「凡人」「俗人」使いたくない語だ。よほど機嫌がわるいのだろう、そういう語を使う時というのは。怒りの方便語だ。一人の凡人俗人もいない。人間理念に反する不当な架空観念、そんなこと解りきっていることだ。ラスコーリニコフでない限り持続はしない。
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「美」はたしかに統一を求める。統一を求める意識が働いている時、それが美意識だと解る。美の実体は「統一」である。「統一」とは何か。それはいまぼくが抱いているところのものである。説明の前に感じ意識しているところのものである。それは既に抱かれている規範の意識である。この意味での秩序のない美というものはない。これは経験が教えるようなものではない。自分のなかで懐かれているものだ。自分の魂の感触そのものだ。魂は自らの圏を持ち統一しているものだ。球のようなものだ。ギリシャ人にとって宇宙(コスモス)は有限な球体であった。これはその発想の源の美意識をかんがえる時、正しい観念だ。魂は有限であるか、無限であるか、という問い自体は抽象論であり、それ以前に美意識がある。この美意識が、自らの志向する当体を表現する時、どの言葉(概念)を使うかという問題だ。ぼくは、有限な、つまり何処かで他と区切られた、しかもそれ自体で完全な、つまり球体的なもののイマージュ(イメージ)を抱くのが、正しいと思う。(小林秀雄が―彼を語る資格は僕には無いが―、自らが呑み込まれていたボードレールの世界を「入口も出口も無い球体」に喩えたのは彼の意識の確かさを示している。)
ぼくが言いたいこと、それは、ぼくがこの欄でぼくの魂を自分で探求することを志向しているかぎり、最初からこの美意識に規範的に支配されており、つくづく、魂とは美の当体であることを気づく、ということである。ぼくは自分の魂を求めることにおいて美を求めている。逆には僕は求めなかった。魂を求めることは美を求めることだ。それを解さない者は魂を語っても意味がない。不真面目な魂の語り口も、単に放恣な美の語り様も、用はない。
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結局、仏の法より大事なのは、自分の心が人知れず(誰も知らない自分の内で)何を念じているかなのである。善行を表明しつつ心の内で他人を罰している人。悪言を吐きつつ世界の、最も疎遠な者の幸福をも祈っている人。自分の心への自分の承認。あらゆる法の齎す報いに優るもの。
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旧約の神が新約の神へそう都合よく衣替えする訳はない。信仰者は後者を前者によって却って基礎づけ歴史的に権威づかせようと努力したが、前者旧約の神即ち創造主は依然として同じ本性のままであることを経験する。でなければ殉教者の歴史は理解し得ないし、私の状況も理解し得ない。これは私の「断定」(アフィルマシオン)である。旧約神の信徒が現在も名称を変えて跋扈し勝者正義顔をしている。
私は自分が精神的には健常者だから、本当の統合失調症(スキゾフレニー)者の意識を理解し得ない〔ヤスパースはこの病気を類別し、ヘルダーリンやゴッホの型とストリンドベルクやスウェーデンボルグの型に分けた。前者は所謂理性力の崩壊過程が看られるが、後者の型は最後まで理性力が〈病的過程〉と併存している〕が、遺伝的内因的とされる病的素質が顕在化する誘因として、周囲の特に家庭での人間関係の長期的軋轢があるのではないかと勝手に推測している。愛があっても精神的に調和しない親子関係はやがて愛そのものの崩壊現象を来す。精神的不調和・軋轢が愛そのものの冷却を齎す。それに実情を知らない周囲世間の無責任な判断が加わる場合は最悪であろう。生の全体関連からの孤立化が誘因ではないかと推測する。ここで旧約神的な因果法を持ち出して対処しようとすること、すなわち善行や感謝の励行による、生の全体関連の恢復とそれへの復帰が、特に身体的病などに効果があるそうであることは、実際の事例報告も私は知っており、『生命の実相』等にはいくらでも語られている。しかし私はそういう対処が万能であろうかとどうしても釈然としないところがある。人間と現実の深淵にはそういう因果法が効かない次元があると私は断定している。むしろ、こういう法を仮に承認して〈存在の法〉と言いたいならそう言ってもよいが、人間という存在現実そのものに、そういう〈存在〉を超えた本質があり、これが問題なのだ。そして、人間以外の動物は精神病に罹らないとするならば、この人間特有の〈病〉は、この〈存在〉を超出する人間の本質に関係しているに違いない。それは、旧約神(集団・民族の神)から新約神(個と普遍の神)へと「人間の神」が超出せざるを得なかったことにも関連している。だから尚更、この「人間の神」の問題を〈存在の法〉に解消することは出来ぬのである。私は、精神病とそれに類する現象は、存在を超出しようとする人間の可能性そのものの顕現に対する、存在(創造主)の側からの一種の復讐であろう、従って、人間の可能性を放棄し集団的生に留まろうとする世間集団に留まる人々が多分連帯責任を負うべき現象でもあろう、と推断している。肉親間の不調和は多分そのような現象の引き金・入口に充分なるであろう。いわば不健全さと人間の本質的可能性との両側面が表裏の形で触発されるのである。故に、おわかりと思うが、存在の因果法の適用とそれへの復帰という対処、特に当事者の所謂〈生き方の改悛〉などで収まる問題では到底無い背景を持っている、ということなのである。
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自分がほんとうに欲することをやればよい。善行もあさましい心でやればあさましくなる。自己同一性と自己承認の無いことはすべて裏目に出ることを経験は教えないか。
自分の宝石を磨きなさい
自分を愛しなさい
そこにきみを愛させるすべてがある
どんな根拠があろうとも 一日一善なんて意識してやってるきみを見ても ぼくはちっとも嬉しくないよ
俗にだけはなるな
法を意識するだけ俗になる
自己矛盾なしには済まなくなる
(なぜならそれが「人間」だから)
本当にきみを愛する人は誰もいなくなる
(きみを愛する人も「人間」だろうから)
仮面だけになった善人を誰が愛そうか
愛想には愛想 それだけになる
宝石はくすんで光らなくなる
集団傀儡と変わらなくなる
自分の宝石を磨きなさい
そして できれば
深淵を見つめる眼をおもちなさい