このひとは完全に力を抜いている!
優雅さと繊細さの、陰翳の深い音色は、他のほとんどのプロ・ピアニストたちとは反対に(そうぼくには見える)、完全に力を抜くことが実践できているところから来ている!〔誰も彼女ほど陰翳の天才ではない。しかもこの陰翳は透明に澄んでいる。「人間」の、彼女の、愛である。〕
それが堂々と実践できているところがすごい。
なみの神経のひとじゃない。極度の震えるような繊細さと、この繊細さを保護して演奏に実現できるための条件としての、謂わば精神の外皮、殻、としての、あえて言えばほとんど唯我独尊的な大胆さとを、併せ持っているひとだ。この〈両極端〉は、もう最初から彼女に感じていた。そういう両極性はぼくにもむかしからあるが、ぼくはまだ人に遠慮し不必要に気を遣うところがあった。彼女こそはほんとうにマイペースだ!



グラース、優雅、とは、力ある存在が力を入れないでいる自然さであり、アランも美の本質として詳論している。高田先生の作品にも顕著に感ぜられる特徴である。一種の虚脱にちかい・・

力を入れて瞑想などできない。

力を抜くことは、そうとう「自己」に徹する腹が据わっていなければできない。

〔瞑想とは、脱力的な覚醒状態であり、古今東西の聖賢はこれを会得している。必然的に優雅の美を知っている。優れた宗教芸術で優雅の美を示さないものはない。〕

ぼくも自分の唯我独尊さを復活させよう。
ぼくはぼくなのだ。
ぼくは他人などの手には負えない。
もともとそうなのだから。




ヨーロッパ中世では、最も知的で精神的な感覚は視覚であり、触覚は反対に物質的な感覚と見做されたが、デカルトの哲学原理を主意主義的に把握したメーヌ・ド・ビランは、逆に、自由意志が最も直接的かつ全面的に関与する触覚こそ、最も根源的に知的な感覚であり、視覚は触覚との習慣的連合においてのみ、謂わば延長された触覚として、事物知覚の能力たりうることを洞察した。
 ひとの頭の良さ、ものをいかに精緻にかんがえられるか、は、そのひとの手指(触覚機能)の運動、動かし方、を見ていればわかる。そうぼくはおもう。ともに指の芸術家であるピアニストと彫刻家は、本来、最も隙の無い明晰で精緻な知性力を必要とする、造形的・形体把握的な作品創造を、仕事とすることで、同質性をもつ。そうぼくはおもう。(触覚が視覚に習慣連合するのが彫刻であり、同じ触覚が聴覚と連合するのがピアノ演奏だろう。)この二つの領域行為は、芸術における「知性」と「美」を、よくかんがえさせてくれる。〔もっとも、こういうあまりに基本的な諸感覚相互関係の自覚は、芸術行為を理解する質料的基礎・手引き、に留まっているのであるが。〕



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どうしても、夜中の落ち着いた時間を、寝るために放棄しようという気にならない。起きて何かして感じていたい。生きられる時を生きていたい。体が正常だったら、明日に希望をもって寝るのだが、未来ヴィジョンが潰されているかぎり、関心は、起きていられる今に向い、起きていてしまう。寝るのは朝、もう疲れて起きていられなくなった時。そのくりかえし。この欄も、そうして起きていて為した(書いた)ことの集積が多い。文章をいまでも書けること自体が嬉しいから。〔今の昼間の世界とぼくは一緒に生きていようとは思わない。〕




グーグルさんはどうした。ぼくの「最近」の渾身の節 765 地中海彫刻の音楽 をどうして紹介しない。ぼくは高田先生の精神としかありえないのだから、ぼくがどういう主題で書いていても、「高田先生と共に」なのだ。それが解らないひとたちではあるまい。




裕美さんの魂を音楽によって感じることは、ぼくには、一度も恵まれなかった愛の経験なのだ。さいごにほんとの愛とともにいたい。高田先生の精神の探究が、ただ理念上の、精神上のものに留まらないためには、現実の「人間の愛」が、先生同様、ぼくにも必要なのだ






余計な不明確な演出よりも、ピアノを弾いている彼女がいちばん次元が高くてきれいだ。

所属会社は何をやっているんだ。かけがえのない国宝的な宝を仕舞ったまま。





ロシアの自然感覚はすごい。人為的なものの微塵も入る余地が無く、圧倒的な自然の魂がこちらを湿らせてくる。この大地に住む人々は、観念的な発想では決して動かず、この大地のような地学的な力で動く。したがって一旦動くと決意したら広大な大地の自然のごとく容赦なく非撤退的で厳しく強い。他の「文明国」が忘れているものが生きている。「文明」は遂に「自然」に勝たないという感覚だ。自然が圧倒的で、すべてに浸透的なのだ。その感覚にぼくは魅了される。
〔この自然感覚のなかで、人間は自分の根源的な時間感覚とよべるようなものを想起し、「自己」についてひじょうに瞑想的になる。この「自己との照応性」のゆえに、わたしはロシア的自然感覚に魅せられるのだ。〕




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でもねえ、ぼくが音楽でこれだけ感涙するというのは、あとにもさきにも裕美さんの演奏が唯一だ。まったく記憶がないし、今後もないだろう。これはすごいことだ。なにがこんなに感涙させる。こころを打つ彼女のひたむきな純粋さ。この一元的な一点、それが全体であるような一点だ。神々しい奥行、精緻さも、すべてこの一点、包括的な一点をぼくに感じさせるものなのだ。高田先生にとっても、「芸術は、それに自分が受けた感動をどう納得するかがすべて」なのだから、ぼくもこの自省探究をこころみたのだ。これにつきる。