においてこそそれを痛感する。

(文中傍線は勿論すべて私古川の責任である。籠めた意味を忖度されたい)





呈示 2015.12.31



31日夕刻

姫椿 雨雫

 




2016

アランとその師ラニョーの「名言」
テーマ:


「もし精神が異端でなかったら、精神には何の意味もない。」

「人は孤独のうち、沈黙のうち、事物のまえでのみ考える。人びとが社会のなかで考えるや否や、すべてが凡庸なものとなる。」

          アラン



「もし絶対なるものが、意識されるまえに、あらかじめわれわれのうちに、世界のなかに措定されないならば、われわれは個として存しえないであろう。われわれの存在の源泉である、個としての場でリアルなものはすべて、普遍的なものなのだ。」

          ラニョー


ぼくがずっと言い、実践してきたことである。


ぼくも:

皆、体よく或いは粗暴に自分のことしかかんがえていない。

「真に」自分のことをかんがえ生きている者のみが信頼しうる。


詩の泉 言葉にしえぬもの 
 ぼくは自分の存在そのものによって「詩」の意味を定義する。
 「個性」はその存立基盤として「普遍」を持っている。
 「いわゆる秩序なるものは内部にあるのであって外部にあるのではない」という言葉は「真」の大原則であることを繰り返し確かめる。
 真の詩人は此の世を美化もせず 落胆もしない。限界状況を見据えて、悪魔崇拝ではない「存在の暗号」を聴取する。「内面に向って開かれた窓」。
 「神は暴風のなかにではなく沈黙のなかで語る」とフランス・カトリック神学者ジャン・ギトンは言った。
 詩は思想を必要とする。思想の意味を解らねばならない。
 人間は神ではない。自分の真実を歩みつつ偽りなく神に近づくのは何という遠い道か! その距離を測ることができないことが〔却って〕希望である。
 此の世に信頼してはならない。林の中をゆく犀の如く独り歩め
  「ノスタルジア」の一情景
  フランク ニ短調交響曲 第二楽章
 詫びることも許すこともぼくに云わせれば誠実ではない。誠実とは言葉行為を超えたものである。言葉にしえぬものへぼくは決心したのだ。



432 クロード・ローラン(Claude Lorrain, 1600-1682)
中学の頃読み、ローランに憧れさせた原文を忠実に写した(「ゲーテとの対話」エッカーマン・秋山英夫訳 社会思想社 教養文庫)。同書には同頁に〈クロード・ロラン「港」〉の白黒複製画が収められている。この画ではないが、今この欄に、不完全な写りではあるが、手持の画集から、第一に心に止った一枚を紹介する。この絵のみならずどの絵を観てもやはりただならぬ精神の霊気が鮮烈である。「渚、日没」と訳しておく。―
 「ローラン」は高田先生の読みである。ルオーの師モローは、弟子がコローに傾倒するのに比し自らはローランを佳しとしたがコローを認めることを知っていた、と先生は「ルオー論」の中で述べている。わたしはこの話がとても好きだ。わたしの絵画愛は中学の時コローが点けてくれたからである。


624 随感 ・ 読者へ 〔~le 22〕
ヴァレリーの著名な詩を自分で訳すことは、自分の理解を現出させることそのものである。しかし他者の詩であるから、やはり自分の世界を造るために、この登山を早く終了させたい。それにしても彼の経験の結晶がずっしりしていて一足ひとあしが重たい。結晶の意味がはっきりしなければ訳せないのだから。数式の意味をかんがえるようにかんがえている。

集合容喙現象の本体は悪魔そのもので、絶対に反省しない、魂的価値の否定者であり、此の世の最も卑しい品性の人種達を手足として働かせる、あの世とこの世を貫いている力である。創造主そのものか、創造主が眠っていることをよいことに勝手をしている存在である。私の誇りは、こいつを殺すことである。

