1923-1927





1902-1905



同形態で長期にわたりくりかえし造っていたことがわかる。



le 1er janvier 2015 minuit
スペイン国境間近の海浜の町(村?)バニュルスの光景がわたしにとってもっとも親密な地中海である。地を挙げてマイヨールをそれ自体として賞揚している。つまり静かに純粋に。このような愛されかたをする巨匠は幸せである。というよりもフランスでは誰もそのような敬しかたしか知らないのである。「人間」が根づいている。
 「存在する」こと、それが本質のすべてである。本質と存在を分けることは近代人の発明にすぎない。本質と実存を分けるにいたってはただの抽象事である。そのことをぼくはいまものすごく明晰に覚知している。デカルトの神証明、存在するという神の本質から神の存在を結論する、あの確信は、後のカントがいかに論難しようとも、不滅の本質事を伝えている。
 マイヨールの本質事は、「存在」が「本質」であることである。自己主張(自己表現)もまた近代的な妄念である。あるいはそれはせいぜい〈遊び〉にすぎない。そのことをマイヨールの作の前に立って感じない者があろうとは思われない。
 ぼくはぼくの本質を感じるかぎり存在しているのだ。これいじょう明晰なことはありえない。本質以外に存在はない。存在するとは本質を感じることである。
 人が誰かをほんとうに愛していることが自分でわかるのは、なににもましてその愛するひとの存在を気にかけていることを自分で知るときである。此の世にいるかぎりそうである。そのひとの現存はそのひとの生存と同一視されている。そしてふしぎなくらい、自分の生存のことは気にかけていない。生きて愛するひとの死を知るのはもう夢の中でもごめんだ。母の死のような死を経験したくない。どんなに愛していたかそのときわかる。元気で「存在」していてほしい。

これがぼくのかきぞめである。