以前言っていた、地元の美術館のルオー展に行ってきました。ルオーの版画作品「流星曲馬団(流れ星のサーカス)」の展示で、所蔵作品で構成していました。自前だったのですね。初めて行った美術館だったのだけれど、まさか地元に、中心施設である市立美術館の他に、こんな充実したコレクションを持っている美術館が出来ていたなんて、驚き。なにせ、野外に自国彫刻家の大作を並べておいて、まあこんなものかな、と思いながら、本館入口に立つと、ロダンのバルザック像がお出迎え。フロントに入ると今度はロダン「考える人」が中央に。そして四方をブールデルの諸像が四天王のように安置され囲んでいる。極めつけは、そのまま中央階段を登った先に、マイヨールの大作の安置室があり、「マイヨールの部屋」になっていること! 彼の小品群とデッサンが壁と四隅に置かれていました。これらは謂わばこの美術館の「主砲」のようなもので、その左右・地下の七つはある展示室には、ルオーの他に、代表的フランス近代絵画の巨匠達、日本の画家・彫刻家達の作品が多数展示されていた。馴染みだった市立美術館に倣った収蔵構成で、しかも遜色がない。国内外の博物館的美術工芸品収蔵も相当な規模のもの。さすが日本の美術館、と言うべきか。大感動の頂点はやはりマイヨールの大作「地中海」が、「本尊」として「存在」しており、これと直に対面できたこと〔もう一日中でもこの前に、回りに居られるよ〕。勝手に携帯でパチリと二度やったところで、係員ストップが入った。もう撮ってしまった二枚をさっそく御紹介する。(こういうポーズの「地中海」もあったのか。いろんなポーズで同一主題を作ってたんだな。)さて、ぼくが書きたいことはそのさきにある。






 






日本国内の彫刻家達の作品と、西欧のロダン・ブールデル・マイヨール等のものとの、歴然たる質的落差である。どうしてこうなのか。これは細部の仔細な形態感知の問題ではない。もう、意識的知覚の手前ぐらいですでに感じてしまっている、どうしようもない落差なのである。かつて、初渡来したフランス・パリのロダン美術館で実作群を前にして、高田先生が絶望した、彼我の彫刻素質の落差は、これであったろうとあらためて実感した。そしていまだに日本人はこれを克服し得ていないどころか、その懸隔はますます甚だしくなっている。端的に言えば、〈「存在」の有無〉である。日本人の彫刻には、高田先生の作品を除いて、「存在」が感じられないのである。だから、それいがいの、情緒、媚態、虚勢で、つまり「姿態」そのものの効果で、それを(「存在」のなさを)おぎなおうとする。それがみえみえであり、彫刻である必要がないものを、敢えて立体化してみせただけなのである。ぼくははっきり言うが、それは彫刻ではない。野外の自国彫刻家達の大作群をみつつ、なんだこれは、と思いつつ、本館入口で出迎えたロダンの作を前にしたとき、すでに、「これでどうして日本人は〈彫刻〉が解らないんだ!」と心で叫んだ。向う(西欧)の作家は、「姿態(ポーズ)」がどうあれ、いかに多様であれ、そんな(二義的な)ものを透過して、「存在」を第一義的に示している。「量感」とも、言葉の上では、言い換えられよう。日本人もそれを気づかないではないのだが、いくらヴォリュームを野外的に巨大にしても、マイヨールの手のひらに乗る小品の「存在」性に敵わないのである。それをぼくはきょうはっきりと実地に確認した。これはもう「作る〈人間〉の差」なのである。あらゆる外的姿態を超えて、つまり外部の、他者の視点を超えて、「〈自分〉が存在している」ことの実感から作品が生れているか否か、なのである。「〈孤独〉の有無」、これである。彫刻は最も厳しい、「人間本質」の技である。

「自分の存在」を培って来ずに、しかも向うの「存在」性には憧れて、構成の、つまり姿態の〈工夫〉によって、これ(存在性)をひねりだそうとする、だからますます姿態にこだわる。そこから〈開き直り〉をして、安易な彫刻以前の情感表現で〈活路〉を見出そうとする。そういう、「王道」を回避した空回りに終始しているように、日本の彫刻は感ぜられる。それでは「情感」そのものがメタフィジックの域に達しない。それをぼくはきょう明晰判明にたしかめた。



