パリで十二人銃撃死亡という事件が起きたが、宗教風刺が原因という。管見を述べてみる。ぼくが引っ掛ったのは、襲撃された新聞社関係の人物が、〈聖者でも風刺の対象にしてよい〉と公然と述べていたことだった。わたしは人間を殺すこと自体が間違いだと思うが、この間違いが行われるように誘導した責任の一端はこの人物にもあると感じた。そもそも、人間が真剣に関っているものを、笑いの対象にしてはいけないのである。それは騎士道と名誉の為の決闘の歴史を持つ欧州人がよく知っているはずだ。人が真剣に関っているものには、同じく真剣な批判を向けることのほうがまだ相手は受け入れるであろう。不真面目に揶揄することがいちばん怒らせるのである。この意味で笑いは悪魔の使者である。悪魔にとって真面目で真剣なものは何もないからである。わたしは正真正銘の悪魔は(そういうものが在るとしたら)殺すべきだと思う。実行し得るかはともかく、殺そうという感情を持つ。しかし人間を殺そうとは思わない。人間は善悪二面の存在であり、どういう人間も可能的善人だからである。これは「人間の理念」から直接に生じる信念である。その背後に想定される人間ではない悪霊的存在にたいしては私は形而上的殺意を真剣に覚える。問題の発言の人物は、公然と自分は悪魔に同意すると言ったに等しい。自分で殺しても構わないと言ったに等しい。これが表現の自由なのであろうか。自由は覚悟と責任を伴うのである。建設的でない、他者に心的不快苦痛をあたえるためだけの表現なら、そもそもどんな仕返しを受けても文句を言わないだけの覚悟が必要だ。「表現の自由」が侵害されたと一般化普遍化して激昂する前の問題検証の次元を感ずるが、如何。