――― 「僕の美と愛と信仰」 ――― 集合容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害者です。自分の本来の魂的生を貫くため、そして集合容喙と強制薬害の事実を証言し国に問題を解明解決させるため、この電子欄を書いています。(パリ大学博士)
彫刻家・高田博厚先生の思想と共に生きる電子欄(ブログ)です〔2014年3月25日開始〕。 自著『形而上的アンティミスム序説 ‐高田博厚による自己愛の存在論‐』(2009)の初志を、集合的容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害状態にも拘らず、継続実践します。
拡大・内容
本書は、著者の intimisme métaphysique 〔形而上的アンティミスム〕とよぶ哲学理念の許、彫刻家にして思索家である高田博厚(1900‐1987)の根本思想を初めて本格的に明らかならしめようとする貴重な試みである。その意義は普遍的かつ根源的であり、人間の創造的生の条件が稀な真摯さで反省されている。学問・芸術の魂的原点の確認の為に、また、人生の意味の正面からの示唆を得る為に、
「人間」であろうとする総ての人々に開かれた永続的価値をもつ書である。
revue 「かけがえのないもの」 船より
信仰 「祈り」 魂感 一行詩 きみの翳
信仰:人間の愛 思想は人間自覚である
思想の憲法前文 高田博厚と高橋元吉
マルセル 形而上学日記 ヤスパース ノオト
魂の実証 ―記憶と意志― 序説(高田博厚論)
わたしはかんがえる、ゆえに神を信ず
高田の作品の形而上性 高田先生の言葉
高田先生とマイヨール美術館のこと マイヨールの言葉
「純粋」の直接性と意識性 自分の信にしか神はいない
自己愛と他者愛、そしてイデアとしての神
きみのために 品格 信仰と文化 いのちの二行詩 魂の愛の明晰な力
je suis tout près de Toi Que ce sourire reste en Toi
album 1er album 6e installation d'essai 裕美さん
album cinquième ひとの本質 納得 夜明け Suite
「空」 祈りの世界 誕生日 愛と神 シャルトル聖堂 空
信仰の緊張 「美」の次元 「知性」 平和の行為
彼女のバッハの精神性
きみのショパン、ドビュッシー、ラヴェルを
地中海彫刻の音楽 信仰 一元化 本質
「神」の感得的探求 自己委託・信仰 違う力 人間の力
感覚倫理 自分の魂からの招き
自節紹介 続 II III IV VI( V)
*七生報国の鬼魂となる
必読節:集合容喙関連
かけがえのない身体と神経組織を壊されたうらみは恐ろしいぞ
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〔グーグルでは「高田博厚先生と友と神に ・ 形而上的アンティミスムの思想」から
でも検索できます(「古川正樹」を加えて検索してください)。〕
記録 人間・神を求めるもの 04月15日 16:05*美しいものは否定できない 04月05日 00:20*新しい神を信じることを学び始めている 03月27日 01:25○信仰の覚醒と復権 03月14日 03:35ぼくの小さな信仰 03月01日 01:57記録 試練という観念の捉え直し 02月18日 17:58記録 自分らしい神を信頼する 02月11日 00:14”・記録 時を超える記憶” 公的なものより私的なものを優先するという決断 02月06日 16:38翻訳をつづける '26 01月31日 23:29 一生学生 02月01日 03:46信じる'23 11.1723:45 友に忠実に '23 02月03日 03:20祈る '22.05月10日 ぼくは信仰を、神を求めている 07月28日聖母信仰の真意 10月21日 *愛は瞬間瞬間のもの12月13日”愛の信仰”'2102月28日音楽は人間への信頼 '2012月08日きみへの愛によってぼくは再び世界に開いた 11月14日ありがとうというべき以上のものが伝わってくる きみの笑顔 11月17日応答(コレスポンダンス) 10月27日一緒になりたい魂を感じさせるひとはきみしかいない 10月04日お誕生日おめでとう 10月11日 10月11日いつもともにいます 2020.1.20 絶対的讃 '2112月07日 16:17⁂何の瞬間のために生きているのか'22 07月05日 23:50◎ぼくからきみへ ぼくの独白 08月21日 23:47ぼくの窮極の信仰の言葉04月24日 17:52愛することと祈ること 04月17日 01:33常に愛することは祈ること 愛の修道士の路 04月11日 00:05記録 ぼくの美 愛 信仰 神と人間 '25 04月09日 19:41愛の言葉しか信じないのが信仰であり愛である 03月31日 04:14人生の目標は愛 02月24日 02:07愛の力を経験するために 02月21日 02:14記録 神の意識 じぶんの路を信じてうろたえない2月12日 16:19記録 どうしてこんなにすっきりと、愛に拠らない人間関係全体から包括的に離れたのだろう 2025年01月29日19:00:57僕の美愛信仰01月07日 14:31〇 絶対的なもの01月03日 23:08記録 神とともにある一年であることを祈ります '25 01月01日 00:05一貫したぼくの態度12月07日 00:07 自分への純粋な愛が勝つ04日 23:45力あっての情緒 心を入れ替えて生きる 11月22日 23:31◎不死の信仰11月07日 19:37 ◎ 11月02日 22:17なにに祈るのか10月23日 18:32記録10月10日 23:31〇 寂しさの共有08月23日 22:52〇 直接な安心感 08月21日 23:05※ 裕美ちゃんの世界を尊敬する06月25日 22:57※私話 03月21日 23:10 銀河の曲と海の曲06月17日秘語 '24 03月04日 23:25 ”魂に時間は無い”03月17日 03:09裕美ちゃんへの感謝とぼくの一貫性23.12月12日 02:07記録 「力」無くば弾かず 愛は愛を信じる 2023年07月26日(水)芸術と信仰 愛の修道院の路 12月17日 22:50記録 目醒める処 ほんとうに忠実があれば信仰のみで充分 (美と愛と信仰) 2022年12月03日(土) 00時00分27秒天使の原理はこの世の者の原理とは違う 12月26日(月) 06時17分記録 逆説的恩寵 きみに祈る 遠くて近い神'22 10月29日 00:00きみに祈る'22 10月25日 22:14 心懸け 10月23日きみは神のところに居るのだから、ぼくがきみを愛するのは神を愛するのと変わらない '21 07月14日✙告白 反省を揚棄 '21 06月18日 ✙独白証言06月11日✙一音に宇宙を感じるように全体を弾くことの別世界性'2111月17日 23:08きみが真剣なひとだから 10月09日 遠くを見よ10月11日 23:52自分への言葉: 課題への思念で自分を整える '20.7月30日 00:23ぼくの祭壇09月04日 18:52ぼくにとって祈るとは 記録 08月09日 04:45祈りとは唯一の愛する存在に面すること 08月09日 01:58 記録 7月24日 14:41 きみにかぎりない「ありがとう」を 07月25日 わたしはいつもあなたの思うところにいます 07月20日 01:52 ぼくはとても寂しかった 07月15日 記録 造形と音楽 行動するもの 07月09日 03:12 音つくりの天才 きみとぼくのこと 07月09日 04:57アルバム「かけがえのないもの」 青空に瞬く星 06月20日 23:15 語らい 6月15日 記録 6月11日 10年の月日を思って 5月22日 呼吸に宇宙を包む演奏5月11日 信頼は主体的なものである5月8日 静かな親しい奇蹟 4月17日 私記録4月21日 語り合い5月4日”amis solitaires ou DIGNITE”4月10日 愛は現前であり、現前に立ち会い得ることである。ゆえに日々の祈禱なのである。 その前ではすべてを措いて立ち帰らなければならない。そこにほんとうに沈潜するために。 愛は現前である 私記 魂に時間は無い 3月17日 *最初にあるものは不変のもの 3月1日 ”ぼくのクレド(信仰条文) ” 02月22日 12:03 (再)*「ママン」の話 「ふだんの生活」と「本当の願いごと」 02月19日こころの祭壇の灯を消さないように 2月4日 ぼくの信仰 1月19日 教養がすべての基本 ” きみの本質への信仰 ” 1月10日 きみと共在しているという超主観的な実感のなかで生きたい裕美ちゃんへ 12月04日 01:52*きみの本質への信仰 2018年11月25日 23:41音楽において直に感じるきみにぼくの永遠の愛を捧げます11. 2無限な時間空間、自分の魂を、弾く こころが鎮まるほどに 10月19日 23:52 ”テオリア(観想) 歴史の意味” 愛の感覚論・過去を大事に10月09日 ぼくの思いを救ってほしい 10月05日 個 08月22日 主よ、ただ信仰と確信だけをあたえてください。 そうすれば、自分のことも愛する者のことも不安でなくなります。 ノヴァーリス尊敬 08月08日 01:31 美しく弾く 愛の修道院の路で 08月12日奥の深い魂 07月29日 01:46 ”dialogue sans titre ** それほどの愛を発するほどにも” 7月23日 小休止 7.14 7月14日 05:02銀河の距離 6月20日 驚嘆 そして愛より尊いものはない 6月14日記録 6月12日 きみの「偉大さ」 6月7日 23:25象徴 奇蹟 5月24日 15:08夫婦 '17. 9. 22 petit dialogue 5. 22”「魂霊」の世界への参入 ” 愛の修道院の本路5月19日 1:52きみを想うことが ぼくにはいちばん創造的なのだ 5月9日 15:03銘記(個) 愛の修道院の路で 05月03日 23:32 愛は、一緒だという想い 4月20日 15:55雨の夕の想い 生そのものへ 生は愛 4月17日 18:42 フランスの聖堂建築のような演奏 04月13日 20:22vie (個) 04月13日 10:33 空の十字架03月31日 01:56*神への呼びかけである祈り 03月29日 00:05裕美ちゃんの十字架の飾り 03月07日 (私) 3月8日 17:05 日記 02月21日 聖・裕美さん 02月19日 02:17愛の修道院の祈り 02月17日 23:59信仰のインスピレーション(個) 02月16日 22:05交心(コミュニオン)としての愛の世界 02月16日 02:52 信仰は自力と他力が音叉の両極となったハーモニーである 02月16日 02:02魂の耽美 02月02日 22:30ぼくのクレド(信仰条文) 01月20日 01:23 2007年ライヴでの裕美さんの演奏の、熟練も気魄も桁違いな素晴らしさは、観なければわからない。技にも表情にも、予想できない感動を覚えます。彼女はほんとうに多様な面があって面食らわせる、内容をぎっしり感じさせるひとだ。演出的表面とはまるでちがう。ぼくの言いたいのは、彼女の弾く全曲の完璧で優美な音色は、すべて、異常な緊張と努力によって創造されていることが、ここから納得される、ということなのだ。 1. 16「堅信」と「覚醒」と「慎み」きみの気持に応えるために 01月17日 23:08きみの気持の声 01月17日 00:17 秘記(覚知) 01月01日 19:12 きみへの愛 IN MY ARMS TONIGHT 12月22日 20:38 故郷性のある演奏 1月5日 この世にきみのピアノのようにきよらかで美しいものをぼくは見いださない。ほんとうに わたしと一緒に生きましょう 溢れ出るきみへの愛 それはぼくの生そのもの全世界を視ても ぼくはきみしか観ていない きみの「思想」 きみの世界を崇拝する '17. 6. 20私記* 12月21日 02:21 熱烈に 11月28日 16:44*神に至る愛 愛の修道院のなかで2017年11月04日 03:56 告白 10月06日 22:47 きみと共にいることは、ぼくがぼくとして在ること 10月06日 03:52 (個人覚書) 10月01日 02:20 事実と信仰 (覚書) 09月28日 19:03 ぼくには 07月27日 23:57愛は発するものであると同時に求めるものである 7月26日 00:16 記録愛の修道院のなかで 06月25日 17:05 記録愛の修道院のなかで 07月19日 14:11 ぼくは、ぼくのなかのきみいがい、もう信じたくない。信じることの前ではすべては無力であり、信じることに合わせるしかない。(7.17)愛は現前である 07月07日 14:22 *日々の誓い 信仰(個人) 非公開 あなたは私だけを信じてちょうだい。私はいつもあなたと一緒よ。 ぼくを知ったいまのきみの表情をみたい。ぼくのなかでしかみられないきみを愛して愛して愛しぬく。ぼくの救いより大事なこと。そこにのみぼくはいる。 ―これがぼくの信仰の生の核心であり自由である。信仰は天のご機嫌とりではない。天に逆らっても自分の本心を敢行することを自分で肯定することを、信仰という。―〔神がどう思うかをぼくは知り得ない。神の意思に基づいて生きるということは、よって、欺瞞である。信仰は、自分の決断と決意に基づいて生きることを敢行しつつ、神に面する態度において絶えず自分を問うことである。信仰内容は、個としての人間の歴史性の集積の深みから生成する。17.6.10〕きみの演奏を聴き きみの魂を愛することは 他のいかなることにも優る私録 Kakegae No Nai Mono 素材にこころを籠める内部の世界に集中せよ内部の世界に集中する、これはまことに「神の召命」なのであり、修道精神の本質である。このゆえに美意識は生の路を宗教的たらしめ、そのかぎりで倫理的たらしめる。倫理とは、生を「愛の修道院の路」たらしめる魂の希求である美意識の、美意識そのものからの自己統制であるほかの意味をもたない。「内部の世界に集中せよ」、この意味するところがぼくはきょう(17.6.9)身に染みて痛切に解った。ぼくの今後のすべての生を支配するだろう。 「神」に導かないのなら芸術にはいかなる真面目な意味も無い。そして芸術の意味を知ったのなら修道士の生を生きざるをえない。このことがいまぼくに真剣な実践として自覚された。 夢想であったものが真剣なものとなった。 愛の定義 3月23日 愛の修道院の路 3月25日書き始めて三年の日 「神」と「愛」”247 自己委託・信仰 '19. 5月24日 言葉を離れて 05月06日ミューズ 満ちた思念 01月11日 人間がなぜ「神」を思念するようになったかを了解する気持だ。「別の世界」である「美」の経験によって。 愛とは、生活すべてが神聖な儀式となることである。おのずから生活が修道院となる。ほんとうの愛 ほんとうの仕事 音楽への感謝 3月31日 21:52きみの 魂の意識を籠める音楽づくりには 聴くたびに尊敬する4月2日(日) 00:08:19自分の過去の思索を担わなければならない。「愛の修道院」のなかに生きながら思索をする。それは「問いの集中」である。この集中がぼくには「祈り」であり「作品の路」である。ぼくはいま 問うものの外部からではなく 問うものの内部から問う境位にある。すべて裕美さんのおかげである。 