――― 「僕の美と愛と信仰」 ――― 集合容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害者です。自分の本来の魂的生を貫くため、そして集合容喙と強制薬害の事実を証言し国に問題を解明解決させるため、この電子欄を書いています。(パリ大学博士)
彫刻家・高田博厚先生の思想と共に生きる電子欄(ブログ)です〔2014年3月25日開始〕。 自著『形而上的アンティミスム序説 ‐高田博厚による自己愛の存在論‐』(2009)の初志を、集合的容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害状態にも拘らず、継続実践します。
拡大・内容
本書は、著者の intimisme métaphysique 〔形而上的アンティミスム〕とよぶ哲学理念の許、彫刻家にして思索家である高田博厚(1900‐1987)の根本思想を初めて本格的に明らかならしめようとする貴重な試みである。その意義は普遍的かつ根源的であり、人間の創造的生の条件が稀な真摯さで反省されている。学問・芸術の魂的原点の確認の為に、また、人生の意味の正面からの示唆を得る為に、
「人間」であろうとする総ての人々に開かれた永続的価値をもつ書である。
revue 「かけがえのないもの」 船より
信仰 「祈り」 魂感 一行詩 きみの翳
信仰:人間の愛 思想は人間自覚である
思想の憲法前文 高田博厚と高橋元吉
マルセル 形而上学日記 ヤスパース ノオト
魂の実証 ―記憶と意志― 序説(高田博厚論)
わたしはかんがえる、ゆえに神を信ず
高田の作品の形而上性 高田先生の言葉
高田先生とマイヨール美術館のこと マイヨールの言葉
「純粋」の直接性と意識性 自分の信にしか神はいない
自己愛と他者愛、そしてイデアとしての神
きみのために 品格 信仰と文化 いのちの二行詩 魂の愛の明晰な力
je suis tout près de Toi Que ce sourire reste en Toi
album 1er album 6e installation d'essai 裕美さん
album cinquième ひとの本質 納得 夜明け Suite
「空」 祈りの世界 誕生日 愛と神 シャルトル聖堂 空
信仰の緊張 「美」の次元 「知性」 平和の行為
彼女のバッハの精神性
きみのショパン、ドビュッシー、ラヴェルを
地中海彫刻の音楽 信仰 一元化 本質
「神」の感得的探求 自己委託・信仰 違う力 人間の力
感覚倫理 自分の魂からの招き
自節紹介 続 II III IV VI( V)
*七生報国の鬼魂となる
必読節:集合容喙関連
かけがえのない身体と神経組織を壊されたうらみは恐ろしいぞ
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〔グーグルでは「高田博厚先生と友と神に ・ 形而上的アンティミスムの思想」から
でも検索できます(「古川正樹」を加えて検索してください)。〕
記録 人間・神を求めるもの 04月15日 16:05*美しいものは否定できない 04月05日 00:20*新しい神を信じることを学び始めている 03月27日 01:25○信仰の覚醒と復権 03月14日 03:35ぼくの小さな信仰 03月01日 01:57記録 試練という観念の捉え直し 02月18日 17:58記録 自分らしい神を信頼する 02月11日 00:14”・記録 時を超える記憶” 公的なものより私的なものを優先するという決断 02月06日 16:38翻訳をつづける '26 01月31日 23:29 一生学生 02月01日 03:46信じる'23 11.1723:45 友に忠実に '23 02月03日 03:20祈る '22.05月10日 ぼくは信仰を、神を求めている 07月28日聖母信仰の真意 10月21日 *愛は瞬間瞬間のもの12月13日”愛の信仰”'2102月28日音楽は人間への信頼 '2012月08日きみへの愛によってぼくは再び世界に開いた 11月14日ありがとうというべき以上のものが伝わってくる きみの笑顔 11月17日応答(コレスポンダンス) 10月27日一緒になりたい魂を感じさせるひとはきみしかいない 10月04日お誕生日おめでとう 10月11日 10月11日いつもともにいます 2020.1.20 絶対的讃 '2112月07日 16:17⁂何の瞬間のために生きているのか'22 07月05日 23:50◎ぼくからきみへ ぼくの独白 08月21日 23:47ぼくの窮極の信仰の言葉04月24日 