意識と実感の間には、ずれ(齟齬)がつねに生じうるのだろう。実感に意識が追い付かなかったり、逆に実感をはみ出したりする。実感と意識がぴたりと合わさったとき、真の表現、真実の意識化が現前する。これはなかなかの力仕事であり、意図しなくとも僕は常にこのために苦心しているのだ。そのかぎり思想家と芸術家のいとなみに何の相違もない。自己集中はこれでしかない。「形」への意志。単純であることと緻密であることとの一致。純粋と知性とは不可分である。

(先ず、「己れを知る」こと以外の欲求を放棄することが、あらゆる思想の鉄則であることに気づく。Descartes に布教精神などまったくない。あらゆる真の思想家はそうである。) 


もう 自分で作った詩ね 最初フランス語で作ったんだけど、それを日本語に訳してみたら、とたんに自分で感動してわんわん泣いちゃった(というか文字通りの嗚咽)。 いまもまた泣いています こんな経験はじめて もちろん彼女の曲が頭の中で鳴り響いています 「この愛に溺れ疲れても」(曲題すこし違ったかな、でもこのほうがいい)

この曲の構成に感心する。不安と深さの中を流動する低音域と情熱の激しさを生きる高音域が絡み合って心内空間を現している。原曲と詩のこころを丁寧に汲みとって彼女の世界のなかで再現している。これこそ創造だ。

〔彼女の演奏は完璧にリズムがよどみなく、安定している。すこしも主観感情による歪みが無く堅固である。冷静な意志(知性)による統御を覚知させる。だからこそ主体の情感世界が純粋に直接に聴く心を打つ。この一見逆説とみえることに思いを凝らすなら、「単なる情念は醜い。すべての芸術は情念の統制である。」とするアランの根本思想の真であることを理解する。美は意志を通して生れる感情の純粋形であり、これを宿すことが人間の証、イデアリスムである。


人間の想念、イデアは、あらゆる現実、質料に優る。これは反省ではなく直接感覚の事実である(このことを僕は全く無想定に経験したのだ)。反省、確認はこの後に来る。思想は感覚の分(節)化である。
直接(純粋)感覚の中に人間主義的に形而上的なものが埋れている。知性によってこれを見出し自覚する。これが高田先生の言う〈信仰〉の道であると思う。

〔「戦争より恐ろしいのは〈個人〉がいなくなってしまうこと」と高田先生は言ったが、今日(13日)確かにそうだと感じた。先生のような人は亡くなっても魂として存在していると思うが、〈自分自身〉になっていなかった人は、死んでも霊としてはいるだろうが魂ではないというのが僕の感覚だ。〕


日本人の中には確かに「思考において楽をしたい」という傾向が安直な悟り欲求と結びついているところがある。だから何か具体的に創造している人でなければ信頼できない。そういう人でさえも一旦思考し始めると安直断定の罠にはまるのであるが。

もう疎遠な方向へのお返しのぺたはいっさいしない。ぼくの心を純潔に保つ至高の義務を僕は負っている。

子供の世界の問題は子供自身が負っている。最近の子は心性が醜い。表を通っている様子から感じられる。仲間内と情報世界の両方で俗にまみれているのではないか。ひところ学級崩壊などと言われたが現在はどうか。余計な機器はとりあげて本を読ませよ。

きみの〈知性〉を定義したまえ、パスカル君。

知性は魂の意志であり魂と永久に不可分である。

たとえばニーチェの断片から独裁者を造るのも至高の賢人を創るのも狂人を作るのも主体の自己発見(あるいは意図表現)である。
我が道を行く剣豪(帯刀せるデカルト)は出会う前に相手を判断する。

この世の事象があまりに相互象徴的に同時生起すると気づいたのはいつ頃からだっただろう。たしかにそこに〈魔〉が介在することを確かめた。しかし〈魔〉を離れてもそれは起こるのだ。共時性の世界。それが要らぬ〈信仰〉をも起こさせる。真の「信仰」はそういう契機とは独立したものだとぼくは思っている。


人の詩を説明するより自分の詩を創りたい。それは運命的なものであって〈どんな秤に掛けてみることをも止したときに〉成るものである。「生きる」ことの果実である。優劣はなく、真実かがあるだけである。

詩は真の判断に似ている。どちらも自分の感覚あるいは明証な直観を形にしようと集中する。自分への忠実・責任があるのみなので、本質的に、他者への断定とはならない。十分に自覚された自己規定はけっして他者非難・断罪とはならず、かえって他者自身の判断(自己規定)の尊重と寛容の源となる。この意味で僕はこの欄でも決して本気で他者断罪などやったことはない。僕はそんなことに本気にならない。自分自身の在り方の選択のみが本気なのである。強い表現もすべて自己規定の決然性の表現なのである。他者には本質的には〈貴方も御自由にどうぞ〉という意識しかない。この決意(決然性)で創造主とは戦争するが。デカルトの「自己の明証な直観に基づいてのみ判断する」精神こそは、真の「個人主義」的寛容の源なのである。このことをよく得心しなければ私の本質を理解しないこととなる。

文学者の致命的欠陥は、自らの〈眺める〉態度に基づいて、自ら嫌う〈類型化〉でしか人間を〈理解〉できなくなっていることである。この態度がどれだけ浅薄で傲慢かを気づくには、人間の思想というものを根本から学び直さなければならない。すなわち人間そのもの、自分自身を掘り下げることである。
 文章の読み方を知らない文学者がいるのは、文章は人間表現なのだから、人間を解さずに解るものでないことから当然だろう。彼が怠ってきたことはこれであり、この代りに出来合いの通念と言葉のイメージを空想で連結させることになる。この類の〈解釈〉は中傷に等しくなることがある。


僕がここまで精神的に復帰できたのは、体には負担になったがそれが問題でないくらい、連日のPC徹夜のおかげである。

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