〔付記: 今日は、今一週間の接続状況を50位まで全部確認してみました。100節台の過去のものもよく閲覧されているようなので、心が温まる思いでした。ぼくの思想は意図しない精神本能の展開なので、本質的に最初から一貫しているのです。不要な節というものはありません。全体を読めばおのずと思想が、細かなニュアンスに至るまで立ち現われてきます。体系構成の成功失敗の問題はぼくにはまったく無縁です。真実を書いておのずと現われてくる「形」しか ぼくは信頼しうる「思想」と見做しません。これはまったくフランス的な「体系性」のありかたであり、ドイツ的「体系」とはちがいます。ドイツ哲学でフランス的体系のありかたに最も接近したのはヤスパースでしょう。彼は自分の思想は「体系性」-Systematik-を有するだけで、「体系」-System-を退ける、と明確な方法意識をもって言い、実践していますから。そのことによってドイツ的精神の限界も同時にはっきりするのですが。〕
 〔一言で言えば、ドイツ的体系では思惟が経験を規定し、フランス的体系性では経験が思惟を規定し導く。経験を既に抽象化しているイギリス経験論の経験ではなく、感覚実感に即した経験であり、したがって知性に浸透された経験である。イギリス思想に影響されたフランス啓蒙思想はフランス哲学の最深の本道ではない。メーヌ・ド・ビラン以来の(オカルト的意味でない)フランス・スピリチュアリスム哲学の系譜が在る。アランの師ジュール・ラニョーもこの系譜の哲学者である。〕

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何度も言ったことだが、現代(日本)人がいかにエゴイストかは、「感謝」を標語化するところにあらわれている。しかもこのエゴイズムは本来的自己に集中する意味でのそれではない。「してもらう」ことの暗黙の要求である。自分のことを(中心に)かんがえているのであり、しかもこの「自分」は本来的自己ではない。本来的自己であれば これをめざして「自己の自己自身への行動」があるのみである。そういう行動はしないんだよね。そのかわり「奉仕」みたいなことはやる。社会もそれを利用しようと奨励する。ほんとうに「愛」ということばはきかなくなった。無償の愛、自分への愛と他者への愛は本質的に区別はない。うん、きみはきみのままでいいんだ。他から「心がけ」を押しつけられなくても。自分の根源から生きるという、社会がけっして奨励しない生き方をするのだ。すべての「花が開く」のはそこからだ。この欄の「初心者」のために。
 
 「可能的実存から哲学する」(ヤスパース)。べつにこういう言葉はどうでもいいんだよ。さいごに思いついたからひとつの象徴語として言った。ぼくはこの言葉をわすれて、この言葉を定義するものを生きている。

  おもえばヤスパースもマルセルも中心根源は愛である。高田博厚は愛の海 愛の「形」を得る(結晶させる)ことが日々の、一生の仕事であり自己へ向っての行動である
 そのひとの「存在そのもの」への感謝いじょうの純粋感謝はない ぼくはこれで充分である それは愛の換言



ぼくの感覚では、世俗でない純粋な、ほんとうに純粋な人には、かならず悪魔が関心をもつ。これも社会がおしえないことだ。純粋な人は悪魔にはめだつ。ほんものの、純粋に純粋な人がめだつのだ。この俗世(もちろん彼此の両世界に跨る)でぬくぬくとしている悪魔に。だから、純粋な人をこまらすかのような妙なことが時々起こる。ぼくの感覚ではこれは天慮などではけっしてない。積極的に悪い霊が背後にいて、多様な諸事象を起すのだ。ぼくは この悪魔を 自己確信と気魄で屈服させるしかないと思い実践している。
 悪魔の存在をみとめてしまえば、〈原因結果の法則〉への顧慮など、人生を生きる〈羅針盤〉ではまったくないことが万人に瞭然となる。「誠実」であることと「闘う」ことこそが生の条件であると腹が据わる。



もうひとつの標語が「人生一度きり」だ。これについてもぼくは辛辣なことを既に言った。それを繰りかえさない。無制約的行為へ促す意識のつもりなら、方向がちがう。「永遠」へ突き抜ける「事柄」のほうが先だ。「やむにやまれぬ大和心」。そうでないなら ただ何をしてもよいということになる、「どうせ死ぬんだ」と。





