このようにして、高田は、一見単に《印象的に見える》《ルノワールやボナールやマティスの晩年の地中海での作品》の深い象徴的意味を示唆している。そこには、人為を超えた――だから純粋な――調和的秩序の世界に謙遜に心を開いた芸術家達の《宗教感》が現れている。作品に描かれた諸々が《関係の純粋さのために「音楽的」になる》に至っている。対象世界そのものに《風景とか人物とかの区別を僕達が意識する以上の諧和があり、僕達の感覚がそれを素直に受けるだけでよい。そしてこれはそのままドビュッシーの音楽となるであろう。》
 こうして高田とともに我々は、《人間の「創造」の根拠》に直面する。それに《謙遜に打たれる》。
 純粋感覚の世界にたいして我々が抱くこの宗教感のもとで、我々は自分自身を、その過した全時間を思い起しているかのような懐かしさで想っていると同時に、この一切との和解の平和さのうちに、人間への愛情が自らのなかに蘇るのを感じることになる。
 高田自身はこの経験を、シシリア旅行の際のタオルミーナという地での印象として、異なる文章で数度にわたって述べている。






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いま紹介している文章は、私が2004年に書き、『形而上的アンティミスム序説』に附録として収めたものである。
私の今の心境にも寄り添っている。







この欄をはじめて これまでかなり理屈っぽいことも言ってきたから、理屈へのこだわりを離れてただの感情感慨を述べ ひとりごちても、それほど全体の整合性を外れないところに納まるだろう。

わたしは哲学畑にいて、そこの人間のふがいなさを知悉しているつもりだが、文学・出版畑でもどうしようもない人間もようであることをその後知った。それであらゆる世間がつくづくいやになっている。そういうことを述べ紡いで「文学」をつくる気はさらさらない。この意味で日本文学の大方はじつに甘く俗から脱していないと繰りかえしておく。世相探求の意味はあっても真の「自己」の問題と格闘することがすくなすぎるか、ほんとうの域に入っていない。
 ぼくは自分の感情解放をしておきたいから、ときどきその種の雑音が入ることをお許しねがいたいのみである。



昨日は彼女のことを書いた「心を籠めて 891 」が最も接続が多かった。こういうことがぼくをいちばんよろこばせる。彼女がいま生きているのか、別地で幸せに暮しているのかは知らないし、ぼくが強いて知ろうとすることではない。そのくらいぼくのあのひとへの気持は本質的になりすぎている。生きた愛の啓示、触知をもたらしてくれたひとだ。そのいみでほんとうにぼくにとって「生身の人間となった天使」なのだ。これは比喩ではない。此の世を超えたところから響き そこに導いている。このいみで、「信仰」を感覚しない者は 彼女の音楽にほんとうに近づけないだろう。

彼女の「透明さ」は ほかのところでは経験しない。高田博厚とぼくしかいない。

どうか彼女の魂に心をひらき愛してあげてほしい。ぼくたちが受けるもののほうがはるかにおおきいのだから。