ぼくにとって、瞑想することが生きることなのである。行為することではない。瞑想することが行為することである。内的行為という行為である。いや、行為という言葉はこの際使わないでよい。瞑想という言葉も不十分なのである。省察という言葉よりはよい。瞑想とはまさにぼくがしていることであり、その外にはぼくの本来の生はないものである。瞑想は同時に祈りである。そして美なしに瞑想はありえない。 

 

このような瞑想の行為は、ほんとうの愛の行為を定義するのに十分であるように思う。

 

 

思想上の最大の友、高田博厚とガブリエル・マルセルの本質が瞑想(美的瞑想-倫理を基礎づけるような-)である。

 

 

それはよいのだが、間主体性の次元が関係してくると、つまり魂間の霊的相互作用(マルセルが反省した)が視野に入ってくると、霊的世界の現実に直面しなければならなくなる。形而上的意味で、表の世界とは別であるが表裏一体の裏の世界に意識を向け、これを考慮しなければならなくなる。

 

「集合容喙現象」の現実は、けっして人為技術のみで成っているのではない。加害側も説明できない計算外の現象が、霊的裏世界との関連で生じているはずである。これが「集合容喙現象」の分析と見通しを難しくしていると、ぼくはずっと思っている。

 

いつしか、ぼくの省察・反省は、「純粋主体性としての内面的生」と、「容喙現象領域への霊的裏世界の創造性・反創造性の両面がある関与」とを、部分的には関連し合うものとして考察する段階に達しているように思う。 

 

 

 

〔どうやら「愛の修道院」のなかで高田博厚とマルセルが復活したようだ。このふたりといなければ温まらない。〕