17:52愛することと祈ること 04月17日 01:33常に愛することは祈ること 愛の修道士の路 04月11日 00:05記録 ぼくの美 愛 信仰 神と人間 '25 04月09日 19:41愛の言葉しか信じないのが信仰であり愛である 03月31日 04:14人生の目標は愛 02月24日 02:07愛の力を経験するために 02月21日 02:14記録 神の意識 じぶんの路を信じてうろたえない2月12日 16:19記録 どうしてこんなにすっきりと、愛に拠らない人間関係全体から包括的に離れたのだろう 2025年01月29日19:00:57僕の美愛信仰01月07日 14:31〇 絶対的なもの01月03日 23:08記録 神とともにある一年であることを祈ります '25 01月01日 00:05一貫したぼくの態度12月07日 00:07 自分への純粋な愛が勝つ04日 23:45力あっての情緒 心を入れ替えて生きる 11月22日 23:31◎不死の信仰11月07日 19:37 ◎ 11月02日 22:17なにに祈るのか10月23日 18:32記録10月10日 23:31〇 寂しさの共有08月23日 22:52〇 直接な安心感 08月21日 23:05※ 裕美ちゃんの世界を尊敬する06月25日 22:57※私話 03月21日 23:10 銀河の曲と海の曲06月17日秘語 '24 03月04日 23:25 ”魂に時間は無い”03月17日 03:09裕美ちゃんへの感謝とぼくの一貫性23.12月12日 02:07記録 「力」無くば弾かず 愛は愛を信じる 2023年07月26日(水)芸術と信仰 愛の修道院の路 12月17日 22:50記録 目醒める処 ほんとうに忠実があれば信仰のみで充分 (美と愛と信仰) 2022年12月03日(土) 00時00分27秒天使の原理はこの世の者の原理とは違う 12月26日(月) 06時17分記録 逆説的恩寵 きみに祈る 遠くて近い神'22 10月29日 00:00きみに祈る'22 10月25日 22:14 心懸け 10月23日きみは神のところに居るのだから、ぼくがきみを愛するのは神を愛するのと変わらない '21 07月14日✙告白 反省を揚棄 '21 06月18日 ✙独白証言06月11日✙一音に宇宙を感じるように全体を弾くことの別世界性'2111月17日 23:08きみが真剣なひとだから 10月09日 遠くを見よ10月11日 23:52自分への言葉: 課題への思念で自分を整える '20.7月30日 00:23ぼくの祭壇09月04日 18:52ぼくにとって祈るとは 記録 08月09日 04:45祈りとは唯一の愛する存在に面すること 08月09日 01:58 記録 7月24日 14:41 きみにかぎりない「ありがとう」を 07月25日 わたしはいつもあなたの思うところにいます 07月20日 01:52 ぼくはとても寂しかった 07月15日 記録 造形と音楽 行動するもの 07月09日 03:12 音つくりの天才 きみとぼくのこと 07月09日 04:57アルバム「かけがえのないもの」 青空に瞬く星 06月20日 23:15 語らい 6月15日 記録 6月11日 10年の月日を思って 5月22日 呼吸に宇宙を包む演奏5月11日 信頼は主体的なものである5月8日 静かな親しい奇蹟 4月17日 私記録4月21日 語り合い5月4日”amis solitaires ou DIGNITE”4月10日 愛は現前であり、現前に立ち会い得ることである。ゆえに日々の祈禱なのである。 その前ではすべてを措いて立ち帰らなければならない。そこにほんとうに沈潜するために。 愛は現前である 私記 魂に時間は無い 3月17日 *最初にあるものは不変のもの 3月1日 ”ぼくのクレド(信仰条文) ” 02月22日 12:03 (再)*「ママン」の話 「ふだんの生活」と「本当の願いごと」 02月19日こころの祭壇の灯を消さないように 2月4日 ぼくの信仰 1月19日 教養がすべての基本 ” きみの本質への信仰 ” 1月10日 きみと共在しているという超主観的な実感のなかで生きたい裕美ちゃんへ 12月04日 01:52*きみの本質への信仰 2018年11月25日 23:41音楽において直に感じるきみにぼくの永遠の愛を捧げます11. 2無限な時間空間、自分の魂を、弾く こころが鎮まるほどに 10月19日 23:52 ”テオリア(観想) 歴史の意味” 愛の感覚論・過去を大事に10月09日 ぼくの思いを救ってほしい 10月05日 個 08月22日 主よ、ただ信仰と確信だけをあたえてください。 