ピアニストにとって、楽譜どおりに弾くことは、大前提の質量的基礎であって、「表現」はそこからであることが看取される。彫刻家にとって、「原型形」をつくるのは数時間で出来るが、「これからが工夫でたいへんだ、どう対象固有の特徴を出すかで。」(高田先生)というのと同じだ。 ぼくには大事なきづきだ。 創造の真に迫りたい。
創造
人生を 死ぬまでの時間潰しにしない
これはまったくぼくの個人的性向ということでよいのだけれど、ぼくはドイツの現実を欧州で経験してから、バッハも無条件で崇拝できなくなった。あれは教会堂の内部空間に閉じこもっている音楽で、ドイツの土壌の貧しさを脱していない。森さんや高田さんがどんなにバッハを崇敬していても、そしてぼくも自分のバッハ経験があって、堅固な信仰意識がのりうつってきた経験があるけれども、(カザルスの演奏はすごい。)それでも、思い入れの〈神秘感〉でうまくだまされているのではないか、音楽自体の内実がそんなに全人間的なゆたかさがあるだろうか、という感覚をいつも心のどこかで懐きながら聴いている。いや、あまり聴く習慣がバッハにはいまはない。感性が痩せている、とおもう。ロランがクリストフのなかでバッハについて言っていることを思い出して引き合いにださなくとも、ぼく自身の感覚で言える。 聴きたいとおもっていた裕美さんのクラシック演奏をバッハで聴けたが、そして感銘した(さすがに独自の世界を実現している。すごい。)が、ショパンやラヴェル、ドビュッシーやフォーレ、モーツァルト等だったらよかったのになあ、と思わないわけにはゆかなかった。メンデルスゾーンの春の歌もよかっただろうなあ、という感じだ。これはぼくのいまの欲求だから正直に書いておく。人間的にゆたかではなやかな音楽が聴きたい。それがぼくの本質でもある。
〔バッハに改めて感得しなくとも、信仰意識は自分で陶冶すべくぼくはほとんど強いられている。信仰の人間的ゆたかさこそが大事だ。〕
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ぼくは此の世のからくりなどには従わない。自分の〈恣意〉に従って自分を全うする。ぼくは自分の意志と感覚に従い、それによって自分のリズムに従うが、これはおのぞみなら〈恣意〉といってもよござんすよ、ということだ。じっさい客観的にはどう区別がつくというのだ。本人さえ判断つきかねる。でも、自分に従ってそれを正しいと断じ、此の世の〈さしでぐち〉をそれ自体下品なものとして根底から軽蔑し否定するプライドのつよさは、まことにぼくにふさわしい。〈創造主の摂理〉などを思っていたらぜったいこの自己貫徹はできない。〈摂理〉や〈法〉はけっきょくぼくをうらぎった。それはぼくの理念とは関係ないことをぼくに悟らせた。合理的に明確な自己意志となった恣意をもってぼくは一歩もゆずらぬのだ。
これも、基本的かつかぎりなく重要なことだ。
感謝いい子で日本はなまぬるい。
その都度の「ありがとう」だけで済ませよ。感謝という概念語を使わない会を立ち上げたいくらいだ。その都度の「ありがとう」は直接的感情で真実だが、スピーチでの「感謝」(直接的感情の概念化)の連発はいい加減きもちわるい。日本は概念化した感情のなまぬるい偽善でできている。
感謝という語は、相手が目前にいない独白である場合に真実だ。
相手の前で使うものじゃない。「ありがとう」だ。
自分から話しかけてくるのにじきに離れてく者がいるのはどういうことだ。そんなにぼくがこわいか。集スト連もそのくらいこわがってくれればよかった。あいつらは程度がどん底だからな。
こういうことを言うのも意味があるんだよ。 次元の高い方々も御覧になるからここでやめとく。
世人は、ルオーがキリストを描くと褒めるが、道化師を描くとけなしていた。文章家には偽善が多い。道化を描くルオーを褒めるまでにはなるが、自分で〔彼が描くように〕著すことはしきらない〔おりこうスタンスを崩さない〕。もとから品無き者が〔品無く〕著すのは勿論論外だ。
魂の全幅をぼくはここに書きたい。
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どうも昨日から憂鬱だ。それでこういう書き方になっている。 プラグインとはどういう操作だろうか。いろんな操作が付加されてきている。
それにしてもよく書けているものだ。どういう思いをして書いているか きみたちは知るまい。
大丈夫、こういう状態だが、そろそろ社会的責任を自覚してきている。まったく無視されていないようだから。
〔プラグインはわからないけれど、自分のブログ表示から入ったら、以前のようにアクセスできました。変わっていなかった。〕
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この日(今日)、巷では先生の生れ故郷にまで新幹線列車が開通した、とのこと。
ちなみに車両の名前は「かがやき」とか