形而上的な想念は、われわれの日常の平和な想念のなかにみちみちているのだと思う。それを幼いときから知り、それになじんできた。クリスマスが近づくたびにそれを想う。とりちがえた誤りは、それを地上のものだと錯覚してきたこと。いまそれに気づく。通りを歩いているおろかな学童たちに未来を託することはできない。生まれながらに〈平等〉の発言権があると思い込んでいる者たちにも。ぼくが復活しなければこの世は闇である。 「人間」はこの世の光である。この世に抗わない者、妥協する者はすでに闇である。




信仰:人間の愛 * 哲学の定義

覚記 態度の確立:此の世の構造を侮ってはならず畏怖してもならない * フランスの魂

コンサート * ぼくの定位 

A Mon Dieu  

2016.1.7 偶成 | 「事実的」と「意識的」

裕美さんは自らの生活と音楽行為において「事実的に」神に面しているひとであるとぼくは信じている。真に魂を打つ芸術が 事実的に神に面する精神態度において生まれるのは必然である。

ぼくが神に面するのは、高田博厚の精神に覚醒させられた自分の生活と思索において「意識的に」なのである。魂美の証としての思想を求めるかぎり意識的となるのは必然的である。

ぼくは意識的に神を求める道において唯一正しい道を歩んでいるという確信は、創造実践において事実的に神に面していることを証する作品を生むひとの前で頭を下げる。

ぼくの路

Suite 愛とは純粋さでしかありえない

きみは余計なことは何も言わず書かず普通にしていながら、知性と意志は感覚とともにすごく高い次元にあるひとであることをぼくはものすごく実感します。このことは感じないほうがおかしいのです
演奏できみがどれだけ苦心して集中しているか!なのに聴く側がどれほど散漫で注意力が欠けているか、きみが実際に表現しているものがどれだけ深い心情の世界か、そういうことをきみを聴きながら感知するたびにぼくはいつも愕然とします。ぼくはおもうのだけど ほとんどの人はね、いま、きみの居るような世界に住んでいないのです。そうぼくはおもっています。やかましい騒音音楽を聞いている人々が きみの表している世界に沈めるとはぼくはおもっていないのです。きみもやはり、「文化は少数者がつくる」という言葉をぼくに噛みしめさせるひとなのです。純粋さが いかに深い奥のある世界か、きみがぼくに感知させてくれるのはこのことであり、ぼくはきみの「深い純粋さ」の前に頭を垂れます。
きみは、平和に貢献するというよりも、平和が何かをおしえてくれるひとなのです






何故 「日本は一般国民に冷たい社会」 なのか 872

日本研究者は、日本への愛着のあまり「伝統」を追認するだけで、日本への批判的視点を自分で培うことをしない者が多い。そういう視点は西洋から得られるというのか。自分の「人間」から得られるのである。

「文化」とは、「人間」が「自然」に反逆することであって、同意したり「自然」を追認または慨嘆したりすることではない。ぼくは〈自然にたいする人間の支配欲〉のことを言っているのではない。そうではなく 「人間」を護ることなのである。




510 感想(芸術の幸福)
〈独り立ち〉した言葉によって謙虚を説いても傲慢の一形態でしかない。「対象」の前に立て、そうすれば直観状態の離れた近似語にすぎぬ謙虚という観念もその瞬間は消えるであろう。言葉はその分を弁え、自己主張すべきではない。だからわたしは繰りかえし言っている、「もの」を示せ、と。言葉はその本来の位置である「もの」との密着において意味と生命を得る。「自分の生」を語れということである。謙虚とはこの「当体」への密着以外のことを意味しない。
 
ここから結論されることは、「美」とは第一(最初)に「存在するもの」であるということである。「精神」は「ものの美」のなかに具現されて「当体」となる。このような言葉と思索の第一の基盤、美は、ものは、「存在」する。これが人間の精神にとって「存在」の定義であり、抽象的な〈物質〉なるものは存在の名に値しない。この意識はデカルトからベルクソンへ至る存在論の基礎態度に重なる。フランス精神がきわめて美的なのは、精神を理解・表現する際も、精神を「存在する〈もの〉」のうちに表現するからだろう。



報告 〔附加〕
 438 魂美・人間の可能性
 175 書くこと(自分自身への手紙百三)




à vous     (sans numéro)  

l'amour me naît et déborde du coeur
chaque fois que j'écoute votre musique,
avec mes larmes qui en témoignent,
et qui vous parlent de la choisir
par préférence à toute la terre.