2016年11月08日(火) 22:31:42永遠というものがあるとしたらそれは「記憶の王国」であり、そこではすべての愛と美の記憶が生命をもって生きており、生の本質と現実そのものであり、そのすべての記憶はその意味と内実をますます深く無限に開示しつづけるような世界である。2017年03月08日(水) 22:52:00無限を知るとは、いのちに共振することである。無限でない いのち はない。支える言葉 2016年11月21日(月) 21:11:56ぼくは人間の本性は愛であると思っている。自分に反さず生きていれば、愛の方向にゆくしかないと思っている。愛のほかに、自分のほかに、なにを得ようとするのであろうか。自分を得ることは世界を得ることではない。愛を得れば世界を捨ててよい。自分は自分にしかない。愛は自分にしかない。生きていれば、「愛の方向にゆくようにできている」。これが運命であり自由である。 愛がなければ愛さないがいゝ 愛さねばならぬといふ愛はない 愛さずにはゐられないといふのが愛だ ―「愛」 『耽視』より―愛とは いまここで一緒に居ること 02月26日 23:39愛の意志は必然 '20. 01月21日 23:39*尊敬・自由・忠実 03月07日 12:32聴く力の飛躍 これほど勇気をあたえてくれるとは… 04月06日 17:57”きみといるのがいちばんいい” 04月07日 01:25祈り 05月01日 23:28きみの演奏が経験させる 完全性の世界の存在 07月27日 01:37✙魂は「美と愛と信仰」である ”*** 魂と意識 自他の幸福…10月05日 01:57これほどの彫刻的な美しさ11月01日 14:58 ぼくの愛と美と信仰 *ヘルダーリン的な愛によせて 12月23日 16:23あらためて解る裕美さんの天才 '2101月04日 23:52有名人ではないきみへの愛 01月08日 00:33灰とダイヤモンド 01月22日 18:45愛をいだいた魂は護らなければならない 02月26日 17:15完璧とはどういうことかを知らせてくれるきみの演奏 2020/11/19きみの演奏の、聴者の理解を超える完璧さ'2103月03日 23:57*きみのインディーズアルバムは永遠です 04月26日 19:30無心の美 05月19日 01:55 裕美ちゃんを大事にするのは ぼくの宗教なのだ07月09日 17:35きみと神 07月27日 03:55観想 '2201月22日 21:01 観想01月24日 18:55⁂ 人間は自分のみに責任がある ぼくの目覚め 愛の定義 02月06日(日) 01:22:07 きみの演奏02月07日 00:03記録 ぼくの目覚め 愛は欠乏ではない02月12日 00:00手紙 04月02日 02:06⁂私記 04月03日 02:07 私話04月04日 21:20”仕事することは生を集中させること きみとぼくだけができる…03月26日 23:11記録 光を通す穿孔 05月28日 00:00記録 音楽は生命だ 05月28日 22:10聖休話 10月03日 04:46記録 お誕生日おめでとう 2022年10月11日 00:00午前零時は神聖な魂の時間帯 10月16日 00:41小さな水晶玉のような自分 '25 08月09日 01:23
意志と生 '25 08月11日 22:46真剣なきみの美しさ 美そのものが思想である 02月07日ギリシャやイタリアに行っても きみとの愛をたしかめることしかないだろう 06月04日 17:10自分を自覚的に培った者でなければ きみのほんとうの美しさはわからない 03月25日 00:23芸術創作より尊いものは、愛 03月23日 00:50愛の態度 '19年03月22日 04:21”啓示の音楽 きみはぼくの手本” 12月09日 01:26愛し信じるという力 11月10日 23:41 信頼 11月28日 15:15 人格と信仰 10月21日 20:57 大事なのは感情だけ 10月07日 22:22 魂の境位 10月07日 02:01 ”philosophique” 不動の感想 06月21日 15:21信頼したいひとは実際に信頼できる 05月20日 22:01信頼したい人間を信頼できることこそ幸福 05月19日 19:05記録 05月11日 覚え書き 05月13日 14:46きみは、演奏のなかに時を止めてしまう4月11日 ピアノで復活してください 12月17日 愛おしいきみ 1月25日リルケを読みはじめたら きみのこの写真がぼくのなかにすうっと入ってきたんだ 原初的なきみ といったらいいんだろうか とにかく宇宙なんだ かけがえのない モナリザもかなわない 謎めかしているのではなく ほんとうに存在している きみを感じることにより ぼくもぼく自身に戻ったようだね 感じるとは 見るとは 存在である本質をみることいがいにない最初に感覚ありき そうでないものはすべて自己欺瞞だ ぼくは自分の感じたとおりにきみを尊敬する 天使の健康 09月22日 04:21懺悔し祈りたくなる曲 09月14日 23:50魂の演奏 '2109月11日 02:14記録 変わらないきみとぼく いつも魂を瞑想しよう 3月23日実感 記録 2月26日 私記 4月4日 2:57 格率 2月21日 個人記録 2月20日第31巻 真実のきみを愛する 02月17日 「学問の道」という偏見 沈黙の重み 2月12日 (晴のこころ) きみの存在は永遠です 2月4日 祈る愛 12月20日 きみと共在しているという超主観的な実感のなかで生きたい'21.7.31純一な美しいきみ 感覚的なひびき 12月12日 00:02 個人記録思うことは観ずること、創造すること 12月08日 00:08 参照愛のゆえに最後まで信じる者は救われる 12月6日参照 12月7日きみへの祈り 11月28日 22:52愛であるぼくが 愛であるきみに面している そのほかは いっさい無 音楽は愛である 12月05日 21:22*最真のこころ 11月27日 11:57この開放的な信仰は、裕美ちゃんのこころと繫がっているという実感である。(ぼくはたいへん大事なことを言った。)きみに向くと明るい気持になれる 11月26日 00:03 キリストよりも何よりも ぼくはきみを得たい。きみはぼくのキリストだから。+具体的経験の思想 (欄の第二段階) 11月19日 03:20愛と美と信仰という形而上の主題に集中する 11月18日 16:21個人記録 11月18日 15:06*愛における努力 11月17日 15:52愛情の安定 11月16日 03:52ほんとうの兄弟のようにぼくのこころに住むひと 11月愛とは 11月05日 14:11 恩寵そのものである愛するひととの交流のなかに生きていて、克服すべきものが無い状態である。以前は問題であった物質的なものへの膠着が消えてしまっていて、浮かんでも消える泡でしかなくなっている。存在論的に、愛しか存在しない。あとは妄念である。気づき 11月03日 裕美ちゃん、いま、ぼく、はっきり気づいたの。きみの音楽を聴きながら。 きみを恋し求める気持と、神に祈る気持が、まったく同じだということを。形にすべき真実の選択 11月03日 19:03第二の新生 11月03日 01:33きょう 月と金木犀 10月24日 14:40ぼくがぼく自身であるかぎり、どこかでぼくの名誉は保たれている。これはまったく明瞭なことであるように思われる。”きみとぼくのために書いてゆく” マルセル的感覚 10月22日 01:17無限な時間空間、自分の魂を、弾く こころが鎮まるほどに 10月19日 23:52 裕美ちゃん、2018年のお誕生日、おめでとうございます 10月11日 きょう寝る前の覚書 10月12日 03:33 歴史性・過去 (故郷性 個性と愛と形而上) 10月17日 00:30原石の美しさを大事に10月06日 18:31無条件に命令するもの 09月23日 01:23愛は自分で安定させるもの 09月14日 23:56教えてほしい :詩 09月14日 18:05愛は言葉にするものだ 09月14日 02:10魔彩鏡の「いのちある無限空間」 09月13日 18:46小休止 休日 09月13日 02:01小休止 語らい 09月11日 19:19IN MY … 告白 09月10日 02:23 永遠に はじまったばかりの愛 09月08日 00:23奥の深い魂07月29日 01:46個 08月22日 16:21愛するということ 08月24日 23:39ノヴァーリスの言葉 08月20日 21:56送信記録 個 08月20日 02:50 《現実が心を通すときはじめて現れる真の具体化》 08月19日 23:01愛への組み込み 08月21日 02:02ぼくは知っている 08月13日 22:41 ぼくの心は神の鏡 08月16日 23:38寂しさは恩寵 08月17日 23:25自分の内部の秩序いがいの外部の秩序は、じぶんの思うように作りかえればよい。 8.19 *知性人としての尊厳をもつ 10月07日 19:31「神」は主体性のため 08月22日 01:20自分の定位 「生き」て創造する 08月22日 04:05心の原則 08月23日 18:57*愛と祈りは形而上的な意志として同一 '19 04月02日 23:37記録 6月7日 ”(参照)10月11日生まれ” 07月17日 12:37愛はすべてを許す 08月03日 00:01愛おしく思えるのは相互同意あってこそ 08月10日 05:21祈りは呼ぶこと 08月09日 20:27記 08月25日 精悍 集中 08月28日 「強さ」をだれが理解するか 08月28日 ”Suite 紫のひかり 暖炉(665)” 11月18日 13:23 ほんとうの覚悟とは 08月30日 22:17バッハを凌ぐ魂の深い世界 09月12日 03:25自己の反省 09月12日 02:16ぼくを仕合わせにする行為 10月04日 15:41愛とは 10月04日 22:14最後まで信じる者は救われる 10月12日 23:07”小休止 音つくりの天才 きみとぼくのこと” 10月13日 03:01きみへの感嘆と尊敬の一貫した実感 10月21日 01:35超越であり解脱であるきみのピアノ 10月21日 23:26私記 10月22日 18:52*知と美 10月26日 18:56”きみの本質への信仰” '19年10月28日 01:20”真摯 慈悲 「神の神経」の手” '15'21 03月16日2018年11月25日(日) 03時00分31秒ぼくには、きみの本質を信仰する気持がある。きみは きみの演奏によって自分の魂を直接に証して、経験させてくれるから。 この信仰は、きみの経験させてくれる内的世界の美の実感に支えられた、きみへの純粋な魂的な愛であり、そしてこの魂的愛を核とした、きみの存在全体への包括的愛です。そしてぼくがこの、きみへの、証された美の実感とひとつである愛を信仰としてもつのは、或る、といっても痛切に実感する、親しさと懐かしさがひとつであるような憧れとしてなのです。そこでは、きみにおいてぼくはぼく自身を根源的にとり戻し、同時に、きみの魂とも融合しています。これらはすべてひとつのことなのです。このひとを畏れよ 10月28日 02:132015.9.3 *演奏できみがどれだけ苦心して集中しているか!なのに聴く側がどれほど散漫で注意力が欠けているか、きみが実際に表現しているものがどれだけ深い心情の世界か、そういうことをきみを聴きながら感知するたびにぼくはいつも愕然とします。ぼくはおもうのだけど ほとんどの人はね、いま、きみの居るような世界に住んでいないのです。そうぼくはおもっています。やかましい騒音音楽を聞いている人々が きみの表している世界に沈めるとはぼくはおもっていないのです。きみもやはり、「文化は少数者がつくる」という言葉をぼくに噛みしめさせるひとなのです。純粋さが いかに深い奥のある世界か、きみがぼくに感知させてくれるのはこのことであり、ぼくはきみの「深い純粋さ」の前に頭を垂れます。 きみの演奏で、あふれるような優しさの泉から注意深い知性の配慮努力を通して生みだされないようなものはひとつもありません・・・ きみは、平和に貢献するというよりも、平和が何かをおしえてくれる ひとなのですぼくはもうこの欄に純粋なものしか入れずにきみとだけ語りたい、ぼくを養ってくれた世界を。それがもうずいぶんまえからのぼくの意思でしたね…小休止 語り合い きみの魅力は本物 '19年10月29日 01:33 深い静謐から生まれてくる音楽 10月30日 01:56””album cinquième” この時代のなかでの恩寵”11月01日 02:00心を一つに 11月03日 17:31きみの微笑みの明るい深さ 11月09日 21:11*愛とは、ほかを捨てることを命じる唯一性である'20. 02月23日 00:08*ぼくの最深の思想 03月05日 23:10祈りと音楽 03月09日 00:07路の生んだ表情 03月10日 02:17きみはぼくのなかという安心感 06月23日 23:58満足さえ超えさせるきみの完璧な演奏 09月18日 22:46✙不思議な偶然09月30日 23:42小休止の会話 10月07日 03:45 正統的でありながら個性的10月13日 23:41*”私記”10月22日 01:45✙記録 意識の塵と、純粋ということ 10月25日(日) 17:52きみへ11月15日 23:22かけがえのない存在であること11月17日 23:42完璧とはどういうことかを知らせてくれるきみの演奏(魂の夢と覚醒) 11月19日 22:52””「私」と「私の身体」” マルセルの反省意識”12月01日 14:14✙ぼくときみとは最も理想的な形で結びついている12月01日 21:19”きみのピアノだけが” '2012月13日 03:33 きみの多様な表情の不思議さ 12月13日 17:06小休止 12月15日 01:50人間の最大の幸福は 精神的にしていられるということ12月16日 00:16遠いまなざし 愛という深淵 愛の修道院の路で 12月16日 16:55神がどういうものかをわれわれは知らないように、愛がどういうものかをわれわれは知らない。 ただ愛を生きるのである。いっさいの愛論からの独立12月22日 00:46祈りという充実 12月20日 02:46””おなじ人間だから …””愛の修道院の路で '2101月05日 16:03きみについて02月16日 02:22きみのこと03月08日 22:18*公開に向かない秘密の真面目な会話03月09日 01:18 ぼくにとって大事な私記 03月14日 02:46きみとぼくは期待をうらぎらない04月01日 01:51きみの「BEST+3」04月05日 19:19私記04月06日 23:17”信仰日課”04月07日 15:10きみはぼくの護り神 04月09日 14:39ふしぎだなあ …05月02日 13:50portrait 05月31日 15:08覚え書き06月04日 02:52まず自分が悔い改めること 06月04日 22:01高雅 06月22日23:38表情に内容が溢れている 08月08日 01:53アルバム「君に逢いたくなったら」讃 08月31日 22:57きみの人間性を尊敬しきっている 09月02日 23:11*生活に追われる生ではなく魂の生を 愛の修道院の路で '22 02月14日 01:25自己を諦めない者にしか未来も永遠も神もない02月16日 03:10*自己肯定感をあたえてくれるきみの演奏03月28日 22:58⁂私語 04月09日 23:10⁂私事記録04月25日 22:58遠くて近い神10月27日 01:05
