ぼくはこれを書き続けることによって自分の「連続」(スイト)を証しよう。連続のみが魂の本質なのだ。「哲学とは自分の連続を見出すこと」(アラン)。ぼくは哲学を超えて愛自者たろうとするが。知ではなく美を愛するから。愛しいひと、ぼくのペンがまったくの独白ともなることを許してくれたまえ。高田先生が『薔薇窓(ロザース)』の記録を書いて自分の連続を自分に証しようとしたように、そしてこの行為のみが人間にとって本質的であると認識していたように、ぼくの欄も先生の自己記録の原題を頂いて「Suite」としよう。きみはきみのままでいいんだ、ぼくはこの道、先生との出会いによって連続させてきた道を続けるしかあるまい、きみが自分の芯にピアノをもっているように。ぼくはピアノなしで思索で自分を探求する。思索もまた書くという創造行為だ。大文字の Suite 。文字の組曲。この大文字で書く意味は重い。結局、書く行為に生きることが「過去を現在よりも生きるに価するもの」として実感する道なのだ。〈人はパンのみにて生くるに非ず〉とはこのことでしかない。