あなたに

あなたの音楽を聴くたびに
こころに愛が生まれ溢れます
それを証する涙とともに
この涙は言うのです
全地球よりあなたの世界を選びますと








おやすみなさい (740)
 
きょうは遅くなったけれどもきみの演奏を聴きました。指の動きがきょうは体感的によく感じられた(知覚できた)ようにおもいます。いまさらながらきみはほんとうに、ほんとのいみで頭がよいひとだと感じてうれしかった。この「頭がよい」というのは、精神的というのとおなじいみです。なかなかいないのです、そういうひとは。 もう寝ますね。寝るべき時間帯に寝なければ知力も感受力も本来ではないみたいです。それでもいまきみをよく感じられました。 では、また。


 

 起きてきちゃった。薬のまなくちゃ眠れない体になっていることわすれてました。いま飲みました。それでは。




仔猫のこと  586  
太郎君は僕がはじめて世話した仔猫ではない。その前に、風邪で死なせてしまった兄さん仔猫(やはり外猫)がいた。殆ど白くてとても可愛く、人を恐れずよくなついた。それが裏目に出て人から風邪をうつされた。ちかくのペットショップで獣医を尋ねたが、一番近い看板が出ている所は勧められないからと、遠くの獣医を勧められた。〈彼〉を袋(バッグ)に入れてバスで遠出をした。ニャンニャン鳴くので臨席の人が「見せて、わあ可愛い!」「どうしたの? 外猫! 風邪で獣医に?・・ 幸せな猫ちゃんだ」。その最後の皮肉っぽい言葉を〈彼〉は解さなくて仕合せだった。代りに僕が傷ついた。何でそんなこと言われなくちゃならないの? いきなり一般化するけど、日本人は本当にこういう心性を改めなくてはならない。生ける存在は幸福であってよいのだ。誰に遠慮するのだ? 生きていることが苦しいのに! だからルノワールの言うように、人を幸福にさせる絵を描こう。辻邦生氏が常に強調していた、自分の生を享受するのに他人に何の気兼ねも要らないことを忘れないように、と。結局〈彼〉を死なせてしまった。新しく産れた兄弟が人に踏まれて骨折した時、今度こそは助けるんだと思った。近い獣医に連れていった。とても立派な医師だった! 僕は太郎君を術後僕の借り部屋で自宅入院させ一切の世話をすることになる。びっこは残ったが数か月後に元の草叢に解放することが出来た(そこは安心な場所なので大丈夫)。その間の思い出は僕の財産になった。




高田博厚と高橋元吉  625  

「あるがまま」とは何だろうか。人間が意識をもつゆえに、人間は即自と対自の間を運動する存在である。「あるがまま」とは、対自を排した即自なら、人間には不可能で不自然である。それは意識的に動物となることである。「本来的在り方」は、即自と対自を全人格的に運動する果てに達せられる「本来的自己」である。


外的情景と内的感性がこれほど気取りなく純粋に素直に表出された〈詩〉、多分自らが詩であることをも意識しない境位で成った詩がほかにそれほどあるだろうかという思いがする。思想と感覚の分裂齟齬がない、清冽に一元的だ、とも言えそうである。高田の印象評の言葉がここで既に実証されている、とわたしは断じたい。ふたりに共通している〈魂の原質〉をこの詩は証していると思う。思想以前の思想、イデアリストの本性である。





きみのために
他者の〈評価〉への配慮は全部捨てた
これはぼくの告白であり同時にぼくの生の記録なのだ
ぼくがぼく自身になってきた そして完全に〈発信〉ではなくなった 自分のために きみのために 書くだけなのだ