古川正樹訳《つづき》 この反論に応えるために、もう一度、神秘と専心について言われたことを参照することが必要だと私は思う。事実、感応力の概念がここで歓迎され得るのは、超-問題的な領域についてだけである。もしこの概念が客観的意味において受け取られるのならば、つまり合力の概念だが、それなら我々は全然形而上学的ではなく物理的な主張に面することになり、この主張は本性上、一切の異議を事実的に取り除くものとなろう。私が、ひとつの存在者が私に、現前あるいは存在として与えられている(このことは同じことである、というのは、もしこの存在者がひとつの現前でないならば、この存在者は私にとってひとつの存在ではないからである)、と言う時、このことが意味するのは、私はこの存在者を、あたかもこの存在者が単に私の前に置かれているかのように扱うことは出来ない、ということだからである。彼〈この存在者〉と私との間には、ひとつの関係が結ばれており、この関係は或る意味においては、私がこの関係に関して取るかもしれない意識をはみ出しているのである。彼はもはや単に私の前にあるのではない。彼は私の内にもあるのである。もっと正確には、これらのカテゴリーは克服されているのであり、もはや意味を有しないのである。感応力という言葉は、まだ余りに空間的・物理的な仕方でではあるが、一種の内的寄与を、翻訳〈表現〉しているのである。これは内面による寄与であり、この内面は、現前が現実のものとなるや否や、実現されるのである。まったく一挙にして、(p.292)つぎのように考える誘惑は、殆ど抗い難いものとなるだろう。その考えとは、この事実的現前は客体の現前でしかありえない、という考えである。だがこのことによって、我々は神秘の手前に、つまり問題的なものの次元に、再び落ちてしまう。その時、この、絶対的忠実の抗議が鳴り響くのである:《私が汝に触れることが出来ず、汝を見ることが出来ない場合でさえ、私は感じる、汝が私と共に居ることを。それは、そのことを確信しないとは、汝に言わせないことであろう。》 私と「共に」:この「共に」という語の形而上学的価値を、ここで記そう。この語は哲学者たちにひじょうに稀にしか認識されずにきており、内属関係や内在関係には応対せず、外在関係にも応対しないのである。この語は本質的に重要である — 私はここでラテン語を採用せざるをえない — 本当の「共-在」(coesse)という語を、すなわち、実在的な親密性という語を。この語は、批判的反省が分析に掛けるよう供される。だが我々は、別の反省が、この反省そのものに関する反省があることを、既に知っている。この反省は、潜伏している直観に応対するものであり、この直観は盲目的ではあるが成果のあるものであって、この直観の秘密な磁力を後者の反省は受けるのである。 つぎのことを付言しなければならない、— これによって我々は別の領域に移る準備をする — このような親密性の価値は、とりわけ生者たちと死者たちとの間の交易を見るなら、いよいよ高く、いよいよ反論の余地なきものであろうから、このような関係は、よりはっきりと、全体としての宗教的自在の世界のなかに位置づけられることになるだろう。すなわち、純粋な慈悲の世界であり、私は事のついでに記すが、創造的忠実の上昇的弁証法は、希望の弁証法に対応するのである。希望の弁証法については私はさきほど示唆した。 自在の概念は、我々の主題にとって、現前の概念に劣らず重要である。付け加えるなら、両者の間には、明らかな繋がりが在るのである。(p.293) 否定し得ない経験事実であるが、その経験事実の理解可能な翻訳〈表現〉を呈示することが難しい、そういう経験事実が、或る存在者たちが存するということであり、彼らは我々に現前者として、すなわちここでは、自在者として現われるのである。そういう場合とは、我々が苦しんでいる場合であり、我々が自分を委ねる必要がある場合である。そして他の人々がいて、この人々は我々にあの感情を示さないのである。そのほかでは彼らの善意志がいかにあり得るにしても。直ちに注記すべきことは、現前と非-現前との間の区別は、いかなる仕方でも、注意深い存在事実と放心している存在事実との間の対立へはもたらされない、ということである。最も注意深く、最も良心的な聴衆が、不自在である印象を私に与えることがある。彼は私に何ももたらさない。彼は彼自身のなかに私の場所をほんとうにつくることが出来ない。どんな物質的な貢献で彼が私を満たすかもしれないにしても。実際に、与える仕方であるような聴き入る仕方というものがある。別の聴き入る仕方もあり、これは拒否する仕方、「自分を拒否する」仕方なのだ。物質的な贈与や可視的な行為は、必ずしも現前の証言であるというわけではない。証拠については話すまい。ここでは証拠という語が断言するだろう。現前とは、自らを直接に、疑う余地なく明かす何かであり、それは眼差しにおいてであったり、微笑や語調において、手の握り方においてであったりするのである。 これらすべてをはっきりとさせるために、私は言おう、自在存在とは、私がその者を必要とする時に私と全面的に共にいることの出来る者のことである、と。不自在存在とは、逆に、私に有利なように、資力全体の上前から、その資力を自由にすることが出来るに応じて、一種の一時的な天引きをするように思える者のことである。前者にとっては、私はひとつの現前であり、後者にとっては、私はひとつの客体である。現前というものは、相互性を孕んでいる。この相互性(p.294)は、おそらく、主体から客体への、あるいは主体から客体主体へのあらゆる関係によっては、排除されているものであろう。そしてここで、不自在性の具体的分析が必要であることは、裏切り、否認、あるいは絶望の分析が必要であるのと同様なのである。 実際、不自在性の中核に我々が見いだすのは、常に、或る疎外〈精神異常〉である。人は、私に或る不幸を説明して、それへの私の同情を請う。私は、人が私に言うことを理解する。私は、まったく抽象的な仕方で、人が私に語る人々が私の憐れみに値することを認めるのである。私は、その場合、共感によって応えるのが論理的で正当だろうということを見分ける。もし人が望むのであれば、この共感に、私は同意する。だがそれは、ただ観念においてのみである。というのも、結局、私が白状するのを強いられることは、私は何も感じない、ということだからである。もっとも、私はそのことを残念に思う。この矛盾、私が事実として体験すること — すなわち、私の無関心 — と、私が認めること、つまり私は体験しなければならないだろう、ということとの間にある矛盾は、私には辛く、私を苛つかせるものである。この私の矛盾は私自身の目には軽くなることさえあるが、無駄である。私の内に留まり続けるものは、かなり白状し難い感情であって、結局私の知らない人々のことだ、もし、人間のすべての不幸に心を動かされるべきならば、生きることはもはや不可能だろう — それに、生きることはそういうことでは満足しないだろう、というような感情である。私が考え始めるや否や、こうなのだ:結局、それは七五-六二七の場合でしかなく、それで終わりであり、私はもはや何も体験出来ない、と。 だが、現前的で自在的な魂の性格特徴は、まさしく、「場合」によって思惟することを全然しない、ということである。魂にとって「場合」は存しないのである。 それでも明らかなことは、ある存在の普通の成長は、この存在に関わるものと(p.295)関わらないものとの間の、ますます正確になり自動的なものとなる或る懸隔を孕んでいる、ということである。この存在が責任を有するものと、責任を有しないものとの間の懸隔である。我々各自はこうして一種の心的空間の中心となり、密着と関心が徐々に減少する諸々の同心〈求心〉地帯に応じて配置されるのである。それは根底において、あたかも我々各自が、次第次第に固く各自を閉じ込める貝殻を分泌するかのようなものである。そしてこの硬化現象は、諸カテゴリーの硬化と結びついているのである。それらカテゴリーによって我々は世界を表象し、発展させるのである。 我々各自に幸運にも起こり得ることとして、あの自己中心的なあらゆる地形図の枠を破砕するに至るような出会いをすることがある。個人的には経験によって私の理解できることなのだが、出会った未知の人物から、偶々、突然に、抗し難いひとつの呼び掛けが立ち昇ってきて、すべての習慣的展望がひっくり返されるに至るのである。それはまさしく、一陣の突風が、等間隔に分けられた衣服の飾り裾をひっくり返すようなものだろう — 近くに思われていたものが無限に遠くになり、そしてその逆も起こる。それは、あまりにしばしば、殆ど直ちに再び閉じてしまう割れ目なのだ。このような経験は我々にしばしば苦い味を残す。悲しみの印象、そして殆ど苦悶の印象を。それでも私はこれらの印象を有益なものだと思う。なぜならこれらの印象は我々に示すからだ、いかに瞬間的閃光のなかで、つまるところ偶発的なものが、そう、不測なものが、精神的に結晶化するかを。この精神的結晶こそ、我々の人格体系を基礎づけるのである。 だがとりわけ、或る存在者たちにおいて実現された聖性の事実は、そこで我々に明かすのである、我々が普通の秩序と呼んでいるものは、結局、上位の観点からは、つまり存在論的神秘のなかに根差している魂の観点からは、反対の秩序の転覆でしかない、ということを。このことに関しては、(p.296)そのすべての具体的属性を入れた聖性についての反省は、途方もない思弁的価値を呈示しているように私には思われる。この反省は存在論への本当の入門であるということを私に言わせようとして、私をそんなに急がせてはならないだろう。 ここで更に、欠くことのできない魂と共にある確認が、我々の主題に、決定的な明晰さを与えるのである。 不自在であることは、いわば、ただ忙しいということであるのみならず、自己に埋まっていることである。いうなれば私はこう言うのだ:直接的な客体は際限なく多様であり得る、と。つまり、自分のことで忙しいということは、自分の健康のことで、自分の財産のことで、自分の諸々の愛のことで、忙しいという意味かもしれない。そして、「自分の内面的完成のことですら」忙しいかもしれない。ここから人は、つぎの結論を引き出すこともあろう、すなわち、自分のことで忙しい、とは、この場合殆ど明示し得ない「或る客体のことで」はもっとずっと忙しくない — つまり「或る仕方で」忙しいということだ、と。この仕方が、定義されるべきものとして残っている。知らなければならないことは、自分のことで忙しいことの反対は、空虚あるいは無関心だということではない、ということである。ここで対立し合うことはむしろ、不透明であることと透明であることである。だがこの内面的な不透明さそのものは、もっと省察することができるようにならなければならないだろう。私の思うに、問題なのは、一種の閉塞、あるいは固定化である。また、私は自問する、精神分析の或る種のデータをおおいに一般化し緩和して使うことによって、そのような固定化の観念が、ある一定の領野や記録簿において、それ自体は固定化によるのではない不安をも、固定化によるものとして認めることになってはならないのではないか、と。ただ、注目してよいのは、この種の不安はこのような固定化の中心に陣取っており、この固定化にあの苛立ちの性格を与えている、ということである。この苛立ちの性格については、私は堕落した意志のことを述べた際に一言した。これらすべてのことが考えさせるのは、この曖昧な不安が、実際に(p.297)時間性の苦悶と混同されるということであり、死へ「向かう」のではなく死を「通して」の人間の憧れと混同されるということである。 悲観主義の根は、不自在性の根と同じ根である。つまり、もし、不自在性が、我々が老いるに応じて増大するとすれば、それは、余りにしばしば、苦悶が我々の内で成長するからであり、我々を窒息させるまでに至るからである。我々が、終りとして我々の見做すものに近づくに応じて、苦悶から我が身を護るために、この苦悶は、ますます重々しく、ますます細心に、そしてまた、私は付け加えよう、ますます弱々しく、防御装置を働かさなければならない。希望への不適性は、存在者がますます自分の経験の虜に、そして諸カテゴリーの牢獄の虜になるに応じて、ますます完全となる。この牢獄においては、あの経験は、彼がますます全的に、ますます絶望的に、問題的なものの世界に自らを委ねる程、彼を閉じ込めるのである。 そしてここで、一束になるように、主要な主題的諸動機あるいは諸要素が再び結び合わされる。これら動機や要素は、私が相互に前後して呈示するよう強いられてきたものである。最も自在な魂とは、反対に、最も聖別されたものであり、最も内面的に捧げられたものである。このような魂は、絶望にたいして、自殺にたいして、防御されている。絶望と自殺は互いに似ており、交わっている。なぜなら魂は知っているのだから、魂が自分自身に拠って存在しているのではないことを。そして、魂が自らの自由から為し得る唯一の完全に合法な使用は、その本質をまさしく、魂は自らのものではないことを認識しているところに有している、ということを。まさにこの認識からなのである、魂が行為し得、魂が創造し得るのは… どんな諸次元にも、一瞬でも包み隠されるような諸困難というものは存しない。そのような諸困難に、(p.298)この型の哲学はぶつかるものである。この哲学は不可避的に、自らが困った二者択一に直面しているのを知る。すなわち、その諸困難であるが、その哲学はその諸困難を解決しようと試みるだろう。その諸困難に回答を与えることで、その哲学は、自らの内にある生命的諸原理を無視する、教義神学の過剰に陥るだろう。そしてまた、私は付言するが、不敬な義神論の過剰にも陥るだろう。あるいは、その諸困難を、この哲学は単に存続させるだろう、この諸困難に神秘というレッテルを貼ることによって。 この二つの暗礁の間に、「中間の通路」(via media)が実在する、と私は思う。狭くて困難な、危険な路である。これが、私が描くのではなく見いだすことに努力した路である。ただ、人はここでは、カール・ヤスパースがその「実存の哲学」でしているように、呼び掛けをしか為すことが出来ない。私が確認する機会があったように、幾人かの意識たちが応答する場合、意識一般ではなく、この人、この別の人が応答するのであり — それこそが真に存在する路なのである。だが — 私の思うに、プラトンはその路を比類の無い明晰さで見たのである、— この路は愛によってしか見分けることが出来ず、愛にとってのみ見ることが出来るものであることを。そしてここに姿を見せるのが、この超 問題的なものの有する、他のすべての諸性格よりも多分もっと深い一性格なのである。この他の諸性格の或る種の諸領域の探索を私は試みたのであった。 ひじょうに深刻な別の反論が、遂に記されねばならない。人は私に言うだろう:《実際、あなたがおっしゃるすべてのことは — もっとも、白状されておらず公式化されてもいないが — キリスト教の諸所与への参照をふくんでおり、積極的にはそれらの所与に照らされてのみ、明かされるものである。このようにして、我々は納得する、あなたが現前ということで理解しておられることを、我々が「聖餐」を想起する時に。創造的忠実ということで理解しておられることを、我々が「教会」のことを考える時に。だがその場合、このような哲学の価値はどういうものであるのですか? 非-キリスト教的な意識の人々にとって、すなわち、(p.299)キリスト教を無視する人々にとって、あるいは、いずれにせよキリスト教に加わることは出来ないと自己声明する人々にとって》、と。 