ぼくは自分の愛(最も広い意味に解してよい)を永遠にとどめたい。そのかぎりで、時(とき)なんて突破するのである。先生とおなじである。これがぼくの根本動機である。「信仰」とはこれ以外に無い。それは想念的であると同時に行為的であると感じる。「作る」行為を支えているのはこれである。たしかに、「芸術家」というのはその限りで「エゴイスト」である。しかしぼくはその根本動機にある「純粋さ」を愛する。このゆえに創造主が「芸術家」を罰するというなら、その魂を受容する「神」を創造しよう。〈全体主義〉にたいして「個人」の神を。ぼくはけっして〈聖者〉を愛することはできない。「人間」をしか愛することはできない。〈聖者の傀儡〉を、天使を気取る者達を、そのはなもちならぬ高慢ともどもぼくは憎む。なぜ「盲目の人間」であろうとしないのか。その「盲目」のなかから手探りで徐々に形をなしてくる「自分自身のイデー」に脚をつけ根をはろうとしないのか。〈他への服従〉による〈権威ある知恵〉にとびつくという、盲目の怠惰にはしるのか。勤勉な盲目と怠惰な盲目とがあるのだと思う。自らによってかちとる光と、他から与えられているつもりの光が。〈欺く悪しき霊〉すら想定して総てを疑いつつ自らの「方法」に従って〈森の中〉を進んだデカルトの精神は少しも古くなっていない。それどころか、あの無残な三十年戦争下の彼の状況は、いまのわれわれの状況そのものであると言うことができる。このデカルト的な知性の「自己」中心性を、ぼくは自分の「愛の想念」の永遠化に結びつけ、そこに収斂する「神」にすべてを賭けてゆこう。