86 自分自身への手紙六十三(アネクドート・ロシア)
いつも疲弊している。わたしの身に起ったようなことは決して起ってはならないことだ。人ひとり傷つけたこともない人間の死刑判決とはいったいどういうことか。悪は絶対的に「判決」した側にある。それがどういう存在であろうとも。法律的死刑囚でも身体の健康は配慮される。健康を全うして独房で勉強・瞑想に集中出来ているほうが仕合せである。もう死ぬだけだと思っていたのが、また一年生きた、もう一年生きるだろうか、という気持で生きていて、毎日が重たく苦しい。計画的集中などできないが、それが却って、作為性(本来あってはならない)など全くない創造行為を生むことにもなろう。それに自分を委ね、結果として自ずと形を成してくるものの積み重ねのなかに「真」を観よう。そういう意識を保って書いている。そういうことでなら(そういう「方法」でなら)わたしには書きたいことはいくらもある。その都度の判断、文章形成は、今の状況でのわたしの自律的精神の勝利の一歩一歩であるが、読者はそういう状況をよく心得つつ読んでほしい。形而上的本質瞑想に集中するときでも、わたしの心は同時に形而上的怒りに煮えたぎっている。「存在への怒り」だ。(「言葉」で解決しようとする「学者」の虚偽をわたしは知りぬいている。彼等が魂になりきることはない。彼等はヨブ記の神によって永遠に断罪されている。そういう意味ではわたしは学者ではない。)



87 自分自身への手紙六十四(アネクドート・続)
息抜きがロシアの映像作品を観ることであるが、ささやかな範囲である。タルコフスキーの、大地に沈潜する瞑想性は、管見で、かれ独自の強い感受性によるものであろうと長く思っていた。しかし最近、かれの世界はロシアの空間の固有の独自性から生れているもののようだと思うようになった。ロシアそのものがタルコフスキー的なのであり、タルコフスキーそのものがロシア的だったのだ。ひとつの証左が、ぼくが幼いとき実母に連れられて観て夢の衝撃を受けた『チャイコフスキー』を思いがけず最近再び観ることができたことだ。同国同時期の作品だが、かれの世界と体質的感受性を共有している。同じ土壌からかれのものもこの別の作者の作品も生れたことがよくわかった。この場で特徴描写はしないが、ぼくの思うことは、ここに共通する人間精神表現が、なぜ、日本ではできないのだろうということだ。なぜなら、そこには普遍的な人間主題があるからだ。集中性の欠如か。日本では拡散してしまうのか、追求の持続性がみられず、あっても「味」におもねってしまう。この期になってやっとタルコフスキーの初期短編作品『ローラーとヴァイオリン』も観ることを得たが、かれの持続的主題が既に鮮烈に本能的に出ている。それはぼくの言葉で言えば「祈り」の境位だ。それが日本世間一般ではどうしても「実在性」を獲得しないのだろう、と思う。



765 地中海彫刻の音楽  

766 グラース  



「尊厳」に関する断定

孤独でない芸術者はありえない。創造そのものが孤独を要するから。孤独を知る(感覚する)者は「神」を知る(感覚する)者である。

彼女が孤独のひとであり「神」を知るひとであるのは当然である。「孤独の影」は 周囲がいくら消そうとしてもおのずから発せられている。「孤独」がなければ人間にはいかなる「尊厳」(DIGNITE)もない。「尊厳」が発しているのは「神」から、「神に面している人間」からだからである。「神」は「尊厳」の別名である。この感覚がない者はことごとく尊厳に欠けている。・・・ 「人生」に「神」をもてない者は「真の美」を知らない。「真の美」は「神」の別名なのである。

この言葉は彼女へのぼくの最大の讃辞のひとつである、同時に「ぼく自身」の自己実感を籠めたのである :
「真摯で潔癖でそれだけにひと知れず孤独なきみがこころを開いたときの慈悲そのものであるようなかがやく美しさをぼくは知っている」