私の応答はつぎのようなものとなるだろう:キリスト教の根本的な諸所与の実在が、それらの分析を私が素描した諸概念の幾つかを精神に理解することを許すために、「実際に」(en fait)必要である、ということは、とてもありそうなことである、と。〔だからといって、〕人は、それらの概念がキリスト教の啓示への依存の下にある、とは、間違うことなく〈確実に〉言うことは出来ない。「それらの概念はキリスト教の啓示を想定しないのである」、と。 他方で、もし人がこう言いに来るなら、すなわち、理性がすべきことは、それが誰であれ思惟する存在者に普遍的に与えられていないものを、全的に抽象〈捨象〉することである、と言いに来るなら、私は言おう、そこには不当な主張があり、最後の分析には幻惑がある、と。哲学者は、今日、あらゆる時代におけると同様、ある歴史的な状況に位置づけられている自らを見いだす。その歴史的状況を本当に抽象する程、哲学者が存在するとは、とてもありそうなことには思えない。そういうことは虚構でしかなく、そういう虚構の空虚を自分の内と自分の周囲に作ることが出来ると哲学者が想像することは、危ういことである。ところで、このような状況が、その本質的な諸所与の一つとして、彼がふくむすべてのものと共に、キリスト教的事実の実在をふくんでいるということ — このことは、人がキリスト教宗教に加入するにせよしないにせよ、人がキリスト教の中心的な諸断定を真として見做すにせよ偽として見做すにせよ、そうなのである。私の目にはっきりしていることは、我々は、我々の前にキリスト教徒の共同体の幾世紀があたかも存していなかったかのように考えることは出来ない、ということであり、同様に、知の理論の次元においては、我々は、実証的科学の幾世紀があたかも存していなかったかのように考えることは出来ない、ということである。ただ、キリスト教的所与の実在は、実証的科学の実在と同様、ここでは発展的(p.300)原理の役割をするものでしかない。このキリスト教的所与の実在は、我々において、ある諸思想の開花を助けるのである。この諸思想には、事実、このキリスト教的所与の実在が無ければ、我々は多分達さなかったであろう。この発展化〈豊饒化〉は、私が「周辺-キリスト教」的諸領域と呼ぶであろうものにおいて、果たされ得るのである。そして私は、この発展化の証拠を、個人的には、あの事実において見いだしている。その事実とは、この発展化が生み出されたということであり、それは私自身が、二十年近く前、カトリック教へ回心するという〈今となっては〉ひじょうに遠い考えそのものを抱いていた、ということであった。 さらに、私はつぎのことに気づいていただきたいと強く思っている — 今回はとくにカトリックの人々に向けて — :私のものである観点からは、自然なものと超自然なものとの間の区別は、厳密に保持されるべきである。人は言うだろうか? 神秘という語の使用は、ここでは曖昧さを生み出して、私が拒否する合一化を利する危険がある、と。私は答えるだろう:私の目には、既述の限りでの人間的経験の中にふくまれている諸神秘 — 例えば、認識、愛 — と、「受肉」や「贖罪」のような、啓示された諸神秘とを混同することは、問題にならない、と。あの諸神秘に我々を高めることを、経験についての反省的思惟のどんな努力も、我々に許すことはあり得ないのである。 人は私に言うだろう:このような諸条件において、かくも区別される語義で、どうして同じ語を使うのか? と。だが私はここで指摘するだろう:何であれ啓示というものが、それでも思惟可能なのは、啓示が、「組み込まれた」(engagé)存在者に向けられている限りにおいてでしかなく、私が定義しようと試みた意味で、すなわち、問題化され得ない実在に参与する存在者を、つまり主体である限りでのこの存在者を、この実在が基礎づける限りにおいてでしかないのである、と。超自然的な生は、それでも、自然な生において足場を、嵌め込み点を、見いださなければならない — このことは、超自然的生が自然的生の開花だということを全然意味しない。全然逆である。私には思われるのだが、もし(p.301)人が「創造された自然」のキリスト教的なもののための基本的な概念を深化させるならば、人は、自然の根底に、また自然にたいして命じられている理性の根底に、それ自体は根元的である不適合性の原理を認識するよう、導かれるだろう。この不適合性は、別の次元の、不安に充ちた先取りのようなものなのである。 この、特別に重要で難しい点についての私の立場を要約するために、私はつぎのように言おう:存在論的神秘の認識、これを私は形而上学の中心的に還元されたものとして認識するのであるが、この認識が多分、事実可能であるのは、啓示そのものの一種の豊饒な放射〈発光〉によってでしかないであろう。この放射は、何処であれどんな実在の地域にいる外国の魂たちの懐においても完全に生み出され得るのである。この認識は、人間経験の一種の高度の様相を通して為されるものだが、この認識が他方では、全然、一定の地域への固着を引き出さないのである。だがこの認識は、その認識まで成長した者に、啓示の可能性を垣間見させる。この可能性は、問題化され得るものの境界を超えたことのない者が出来ることとは全く別のものである。その者は、存在の神秘が気づかれ言明され得る地点の手前に留まったままであるから。このような哲学は、このようにして、抗し難い運動から、光の出会いへと赴く。この光をこの哲学は予感し、この光の秘密な刺激を自らの心底で忍ぶ。予告するような熱さの如くに。_____
大学人にこれだけ教養の無い社会が出現したのは、教養と学問とがそれだけ無縁な地帯であることの証左である。ぼくは長らく、人間における教養と学問との齟齬を感じてきた。学問をやっても教養は深まらない。何か特別なことをやっているということでしかない。むしろ人間の品位を下げている。
人気記事ランクイン記事一覧 神の義務 679位
人間は、じぶんを侮辱した者が生きていることを、あるいは宇宙の終わりまで苦しまないことを、決して望まないものだ。人間は、常に良い精神状態であることはないのだから。この、良い精神状態を損ない、あらぬ方向へ陥れるものが、学問である。
《 さらに、私はつぎのことに気づいていただきたいと強く思っている — 今回はとくにカトリックの人々に向けて — :私のものである観点からは、自然な ものと超自然なものとの間の区別は、厳密に保持されるべきである。人は言うだろうか? 神秘という語の使用は、ここでは曖昧さを生み出して、私が拒否する合一化を利する危険がある、と。私は答えるだろう:私の目には、既述の限りでの人間的経験の中にふくまれている諸神秘 — 例えば、認識、愛 — と、「受肉」や「贖罪」のような、啓示された諸神秘とを混同することは、問題にならない、と。あの諸神秘に我々を高めることを、経験についての反省的思惟のどんな努力も、我々に許すことはあり得ないのである。》『存在論的神秘の…』(『壊れた世界』所収)p. 300こう言ったマルセルの真意は、単純に解さないほうがよいと思う。前者の神秘を探求しようとするマルセルの立場は、少しも自己卑下するどころではないからである。むしろぼくは、いかなる高い啓示も、人間を魂の底から変えはしない、と言っておきたい。
義務を負っているのは人間ではなく神である。それを 言うからには神への感謝がなければ。父子の関係と同じ。
人気記事ランクイン記事一覧 理性とは、注意を逸らすことにある 593位
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思念の当体は、だいたい怒りの対象だ。それから注意を逸らさなければ、まちがいなく当体を殺すことになる。理性的であるとは、この、注意を逸らすことによって、正当な破局を回避する意識術でなくて何であろうか。世間では〈マウントとり〉と言われることがあるらしい。どういうことか最近やっと分かってきたように思うが、ぼくには無論無縁な所作であるので理解が遅れたのだ。そこで、ぼくもその一被害に遭ったことを思い出した 。なるほど、ああいう被害に集中して向き合っていたら、加害者を殺すことは必定だろう。ひとは、魂のマウントとりだけは、注意散漫でなければ許さない。つまり殺人だけでなく魂も殺さなければ気が済まない。そういう挑発が日常生活の会話の次元で夥しくあるということは、世の人々の大方がいかに下品かということだ。次から次へと関心を瞬間毎に散らして集中しない生を送っていないと、この世は日常生活から戦争になるのは必定だ。理性には、地から足が離れた理屈が多いと言われるが、そういう注意散漫こそ逆に平和の砦になっているかも知れない。怒りが正当に集中したらそれこそ大砲の引き金を引くことだ。
人気記事ランクイン記事一覧 ガブリエル・マルセル 哲学論考 「存在論的神秘の立場と具体的アプローチ」 722位 きみの音楽 722位 真理と真実 722位
古川正樹 訳ガブリエル・マルセル作 戯曲『壊れた世界』(1933)収録(p.255)「存在論的神秘の立場と具体的アプローチ」1 〈1. マルセイユの哲学協会で一九三三年一月二十一日に為された講演〉 この省察のために私が選んだ題目は、門外漢の者たちをたじろがせること(この効果を私は自分に隠さない)に適していると同時に、哲学者たちに真っ向からぶつかることに適している。事実、後者、哲学者たちというものは、慣習として、神秘というものを、一方では神学者たちに任せており、他方では、思想を通俗化する人々に任せている。つまり、神秘神学やオカルティズムの人々に、メーテルリンクのような人々に任せているのである。その上、明らかなことに、「存在論的」という語は、観念論に触れて自己形成した哲学者たちの目には、信用が失墜しており、哲学者でない人々にとっては、更に曖昧な意味しか呈さないのである。スコラ哲学の教義が染み込んだ思索者たちについて言えば、「存在論的」という語は彼らにとっては慣れ親しんだ響きを発するものであるが、他方で彼らは、ほとんど常に、神秘の名を、啓示されたものとしての諸神秘のために保持しているのである。 ゆえに私は、私がどうしてもぶつかることになる諸々の抵抗と、私が受けることになる諸々の非難とを、充分に意識している。それでも私は言わねばならないのであるが、問題となる術語用法は、私が描写することになる諸々の洞察の総体にとって、唯一妥当なものであると私には思われるのである。この諸洞察の重要性は、私の目には中心的なものである。もしここに、私の『形而上学日記』の読者が幾名かおられるなら、その方々は、私が提起しようとする基本的な諸命題が、哲学と宗教の全的改革の到達点であることを確認するのに、何の苦労も要らないであろう。この改革は『日記』を貫いて続けられているものなのである。(p.256) 私の聴衆を一挙に失望させることになる、抽象的な諸定義や弁証法的な諸議論から直接に出発するよりも、私は最初に、存在論的感覚、つまり存在の感覚が欠けている人間とはどういうものか、包括的で直観的な一種の性格描写を呈示したい。このような人間は、より正確に言うと、存在の感覚を有しているという意識を喪失してしまっているのである。一般的に、近代の人間はそのようなものである。そして、存在論的欲求がこの感覚に更に働きかけるのであるが、それは鈍い仕方でであって、暗い圧力のようになのである。私は自問するのであるが、現在まで発展させられた精神分析よりも一層デリケートで一層深い精神分析が、この感覚、この無視されている欲求の抑圧が生じさせる病的帰結を明らかにするに至らないものであろうか。 現代という時代は、おそらく、機能という観念の「機能離脱」と呼ばれ得るであろうものによって性格づけられるように私には思われる。私はここで、この機能という語を、そのまったく一般的な語義において解しているのであり、この語義は生物的諸機能と同時に社会的諸機能を意味しているのである。 個人は、自分自身にとって、また他人たちにとっても、諸機能の単なる寄せ集めのように見える傾向がある。それには歴史的な諸理由があり、その諸理由は甚だ深いために、我々はおそらく未だ部分的にしかその諸理由を捉えていないのであるが、個人は自分自身を段々と諸機能の集合体のように扱うよう、促されてきたのである。もっとも、その諸機能の位階秩序は、彼にとって、問題があるように思われるのであり、ともかくも、甚だ矛盾のある諸解釈へ導く傾向があるように思われるのであるが。 先ず、生物的諸機能であるが、(p.257)この小論においては、一方では歴史的唯物論が、他方ではフロイトの精神分析論が、演じることの出来た役割を指摘する必要は殆ど無い。 他方で、社会的諸機能がある。すなわち、消費者機能、生産者機能、市民の機能、等があるのである。 これら二つの諸機能の間には、たしかに理論的には、心理学的諸機能の場が存する。だが、じきに分かることは、本来心理学的な諸機能は、いつも、生物的諸機能や、社会的諸機能に、解釈される傾向があるだろう、ということであり、また、それら諸機能の自律性は不安定であり、それらの特殊性には疑問があるだろう、ということである。この意味でコントは、もっとも心理学的現実に関する彼の全体的無理解に助けられてであるが、諸科学の分類のなかで心理学に場を与えるのを拒否することで、一種の予見を示したのである。 我々はまだここでは全くの抽象次元にいるのであるが、最も具体的な経験の次元への移行は、この領域でこそ甚だ容易に為されるのである。 私がしばしば、一種の懸念をもって自問することは、例えば、地下鉄の斯く斯くの労働者の生活あるいは内面の現実は、どういうものであり得るか、ということである。つまり、列車の扉を開ける人、切符を切る人のことである。よく認識すべきなのは、この人の内と外とで同時に、彼の同一性と彼の諸機能の同一性とを規定するために、一切が協働している、ということである。私は単に、彼の労働者としての、あるいは組合人や選挙者としての機能のみについて語っているのではなく、彼の生物的諸機能についても語っているのである。根本的にはかなりおぞましい、「現代の労働」という表現は、ここで十全たる用法を見いだす。膨大な時間が、そのような諸機能のために犠牲にされているのである。睡眠までもが、ひとつの機能であり、(p.258)他の諸機能を果たすことが出来るために、この機能を果たさなければならないのである。余暇や娯楽も同様である。衛生学者が、人間は週に多くの時間、気晴らしをする必要がある、と声明を出すだろうと、我々は完全に理解している。また、もはや無視され得ない有機的-心理的な機能がある。私が思っているのは、例えば、性的諸機能のことである。くどくど述べるのは無用であり、この略述で充分である。我々はここで一種の、命の一覧表の観念を詳しく見ることになる。この一覧表の詳細は、当然、様々な国や気候や労働などによって、多様である。だが重要なことは、一覧表がある、ということなのである。 おそらく、無秩序や断絶の諸原理が表明していることは、あらゆる形での事故、病気、であろう。そこからとても良く理解されるであろうことは、しばしばアメリカで、そして私の思うにロシアで、起こっているように、個人が時計の如く周期的検証に服さしめられている、ということである。病院はこの場合、まるで調整の家のように、修理の工房のように、思われるのである。さらに、本質的に重要な諸問題が「避妊」の問題として見做されるのは、この同じ機能化の観点からであろう。 死に関してであるが、死はここでは、客観的で機能的な観点から見られるのであり、使えなくなったもの、突然使用不能となったものとして、完全な「廃物」として、見られるのである。 