新しく買ったパソコンは使いものにならないのでもとのもので書くしかない。技術の蓄積がなかまうちでの競争のみに向けられて消費者に向いてない。
朝からしきりに電動カッターの無粋な音がするのでなにごとかと思っていたら、宅のそばのむかしからあった大きな樹を、枝を小さく切りながら解体しているようだ。最近の報道で人命事故につながる可能性でも指摘されたのだろうか。またこれで歴史が消えてしまった。樹木は人間の命と魂の照応存在だ。それを切ることは自分らの命と魂を切るのであることを解らないのであろうか。そういう感覚に説明が要るだろうか。フランスだったら起こりそうにない光景だ。あの国では環境の調和を安全対策が押しつぶすことはあるまい。人間尊重の基盤のない処(ところ)で真の自然尊重もないことがまだわからないのだろうか。自然美の尊重は人間の魂の尊重にほかならない。イデオロギー化した全体主義的環境保護主義は警戒すべきだが、人間尊重と自然尊重は感覚において不可分であることをぼくはこの電子欄でも黙って示してはこなかっただろうか。みているがいい、けっしてろくなことにはならないから。
 
 生きる糧を得るための経済活動はそれじたい人間の矛盾を生きるしかない業だろう。人間の生のすべての要素を消費社会化することが宿命だ。ぼくもゆとりのない状況で生きているが、神経にさわらないかぎり見て見ぬふりをするという暗黙の判断を持するのも人情か。