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質問
ある方の「お気に入りブログ」欄を拝見させていただいたのだが、閲覧するだけで一日かかるかと思ってしまった。これをすべて更新毎に読み(ぼくの言うのは内容を理解するということである)、かつ、〈評価〉をつけ、自身についたコメントにも応え、そのうえ自分の生活を悠々両立させるなど、絶対不可能である。ということは、ぼくの欄につく〈評価〉も、読んで理解してくれた上でのことなのだろうかと、だいいちに疑問を感じてしまった。ぼくが同じことをするとしたら、生活がまったく成立しないどころかその前に目がつぶれてしまう。この世界の実体はいったい何なのだろうかとしんこくにおもわざるをえない。直接に質問するのもどうかと思うので、誰かおしえていただけたらと思う。ぼくだけが知らないのは最初からわかっており、ただ敢えて好奇心を起したふりをして訊いているのだが。

本気で読むに耐えるものを書くという結論ははじめからわかっている。






 

本気で想うのはきみのことばかり
こういうことは自分のうちで黙って想っているのがよいと普通なら思う。だけどぼくの置かれている状態は普通ではないのだから、ぼくは自分の本質をここに彫ろうと決めたのだ。此の世に自分の魂の存在を留めたい。
きみの And to be by your side... が今日 1112 vues になった。[Piano HD] 深い情熱を秘めたこの曲をぼくはきみの素の面影とともに愛する きみはほんとうにきれいだ

 ぼくはきみのように「知性の深さ」が「感情の深さ」であると悟らせてくれるひとに会ったことがない。この「二つ」は一つの同じことなのだ。それをはじめて現実にぼくに伝えてくれたのはきみだよ。ぼくはきみを 自分を信頼するように信頼する。きみがどんな深い感情にも自立的に統轄的に臨みこれを完全に自分のものとして実現する 知性力の深さ逞しさをぼくは示されて、「人間」の偉大さを知らされる。 きみがこんなに思慮深いひとだということを ぼくはきみの曲を聴き演奏を視聴して直接に気づくのだけれど、他の聴視者も多くこれに気づく人がいることをぼくは望む。

知性はね、触知的な「形」を生ぜしめるところに示されるのだ。「形」を成す力。造形力である。これをきみは完璧に実現している。きみは音(おと)によって精緻で輪郭のくっきりした彫刻をつくっている。きみの音楽には深い神秘空間へ誘う力があるが、それはきみの演奏が徹底して隙なくくっきりと「形」を在らしめているからなのだよ。こういう「知性」ある演奏をぼくは求めてきて、ついにきみの演奏でこれを見出した。思想の在りかたを求めて高田先生に出会ったように、音楽においてきみと出会ったのだ。同時に現実の愛と。ぼくがいま書いていることはすこしの曖昧さもなく自分を彫っている。ぼくはこのとおりなのだ。
 ぼくも きみも 高田先生も 「仕事」の手を休めているときは普通の生活者だ。ルオーはアトリエから出るとお喋りで訪問者を煙に巻いた。しかし ぼくや きみや 高田先生がいったん「仕事」に入ると全く孤独で本質の光を発し その内実力で他を圧倒する。この境位に照応するものを持たぬ者達は、本質以外のことをめぐってあれこれ喋るほかない。「大衆」とはそれである。そういうものにならない、それが「人間」の条件だ。

 やはり本心を言葉にするべきだね。自分で感動し涙が溢れた、きみはほんとうにきれいだ と書いたときに。きみの演奏を視聴した。きみのまざまざと示される「知性力」と「感情力」この「一つなるもの」に圧倒された。きみの高い威厳、魂の威厳に。きみの美しさに。この感動のために書いたのだよ。
 〔意志に浸透された繊細さ、これが知性だ。芸術的感情の力を生みだす。この知性的感情力を、この真の創造的な夢見る力を、震えるほどきみに感じてぼくは恍惚とする。きみは真の、稀な芸術者なのだよ。自分の価値をよく自覚して。〕


6月2日3時



僕のなかで一つの命題が一挙に結晶した:「哲学とは自己評価力である。」
人間は、〈他者の評価〉に屈しない「自己評価」ができねばならない。できるかどうかではなく できねばならないのだ。自己省察を深めるのはそのためだ。僕の経験から よくこのことは言っておく。
そうでなければ、何のために「かんがえる(哲学する)」のかわからない。