このように機能に集中された世界からの解放である、息詰まる悲しみの印象には、拘泥する必要は殆ど無い。ここでは、退職の際の痛ましい心象や、そして都市の日曜日の相互に結びついた全心象を、思い出していただくだけに留めよう。あの日曜日の散歩者たちは、(p.259)人生を退役した人々であるという感じを、正確に与えている。このような世界のなかでは、退役者がその恩恵に浴している寛容さは、何か嘲笑的で陰鬱なものを持っている。 だが、この光景を眺める者にとっての、この光景の悲しみのみがあるのではない。内に籠もったものが、堪え難い不快感が、あるのである。この不快感を強く感じるのは、まるで自分が実際に自らの諸機能と混同されているかのような生へと還元されているのが分かる者である。そしてこの不快感はつぎのことを証示するのに充分である、すなわち、そこには誤りあるいは恐ろしい解釈の濫用がるのであり、これはといえば、ますます非人間的となってゆく社会秩序と、同様に非人間的な哲学とが(この哲学は、もしそのような社会秩序を予め形成したならば、続いてこの秩序を模倣したものである)等しく、無防備な知性のなかに根を張る傾向が生じた、ということなのである。 物理的語義ではなく形而上学的語義で解せられる限り、充実と空虚の区別は、私には、一と多の区別よりももっと根本的であるように思える、ということを、私は書く機会を得たことがある。この指摘がここでその全意義を示す。機能の観念に軸を据えた世界のなかでの生は、絶望に晒されており、この生は絶望に通じている。なぜなら、実際、この世界は空虚であるからであり、この世界は虚ろに響くからである。もし生が絶望に抵抗するとすれば、ただ、何らかの秘密な諸力がこの生活の只中で、この生活のために、ある役割をするに応じてでしかない。このような生は思惟や認識の状態を外れているのである。ただ、あの生まれつきの盲目性のみが、不可避的に、この諸力の可能的作用を減少させ、つまり、この諸力からその支点を奪う傾向があるにすぎない。 私は指摘するが、この世界は、一方では、諸々の問題で一杯にさせられており、他方では、(p.260)神秘にいかなる場も与えないという意志で駆動させられている。私がさきほど、技術的に明確化するのを控えていた、あの区別の意味、私の目には根本的な、問題と神秘との間の区別の意味の明確化を、私は留保している。さしあたり私はつぎのことを示すだけに控えよう、すなわち、神秘を除くこと、あるいは除こうとすることは、我々が語ってきた機能化された世界のなかで、生活の流れを断ち切る諸々の出来事—出生、愛、死—を前にして、あの、「ごく自然」という心理学的で偽-科学的なカテゴリーを働かせることなのである、ということを。この「ごく自然」なことは、特殊な研究には価するであろうけれども。じつを言うと、そこにあるのは、価値を落とした合理主義の残滓でしかない。この合理主義にとっては、原因が結果を説明し、つまり充分に解釈するのである。ところが逆に、この種の世界においては、諸々の問題の無限性があるのである。なぜなら、原因群は我々にとって詳細に知られるものではないからであり、ゆえに、定義の届かない諸々の探究の場があるからである。このような理論的諸問題の他に、無数の技術的諸問題もあり、これら諸問題はつぎの問いと結びついている、すなわち、生物的で社会的な様々の諸機能は、証印を押された上で明細目録化されてから、いかにして相互に支障無く働き得るのかを知る問いと結びついているのである。その上、理論的諸問題と技術的諸問題との間には、連帯性が確固としてあるのである。というのも、理論的諸問題は技術的諸問題をはっきりと立ち上げるからであり、逆に、技術的諸問題は、或る技術的知が予め構成された処でしか、解決され得ないからである。 このような世界において、存在論的要求、存在することの要求は、憔悴する。その憔悴は、まさに、一方で、人格性が分割される程度に応じてなのであり、他方で、「ごく自然」というカテゴリーが勝利する程度に応じてである。そして(p.261)その結果、多分、感嘆の力と呼ぶべきであろうものが、委縮する程度に応じて〔この要求は憔悴するの〕である。この、私が急いで言っている〔「感嘆」という〕語は、良いものではない。我々は我々の母国語に、「wunder」や「wonder」の語と等価値の語を全然持っていない。これらの〔ドイツやイギリスの〕語は、「感嘆」と「奇蹟」との間の、一種の「生命ある循環」の可能性を保証しているのである。 だが遂には、この存在論的要求に、我々は今や直接に取り組み、この要求を囲い込むことを試みるというふうには、出来ないものなのであろうか? 実際には、このことは、或る点までしか可能ではないことを、私は懸念する。深くて、徐々に明らかとなるであろう諸理由のために、私が気づくことは、この要求はあの奇妙な性格を呈する、ということであり、その性格とは、この要求は完全には自分自身に透明ではあり得ない、ということである。 我々がもし、この存在論的要求を、変質させることなく言い換えようと努力するならば、おおよそつぎのように言うことになるであろう: 「存在」があるのでなければならない—あるいは、あるのでなければならないであろう—。一切が、相次ぐ「堅固さを欠いた」—この語は本質的に重要である—見かけの戯れに還元されないことが、必要である。あるいは、シェイクスピアの句を引用すれば—白痴によって語られた物語に還元されないことが必要なのである。あの存在へ、あの実在へ、いわば参与することを、私は熱望し渇望しているのである。—そして多分、この欲求そのものが、既に、事実、或る程度、ひとつの参与なのである、いかに初歩的な参与であるとしても。 気づくべきことであるが、類似の要求は既に、最も根本的な厭世主義の核心にあるのである。厭世主義が意味を有するのは、厭世主義が、確かに「存在が在る」ことは必要だろう、ということを意味する場合でしかない。だが、「存在が存在しない」、となると—この確認をする私自身が、結果として全然存在しない、ということになるのである。(p.262) もっと正確に、この「存在」という語が意味するものを定義しようとするなら、我々は、それは甚だしく困難であることで一致する。私はただ、あのアプローチの路を提起するだろう。すなわち、存在は抵抗するものである—あるいは抵抗するであろうものであろう—ということである。何に抵抗するかというと、徹底的な分析に抵抗するのであり、この分析は経験の諸所与に関わって、この諸所与を段々と諸要素へ還元しようと試みるのである。こうしてこの諸要素は、ますます内在的あるいは意味的な価値を奪われてゆくのである(これは例えば、フロイトの理論的諸操作を通して為される、あの次元の分析である)。 『街』のなかで厭世家ベスミーが「何も存在しない」と言明するとき、彼が言おうとするのはまさしく、「この分析、この実験には、いかなる経験も抵抗しない」、ということなのである。絶対的な厭世主義が構成するのとは逆さまに、あの種の護教的なものが旋回するのは、常に死の周囲であろう。この死はまさしく見せ物と見做されており、あの最終的な無の明証性と見做されているのである。 とはいえ、存在論的要求を自分の責任で採用するのを拒否するような哲学は、可能である。まさにこの拒否の方向へと、近代思想は全体として向かってきたのである。だがここで、二つの態度を区別すべきなのである。この二つの態度を混同するよう、人は時々そそのかされてきた。すなわち、この二つの態度のうちの一つは、体系的な仕方で慎重に構えることを本質とするものであり、これが、あらゆる形での不可知論的態度であろう。もう一つの態度は、更にもっと果断で、もっと勇敢であり、もっと首尾一貫性のあるものであって、存在論的欲求のなかにひとつの無効な独断論の表現を見る傾向があるものであろう。この独断論を、観念論的批判は、きっぱりと反証を挙げて論破してきたのである。 第一の態度は、私の目には、もっぱら否定的な意味を示すものである。この態度は、実際、(p.263)知性の或る種の政治にしか応対していない。つまり、《問いは提起されないであろう》、というわけである。 反対に、第二の態度は、自らが思惟の実証的理論に基づいているのだと主張する。このような哲学を詳細に批判することは不可能である。ただ、私は指摘することになるだろうが、この哲学は私には、相対主義へと傾くものであるように思われる。相対主義は自分自身を認識することを拒否するものであるが、さらには、価値あるものの一元論へと傾く。この一元論的価値は、あらゆる形での人格的なものを否認し、悲劇的なものを否認して、超越的なものを認めることなく戯画的な諸表現へと還元しようと試みる。戯画的諸表現は、超越的なものの本質的諸性格を無視するものなのである。私はさらにつぎのことを指摘しよう: このような哲学は常に検証活動を強調する、という事実そのものによって、この哲学は、あの「現前」を、つまり、あの、「現前」の内的実現を、遂には無視するのである。この現前は、あらゆる理解可能な検証を無限に超越する愛の只中にある。というのも、この現前が遂行されるのは、あらゆる思惟可能な媒介操作の彼方に位置づけられる無媒介的〈直接的〉なものの只中においてなのであるから。このことは、後ほど、或る程度までなら明らかにされるであろう。 ゆえに、私として考えることは、存在論的欲求が沈黙へと還元させられ得るのは、宗教的生を根元そのものにおいて棄損するような恣意的で独裁的な行為によってでしかない、ということである。いずれにせよ、このような行為は可能である。—我々の生活の諸条件そのものが、我々にこのような行為を果たせると実際に信じさせ得るようなものなのである。このことが、忘れてはならないことなのである。 存在論的要求に関する、この第一の諸反省は、この要求の無規定さを明らかにすることによって、本質的な逆説を顕わにする。この要求を表明することは、まず、諸問題の迷宮のなかに入り込むことである。すなわち、(p.264)存在は存在するのか? 存在とは何か? だが、私の足許に新たな深淵が穿たれるのを見ること無しには、このような諸問題に私は私の反省を関わらせることが出来ない。すなわち、存在を問う私は、私が存在することを確信し得るのか? しかしながら、この「問題」を定式化する私は、私が定式化するこの問題の「外に」—この問題の「此岸に」であろうと「彼岸に」であろうと—私を保持することが出来るのでなければならないであろう。実際には、事情はその通りにゆかないことは明らかである。反省が私に示すことは、この「問題」はいわば不可避な仕方で、あの理論的には保護されている舞台の前桟敷に侵入するということである。伝統的な形での観念論が、存在の余白に意識を保持しようと試みるのは、この意識が存在を措定しようが否定しようが、虚構によってなのである。 そのようなわけで、私は同時に、つぎのように自問すること無しに済ますことは出来ない: 存在について問う私は、何者なのか? この探究を行なうために、どのような資格を私は持っているのか? もし私が存在しないなら、どのようにして私はこの探究が達せられるのを見る希望が持てるのだろうか? 「私が存在する」ことを許容する場合でも、いかにして私は、「私が存在する」ことを確信することが出来るのか? ここで当然呈示されるはずの考えに反して、私は、この面においては「コギト」〈我思う〉は我々にとっていかなる救済でもあり得ない、と思う。デカルトがこれについてどう考えることが出来たにせよ、我々に疑う余地の無いものを有させる場合でも、この疑いの余地無きものは、客観的認識の器官としての認識論的主観にしか関係しないのである。私は他所で書いたが、コギトは妥当なものの敷居を保つけれども、それだけである。このことの証拠は、「私」に関する無規定性にある。「私は存在する」は、分割し得ないひとつの全体として呈示されているように、私には思われる。 ひとつの反論が依然として予想される: 一方で人は言うだろう、二つうちの一つ、(p.265)「私は何者か?」という問いによって目指されている存在は、認識の主観に関するものである、と。だがこの場合、我々はまさしくコギトの地平にあるのである。 他方で人は言うだろう、あなたが存在論的欲求と名づけておられるものは、—まことしやかな立場移行でなければ—本来生物的な要求の極論でしかなく、形而上学者が気に懸ける必要のないものである、と。 だが、ここで間違いは、第一に、「私は存在するか」という問いを、全体として解された存在論的《問題》から、任意に切断することにありはしないだろうか? 実際、一方も他方も、同時にしか取り組みも接近もされ得ないのである。しかも同様に、我々が見ようとする如く、この二つは、「問題である限りでは」いわば相互に破壊し合うのである。 付け加えるべきことだが、事実、デカルトの立場は、二元論から分離され得ない。この二元論を私は、私の側からは躊躇なく拒否するであろう。存在論的問題を提起することは、存在の全体について問うことであり、また、全体としての私自身について問うことなのである。 これに加えて、その上相関的な仕方で、こう自問することが許される: この、知的なものと生命的なものとの分離は、そこから帰結する生命的なものの任意な価値下落あるいは任意な価値高揚を伴うものとしては、まさしく拒否されるべきものではないのか、と。たしかに、思惟し、「自分を思惟する」ことに努める、ひとつの生けるものの統一性の只中で、次元の諸区別を操作することは、理に適ったことであることを、否定する理由は無い。しかし、存在論的問題が提起されるのは、そのような諸区別が超えられる場合においてでしかなく、最も包括的な統一性において理解されたその存在にとってでしかないのである。 もし我々が、(p.266)我々の反省の結果到った状況を統御しようと努めるならば、我々が確認するであろうことは、我々はひとつの断定へ向かう或る跳躍に面しているということである。この断定は、分析の最後で、根拠づけられ得ないものとして現われる。というのも、私が、自分はこの断定を明言する資格がある、と自分を判断し得るのは、この断定そのものに基づいてでしかないからである。 私が実際に、解決すべき問題と向き合っている場合には、この状況は呈示され得ないだろうということに、着目しよう。事実、この場合には、私は諸々の与件に関わる仕事をしているのであるが、同時に、あたかも私はこの「仕事している私」に関わり合う必要はないかのように、あたかもこの私は重要でないかのように、すべては起こり、すべては私に扱われることを許すのである。これは前提されていることであり、それ以上のことではない。 ここで、逆に、「問うことの存在論的地位」と私が呼ぶであろうものが、決定的な重要性を持つ。他方で、私が反省そのものに余念がない限り、私は終わりの無い逆行に陥るように思われる。ただ、この逆行を終結させるのは不可能であることを私が理解するという事実そのものによって、私はこの逆行をいわば乗り越え、そして私は理解するのである、この逆行過程は、「私は断定を口に出すよりもむしろ私が断定そのものである」というひとつの断定に内的に留まっている、ということを。つまり、この断定を口に出すことによって、私はこの断定を壊し、砕くのであり、この断定をまさに裏切ろうとするのである。 人は、避け得ない大まかな言葉遣いで、こう言い得るだろう: 存在に関する私の問いはつぎのような断定を前提している、すなわち、この断定においては私はいわば受動的であるだろう、「そして私は、この断定の主体であるよりはむしろ、この断定の座であるだろう」、という断定である。