ぼくの好き嫌いは存在論的な根拠があり、大方の他の者の好き嫌いとは次元が違う。つまり、換言すれば、ぼくの主観は客観性にきわめて近いということだ。意識が練磨されているか或いは意識がもともと根源的な人間には そういう次元が開かれる。



ぼくにも直感の経験が様々ある。念は時空を超える、と云われるだろうとおもうが、その意味は、まず、念が空間を超えるのは、電波がそうであるように事実と認められる。時間を超えるというのは、ほんらい時間なるものはその実在性があやしいという感覚がぼくにはあるので、かんがえ方によっては許容し得る。時間はふつう物体の運動や変化を示すにすぎない。そういう時間に即するかぎりでは、念は時間を超えていると言い得るだろう。宇宙に物質が何も無ければ、時間は存在しないだろう。つまり物質の変容の世界にわれわれは生きているつもりでいるので、それに惑わされて 時間の中をわれわれは生きていると思っているのだ。魂が不死であるとしたらそれは時間が存在しないからだ。こういうことをかんがえるとすこし眩暈(めまい)がするようだが、真実というものは それでもその究極に思いを凝らすところにかろうじて触れられるようなものだとおもう。



ぼくの言葉でほんとうに傷つく人がいるとはぼくはじつは思っていない-良薬 口に苦しの類だと思っている-が、もし傷ついたと思っても、その痛みをぼくは否定しないですべて引き受けるつもりでいつもいると思ってほしい。ただ壊すために言葉を発した人にはこれはできないだろう。そういう人はいつも責任を負わない卑怯者であり、だからこそただ壊すために言葉を発することをするのだから(だからそういう者を死罪にするのは正しい)。ぼくはそういう者達とはまったく本性が異なる人間だ。そういう根本態度だから、ぼくの言葉でもし苦しい思いをしている人がいたら、ぼくのこの根本態度を思い出してほしい。ぼくは、あなたに光あれ、あなたの存在が確立されよ、といつもおもっています、と。 しかもこれは、世の宗教者達が同じことを言うときに自分の意識満足や同類拡大欲を結局思っているのとは、全然まるで違います。ただあなた自身のためです。これだけ気にかけています。宗教者ならさっさと脈がありそうな向きに移るでしょう。これはあなたがぼくを好きか嫌いかということとはまったく関係ありません。嫌いでよいのです。ただあなたに光があり存在が確立されることを望んでいます。



ぼくの思想本意は、各々が自由に自分に目覚めてくれればいい、そうして此の世に「存在」が増えてくれればいいということに尽きます。美が増えてくれればいい。それをねがっているのに、どうして〈仲間づくり〉などめざしましょうか。美が増えてくれれば孤独でよいのです。それどころか孤独は愛に不可欠なのです。






裕美さん、きみはやっぱり Zard も勿論いいけど伝統クラシックをやりなよ。みんな聴きたがってるよ。良識的なひとたちは、きみと同じようにでしゃばらず寡黙だけど、そうとうそう思ってるんだよ。自分の本質価値をよく自覚して、きみでなければ聴けない演奏を聴かせてください。もう自分を意識的に高めていっていいと思うよ。
 たとえば きみの大好きなショパン〔ドビュッシー、ラヴェル〕の演奏から成るきみの新しいアルバム、そういうものを制作するのに誰かが動いてくれないかなとぼくは思っている。そういうものができないのがおかしい。自分の可能性をまず第一にかんがえることですね。