ぼくが電子欄を始めて一年経った。あらためて言っておきたくおもうことがある。

 世には、〈有名人〉の不可解な死・消滅ということがある。社会的〈無名者〉を加えれば膨大な数だろう。そして周囲も謎のままにすることがある。ぼくはその「被害」当事者のひとりであるから、このことと、自分の経験したこととを、書き留めるのである。昔、〈欧州情勢は不可解なり〉と言った日本人がいたが、社会自体が不可解なのである。断言しておくが、一当事者である、この謎の渦中を経験したぼく自身も、この不可解さは見極められない、そういう秘密が此の世には存在する。このことに真剣に同意する読者のみ、残ってほしいとぼくは思っている。
 正体は知らない、しかしぼくは、〈悪魔〉(ほかにどういう呼び方があるか、この顔の見えない謎の存在共に)の〈笑い声〉をはっきり物理的に幾度も聞いた。かけがえのない真面目な生をぼくは潰されたのであり、ぼくが黙っていたら此の世に偽りを横行させることになる。


そして自分の本来の生を継続することである。成否はもう問題ではない。自分の信ずる道を一歩でも二歩でも今よりすすむことなのだ。この点においてぼくへの侮辱はゆるさない、神にさえも。

ぼくはたぶん、学者にとどまるには独創性がありすぎ、まったく芸術者になるには思索に秀ですぎている。そのようなぼくは、自分が素直に愛する存在を思索し研究するのがいちばんよいのだろう。そこにおいてこそ、ぼくにふさわしい詩が、散文詩のような、評論のような、かたちで、生まれるだろう。愛する他者のつくった芸術に沈潜することが、ぼくの芸術創造のかたちなのだ。ぼくの欲求は、愛すること、愛をつらぬくこと。他者の創造にかかわることによって、自分も創造すること。

裕美さん、元気かな。いまなにしてる。無数の人がそう想っているだろうに、このかたくなさは何だろう。〔他者がとやかく言うことではない。事情があるにきまっている。'17.2.18〕




 

これがピアノに向っているときの裕美さんだ。甘さがないどころじゃない。よく拝んでおけ



「天才は侮辱に敏感である」という言葉をご存じだろうか。天才かどうかが問題ではない。天にも昇るような自負心のある者は、愛とともに怒りも持つ。動機もなく顕示的に自己肯定する者など普通いない。ぼくが自分、高田先生、裕美さんを、正当にもここまで称揚してみせるのは、愛と同時に怒りに基づいている。





「・・は死ななきゃ治らない」という。・・の本質は、虚偽の或いは空虚な自負、即ち自惚れである。そうである以上、自惚れが死ぬしか治癒はない。これはほんとうに一度死ぬことである。・・は普通、自分は賢明だと思っている。だから謙虚すらにせものである。自惚れの最大の罰が軽薄である。これに死んで新生する起点を、バルト神学に学んだ滝沢克己は〈インマヌエルの原点〉とよんだ。軽薄な自惚れ者が、魂の日常的毀損者だ。それいがいの罪人は論外で、本当の刑法上の死刑対象である。




或るキリスト教神学研究者は言った、「悪魔は純粋な魂をみつけると、全力で潰そうとする。(わたしの経験叙述に)古川さんは悪魔をよく御存じです」。



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マックス・ヴェーバーの理念型(イデアルテュプス)の精神でさしあたり言ってみるが、本質本位がクラシックであり、効果本位がポピュラーである。この区別は、メーヌ・ド・ビランが「内的人間」と「外的人間」を理念型的に分けたこととも重なるだろう。実際の人間はこの二次元の混合浸透であると言うは易いが、個人の根本態度がどちらを選択するかの意識的決断の事柄としては、この区別はやはり決定的である。クラシック態度は本質(イデア)に迫り集中し、したがってメタフィジックを志向する宗教的態度である。これがなければ分野的クラシックもポピュラーと大同小異であり、ポピュラーもこれを分有するに応じてクラシック次元へ深化する。

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きょうは大学・小学校の卒業日だったらしい。小学生の態度言動が完全に大人のなりきり複写であり、大学卒業生のほうに童心(うぶさ)が感じられたのが印象的だった。この童心は自意識の発達と関係するとぼくは思う。子供は達者だ。そこから〈成長〉するとはイデア的童心に還帰深化してゆく過程だろう。




第一周回年 了