だが、この座は限界でしかなく、この座を私は矛盾無しには実現できない。ゆえに私は自分を、(p.267)〔参与そのものであるよりはむしろ〕参与の立場あるいは承認のほうへ定位するのである。この参与は主体の実在性を有しているものなのである。この参与というものは、定義そのものからして、思惟の「客体」ではあり得ない。この参与は、解決の機能を為し得ないだろうが、諸問題の世界の彼方に出現するのである。すなわち、参与は超-問題的なものなのである。 逆に、つぎのことが理解され得る: 超-問題的なものが断定され得るのは、存在を断定する主体と、「この主体によって断定される限りでの」存在との、対立を超越するものとしてなのであり—そしてこの対立をいわば溶かすものとしてなのである。超-問題的なものを措定することは、知と比較して存在の優位を思惟することであり(「断定された」存在の優位ではなく、むしろ、「自らを断定する」存在の優位である)、知は存在によって包まれていること、知は存在に或る仕方で内属していることを、承認することなのである。ポール・クローデルがその『詩法』で明確にしようとした意味と多分類似した意味において。この観点からすれば、知の理論〈認識論〉が虚しく確立しようと努力しているものとは反対に、知る行為の神秘というものが、まぎれもなくあるのである。知は、参与の様態に引っ掛けられており、認識論は、どんな論であれ、参与を説明しようと望むことは出来ない。認識論そのものが参与の様態を想定しているからである。 現時点で、問題と神秘との区別を明確にすることが出来る。すなわち、神秘とは、それ自体の諸所与を侵食する問題なのであり、この諸所与を侵略し、そのこと自体によって、単なる問題としての自らを乗り越えるような問題なのである。同類一群である諸例は、この定義に、把握可能な内容を賦与することを我々に許すだろう。(p.268) 明白なことであるが、魂と身体との結合という神秘がある。これは不可分な統一であって、常に、適切とは言えない仕方で、つぎのような諸定式によって表現されるものである:「私は身体を持っている。私は私の身体を利用する。私は私の身体を感覚する」、云々… このような統一は、あらゆる分析の外にあるものであり、この統一に論理的に先行する諸要素から出発したら、いかなる仕方でも、総合的な方向では再構成され得ないものである。このような統一は、単に与えられるものではない。私は言おう、この統一は、「私自身への私自身の現前」と私が呼ぶものの意味において、「与えるもの」なのである、と。この「現前」は、自我の意識行為が、結局は不適切なその象徴化でしかないようなものなのである。 問題と神秘との間に境界線を引くことは望めないことが、我々には直接に分かる。というのも、反省の面前に据えられた神秘には、問題へと位階を落とす傾向が不可避的にあるからである。このことは、悪の問題にとって、とりわけはっきりしている。 事実、殆んど不可避的に、私は悪というものを、私が目の前にする無秩序の如く扱うよう促され、この無秩序に見える悪の諸原因あるいは存在理由を—あるいは秘密な合目的性を—解きほぐしてはっきりさせる努力へと促される。いかにして《この機械》は、このようにも欠陥の多い仕方でも機能しているのか? あるいは、この見かけ上の欠陥の多さは、私の今の見方の実際の欠陥の多さに起因するのだろうか? 第二の場合においては、真の無秩序が居を構えているらしいのは、私の中なのである。だがこの無秩序は、この無秩序を露見させ確かめる私の思惟にたいして、客体的であるに留まるであろう。しかし、単に確認され、あるいは眺められた悪は、苦しまされる悪であることを止める。まったく単純に言えば、悪であることを止めるのである。実際、私が悪を悪として捉えるのは、悪が「私を動揺させる」程度に応じてでしかない。すなわち、(p.269)人が事件に巻き込まれるという意味で、私が悪に「巻き込まれる」程度に応じてでしかないのである。ここで根本的なことは、この巻き添えのことなのであり、私は、これを抽象することは、正当化され得ない虚構によるのでなければ出来ないのである。というのは、私はこの場合、あたかも私が神であるかのように処理し、同時に、瞑想する神であるかのようであるからである。 ここで我々ははっきりと、私の内にあるものと、私の前にしかないものとの間の、区別が生じるのを見る。この区別は、還元的反省の作用の許で生じるものである。この反省がすなわち、第二の力における反省なのである。 しかし言うまでもないことだが、我々が「私の内」と「私の前」との間の境界が消えるのを最もよく見るのは、愛においてなのである。—多分、超-問題的なものの領域は愛の領域と実際に一致することを示すのは、可能でさえあるだろう。魂と身体との神秘のような神秘が把握可能であるのは、愛から出発して、いわば愛を表現することによってでしかないのである。 その上、避けられないことに、自分自身を反省したことのない反省というものは、愛にぶつかることで、この超-問題的なものを解体する傾向をもつようになり、生きようとする意欲や力の意志、リビドー等のような抽象的諸要素との関連でこの超-問題的なものを解釈する傾向をもつようになる。他方で、諸問題の次元は妥当なものの次元であるので、それらの解釈をその都度異なった次元に立つこと無しに論駁することは、甚だしく困難で—あるいは不可能ですら—あるだろう。実を言えば、その、その都度の次元上で、それらの解釈はみずからの意味を有するのである。同時に、私には確かだと思われるのだが、—そしてこの確かさは私を防護マントのように包んでくれるのだが—私が本当に愛するかぎりは、私は、それらの、価値下落を生じさせる還元に、不安を抱く必要は無いのである。 人は尋ねるだろう: それでは、(p.270)本当の愛を見分けさせる標識はどういうものなのか? と。こう応答しなければならない: 標識論は客体あるいは問題化され得るものの次元にしか存しないが、既に我々は、存在論的観点から忠実さに卓越した価値を認める理由があることを、遠くからであるが気づいている、と。 ここに、もっと直接的で、もっと特殊な、別の例がある。この例は私には、神秘と問題との差異をはっきりとさせるのに適していると思われるのである。 あなたが、ある出会いをするとする。この出会いはあなたの人生に深くて定義されない影響を及ぼすものであるとする。各人は、出会いが宗教的観点において時々意味するものの経験をしているかも知れない—ところでそこには、哲学者たちが共通して無視あるいは軽視してきた何かがあるのである。それはおそらく、出会いが、個人である限りでの個人にしか関係しないからであろう。出会いは普遍化され得るものではなく、一般的に思惟する存在に関係するものではない。 明白なことであるが、このような出会いは、こう言ってよければ、その都度問題を提起する。だが我々は、この問題の解決は唯一重要な問いの手前に留まっていることにも、ひじょうにはっきりと気づくのである。例えば、人が私にこう言うとする:《あなたは斯く斯くの人物と斯く斯くの場所で出会った。なぜならその人物があなた同様にそこの風景を愛しているからであり、あるいは、彼の健康状態が、あなた自身が受けているのと同じ治療を彼に強いているからである》、と。人はじきに、こういう応答は現実性の無いものであることに気づくのである。フィレンツェ、またはエンガディンには、私と同時に、私と趣味を同じくすると見做される多くの人々が滞在しており、私が保養している温泉町には、私と同じ病気に掛かっているたいへんな数の病人たちが保養している。だが、このような趣味あるいは病気の推定上の同一性は、言葉の(p.271)真の意味において我々を相互に接近させることはない。このような同じさは、ここで問われている類の唯一のものである内密な親和性とは関係が無いのである。他方で、この親和性そのものを原因として扱い、《我々の出会いを決定したのは、まさにこの親和性である》と言うことは、妥当な推論の限界を超出することであろう。 こうして、私には神秘が現前していることになる。すなわち、本来の問題的なものの彼方に根を下ろす実在性が現前していることになるのである。我々は、結局、ここには幸運な偶然や一致しか存しないのだと表明して、困難を逃れようとするのだろうか? 抗議が直ちに私自身の底から、この空虚な公式に対して立ち上がる。私が私自身の中心によって感じ取る何かを、実無く否定することに対して。だがここで再び我々は、神秘の最初の定義を見いだし直す。この神秘は、それ自体の諸所与を侵食する問題として定義されたのであった。私はこの出会いの意味と可能性とを問うているのであるが、実際にこの出会いの外にあるいはこの出会いと向き合って自分を位置づけることは出来ない。私はこの出会いの中に陥っているのであり、この出会いに依存し、この出会いにいわば内属しているのである。この出会いは私を包んでおり—もし私がこの出会いを理解しなくとも—私を理解しているのである。ゆえに、一種の否認あるいは裏切りによってこそ、私はこう言い得るのである: 《結局、その出会いが無かった場合もあり得るだろう。その場合でも私は、私がそれであったところの者、私が尚もそれであるところの者に、留まっただろう》、と。そして、つぎのように言ってもならないのである: 私は、その出会いによって、外的原因によって変容されるように変容された、と。断じて。出会いは私を内側から発展させたのであり、私にたいして、私自身に内属する原理のような役割を果たしたのである。 ただ、このことを変形すること無く捉えることが、とても難しいのである。どうしても私は、(p.272)この、出会いの内面性感情にたいして、反応する誘惑に駆られるだろう。この誘惑は私の誠実さそのものによるのであり、或る観点から私は、〔その出会いが〕私の最善のものであるかどうか、ともかくも最も確かなものであるかどうかを、判断しなければならない故の誘惑なのである。 このような解説は、実を言うと、私の聴衆の精神のなかに間接的に、予めの反論を強化しかねないものである。そのような反論をここで出来るだけはきりと呈示するのが適切である。 この超-問題的なものは、と人は言う、それでもひとつの思惟内容である、と。それなら、どうして私は、実存様態について、実存に属している様態について、問わないのか? 何が我々にこの実存について確信させるのか? この実存はそれ自体、最も高い問題的なものの頂点に聳えているのではないのか? 私の応答は、ここで、可能な限り断言的なものとなるだろう: 超-問題的なものを思惟すること、より正確に言えば断定することは、この超-問題的なものを疑いの余地無く実在的なものとして断定することであり、矛盾無しには疑い得ない或るものとして断定することである。我々はここでひとつの地帯にいるのであり、この地帯では観念そのものと確信とが、あるいはこの確信に作用する確信標識とが、もはや分離され得ないのである。なぜなら、この観念が確信「である」のであり、自己保証「であり」、その程度に応じて、他のものであり観念以上のものであるからである。だが、反論において現われていた「思惟内容」という語は、最大限に欺くものである。なぜなら、内容とは、それでもやはり、経験の或る抽出であるからである。ただし、我々は、超-問題的なものへ、あるいは更に、神秘へと、我々を経験から外へ出し引き離す仕方でしか、高まることは出来ないのである。「本当の」解放、「本当の」引き離しは、全然抽象ではなく、つまり、抽象として承認されるような虚構ではない。(p.273) そしてここで我々は「専心」(recueillement)に面しているのである。というのも、「専心」において、そして「専心」においてのみ、この解放は成就されるからである。私としては確信しているが、存在論が可能であるのは、すなわち、どんな程度であれ、存在論的神秘を感じ取ることが可能であるのは、自己に専心することが出来る存在においてでしかない。—そしてそのこと自体によってこの存在は証言することが出来るのである、自分が純粋な単なる生きものではなく、みずからの生に委ねられた被造物であり、みずからの生には足場を持たないものであることを。 注目すべきことは、純粋哲学者たちの関心では余りにも無い「専心」が、定義可能であることはたいへん稀であるということである — それが稀である理由は、専心が状態と行為という二元論を超越するからという理由でしかないのか。もっと正確に言えば、専心がみずからにおいてこの二つの二律背反的局面を融和させるからという理由でしかないのか。私が自分を統一として再把握するのは、本質的に行為によってである。語それ自体がそれを示している。だがこの再把握、この取り戻しは、緊張緩和や心安さといった局面をもたらすのである。「への心安さ」—「を前にしての屈託のなさ」—ある名詞に関して、そういう前置詞群を従わせることは、私にはいかなる仕方でも不可能であるのだが、その前置詞群がその名詞に命令するだろう。路は敷居で止まるのである… その上、問題化は、ここでは、他のどこでもと同様、操作されるだろう。そして、問題化を実現しようと努めるのは、心理学者であろう。指摘すべき一切は、心理学者は、専心の形而上学的射程について我々にはっきりさせないと同様に、知のノエシス的価値についてもはっきりさせない、ということである。 専心の只中で私は立場決定をする — より正確に言えば、私は立場決定をする状態に置かれる、— 私の生に面して、私は自分を私の生から或る仕方で引き離すのである。だがそれは、(p.274)認識の純粋主観としてでは全然ない。「この隠遁(いんとん)のなかに私は、私であるところのものと、多分私の生ではないものとを、携えてゆくのである」。ここに、私の存在と私の生との間の間隙が出現する。私は私の生ではない。そしてもし、私が存在するのが、私が私の生を判断する程度に応じてであるならば — このことを私は、絶望でしかない根元的懐疑主義に陥ること無しには、否定しえない、— それはつぎの条件において、すなわち、先ず、専心のなかで、あらゆる可能な判断を超えて、私〔自身〕と再会することが出来るという条件においてなのである。そして、私は付け加えよう、あらゆる表象を超えて、と。専心は、おそらく、魂における最も派手さの無いものだろう。専心の本質は、何かを眺めることにあるのではない。専心は回復であり、内的改修である。そしてつぎのように自問する余地があるだろう—私はこれを単についでに記すのであるが—、専心のなかに、記憶の存在論的基礎を、事実的で非表象的な統一の原理を、見るべきではないのか、と。この原理の上に、想起の可能性そのものが基礎づけられるのである。英語の≪to recollect one self≫〔自分を取り戻す〕は、ここで、その意味を明かしている語である。 人は問うだろう:専心は結局、あの、自己への還帰の弁証法的契機と、混同されるものではないのか? もっと言えば、ドイツ観念論の中心にある「対自存在」(Für-sich-sein)という契機と、と。 本当を言えば、私はそうは思わない。自己へ還帰することは、自己に対して在ることを意味しないし、主観と客観との理解可能な統一において、いわば自己を映し見ることも意味しない。私は言うが、反対に、我々はここで、あの逆説に面しているのである。この逆説は神秘そのものであり、この神秘のおかげで、私が還帰する自己は、だからといって自己そのものに居るなどということを止めるのである。《あなたは全然、あなた自身には居ない》。この、聖パウロの偉大な言葉は、ここでその、存在論的であると同時に本質的に具体的な意味をもつのである。