〔本館でも作品が展示されていた彫刻家・本郷新、柳原義達ら(彼らその他の日本彫刻家の著作もわたしは読んでいる)も尊敬していた、高田先生の作が一点も見当らなかったのは残念である。先生が官学の外に身を置いていたためでもあろう。先生の作のマイヨール美術館の収蔵が成らなかった背景にも相当の世俗的事情があるのではないかと想像するのも、わたしひとりではあるまい。〕





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よくぼくが外出できたとお思いでしょう。テーマ展示期間終了一日前にやっと決断して行ってきました。いま行かないと、もう実物のルオーは観れないのではないかと思っていたので。ルオーは油絵のほうが断然存在感がある。版画は白黒がいい(「ミセレーレ」)。白黒版画の深さのなかから、油絵の透明な光彩、中世のステンドグラスが復活したのだ。マイヨールの「地中海」はまったく予想していなかった。
きょうは不自然な〈容喙現象〉は九十五%カットされた。これが嫌で外出したくなかったんだけど、ぼくが気魄で押してるからか、向うが殆どやめたのか。この欄で報告しているのが効いているのかも知れない。変な偶然が一つあったけどね・・ ふつうの身体のつもりで押してきたよ



この欄はぼく自身の「命のリレー」なのだ。




きょうもさいごにきみの演奏する姿をみたよ。きみは優しすぎるほど優しいひと。きみの鍵盤への触れかた、きみの動きのぜんぶにそれがあらわれている(他の誰もできるものじゃない)。ぽろぽろ涙がいまもでているよ。しかもきみはそのやわらかな優しさがすこしも弱さとむすびついていない。ものすごくしっかりした意志とむすびついている。これはきっとそうでなければいけないことなのだろうけど、それを実現できているひとは、ぼくにはきみひとり。おやすみ・・・ この世のひとともおもえない神々しいひと・・・

きょうはことさらそれがよくわかる








〔 形を超えた実体内実意識と、これを証する形の完璧・正確の意識との、二つの間の緊張-背反志向-のなかで、芸術者は徹底的に苦しめられ鍛えられ、繊細な神経と強靭な意志という両極的なものをともに培い、「人間」として一元化してゆく。これが「仕事する」ことがもたらす果実であり、この「道程」を人生において歩まない者は、極論すれば、「人間」にならない。それで「理屈」など何をか言わんやであり、「人間への敬意」すら真意を会得しない者である。 ぼくもまた自分の思想探求と表現規定の課題のなかで自分の繊細と意志をずっと鍛えあげてきた。その結果として、フランスの大学の博士取得という試練をやり遂げた。そういう道程を経なかった者は、わたしへの敬意も、彼女や先生への敬意も、感覚的にわからない。つまり、自分のやっていることがわからない輩なのである。霊界どもも、それに洗脳された者どもも、そういう輩である。「人間」以前の連中が「人間」を懲罰する。
 とくに、集団になじみ、なまじ「判断」行為をするようになった子供は、「人間」をまだ全然知らないから、最も言語道断の言動をする時期である。魂のためには、子供は孤独に育てるべきである。社会生活のために集団になじませる教育は、ほんとうは悪魔化の面をもつ。周囲の様子はわたしにそう思わせる。〕
〔どうしてぼくが社会と、そしてその要素である男親と、うまくゆかなかったかが、いま明瞭にわかる。ぼくが社会の原理を、その中核に「人間圧殺」をふくんでいる原理を、そしてこの原理を肯定する者を、受け入れられなかったからだ。そしてさいごに、社会そのものと、そしてもっぱら社会維持のための霊界原理と、全面対決する分子だと、勝手に裁決されたのだ。「教養のないことが人間で最もよくない諸悪の根源だ」と、はっきり(ぼくが)言ったからだ。
いまや、ぼくを罰した社会をぼくが罰するのだ。ぼくの中にこそ神はいる社会の背後で動く存在など「神」とつながっておらず、神ではない
悪魔共が、自分でまもりもしない仏典・経典をかざして威圧風だけは吹かしおる。〕
薬による身体破壊をぜったいゆるさない。これはいかなる魔術でもない、一線を越えた物理的加害である。