そうすれば、自分のことも愛する者のことも不安でなくなります。 ノヴァーリス尊敬 08月08日 01:31 美しく弾く 愛の修道院の路で 08月12日奥の深い魂 07月29日 01:46 ”dialogue sans titre ** それほどの愛を発するほどにも” 7月23日 小休止 7.14 7月14日 05:02銀河の距離 6月20日 驚嘆 そして愛より尊いものはない 6月14日記録 6月12日 きみの「偉大さ」 6月7日 23:25象徴 奇蹟 5月24日 15:08夫婦 '17. 9. 22 petit dialogue 5. 22”「魂霊」の世界への参入 ” 愛の修道院の本路5月19日 1:52きみを想うことが ぼくにはいちばん創造的なのだ 5月9日 15:03銘記(個) 愛の修道院の路で 05月03日 23:32 愛は、一緒だという想い 4月20日 15:55雨の夕の想い 生そのものへ 生は愛 4月17日 18:42 フランスの聖堂建築のような演奏 04月13日 20:22vie (個) 04月13日 10:33 空の十字架03月31日 01:56*神への呼びかけである祈り 03月29日 00:05裕美ちゃんの十字架の飾り 03月07日 (私) 3月8日 17:05 日記 02月21日 聖・裕美さん 02月19日 02:17愛の修道院の祈り 02月17日 23:59信仰のインスピレーション(個) 02月16日 22:05交心(コミュニオン)としての愛の世界 02月16日 02:52 信仰は自力と他力が音叉の両極となったハーモニーである 02月16日 02:02魂の耽美 02月02日 22:30ぼくのクレド(信仰条文) 01月20日 01:23 2007年ライヴでの裕美さんの演奏の、熟練も気魄も桁違いな素晴らしさは、観なければわからない。技にも表情にも、予想できない感動を覚えます。彼女はほんとうに多様な面があって面食らわせる、内容をぎっしり感じさせるひとだ。演出的表面とはまるでちがう。ぼくの言いたいのは、彼女の弾く全曲の完璧で優美な音色は、すべて、異常な緊張と努力によって創造されていることが、ここから納得される、ということなのだ。 1. 16「堅信」と「覚醒」と「慎み」きみの気持に応えるために 01月17日 23:08きみの気持の声 01月17日 00:17 秘記(覚知) 01月01日 19:12 きみへの愛 IN MY ARMS TONIGHT 12月22日 20:38 故郷性のある演奏 1月5日 この世にきみのピアノのようにきよらかで美しいものをぼくは見いださない。ほんとうに わたしと一緒に生きましょう 溢れ出るきみへの愛 それはぼくの生そのもの全世界を視ても ぼくはきみしか観ていない きみの「思想」 きみの世界を崇拝する '17. 6. 20私記* 12月21日 02:21 熱烈に 11月28日 16:44*神に至る愛 愛の修道院のなかで2017年11月04日 03:56 告白 10月06日 22:47 きみと共にいることは、ぼくがぼくとして在ること 10月06日 03:52 (個人覚書) 10月01日 02:20 事実と信仰 (覚書) 09月28日 19:03 ぼくには 07月27日 23:57愛は発するものであると同時に求めるものである 7月26日 00:16 記録愛の修道院のなかで 06月25日 17:05 記録愛の修道院のなかで 07月19日 14:11 ぼくは、ぼくのなかのきみいがい、もう信じたくない。信じることの前ではすべては無力であり、信じることに合わせるしかない。(7.17)愛は現前である 07月07日 14:22 *日々の誓い 信仰(個人) 非公開 あなたは私だけを信じてちょうだい。私はいつもあなたと一緒よ。 ぼくを知ったいまのきみの表情をみたい。ぼくのなかでしかみられないきみを愛して愛して愛しぬく。ぼくの救いより大事なこと。そこにのみぼくはいる。 ―これがぼくの信仰の生の核心であり自由である。信仰は天のご機嫌とりではない。天に逆らっても自分の本心を敢行することを自分で肯定することを、信仰という。―〔神がどう思うかをぼくは知り得ない。神の意思に基づいて生きるということは、よって、欺瞞である。信仰は、自分の決断と決意に基づいて生きることを敢行しつつ、神に面する態度において絶えず自分を問うことである。信仰内容は、個としての人間の歴史性の集積の深みから生成する。17.6.10〕きみの演奏を聴き きみの魂を愛することは 他のいかなることにも優る私録 Kakegae No Nai Mono 素材にこころを籠める内部の世界に集中せよ内部の世界に集中する、これはまことに「神の召命」なのであり、修道精神の本質である。