ぼくの路の深展 | カラヤン讃 
アウグスティヌスは、罪さえもひとを神に近づける、と云ったと記憶している。自分にほんとうに孤独に面する内的感覚にとぼしい日本人には、そこにおける「神」の切実さはなかなか了解できないだろう。人間精神のすべてを思想でもいいかげんにすませている(わたしはそう思う)から。だから、個人がひとを愛することにおいて神の意識と葛藤を起こすというようなことも、ほとんどの同胞は感覚上縁がないとすら言える。わが国のひとびとが抱える人間問題はじつはその最深の淵源をこの意識の浅さに、神の感覚の欠如に、もっている。つまり、特殊文化の相対比較では問題に応えることにならない人間普遍の問題を、日本の社会伝統そのものがいいかげんにしていることが問題なのである。人間はけっして無条件に「無私」になどなれない。実践的な無私は、何かの為の無私なのである〔志のある処に自己はある。「無私」の真意は、この志において自己が自己自身に関わることであり、そのような自己そのもののなかで自己を相対化することである〕。一時的な無私であり、徳のように恒常化すべきものではない。日本の徳育はこれを恒常化する傾向がある。けっきょく、社会集団主義が人間を呑み込む構造になっている。「私」が肯定されなければ真の「神」は問題となってはこない。いま、まともな知性人は誰も日本をキリスト教化しようなどとはかんがえないだろう。ぼくがキリストの聖堂や聖像を愛するのは「普遍の神を求める感覚と意志」からであって、その「普遍的人間主義」の歴史における象徴美だからである。ぼくの言う「形而上的アンティミスム」の理念において自覚されている「神の探求」こそが真に正しいのであって、ぼくはこれを「意識的に」自覚していることにおいて現在日本で唯一の人間であろう、と言ったのである。創造行為において「事実的に」神と共に生きているひとについては、ぼくはそういうひとを感ずる感覚があると自分でおもっている。そういうひとの尊さを護ることがぼくの大きな必然欲求であることは一貫している。高田先生は思索者かつ芸術者として「意識的に」も「事実的に」も「神」と共にあった。ぼくはやがて同様にそうなりたいと念じている。さればこそ、ただ研究として「神に面する人間」を論究するヤスパース学徒であることを敢えて超出して、具体的感覚が豊饒な伝統をもつフランス圏で、「研究が同時に創造であるような」道の実現に賭けることを決断したのである。これが高田先生とマルセルを両極(むしろ両面)とする、ぼくにおける「形而上的アンティミスム」の路なのであって、ヤスパースの「実存の学問」を内実的に決定的に越える唯一の自覚された路なのである(だからヤスパースの思惟世界を経ない者はほんとうにぼくの意識はわからないのである)。そのような抱負と自負がぼくの思想理念には精神経験集積と感覚として深く重くあるのである。ぼくが真摯に生きてきた自分の歴史の全重量が掛かっている。この路はみずから「人間の愛」に生きなくてとてもゆけるものではない。ぼくの「魂の妻」である裕美さんをそのひとも世界も愛して共にこの「魂と神の路」をゆきたいとおもう。

予想しなかった深展をこの路においてした A Mon Dieu に告白した



 
きみに尊敬される夫になります



形而上的アンティミスムはぼくの道そのものの名である

これを承認する最大の権威者はぼく自身である(どんな障礙があろうとも)








652 書留(白昼に神を視る)



長谷川潔「窓辺の人形」







本質

本質を護るということのみが唯一の信仰である

本質は、主体が任意に選び得るような属性のことではなく、この選択行為そのものを主体に決断させる根拠である。つまり、本来的選択を自己同一的に決断し得るときに、主体は自らの根源的な自由を経験するが、そのとき同時に自覚されている「自分らしさ」こそ、その主体に固有な本質なのである。このような本質はその主体の「存在」と同一であり、この本質じたいが主体の固有な存在そのものなのである。愛するものの存在を欲するとは、愛するその固有の本質を「存在するもの」として断定することであり、本質こそ存在であると断ずる情熱である。「信仰」とはこれなのである。



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367 模造品の世界 (自分への手紙二二八)



(500) 「高貴なる意志」(意志と感覚の統合)



846 ぼくの自覚 (この世で最も信頼し得る人間であること)



ありがとう Suite (687)

