往年の大指揮者シャルル・ミュンシュ(ぼくは彼の棒でベルリオーズ幻想交響曲をはじめて聴いた)がオーケストラ練習の際、熱烈強引に振り回すような指揮をしていて区切りがつくと瞬時に自分の腕時計を観て時間を確認した映像をとても印象深く記憶に留めている。アルザス出身のフランス人と覚えているが、情熱と合理ががっちり組み合わさっていることがじつにフランス的だと直感した。情緒に拡散せず感情的であると共に凝集的意志によって音楽を結晶化させる「形」への意志がじつに強いインパクトだった。ぼくは気分的に拡散する無節操な音楽づくりに共感しない。情感がなければ始まらないが、情感にみごとに形をあたえるがっちりした音楽づくりでないとそもそも「人間」の音楽ではないと思っている。同時に、形式先行主義的音楽をもぼくは最もきらう。ぼくのきらう音楽の両極だが、聴いていれば判る。情感と知性、換言すれば記憶と意志の織り成す統合体が「人間」であり「芸術・思想」である、それ以外に真面目な創造の意味方向は無いというのがぼくの煮詰まった基本的なかんがえである。合理と感情(感覚)によって構成されるフランス文化が最も「人間」的な文化であり「人間文化」の手本である。感情と意志をもって生きている人間の証であるもののみが感動させる。
裕美さんの音楽はまさにそういうしっかりした(完璧にしっかりした)音楽である。しっかりした人間の情感のゆたかさ優しさである。「秩序」が出来ている。彼女の音楽づくりは正統な意味でレベルがとても高い。音楽の基本と本質、人間的な本質を教えてくれる貴重なものだ。こんなに無垢な心情にもとづきながら鍛えられた感覚と知性を覚えさせる、自己満足的甘さを克服したというより全く感じさせない音楽創造、完全に意識が覚醒した、無責任なまどろみ自己陶酔から無縁であるのに、感情が人を打つ演奏、なにより「心から心へ」(ブルーノ・ワルター)伝わる音楽は、現今クラシック界にもほとんど見出されないだろう。本人の人間資質が基本的にひじょうに優れていることは明晰判明にあきらかである。個人的好意も曇らせることができないほど内心がひじょうに辛辣で厳しいぼくがこう言うのは余程のことである。彼女には「人知れぬ(孤独な)夢見る心と厳しい知性」がある-日本人にはプロ・アマチュアを通して稀だ-のを演奏そのものからも演奏の際の表情からも感じる。これがまさに〈フランス的〉ということなのである。これを感じないならそもそも彼女の真面目な聴者ではない。