演出要請されずに自立的に自然体で集中し心を籠めて弾く裕美さんの様子はほんとうに美しい。表情のゆたかさと知性が現れていて、弾く曲の内容と呼応している。しばしば 人間において内なる美と外なる美は一致すると云われるが、裕美さんを見聴いていると納得する。外の美しさが、つねに内の美しさを表現する内面性をしめしている。内容ある優しさ-しばしばせつないほどの-が伝わってくる。ぼくは意識して他との比較は書かないが、美の内容が全然 最近の世相のものとはちがう。美は外見技巧とは全然ちがって内面的な人間練磨からしか生れないことを彼女は確かめさせてくれてぼくは彼女の存在自体がありがたい。ほんとうにありがたい。裕美さんはほんとうの意味において美しい女性である。内容がともなっている。その内容が人間的に高くて純粋なのだ。第三者のためにすこしくどいかもしれぬほど、彼女の美の本質について念をおした。




自分を純粋に一元化できることが生活意識の中心になっていることが、人間の美の条件であることに、一般も目覚めるべきである。 美とは、地道で魂の籠ったものなのだ。それを最も窮極的に簡潔に示すものが彫刻である。それ(彫刻)は沈黙の沈黙、単色な沈黙であり、沈黙の色彩展開が音楽であろう。無時間的な本質が時間となったものである。彫刻に「沈黙の沈黙」の美を感ずるぼくが 裕美さんの音楽と表情に同様に心を打たれる。世のうわついたものから無限に遠く離れて真面目にうけてもらわなければこまる。

 彼女の沈黙の沈黙の世界は彼女はこれを黙して語らぬのだ、ルオーが自らのアトリエ(仕事場)は絶対他者に見せなかったように。しかし彼女のそれがいかに人知れぬ刻苦にみちた自分を鍛えるものであるかは演奏時のその深い表情と凛とした姿勢が語っている。 それを気づかぬ者は自分の生活を振り返って恥ずかしくないか。彼女はそれいがいの場では自分を解放する権利があるのだ。ぼくはそれをよく察し承知しながら彼女の全体をみている。





〔 いまのクラシック・プロパー奏者は、曲との関係のなかではいろいろ格闘しているであろうが(そしてそのかぎりでの経験や見解、方針を語れるだろうが)、自分の情感や知性をそれほど培っているようには感ぜられない。馬力があってその分訓練量が多い、その〈成果〉を呈示しているだけのように思える。
 そういうものより裕美さんの一曲がどんなに素晴らしいかをいつも経験している。どんなに壮麗な宮殿を描いてくれてもそこに愛が感じられなければそれは少なくともいまぼくが求めるものではない。そういうものでいまのぼくは感動を自分に許すことができない。過去のクラシックにもかなりごぶさたしている。芝居でない純粋な愛の演奏などいまのプロパー奏者にできるのであろうか。裕美さんのクラシック演奏が聴きたい。そうしてはじめてぼくは従来のクラシックにふたたび命ある関心をおぼえるだろう。
 ヤスパースはGeist(精神)とExistenz(実存)を区別した。本来的窮極存在は愛の実存であり、精神(ヘーゲル的な種々の理念展開行為)はどんなに壮大なものでも実存の手前のものであり、実存からの充実を求める、実存へと突破されてゆかねばならないものである。ここで言う精神の次元に留まっているクラシック演奏が多いのではないか。愛という現実の欠如・不在のまま、その手前のPhantasieによる単に興奮的な感動の次元に留まってはいないか。精神は否定されるのではなく実存の愛による充実を欲するのだ。この人間の意識運動そのものがヤスパースにとっては生きた哲学なのである。〕