ありがとう

気がついたら神戸モロゾフでした

きっと念で贈ってくださったのですね

きみへ
すこしあらたまった書き方になります。これはきみにかぎらず普遍的な人間問題になるものです。いまのぼくの状態に即した思いつきと受け取ってくださって結構です。きみにはどんな書き方をしても、「だいじょうぶ、心配しないで。」と言ってくれるきみであることを、ぼくは信じられます。自分の状態に押し出されるままに書きましょう。インディーズとよばれる最初の作品をふくめて、きみはいままで六つのアルバムを創造しておられます。すべてをぼくは極愛していますが、時期を追うと、きみの諸作品にも「発展」が感じられます。ぼくがすこし触れたいのは、創造行為におけるこの「発展」というものについてです。「発展」とは、洗練、分化(生命体の成長における細胞分裂による複雑化)、精緻化、華やかさの増大、規模拡大、などですが、とくに芸術において、芸術の本質が何であるかに思いを凝らすとき、本質的に正負両面を持っていることは認めなければならないでしょう。ぼくの欄の中心問題ですが、人間の「魂」を証(あかし)することが芸術の本質であると理解しますと、創造行為における「発展」が、一方で「表現」行為そのものの複雑高度化・意識化をもたらしながらも、他方で、表現する根源である「魂」から、その意識化(あるいは技巧化)のぶんだけ、ややもすると離れていってしまう、というプロセスが、人類の歴史そのものにおいて繰り返しみられます。例えば、あなたも仰ったアルカイック・スマイル(今年の動物である羊の表情にそれをあなたは感じていらっしゃった)を湛えた素朴直截な初期古代ギリシャ彫刻が、その後の円熟期の彫刻群より高く評価されるようになる、という、審美意識の〈非発展的〉な深化というものを、人はくりかえし経験します。個人の創造の歴史においてもそうです。創造行為の努力は、最初期の深い直接的に感じられる感動経験を、いかに深く究めるかに集中しながら、為されるべきものですが、しばしば、ともすれば様々な外部的条件のために、これに左右されると、最初の魂的な原点ともいうべきものを見失いがちになることが多いようです。あなたもよくご存じのことであり、これは一般的にみられることであって、あなたの芸術のことを申しているのではないことを、何度も念を押しておかなければなりません。すべてのあなたの作品にぼくは敬服しています。それに、ぼくはまったくの素人として、遅れ馳せながら、すこしでも芸術経験において深まりたいと念じている者にすぎません。しかも芸術経験は、ぼく自身のその時々の状態にとても影響されるものであることを自覚しています。そのような影響の靄(もや)を通して、ぼくにひとつだけ信念のようなものがあります。それは、あなたの最初の五曲組の作品のなかに、あなたの最も大事な魂の原点があらわれているということであり、繰り返しぼくの欄で触れてきました。ぼくが本質的に申したいのはこのことだけです。ぼくはあなたにご自分の芸術を深めていただきたい。それをあなたが発表されると否とにかかわらずです(勿論発表を期待しますが、それはあなた御自身の問題です)。そのためには、ご自分のほんとうにあなたらしい生活のリズムに沈潜されて、ご自分を見失わないようにされることがなによりです。ぼくは、あなたはいまそれを為していらっしゃるのだと深く信じています。あなたご自身がよく理解していらっしゃることばかりで、一気にぼくがいまここに書きましたことは、ほかの読者にとってこそ教訓や確認になることです。あなたにはただ親愛のあいさつをおくりたいのみです。その時その時に自分にできることをやろうという決心を、いまここでもぼくはやったにすぎません。落着いた状況で書いたのではありませんが、これはこれでいまでなければ書けないものとして観念して書きました。ことばづかいの至らないところはどうか御寛恕ください。一気に書いたもの殆どそのままです。これもぼくの生きている証なのですから。
お元気のように。

今朝庭に出て満開の白梅の木をみていましたら、ちょうど目白がつぎつぎに木に飛来して、五羽もとまりにぎやかでした。



覚書 896 みなさんへ 〔加筆〕 2015年10月初旬



高田博厚における「触知し得るイデー」十七 ・ 補遺









 





〔通常設置時場 2015-11-30 23:52:00 ; 2015-12-31 15:47:20 ; 2016-01-07 2016-01-10 〕