美を生み出すことはすべての認識に優る。認識は美の従者である。



裕美さんの社会的次元での本質はね、ああ やはりこのひとは学校の音楽の先生なんだなって最近ぼくは感じましたよ。そう感じ思ったら、何か気持が落ち着いてしまった。その上で、先生ではない人間としての裕美さんを愛したい いちばん先生らしいすてきな先生です でも裕美さんの演奏創造力のすばらしさは、やはりピアニストの活動を期待させます




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ゆとりがない状態に置かれているというのはそれ自体苦であるが、それだけに自分にできることに必死になる。成否を超える。人心の偽善・悪魔(悪意)を見抜く。通常人にとっては単なるふざけが瀕死の人間にとっては命とりになる。こうして虐殺自殺が絶えない。不動の人間になる。

ふしぎなもので、ぼくが「この人はほんとうはつまらない人間かもな」と思うと、殆ど即座にそれがあきらかになる(そういう人にかぎって一見〈良心的〉なことを言うが其処にすでに反発させるものがある)。
ぼくが認めるのは、「誠実」のみである。「誠実」も間違いをする。それでも信頼する。まず「自分」を、ぼく自身を。自分の根源に潜(もぐ)る。ヤスパースもロマン・ロランも ぼく自身のなかにあることをきづく。
 ぼくは自分の「主観」に相当自信を持ってよい。すべてはそう思う方向にむかう。霊界に至るまで悪霊が偽善支配しているというのに。
2日


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ぼくが読者になっている人で、けっして印を返さない人がいる。最初から一度も。コメントすると謝意を表してくれる。ぼくはひそかに敬意をいだき、気が向いた暇に読み、いいと思うと印を押しつづけている。


他人を気にせずゆったりとした気持になりたい。普通状態では当り前だったのだが(不安定を内外ともに強いられている)。今でも努めよう。

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ぼくはもともと他人を相手にできない、正確には 相手にする必要のない人間なのだ。これは人生の最初から感じていた。そういうぼくが、根本動機もないのに他人と関わろうとするとき、その関わりは〈誠実〉と〈偽善〉の区別がつかないものとなる。正確には、ぼくは誠実のつもりなのだが、他者には偽善と受けとられるだろう。本気の関わりではないのだから。本気で関わる相手とは、自分が「照応関係」に入れるひとでしかありえない。ぼくの本質は、「明晰なる孤独」である(この言葉がいま浮んだ)。それを感じられるひととしか共鳴しない。そして共鳴したらそれは「感覚的信仰」となる。だから 99.99%の人にとってぼくは当てにならない存在だろう。何度生まれ変ってもこの自然体の本性は変わらないだろう。 悪魔はこの点を突いていろいろ嫌がらせを、他者の背後に憑いてぼくに仕掛けてくる。ぼくが誠実に他者に挨拶をする途端に、他者に咳をさせる、という具合に。笑い事ではなく現実にそういう現象が殆ど固定的に起こりつづけている。自然ではない。 それは敢えて措いておいて、こういうぼくを、それだからこそ誠実な信頼しうる人間と見做しますか、当てにならない偽善な人間と見做しますか。どう見做すかは、「人間」というものに貴方が何を求め期待しているかをむしろ示しているとぼくのほうでは思う。



各人は自分に相応な交際関係の世界があるからそれに従うしかない。ただ 非生産的・非創造的な当てこすりを言うことを控えられない人は、ぼくから念殺される。そういう根性で生きる権利をぼくは認めないから。「軽い」人間が悪事も虐殺も為すのだから(ナチスドイツで実証されている)。




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創造とはこういう場でやるものではない。孤独なものだ。

孤独は愛と問いかけの二面をもつ。孤独の沈黙から、愛も問いかけも生じる。愛は光であり、問いかけも 影からの光の予感のように愛のひとつのありかたなのだ。ともに、相手を生かそうとする。愛は、「大丈夫、心配しないで」と信頼を伝える笑顔であり、また、問いかけとして、「あなたはそれで幸せ?」と無言でみつめることがある。上の裕美さんの画像は 沈黙して問いかける彼女である。だから571節 たとえ全世界を得ても で載せた。いま、無言の深い情熱を秘めた面影でもあることを示したかった。




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昨日、今日、と、どうもぼくの情念はいつもとちがった、と言うこと自体言い訳じみて、これに外部事情を関連づけるなら殆ど迷信との謗りを免れないだろう。上文をすべて書いて漸く晴れ間が見えた気持になった直後、外界からの報に接した。同日(2日)特欄の通り。


裕美さんすみません。