このゆえに美意識は生の路を宗教的たらしめ、そのかぎりで倫理的たらしめる。倫理とは、生を「愛の修道院の路」たらしめる魂の希求である美意識の、美意識そのものからの自己統制であるほかの意味をもたない。「内部の世界に集中せよ」、この意味するところがぼくはきょう(17.6.9)身に染みて痛切に解った。ぼくの今後のすべての生を支配するだろう。 「神」に導かないのなら芸術にはいかなる真面目な意味も無い。そして芸術の意味を知ったのなら修道士の生を生きざるをえない。このことがいまぼくに真剣な実践として自覚された。 夢想であったものが真剣なものとなった。 愛の定義 3月23日 愛の修道院の路 3月25日書き始めて三年の日 「神」と「愛」”247 自己委託・信仰 '19. 5月24日 言葉を離れて 05月06日ミューズ 満ちた思念 01月11日 人間がなぜ「神」を思念するようになったかを了解する気持だ。「別の世界」である「美」の経験によって。 愛とは、生活すべてが神聖な儀式となることである。おのずから生活が修道院となる。ほんとうの愛 ほんとうの仕事 音楽への感謝 3月31日 21:52きみの 魂の意識を籠める音楽づくりには 聴くたびに尊敬する4月2日(日) 00:08:19自分の過去の思索を担わなければならない。「愛の修道院」のなかに生きながら思索をする。それは「問いの集中」である。この集中がぼくには「祈り」であり「作品の路」である。ぼくはいま 問うものの外部からではなく 問うものの内部から問う境位にある。すべて裕美さんのおかげである。 2016年11月08日(火) 22:31:42永遠というものがあるとしたらそれは「記憶の王国」であり、そこではすべての愛と美の記憶が生命をもって生きており、生の本質と現実そのものであり、そのすべての記憶はその意味と内実をますます深く無限に開示しつづけるような世界である。2017年03月08日(水) 22:52:00無限を知るとは、いのちに共振することである。無限でない いのち はない。支える言葉 2016年11月21日(月) 21:11:56ぼくは人間の本性は愛であると思っている。自分に反さず生きていれば、愛の方向にゆくしかないと思っている。愛のほかに、自分のほかに、なにを得ようとするのであろうか。自分を得ることは世界を得ることではない。愛を得れば世界を捨ててよい。自分は自分にしかない。愛は自分にしかない。生きていれば、「愛の方向にゆくようにできている」。これが運命であり自由である。 愛がなければ愛さないがいゝ 愛さねばならぬといふ愛はない 愛さずにはゐられないといふのが愛だ ―「愛」 『耽視』より―愛とは いまここで一緒に居ること 02月26日 23:39愛の意志は必然 '20. 01月21日 23:39*尊敬・自由・忠実 03月07日 12:32聴く力の飛躍 これほど勇気をあたえてくれるとは… 04月06日 17:57”きみといるのがいちばんいい” 04月07日 01:25祈り 05月01日 23:28きみの演奏が経験させる 完全性の世界の存在 07月27日 01:37✙魂は「美と愛と信仰」である ”*** 魂と意識 自他の幸福…10月05日 01:57これほどの彫刻的な美しさ11月01日 14:58 ぼくの愛と美と信仰 *ヘルダーリン的な愛によせて 12月23日 16:23あらためて解る裕美さんの天才 '2101月04日 23:52有名人ではないきみへの愛 01月08日 00:33灰とダイヤモンド 01月22日 18:45愛をいだいた魂は護らなければならない 02月26日 17:15完璧とはどういうことかを知らせてくれるきみの演奏 2020/11/19きみの演奏の、聴者の理解を超える完璧さ'2103月03日 23:57*きみのインディーズアルバムは永遠です 04月26日 19:30無心の美 05月19日 01:55 裕美ちゃんを大事にするのは ぼくの宗教なのだ07月09日 17:35きみと神 07月27日 03:55観想 '2201月22日 21:01 観想01月24日 18:55⁂ 人間は自分のみに責任がある ぼくの目覚め 愛の定義 02月06日(日) 01:22:07 きみの演奏02月07日 00:03記録 ぼくの目覚め 愛は欠乏ではない02月12日 00:00手紙 04月02日 02:06⁂私記 04月03日 02:07 私話04月04日 21:20”仕事することは生を集中させること きみとぼくだけができる…03月26日 23:11記録 光を通す穿孔 05月28日 00:00記録 音楽は生命だ 05月28日 22:10聖休話 10月03日 04:46記録 お誕生日おめでとう 2022年10月11日 00:00午前零時は神聖な魂の時間帯 10月16日 00:41小さな水晶玉のような自分 '25 08月09日 01:23
