セザール・フランク、このベルギー生まれのフランス近代音楽の大御所について、私は勿論全くの素人である。しかも一切参考文献も手元に置かずに、すべて私の経験したはずのことと記憶しているつもりのことのみによって今日は書こうと思う。高田先生は、西欧普遍音楽の本質伝統の継承の面から、セザール・フランクを大変に重要視している。いきなり「普遍」と言ったが、キリスト教聖歌に発する西欧古典(クラシック)音楽には、人間が己れの魂と向き合う際に必然的に当面する或るもの、孤独においてのみ出会う「神」が、人間の「魂」の告白と共に証されているからである。イデアとしての神、すなわち此の世の創造主とは区別された、人間の魂に照応する窮極なるものとしての神である。ドイツではバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンらにその普遍音楽本質は受け継がれたが、ヴァーグナーが出るに及んで、音楽の純粋本質以外のものが流入し、〈総合芸術〉となった。これを再び〈音楽のみ〉の純粋本質にもたらしたのが、セザール・フランクである、と先生は見做している。同様の精神をもってヴァーグナーに対峙したドイツのブラームスについては、「ジャン・クリストフ」の影響ばかりではないはずだが、先生はあまり評価していない。これは私も解る気がする。ブラームスにはメタフィジックに窮極する精神凝集が確かにあまり感じられない。その一歩手前の情緒性で足踏みしている。フランクはヴァーグナーの影響を抜いて理解できないと専門音楽家によってよく言われるが、それは、長年教会オルガンの奏者かつ作曲家であったフランクの精神的音楽本質を規定しうるような意味のものではないはずである。先生の言によれば、「ヴァーグナーの音楽はただ彼一人のものであり」、魂的・普遍的意味では彼によって後に齎された(洪水の跡の様な)精神廃墟のなかから再び音楽の純粋普遍本質を、直接に人間魂と呼応する音楽の命を救い復活させたのは、セザール・フランクなのである。「親爺さん(ペール)」と呼ばれ年下の弟子達からも人間的に慕われた。そこから純粋音楽の新たな源流がフランスで生じる。オルガン曲やヴァイオリン曲、交響詩といった比較的小規模の、しかし精神の深みと情趣、緊張において多分バッハ、ベートーヴェン以来のものを生んできたフランクの唯一遺した、三楽章より成る大交響曲は奇しくも、モーツァルトのレクイエム、ベートーヴェン第九交響曲と同じニ短調で書かれた、荘重雄大な比類無いものであり、今日も、聴者は勿論、奏者を選ぶ本質的意味での難曲であると私は感じている。いくつものこの曲の演奏を聴いた。私の全く個人的判断では、この曲に籠められた本質を最もよく再現出来るのは、やはり生粋のフランス文化伝統土壌に育まれた奏者(指揮者)であると感ずる。ジャン・フルネの演奏に出会って私は初めてこの曲の再現に満足を覚えた。彼の指揮にかかるとドイツ・クラシック曲でも、全く別の響きを発見させる。フランクのみならず、それ以前の馴染みの曲をも、彼の指揮で何度、新たな音楽の様に聴き直したか知れない。音楽の表現は音楽そのものに譲る。先生がフランクに縁を繫いでくれた。かつてガブリエル・マルセルが来日(1957年)した時、日本側が哲学者の旅の疲れを癒すために用意した音楽がセザール・フランクであった。マルセルが感動と感謝を籠めて記している。とまれ、彼の交響曲の奥義に相応しい精神波長を聴者こそ心掛けて聴くことをおすすめする。ドイツ・クラシックの世界とはあきらかに勝手が違うからである。魂の「フランス的なるもの」の世界を発見するであろう。

フランクのこの曲の世界は、比較を絶した意味での「一つの」世界・宇宙であって、私には、シャルトル大聖堂を望むボース大平原に吹きまくる雲を孕んだ天空の大気の光景が彷彿としてくる。これは勿論具象的比喩であるが、事実的にもそうなのである。単なる内面世界ではなく、極めて世界(外界)開放的であり、そのような具体的イマージュの世界に自らたゆたうことなしに、この曲の世界にひたることは不可能である。きわめて雄大かつ優美なフランスの土地風景と一つであるような実体がこの曲の本質なのである。そして、「偉大なものは単純である」という観念を、これほど宇宙的に実証している作品もまたとないだろう。この曲が二楽章であったり四楽章であったりすると想像することはできない。三楽章で完璧なのである。この作品の霊感がどこから生じているのか見極めることが私はまだ出来ていない。ドイツ音楽では経験しなかった問いである。単なる外界描写でないことはあきらかなのに、きわめて具象的感覚的に外界をとりこんでいる。そしてそのまま霊的精神的なのであろう。ただ内面だけで「神」に接することの逆方向を行っている。ブルックナーにも達せられなかった境位である。雄大な清潔さ。おどろおどろしい創造主の世界ではなく、イデアの清潔さが漲っている。神々しい逆巻く大気、生きた大気の感覚はそれである。偽りや思弁が無い純粋感覚なのである。まがうかたなき「フランスの」神秘を体現している。言葉にし得た一部である。

フランクは、万物をイデア的形相において観じることができたのであろう。あらゆる芸術家と同様に。その感得を彼は音に翻訳した。そのことによって外界は外界の実質のまま内面化された。しかも極めて一元性に迫るもので、多様な印象に分散していない。ここにこの曲の最も肝要な特徴的な本質があると私は思う。一元性は常に内面的実体性を、つまり窮極の実質、魂の存在を示す。ここにおいてフランクはバッハ、ベートーヴェンの普遍本質に直に繫がる。同時に後のドビュッシーらの印象派的と言われる外界開放的な感覚美の追求にも道を準備しているように私には思われる。「第二のルネッサンス」と高田先生が言う、19~20世紀前半のフランス精神文化絶頂期の一の源流たりえているのがフランクの創造世界であると言えよう。人間の心に映る〈教養ある外界〉は常に、人間自身の魂に向って開かれた魂そのものの窓に映る万華鏡の世界である。そのような外界そのものがすべてわれわれの魂の告白であることを知る。自らを告白している魂がここに在ることを知る。