この言葉こそ、最も良く、(p.275)我々が今その回りを彷徨(さまよ)っている実在を翻訳しているのである。人は問うだろう、この実在は直観対象ではないのか? あなたが専心と呼んでいるものは、他の人々が直観と名づけているものではないのか? と。 ここでなおのこと私に思われるのは、甚だしく慎重であらねばならないということである。もしここで直観について語ることが可能なら、それは、直観としては与えられておらず、与えられ得ないような直観についてなのである。 直観が中心的なものである程、直観は、直観が照らす存在の根底そのものを占拠する。そして直観はそれによってまさしくそれだけ、自己に還帰して自己を捕えることが出来なくなるのである。 もし我々が、その上、存在の直観であり得るであろうものを反省するとすれば、我々が知るのは、そのような直観は集合体のなかには現われ得ない—現われ得るはずがない—ということであり、何かの経験あるいは「体験」(Erlebnis)のように一覧表上の如く書き込まれることは出来ないということである。このような経験あるいは体験が呈示するのは、反対に、常にあの性格、つまり、ある時は加え入れられ得、ある時は露骨に隔て離され得るという性格なのである。それゆえ、私は言おう、このような直観を思い出そうとし、現出させようとする一切の努力は、実りの無いものでしかあり得ない、と。この意味において、存在の直観について語り合うことは、音の出ないピアノを演奏するよう誘い合うことである。このような直観は、白日の下に明かされることはあり得ない。その単純な理由は、この直観が真実には所有されるものではないからである。 我々はここで、私の全講演の最も難しい箇処にいるのである。直観という術語を使うよりも、こう言うほうが良いだろう、我々はここで、議論的ですらある思索の展開全体の基礎となっている確信に馴染むべきだ、と。ゆえに我々に出来ることは、ひとつの(p.276)回心の運動によって、この最も難しい点に接近することのみである。すなわち、第二の反省によって。この反省によって私は自問するのである、いかにして、どのような起源から出発して、最初の反省の歩みは可能だったのか、と。この最初の反省こそが、存在論的なものを要請していたのであるが、そのことは知られなかったのである。この第二反省こそが専心であり、自己自身を思惟することが出来るに応じて、そのような専心なのである。 なるほど、この場合に、こんなに抽象的な言葉を使わなければならないことは、とても困ったことだと私は思う。この場合に問題となっているのは、「哲学者たちが使用するための」弁証法ではなく、最も活き生きとしたものであり得るものであり、そして、私は言うが、意識のリズムにおいて最も劇的であり得るものだからである。この意識は自らを経験して自分を取り戻すのである。 この劇的局面こそ、今や明らかにしなければならないものなのである。 私が最初の処当たりで呈示していたことと照合させよう:存在論的欲求、存在することの欲求、これらは自分自身を否認することがある。他の面では、存在と生とは一致しない。私の生、そして屈折的に言って、全ての生は、私が私の内に抱えている何か、厳格に言えば私である何か、だがそれでも実在が押し返し排除する何かに、決して適合しないものとして、私に現出し得るのである。絶望は、あらゆる形の許で、あらゆる瞬間に、あらゆる程度において、可能である。この裏切りは、我々の世界の構造そのものが、我々に押しつけるのでなければ我々に要請するものであると思われるかもしれないものである。この世が我々に呈示する死の場面は、ある観点からは、否認への、絶対的背反への、不断の煽動のように見做され得る。人はこうとすら言うかもしれない、自殺の恒久的な可能性は、この意味で、本当の全形而上学的思惟の多分本質的な雷管発火点だ、と。(p.277) 多分、或る人々は驚くだろう、この抽象的な展開と全きこころの安らぎとの只中で、それにしては潜在的には感情的なものを担った語が立ち現われるのを見て。この語は、自殺や裏切りのように、見せ場になっているものの語である。ここには、感性的なものの趣味への譲歩は全然無い。私が確信し続けていることだが、形而上学的思惟が自己自身を把持し、みずからを「具体的に」定義するのは、演劇においてであり、演劇を通してなのである。ジャック・マリタン氏は、一二年前、ルーヴァンで為された『キリスト教哲学の問題』と題された講演で、こう言っていた:《哲学にとって、悲劇的であることよりも易しいことはない。みずからの人間的な重さのために自己放棄しさえすればよいのだから》、と。これはおそらく、ハイデッガーのような思弁的思索への当てこすりだろう。反対に私は思うのだが、哲学の自然な傾向は、哲学を、つぎのような領域へ傾かせる、すなわち、そこでは、抽象的思惟との接触で、悲劇的なものが純粋かつ単純に消えてしまっており、蒸発してしまっていると思われるのである。そしてこれが、我々が多くの現代の観念論者たちにおいて検証するものである。彼らは、人格というものを無視し、人格を、何だか知れない観念的真理のために、何か分からぬ純粋内面性の匿名的原理のために、犠牲にしているので、自分たちが人間の生の悲劇的所与を把握することが出来ないことを露呈しているのである。私はこのような所与を示唆したのである。彼らはこのような悲劇的所与を、病気および病気に由来するすべてとともに、排除し、何だか知らない評判の悪い場末へと放逐するのである。その名にふさわしい哲学者は、そのような場末を冒険することを軽蔑するというわけである。だが、このような態度は、私が言ったように、存在論的欲求に反対する拒絶と、内密に連帯し合っているのである。つまり実のところ、それは同じことなのである。 私が強調点を絶望や裏切りや自殺に置いてきたのは、我々はそこにこそ、(p.278)存在に事実的に反対する否定の意志から生じる最も明瞭な諸表現を見いだすからである。 例として、絶望を挙げよう。この場合に問題なのは、人がそれによって絶望する行為である。人は、誰かに絶望するという意味において、全体としての現実に絶望する。絶望は、私が現実的なものを評価し得る限りにおいて、或る「明細対照表」(bilan)の直接な総括あるいは翻訳として、呈示されるのである。— だが結局、私の評価能力を超過するものは、私にとって無きも同然である。— 私はそういうものに、解体過程に抵抗するような何ものも見いださない。この解体過程は、諸事物の根底において続行され、私の反省が承認し定位することを私に許すところのものである。絶望の根元には、つぎの断定が見いだされると私は思う、すなわち、信用貸しすることを私に許すようなものは現実において何も存しない、という断定である。いかなる保証も無い、ということなのである。これは、完全に支払い不能であることの証明書である。 反対に、希望は、まさしくこの信用貸しを含意するものである。ここで全く別のものである諸概念を混同したと私には思われるスピノザが指摘したこととは反対に、恐れは希望の相関者ではなく、欲望の相関者である。希望の否定的相関者は、事物を最悪にすることに本質が存する行為である。一方、敗北主義と呼ばれてきたものの行為は、心を摑む幻影を構成するものであり、最悪なものを欲求する堕落へと陥る危険が常にあるのである。希望は、つぎのように断定することにその本質が存する、すなわち、存在においては、一切の与えられているものの彼方に、明細目録内容を供し得、何らかの算出の基礎となり得る一切の彼方に、ある神秘な原理が存する、と。この神秘な原理は私と意思疎通し合っており、私が欲することを自らも欲さないことは出来ない。少なくとも、もし私が欲することが(p.279)実際に欲せられるに値し、事実、私自身によって全的に欲せられているならば、と。 しかし明らかなのは、我々はここで、私が存在論的神秘と呼んできたものの中心にいる、ということである。そして最も簡略な諸々の例は、最上のものでもある。あらゆる希望にもまさる希望、すなわち私の愛する存在が、治癒の困難なことで知られる罹病に勝利するだろうという希望、この意味することは、私は彼の回復を欲することで独りであることはあり得ない、ということであり、実在がその最深奥において、私がそれ自身は善であると断定するものにたいして敵意があったり単に無関心であったりすることはあり得ない、ということなのである。私の勇気を損なうことになる「諸例」や「諸々の場合」を私にたいして引用することは、無駄なことであろう。一切の経験、一切の蓋然性、一切の統計の彼方で、私は断定するからである:或る秩序が再創設される「だろう」、実在は私とともに、その秩序が再創設されることを欲することに賛成する「のである」。私は望むのではなく、断定するのである。これが、私が、「真実な希望の予言的共鳴(résonance)」と呼ぶであろうものである。 人は私に言うだろう:《途方もない大多数の場合のなかでは、それでもそこに存するのは幻想である》、と。しかし、希望の行為の本質が、諸々の場合の熟考を排除することであるにしても、ここで示さなければならないであろうことは、希望の上昇的弁証法が確かにある、ということである。この上昇的弁証法によって希望は、超越的な次元へと移されることになる。すべての可能な経験的否認と対峙してもである。これは救霊の次元であり、成功の次元とは反対である。どんな形の許で後者の次元が呈示されるにしても。 それでもやはり、希望と絶対的絶望との相関は、最後まで存続する。この二つは私には分離し得るようには見えない。我々が生きている世界の構造は、絶対的絶望を許し、いわばこの絶望を勧めているように思われるかも知れない、と私は言いたい。だが、(p.280)抑え難い希望が生じ得るのは、まさにこのような世界の中でしかないのである。これが、何故、その上に人が思想史上の偉大な悲観論者たちに恩義を感じすぎることはないかの理由である。彼らは限界まで、或る内面的経験を追い詰めたのである。この内面的経験は成就されているのでなければならなかったのであり、この経験の根元的可能性はいかなる護教論によっても覆い隠されていてはならないのである。彼らは我々に、つぎのことの理解を準備させた、すなわち、絶望はニーチェにとってそうであったところのものであり得る、ということを(もっとも、下-存在論的な帳簿録において、死の危険物を蒔かれた地帯においてであるが)。つまり、最も高い断定の跳躍台なのである。 他方で、或る神秘が依然として存するが、この神秘は、希望がペギーの見たような神秘であるに応じてなのである。この神秘は無視されることがあり、問題へと変換されることがある。希望は、ゆえに、欲望のように扱われ、この欲望は客観的現実を歪める幻惑的判断のふりをしているのである。そして客観的現実のほうはその真の性格を無視される方向に傾くのである。ここで起こることは、我々が「出会い」あるいは「愛」を主題とした際に記したことである。神秘は問題へと位階を落とし得るし、ある意味で論理的にそうならざるをえないが故にこそ、スピノザがしているような解釈は、その解釈が含んでいる混同とともに、その解釈自体、或る時点では提起されざるをえないのである。人が存在論的なものの手前に位置している限り、似たような態度なのであり、いかなる批判も相手にすることがない。このことはとても重要なことであり、念を入れなければならない。私が実在を前にして、実在には参入していない誰かの態度を保持している限り、しかもこの者が自らに或る調書を出来るかぎり正確に訂正する義務があると見做している者である限り(これは定義上、学者の態度である)、私はこの実在に面して一種の原理的疑念を指摘する資格があるのである。そしてこの原理的疑念には(p.281)いかなる権利上の適応限界も無いのである。斯くの如きが実験室の人間の態度であり、彼はいかなる程度であっても、自らが関わっている分析の成果に予断を抱くことはないであろう。そして彼は、この次元上で、最悪という概念そのものの意味が無くなるに応じて、「最悪というもの」をいよいよ良く予想することが出来るのである。だが、まさに、計算の検証者が行なう査察と厳密に比較可能な、この次元の査察は、神秘の次元の手前で継続される。この神秘の次元では、問題が問題自体の所与を侵食するのであるが。 実際、私が例えば生の価値を自問する場合、私が既述の態度を尚も保持し得ると想像することには、深い幻想が存する。すなわち、私が既述の査察を、あたかも私自身は生活していないかのように続行し得ると考えることは、正真正銘の「偽推理」である。 それゆえ希望が、希望の実在が、この希望が住まっている者の心に入ってくるのである。— そして、客観性に囚われたままの精神が希望に向ける判断。ここには単なる問題を純粋な神秘から分かつのと同じ隔壁があるのである。 我々はここで、我々の主観の生ける結び目に居るのである。この結び目においては、独特に親密な何らかの結合が生じている。 問題的なものの世界は、同時に、欲望と恐れとの世界である。欲望と恐れとは、相互を分かれたままにしておくことは全然ない。これはまた、おそらく、機能化された、あるいは機能化され得る世界でもあろう。このような世界を私はこの省察の最初で定義したのである。それは結局、どんなものであれ様々な技術が支配する世界なのである。斯く斯くの欲望の実現、斯く斯くの恐れの回避に、直接に役立っていたり、役立ち得たりするような技術は存しない。そして(p.282)逆に、一切の欲望、一切の恐れは、各々に適合するような諸技術の発明へ赴くだろう。この観点からすれば、絶望の本質は、技術の最終的無効性を承認することにあるだろう。だがこの場合、一切の技術は存在の基本的諸性格と相容れないと認めるような地帯に入ることに、同意することも到達することも無いのである。この存在は本質上、我々の掌握を逃れるものなのである(このことは、諸客体の世界とこの世界そのものにたいして、我々の掌握力が遂行される限りにおいてのみのことである)。そこにこそ、我々が今日、絶望の時代そのものに入っているのではないかと思われる理由があるのである。つまり、我々は技術を信じることを止めてはいないのであって、それはとりもなおさず、実在を諸問題の集合と見做すことを止めていないということなのである — そして同時に、技術というものの「全体的」な挫折が、技術の「部分的」な諸勝利と同様に明晰に、見分けられるようになっているのである。人間には何が出来るか? という問いに、我々はさらに答える:人間には、人間の技術に出来るものが出来る。だが同時に我々は承認しなければならない、この技術は人間を「人間自身から救う」ことは出来ないことを明かす、ということを。そして、この技術は、敵とともにこう結論する自らを示すことすらしかねない、人間は自己の根底で最も恐ろしい同盟を組んでいる、と。 「技術に引き渡される」とは、私が言ったことだが、これによって理解されるべきことは、技術を支配することが段々と出来なくなるということであり、あるいは更に、「自分自身の支配力を支配する」ことが段々と出来なくなるということである。というのは、この、自分自身の支配力の支配は、私が第二の力での反省と呼んだものの能動的生の面での表現にすぎないのだが、自らの中心あるいは自らの支点を専心においてしか見いだし得ないのである。 人は私に反論するだろう、技術信仰に最も浸りきっている人間は、途方もない諸領域が実在することを、どうしても認めてしまう、実際は、その諸領域に彼は(p.283)働きかけえないのであるが、と。だがここで重要なのは、この確認ではなく、精神がこの確認を性格づける仕方である。