マスメディア出演の連中がどうしても芸術における「遊び」を肯定したがるが、背後で、根の無い連中が肯定したがっているのだろう。「デフォルメ」(破形・破型)が適語である。「破型」に至る内的必然的衝迫力の問題なのである。「遊び」という語が惹起する恣意性ではないのだ。よく覚えておけ。現在は偉大な「基準となる人々」(die Massgebenden)が芸術分野で不在なので、言いたいことが言われているだけである。
若きデカルトの表情は弱々しいほどの純なナイーヴさで しかも透明な透徹した意識が感ぜられ じつに好感がもてる。このままいってもよかったのである。彼はもともと詩人的文才が評価されており、「近代哲学の祖がこのような名文家であったことは幸運だった」と云われるが、「詩人デカルト」が生まれただろう。詩人ヴァレリーもおなじ精神経路を辿ったことを思う。〔そのカルテジアン ヴァレリーと、世界内部空間の詩人リルケとの、精神的邂逅を、感情移入的に了解してみたいとおもっている。〕
彼女の演奏の指づかいをみていると、技術的に相当な難曲に仕上がっている作品-よく創れたものだ-をじつに明晰に弾いているのがわかる。神の指が天女の舞うような凛とした神経で動いている―そのような演奏だからこそそれが実現できている。ぼくにとって いちばんの「知性の証」を感覚させてくれる。
愛と知性を直接経験させてくれる 現在得難いひとだ
今年は創造と休養をともに為さなければならない
ぼくには余人にはわからない事情がある 状況的にも状態的にも
どうやらほんとうに自然現象まで共時性の世界に組み込まれてわるふざけをしていることを客観的に認識したほうがよいようだ。不自然に符合しすぎる。さっきぼくはその決定的な経験をした。この事実に真面目でなくてはならない。科学者の眼をもって対峙する。倫理形而上的な想定をぼくはすでに対象から剥奪してやっている。ストリンドベルクは同様の経験をしたとヤスパースは報告しているが、それは彼の精神とは関係ない客観的な自然現象としてそうだったのである。そういう現象に倫理形而上的な想定なしで向き合うべきである。態度をしっかりとさせねばならない。此の世の構造を侮ってはならない。畏怖してもならない。
真の落ち着きを得るとはそういうことである。
1月4日 1時
主体的人間はかげをひそめ、悪霊がぼんやりしている人間達の魂の中に容喙してきている。これを客観的事実として認識しうる者が何人いるか。― これはもう当初からぼくが感知している事実だが、この事実に感情的になる必要はないのである。「自分」が大事なのである。科学者の眼をもって落ち着いて対峙すべきである。
現在 日本で ぼくいがいに誰もほんとうに「神」を求めてなどいないという意識をぼくは抱いている。誰もぼくのようには神を求めていないということである。ぼくいがいの神の求めかたはすべて誤りであるという確信をぼくはいだいている。ぼくは高田博厚が神を求めたようにぼく自身の根源から神を求めている。あとの者たちは神を議論し先駆して想定してかかっている。そのような仕方では神はけっして真に到達されない。この欄で全人格をあげてぼくは神に面している。
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自分の「感覚」と「経験」と「思想」が幹となるべきであって、それがあれば 「ヤスパースではこれにあたる」という言い方ができるはずだ。ヤスパースの観念に主体性をもってゆかれる、そういうことだから日本の学徒は何の創造的業績もあげられないのである。
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まったく別件であるが、きょう(4日)、「最近1週間 (12/28-1/3) の接続数 3,000 」というきっちりとした数がでているのに気づいた。それだけのことであるが、この桁でこういうまったく〈端数〉のない数がでるのも稀だろうと思い、記念にしるした。
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シャヴァンヌの絵に現在何かを感じている
主題や描かれているものには関係ない 本質的なもの
マルケと同じで、いまにして感じはじめている。こういうことはひじょうに興味深い
シャヴァンヌの場合、特定の作品でそれを示し難い。画面に現われているのだが特定しようとするとふっとにげてゆくような「聖なるもの」である
Pierre Puvis de Chavannes, 1824.12.14 - 1898.10.24 〔パンテオン、ソルボンヌ講堂、パリ市庁舎等の壁画を制作。これらはぼくも現地で観ている。〕
Le Recueillement
「ル・ルクイユマン:瞑想」
1867
「ル・ルクイユマン:瞑想」
1867
シャヴァンヌの「単一なるもの」にぼくは感じているのであって、敢えて例として呈示したこの画(画集から自ら作成)でも、主題を超えた本質にぼくの感覚は差し向けられている。「単一なるもの」とぼくが言ったものは同時に彼における「普遍的なるもの」である。
〔Recueillement は「集中すること・一つに集めること」が原義の仏語であり、(日常意識で散乱しがちな様々な思いや観念を凝集して反省あるいは神に向けて統一する)「瞑想行為」の意味となる。この語に表現されている内的行為をマルセルが哲学的にきわめて重視していることを、画の意味内実とは独立に付記しておく。〕
節「信仰:人間の愛」とこの節とでのぼくの二つの断定は 「神の探求」におけるぼくの両極的実感としてきわめて重要である
この節での断定は勇気の要ることであったがぼくには必要であった
自分の本気さを言い そこに自分を押し込めるためである
誰の神を求める自由もぼくは否定していない
同時にぼくと照応するほどの内実をもつことを暗に要請している
イエスもまた皆と離れて集中したではないか
事実はぼくよりも内実ゆたかに神に集中しているきみであることを祈る
〔事実的にそうであることと意識的にそうであることとをぼくは分けてかんがえている〕
5日1時
いま具体的には ローランとシャヴァンヌを想っているのだが、それにかぎらずフランス人の画家・芸術家達にそれぞれの個性においてみられる この魂の原形的なものと高度の知的洗練との統合が醸す神々しい清澄さ、人間を透過して感覚される神的なものは、いったい何なのであろうか。この「美質」はこれほどまでの普汎性においては他ではみられない。一般的な言葉で特徴づけることを意識的にやめて、この「美質」を実感するままに観想していたい。
魂が知性によって衒学化されず ますますその原初的純粋さを感覚にもたらすフランス風土、その精神のありようを知るべきだ
高橋元吉碑
高田先生の制作
この虚飾を完全に去った簡素の極を諸君はどう感じるか
文学の故里(ふるさと)である
元吉研究者 梁瀬和男氏よりいただいた貴重な元吉の遺品というべきものをわたしはもっている
そのうち御紹介する
数々の方々に御無沙汰致している
この場で懺悔申し上げる
5日午後6時
高田先生の制作
この虚飾を完全に去った簡素の極を諸君はどう感じるか
文学の故里(ふるさと)である
元吉研究者 梁瀬和男氏よりいただいた貴重な元吉の遺品というべきものをわたしはもっている
そのうち御紹介する
数々の方々に御無沙汰致している
この場で懺悔申し上げる
5日午後6時
きみの演奏はきみの心の籠った息づかいをあまりに直に伝えるから
聴くたびにきみを愛さずにいられない
比較はあらゆる魂の純粋状態に反する
評価できない者は黙って去るべきだ
そのような仕組を作るべし