「スープを待つ間、君に目のお正月をさせてあげよう。」ゲーテは親切にそういって、私の前にクロード・ロラン(*)の一冊の風景画集をおいた。
 それはこの巨匠の作品で私が生まれてはじめて見たものだった。私は非常な印象を受けた。一枚一枚とめくってゆくにつれて、私の驚きと喜びは高まっていった。そこここに影の深いかたまりがずしりと描かれ、それに劣らず強烈な日光が背景から空一面にひろがって、水に反射している。そこからまた画面が非常にはっきりした、ひきしまった印象を与えるのだが、こういう光と影の対照こそ、この巨匠のたえずくりかえして使う原則だと私は感じた。それからまた、どの絵も完全にそれぞれ独立した小さな一つの世界を形づくっていて、そこには全体の気分にそぐわなかったり、それを盛り上げないようなものは何ひとつないのを見て、私はうれしい驚きを感じないではいられなかった。碇泊中の船と、働いている猟師と、水際にある美しい建物とをかいた港の絵にしても、草をはんでいるヤギ、小川と橋、ちょっとした茂みと影を投げている一本の木、その下に休んで葦笛を吹いている羊飼いなんかの見られる物淋しいうらぶれた丘陵地の絵にしても、あるいは深く落ちこんだ沼沢地の絵、そのよどんだ水は強烈な夏のあつさにも、さわやかな冷気の感じを与えているといった絵にしても、どの絵もみな完全にまとまっていて、場違いを感じさせるような異質のものは、どこにも跡をとどめていないのであった。
 「どうだ、実に完璧な人だろう」と、ゲーテはいった。「美しい思想をもち、美しく感じとった人だ。この人の心情には、外の世界ではどこにも容易に見当らないような一つの世界があった。――どの絵も真に迫っている、しかし現実の痕跡は少しもない。クロード・ロランは現実の世界を細部の細部に至るまで暗記するぐらいに知りつくしていた。そしてそれを彼の美しい魂の世界を表現するために、手段として使ったのだ。これこそ本当の理想性というものだ。現実の手段を使いながら、内面の真実を写したそのまことらしさが、まるで現実そのものであるかのような錯覚を起こさせるのだ。」(**)
   (一八二九年四月十日)

 (* 十七世紀のフランスの画家。理想的風景画の代表的作家。)
 (** この一節には簡潔に「古典主義」の芸術論が述べられている。芸術の「真実(まこと)」は決して自然の模倣でなく、「まことらしさ」(真実に見える)でなければならない。ゲーテの有名なことばに「大理石の足は歩く必要がない」というのがある。実際に歩かねばならぬ足と、足の純粋な形とは別なのである。)〔本書註〕

 ―以上、中学の頃読み、ローランに憧れさせた原文を忠実に写した(「ゲーテとの対話」エッカーマン・秋山英夫訳 社会思想社 教養文庫)。同書には同頁に〈クロード・ロラン「港」〉の白黒複製画が収められている。この画ではないが、今この欄に、不完全な写りではあるが、手持の画集から、第一に心に止った一枚を紹介する。この絵のみならずどの絵を観てもやはりただならぬ精神の霊気が鮮烈である。「渚、日没」と訳しておく。―
〔「ローラン」は高田先生の読みである。ルオーの師モローは、弟子がコローに傾倒するのに比し自らはローランを佳しとしたがコローを認めることを知っていた、と先生は「ルオー論」の中で述べている。わたしはこの話がとても好きだ。わたしの絵画愛は中学の時コローが点けてくれたからである。〕