今日(2日)の覚書は昨日の節のなかに続けて書いています。

〔3日の覚書はこの節に書いています。〕






子供の頃の原風景のひとつ。「チャイコフスキー」の一情景。幼い時によくこういうものを見たものだ。教養志向の母が連れていってくれたはずである。ピアノ協奏曲の大音響とともに出現したこの雄大な情景は天啓の様な衝撃として生きつづけた。
 子供には意味がわからずとも最も高尚なものに触れさせるべし。その後の精神質を決定する。













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きみをほんとうに思っているひとは ぼくと同じことを言うだろう
そのうえで きみの自由を尊重する




高田先生はよい言葉を遺してくれた。
《「自我に行動する」ということは未知の自分を発掘するというよりも、一見なんでもない、ありふれた自分を真に「存在」させること、安らかに存在するというよりも、「存在すること」の安らかさを実証することである。》

 これが親密であることの実現なのだよ。「青い鳥」を見出すという。
 きみはそれをしっかりわかって生きているひとだからだいじょうぶ



知性とは、もはや〔情念によって〕曇らされない愛情であり、運命から独立した情熱である。自立的となった信頼。
きみは、きみのすべてで、いつもこの生きた観念をぼくのなかに呼び起こしてくれる
深く信仰的な、知的に信仰的な、純粋に信仰的な何かを感じる。
ペダンティスム(pédantisme:学者趣味)とも俗とも峻別された純粋なもの。それでいてとても自立的なもの。「知性」と呼ぶしかないもの、むしろ「知性」という言葉を定義すると思われるもの。
〔きみが美の世界に真摯に しかし歓びをもって向き合い、没入というより集中して対峙している、そういうかたちでの帰依的な関わりかたが、知性性と信仰性をともにぼくに感じさせるのです。きみの美の行為においては「知性」と「信仰」が分離せず一つで、まさに感覚を通してイデアに向かう高田先生の態度の本質を彷彿させます。そこでは「感覚そのものの合理」が言われます。すなわちイデアとは感覚美の本質構造であり、美を美たらしめている原理であるとも言えるでしょう。このゆえに美感覚そのものが、合理を求める知性の真剣な対象となるのです。〕

きみがいつも、「大丈夫、心配しないで」 と言ってくれていると感じる、きみへの信頼の感情、ぼくを自立的に信頼してくれていると感じるから覚えるきみへの信頼、それを反省すると、このような言葉〔端的には上の文節の第一行〕がぼくのなかで かたち をとったのです。

ぼくたちは月のようにおたがいの光を反射しているようにもおもえます。自立的でありながら反射し合っている。ぼくたち月の光はどこから来るのでしょうか。ぼくはあなたの内から太陽が照っていると感じます。でも あなたも照らされ暖められていると感じるなら、きっとそこにぼくたちが「神」をもとめる理由があるのでしょうね。


ぼくが向き合うのは、真剣にピアノに向き合って自分の本当を現しているあなたです。そして、あの音楽演奏を創造するあなたの本質を彷彿させるあなたの映像を見出すと、心底感動するのです。どんな巨匠も描けない。










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創造主は「人を殺すべからず」とは言わなかったか、言ってもぼくのいう魂主義からではなかった。殺生界を造った存在が殺生を禁じるのが矛盾で、この存在みずから大量に人を殺した。社会維持の為に集団内での問題を起こすなと言っただけである。「なぜ人を殺してはいけないか」の問いに、議論で応えるのは空しい。創造主が答えを持たない。存在の根拠に答えが無い。殺人を阻む唯一の砦は、「個の魂の歴史」への畏敬であり、「魂が懐く美のヴィジオン」への愛とその価値の断定であるのみである。魂主義的に殺人を拒否することは、それじたい、此の世を造った存在の掟を拒否すること、創造主に反抗して新たな「神」を信じることであり、この存在矛盾性の敢行による「人間の悲劇」を、西欧の「人間主義」は徹底的に経験する歴史を積み重ねてきた。これこそ「人間の歴史」であり、この力強い真の人間歴史に相当するものは日本には無い。これが日本が「神」の歴史を持たないことの意味である。だから人間の命への配慮が日本は平時・有事とも、ものすごく低いのである。





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3日
おもしろい現象だ。昨年十二月七日に書いた「マルセル 形而上学日記 607 〔補〕 」が一昨日、昨日と、個別接続数五位以内に入っている。この種の比較的難解な節がひとりでにこれだけ読まれるのはめったにないことだ。
 それにしても、この節でも書いたが、こういう読解を培ってきたぼくがこういう仕方で潰されたことは人霊界全体の大罪である。まだ責任をとらずふざけているので、だからこれだけ怒っている。当然だろう。
 多分この節は先月末頃から輪読的に集まって読まれている。メールを送ってくださってもよいですよ。



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今日、夕刻7時の報道で、ロシアのプリセツカヤ氏が亡くなったと報じられた。現在偶々観返していた「チャイコフスキー」で白鳥の湖を踊っていた出演者とそっくりだったので、間違いあるまいと思いつつ確認したらその通りだった。〈偶々〉と〈偶々〉の一致か。こういう一致が何故起こるかと問うこと自体が意味がないか。出来すぎた偶然を重ね重ね経験してきているので、〈人為性〉と〈自然性〉の境目がとっくに分からなくなって久しい。
 昨日二日に亡くなられたそうだ。




 
わすれがたい情景のひとつ このあと水面に芸術家は白鳥の舞(プリセツカヤ)の幻影を観る 動きである踊りは写真には本質呈示的に収められない