わたしはかんがえる、ゆえに神を信ず。
 かんがえるということはほんらい不自然なことであって、人間いがいの動物は人間がかんがえるようにはかんがえない。自己と種族の保持発展いがいのために動物はかんがえない。たとえ人間のような愛と慈悲が動物にあっても動物はそれを自分で意識化することはない。人間だけが自分を意識するようなかんがえかたをする。ここに「人間」が生ずる。自意識的思考が人間の本質である。ほかのどういうものでもない、本質は。デカルトのCOGITO(われおもう)による人間定義は永遠の真理である。他になにを付加するにせよ人間原点はここにある。この定義によれば自意識をもつかぎりロボットも宇宙人も人間である。これがデカルトの思想であるとわたしは信ずる。
 この意味でのかんがえるということはその出発点からして反自然的あるいは超自然的であり、創造主という意味での神の圏域からの離脱・超脱なのである。動物レベルから観れば、人間固有の思考様態(自意識的思考)そのものが「神経症」であり、さらに的確には「精神病」なのである。それは反自然的だから、反健康状態である。これは動物にはけっしてありえない。人間も身体健康的状態の者はたいして思考しない。更に適切には、動物的思考はしても人間的思考はほとんどしない。あるべき自然状態が不調和に陥った病人こそが、よく哲学的・自意識的・人間的思考を深める状況にあるのである。人間固有の思考とは哲学的思考のことである。そして哲学的思考の本質は自意識的であることである。これがCOGITOが哲学的認識の根本原理であることの真意である。すべての哲学的認識には〈われ思う〉が本質的に伴う。これを自覚したのは哲学史上でデカルトの不朽の功績であり、どのように自己発展する思想も、メーヌ・ド・ビランもカントもキルケゴールも現代の現象学的思想も実存思想も、デカルト的・反デカルト的を問わず、まさに〈反デカルト〉であればその旗の故に、デカルト的コギトをとりこんでいるのである。その自覚のない思想は欧州では自己主張しうる基盤をそもそも持ちえない(免れているのは社会経済分析にもとづくマルクス主義や構造主義の類だ)。デカルト主義・反デカルト主義の問題ではないのである。
 わたしがいま明瞭に思っているのは、そのような人間的思考の人間にとって、自然を神とするのはあきらかな退行的自家撞着であるということ、人間にとっての神は、人間精神がこのように自然に反し自然を超えているように、自然を超越しているということである。これがデカルトの二元論的思想の根源的意味であり、精神にとっての可能性に賭けるパスカルの〈信仰の賭け〉も、根源的にはデカルトと違う方向をじつは向いていない、同じ方向性がある、とわたしはおもう。
 自然に意志があれば、ギリシャ神話ではないがこういう人間の自然への〈反逆〉に復讐しようとしてもおかしくない。それを受けつつ自然創造主を超える可能性に賭けるのが人間の運命だろう。人間的神への信仰は人間の精神可能性への最大の願望である。