我々は、我々がいかなる働きかけも気象的条件にたいして出来ないということを、承認するよう、強いられている。だが問題は、その働きかけが望ましくて、まさに、我々に許諾されるようなものだと、我々が評価するかどうかを、知ることなのである。存在論的なものの感覚が消失する傾向がある程、この感覚を失ってしまっている精神は、自らの諸主張が一種の宇宙的摂政政治へ無制限化するのを見るであろう。なぜなら、この精神は次第次第に、この摂政政治を遂行する際に持ち得る諸称号について、自問することが出来なくなるだろうから。 付け加えるべきことだが、技術的知性の諸要求と、結局少なくともこの知性の見かけ上の座であり続ける物質的基体の執拗な脆弱性、不安定性との間の、不均衡が増大してゆくにつれ — この知性の底での絶望の恒常的可能性は悪くなってゆくであろう。この意味において、密接な弁証法的相関関係が、技術的進歩の楽観主義と、殆ど不可避的にそこから生ずる絶望の哲学との間に、実際に存するのである — そしてこれに関して一九三三年の世界が我々に供する諸々の実例説明をくどく強調する必要はない。 人はこう言うかもしれない:だが結局、この技術的進歩の楽観主義は、大きな希望によって活気づけられていたのだ。どのようにしてこのことは、希望の存在論的解釈と一致し得るのだろうか? と。 こう答えなければならないと私は思う:形而上学的に言うなら、「唯一の本物の希望は、我々に依存しないものへ赴く希望である」、つまり、その源が謙虚さであって、傲慢ではないような希望である、と。そしてここで人は(p.284)神秘の別の局面を、比類なく根底的に熟考するよう促されるのである。これについて私はここで幾つかの見解を示すことを試みよう。 ギリシア人たちが気づき、キリスト教神学の本質的主題の一つだった、傲慢、「ヒュブリス」(極度の高慢)、の形而上学的問題は、近代の非神学的な哲学者たちによって、殆ど完全に無視されたと、私には思われる。これはモラリスト(人間性探究家・道徳家)たちに委ね置かれた一領域となっていた。しかし私が立つ観点からは、それは逆に、本質的な問いなのであり、多分、死活問題ですらあるのである。いかなる点でこの問題がスピノザによって見落とされたかを知るためには、彼が『エチカ』(III、定義XXVIII)において「superbia」(傲慢)に与えている定義を見るだけで充分である:彼は言う、《傲慢は、自尊心が我々自身について我々に与える、余りに良過ぎる意見である》、と。実際は、これは虚栄心の定義なのである。傲慢の本質は、己れの力を己れの内にしか見ないことにある。傲慢は、その力を体験する者を、存在たちの共同体(コミュニヨン)から切除する。同時に、この者はこの共同体を棄損することへ傾き、破壊原理のような役を演じるのである。 そのうえ、このような破壊は、この破壊者自身に対して向けられることがある。傲慢は全然、自己憎悪と両立不可能ではない。傲慢は自殺へと導き得る。そしてこのことにスピノザは気づかなかったのだと私には思われる。 我々が達した地点では、中身の詰まったとても深刻な反論が、生じかねないのである。 真底のところ、と人は多分私に言うだろう、あなたが存在論的に正当化するよう促されているものは、一種の道徳的静寂主義ではないのか? と。この主義は受動的受容において、諦念、無気力な希望において、自己満足するのだ、と。しかし、これらすべてにおいて、人間である限りの人間、作用存在である限りの人間は、どのようなものに生成するのだろうか? (p.285)行為が自己への信頼を内包している限りは、有罪宣告されているのは行為それ自体ではないのか? この自己信頼は既に傲慢と縁組みしているのである。結局、行為それ自体が、それなら、堕落ではないのか? と。 この反論は一連の誤解を内包しでいることを、私は指摘しよう。 何より最初に、無気力な希望という観念は、私の感覚では矛盾したものである。希望は気だるい待機の一種ではない。行為の土台となっており、行為の上空を飛ぶものなのだが、行為それ自体が憔悴する時、確実に低下あるいは消失するものなのである。希望は私には、ある中心的能動性の、未知のものへの延長として現われるものである。すなわち、存在のなかに根を張っている希望なのである。このゆえの、希望の、欲望とでは全然ない、意志との親和性なのである。意志も事実、諸可能性を算出することの拒否を含み持っている。または最低限、この算出の停止を含み持っているのである。ここから、希望を、意志に依存しないものに自らを用いる意志として定義し得るのではないか? 我々はこの連結の実験的な証拠を、つぎの事実に有している、すなわち、希望がその最も高い程度に達したのは、最も攻撃的な信者たちにおいてなのだ。このことは、もし希望が魂の単なる意志薄弱な状態であるならば、理解不可能であるだろう。他の、倫理学の最も高い部分におけると同様、ここでも一切を歪めてきたのは、意志のストア主義的な或る表象なのである。この意志は、こわばった緊張のように解されてきた。意志は、反対に、緊張緩和であり、創造なのであるが。 この、創造という語は、ここでは、我々に初めて呈示される。しかしこれは決定的な語なのである。(p.286)創造が存する処では、堕落は存せず、また、存し得ない。技術がひとつの創造であり、あるいは、創造を含んでいる程度に応じて、技術は全然堕落ではない。堕落が始まるのは、創造が模倣され、後退し、あるいは自己陶酔し、創造自体にしがみつく瞬間においてである。我々がここで気づき得るのは、ある種の疑わしいものの根元であり、私は専心に関してこの疑わしいものを告発するのを常としていたのである。 はっきりと互いに対立させることを、我々の空間的隠喩(メタファー)が我々に許さない、二つの運動を、混同する誘惑は大きい。あの苛立ち、あの矛盾、あの自己屈曲、これらは傲慢と不分離であり、傲慢を象徴化すらする — これらは、あの謙遜な撤退とは混同されることはないだろう、すなわち、専心にふさわしい撤退と。そしてここで私は再び私の存在論的土台と接触するのである。 この撤退、この専心。美学的創造それ自体がこれらを想定していると考える理由があるのである。美学的創造は、科学的探究と同様、実際、自我が中心となって自己に向かうような行為を排除する。そしてこの行為こそは、存在論的には純粋な否定なのである。 私はここでベルクソンの論文と接近し、一致するに到っているように思われるかも知れない。けれども私は、実際にはそうだとは思わない。ベルクソン氏が殆ど常に使ってきた諸術語が考えさせることは、彼にとって創造における本質的なものは、創意であり、湧き出る革新である、ということである。だが私は自問する、余りに排他的に自らの注意をこの、創造の局面へ集中することによって、人は自らの最終的意味を見失う傾向があるのではないか、と。すなわち、存在のなかに自らが根づくという意味を。ここなのである、「創造的忠実」という概念が仲介してくるであろう処は。この概念は詳しく詰めることがいよいよ難しく、とりわけ、概念的に正確にすることが難しいので、測り難い逆説を隠しており、超-問題的なものの中心そのものに位置するものなのである。 つぎのことを指摘することは大事である:ベルクソン氏の形而上学において忠実を救うことは難しく思える。なぜなら忠実は彼の形而上学において慣習のように、語の軽蔑的な意味で遵守のように解釈される危険が常にあるからである。忠実が、精神そのものである更新の力「に反して」、任意に把持された保護のように解釈されかねないのである。 私には、この、忠実の諸価値の無視には、彼の『〔道徳と宗教の〕二源泉』に現れているような、静的宗教の概念を深く損ねている或る何かが存すると思うところがある。そしてここで、創造的忠実についての省察によって、ひとつの不可欠な焦点合わせが可能になるかもしれない。私は、この忠実のいくらかの輪郭を示すことが出来るだけである。 忠実は、実際、無気力な慣習主義の対極である。忠実は、或る恒常的なものの能動的承認であり、法のように形式的では少しもないが、存在論的なのである。この意味において、忠実は常に、ある現前に、さらに言えば或るものに、自らを照応させているのである。この或るものは我々の内で、そして我々の前で、現前として把持され得、把持されねばならないのである。だが忠実は事実においては、完全と同程度にか、ほぼ完全に無視され、忘れられ、次第に消え去り得るのである。そして我々はここで、あの裏切りの影が再び現れるのを見る。この裏切りは、私によれば、我々の人間世界すべてを不吉な結びのように包んでいるのである。 人は言うだろう、我々は共通して忠実を原理に基づいて語っているのか? と。残る問題は、(p.288)そこには他の次元からの忠実の非適合な移調が存しはしないかを知ることである。原理というものは、抽象的な断定に還元される限り、自我から何も要請することは出来ない。というのは原理はその全実在を行為に負っているからである。この行為によって私は原理を批准し、布告する。原理である限りでの原理における忠実は、語の語源学的意味での偶像崇拝である。ある原理と絶縁することは、私にとって聖なる義務かもしれない。その原理から生は引き下がったのであり、私は自分がもはやその原理に同意していないと感じるのであれば。その原理に自分の行状を合わせ続けながらも、根底において私自身 — 現前している限りでの私自身 — なのである、裏切るのは。 忠実が無気力な順応主義であることは滅多にないので、忠実はつぎのような諸力に対する能動的で持続的な闘いを内にふくむものなのである。すなわち、我々の内にある、内面の放散への、そしてまた習慣の硬化への傾向のある諸力のことである。人は私に言うだろう:それでもそれは一種の能動的保存でしかなく、創造の反対である、と。私は思うが、忠実と現前との本質に関して、ここでもっと一層先へと理解が入って行かなければならない。 もし、現前が、我々の内なる「観念」でしかなく、その特質がそれ自体以上の何ものでもない、といったものならば、我々が実際に希望し得るすべては、この観念を我々の内あるいは我々の前に把持することに尽きるだろう。それは人が写真を引出しの中に、あるいは暖炉の上に、保持するようなものである。だが、現前である限りでの現前の特性は、境界づけられないということである。そしてここに更に我々は超-問題的なものを再び見いだす。現前とは、現前が現前である程、神秘であるところのものである。ところで、忠実とは、能動的に永続させられる現前のことなのである。現前の効果の更新であり — 現前の徳の更新である。この徳の本質は、創造する気にさせる神秘な促しである。ここで更に、(p.289)芸術的創造について熟考することは、我々にとって大きな救いであるかもしれない。というのも、もし美的創造が理解可能なものだとすれば、それは世界が芸術家に或る現前をすることに基づいてでしかあり得ないからである。心と知性への現前、存在自体への現前。 ゆえに、もし創造的忠実が可能だとすれば、それは忠実がその原理において存在論的だからである。忠実が現前を延長しているからである。現前それ自体は、我々に乗っかっている存在の或る足場に相応するものなのである。このこと自体によって、殆ど測り難い仕方で、我々の持続性の只中でのこの現前の反響は、増大し深化するのである。このことは私には、いわば汲み尽くし得ない諸結果を有することのように思われる。生者たちと死者たちとの間の関係に触れることに関してのみのことであろうが。 この点にまだ執心するのは理に適っている:我々が忠実であり続ける現前〈現在〉は、消失した客体の念入りに保存された肖像ではない。肖像は、それでも、模倣でしかなく、形而上学的には客体「以下」であり、客体の還元なのである。反対に現前は客体「以上」であり、あらゆる意味で客体をはみ出している。我々は其処でひとつの路の入口にあるのであり、この路の果てで死が「現前の試練」のように立ち現われるのである。これは本質的な点であり、この点に我々の注意を集中させなければならないのである。 人は言うだろう:死を定義する何と奇妙なやり方だろう! と。死は生物学的諸術語で定義可能な或る現象「であり」、或る試練〈経験・体験〉「ではない」、と。 こう応えるべきである:死は、死が意味するものであり、最も高い宗教的水準に達した存在〈者〉にとって意味されるものである。この水準に達することが我々には可能なのである、と。明らかなことだが、(p.290)新聞で知る「ある人」の死、私にとって名でしかない「ある人」の死は、私にとって通知された客体でしかない。死が意味することは、私は数ある人物から「ある人」を棒を引いて抹消しなければならない、ということである。この人物たちに私は自分を向けることができるのだが、それは彼らに質問をしたり、情報を与えたりするためなのである。私に現前として与えられていた存在者に関しては、事情はまったく異なる。ここでは、この現前を把持するのは、私次第であり、私の内的態度次第である。この現前は肖像へと堕落し得るかもしれないにしても。 人は私に応えるだろう:そこには、とてもありふれた心理学的な一事実の、突飛で無益な形而上学的言語への翻訳しかない、と。明白なのは、この事実は、我々次第であることであり、我々の思い出のなかで死者たちが生きているか否かに応じて我々次第である、ということである。しかしそれでは、それはまったく主観的な実存でしかない。 私の思うに、実際に問題なのは、まったく別のことであり、無限にもっと神秘的な実在のことなのである。人がこう言う場合、すなわち、《我々の死者たちが我々の内に生きるのは、我々次第である》、と言う場合、人が更に狙っているのは、還元としての観念、あるいは肖像としての観念である。人は承認する:客体は消滅した、だが客体の幻影は存続している、我々の内なる力がこの幻影を保持するのである、この保持は、手入れという語の意味においてであり、家政婦がアパルトマン、家具を手入れするのと同様である、と。余りにも明らかなことは、この手入れはいかなる存在論的価値も呈示しない、ということである。しかし、もし忠実が、私が定義しようとしてきた意味で創造的であるならば、事情はまったく別様である。現前は実在であり、或る感応〈衝撃〉力である。我々がこの感応力に浸透的であり続けるか、非-浸透的であるかは、我々次第なのである。本当を言えば、この感応力を引き起こすというのではないのであるが。創造的忠実の本質は、浸透状態で能動的に自己を把持するところに存する。そして我々がここに見るのは、一種の神秘な往還が交わされる様であり、それは(p.291)自由な行為と、恩恵との間のものである。この恩恵によってこの行為は応えられるのである。 ここで、先の反論とは逆の対照的な反論を予想しなければならない。人は私に言うだろう:それなら、あなたは、心理学の共通域を、形而上学的な諸語で飾るのを止めなさい。そういうことは、証拠づけられずに一切の可能な経験を超えるような主題を、無動機に断定することになるのだから。あなたが、現前という中立的で曖昧な術語の代わりに、感応力という無限に一層紛糾した術語を用いるや否や、事はそうなってしまう、と。《つづく》
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ぼくは真理ではなく真実を求める。哲学者は致命的にも真理を求める。だから真実に追いつかない。マルセルだけいて高田博厚がいなかったらどうなるか。(マルセルにはまだ戯曲があり、かれにそれは不可欠だった。)真理は真実から、生から、距離を置いている。それが致命的だ。