意志と生 '25 08月11日 22:46真剣なきみの美しさ 美そのものが思想である 02月07日ギリシャやイタリアに行っても きみとの愛をたしかめることしかないだろう 06月04日 17:10自分を自覚的に培った者でなければ きみのほんとうの美しさはわからない 03月25日 00:23芸術創作より尊いものは、愛 03月23日 00:50愛の態度 '19年03月22日 04:21”啓示の音楽 きみはぼくの手本” 12月09日 01:26愛し信じるという力 11月10日 23:41 信頼 11月28日 15:15 人格と信仰 10月21日 20:57 大事なのは感情だけ 10月07日 22:22 魂の境位 10月07日 02:01 ”philosophique” 不動の感想 06月21日 15:21信頼したいひとは実際に信頼できる 05月20日 22:01信頼したい人間を信頼できることこそ幸福 05月19日 19:05記録 05月11日 覚え書き 05月13日 14:46きみは、演奏のなかに時を止めてしまう4月11日 ピアノで復活してください 12月17日 愛おしいきみ 1月25日リルケを読みはじめたら きみのこの写真がぼくのなかにすうっと入ってきたんだ 原初的なきみ といったらいいんだろうか とにかく宇宙なんだ かけがえのない モナリザもかなわない 謎めかしているのではなく ほんとうに存在している きみを感じることにより ぼくもぼく自身に戻ったようだね 感じるとは 見るとは 存在である本質をみることいがいにない最初に感覚ありき そうでないものはすべて自己欺瞞だ ぼくは自分の感じたとおりにきみを尊敬する 天使の健康 09月22日 04:21懺悔し祈りたくなる曲 09月14日 23:50魂の演奏 '2109月11日 02:14記録 変わらないきみとぼく いつも魂を瞑想しよう 3月23日実感 記録 2月26日 私記 4月4日 2:57 格率 2月21日 個人記録 2月20日第31巻 真実のきみを愛する 02月17日 「学問の道」という偏見 沈黙の重み 2月12日 (晴のこころ) きみの存在は永遠です 2月4日 祈る愛 12月20日 きみと共在しているという超主観的な実感のなかで生きたい'21.7.31純一な美しいきみ 感覚的なひびき 12月12日 00:02 個人記録思うことは観ずること、創造すること 12月08日 00:08 参照愛のゆえに最後まで信じる者は救われる 12月6日参照 12月7日きみへの祈り 11月28日 22:52愛であるぼくが 愛であるきみに面している そのほかは いっさい無 音楽は愛である 12月05日 21:22*最真のこころ 11月27日 11:57この開放的な信仰は、裕美ちゃんのこころと繫がっているという実感である。(ぼくはたいへん大事なことを言った。)きみに向くと明るい気持になれる 11月26日 00:03 キリストよりも何よりも ぼくはきみを得たい。きみはぼくのキリストだから。+具体的経験の思想 (欄の第二段階) 11月19日 03:20愛と美と信仰という形而上の主題に集中する 11月18日 16:21個人記録 11月18日 15:06*愛における努力 11月17日 15:52愛情の安定 11月16日 03:52ほんとうの兄弟のようにぼくのこころに住むひと 11月愛とは 11月05日 14:11 恩寵そのものである愛するひととの交流のなかに生きていて、克服すべきものが無い状態である。以前は問題であった物質的なものへの膠着が消えてしまっていて、浮かんでも消える泡でしかなくなっている。存在論的に、愛しか存在しない。あとは妄念である。気づき 11月03日 裕美ちゃん、いま、ぼく、はっきり気づいたの。きみの音楽を聴きながら。 きみを恋し求める気持と、神に祈る気持が、まったく同じだということを。形にすべき真実の選択 11月03日 19:03第二の新生 11月03日 01:33きょう 月と金木犀 10月24日 14:40ぼくがぼく自身であるかぎり、どこかでぼくの名誉は保たれている。これはまったく明瞭なことであるように思われる。”きみとぼくのために書いてゆく” マルセル的感覚 10月22日 01:17無限な時間空間、自分の魂を、弾く こころが鎮まるほどに 10月19日 23:52 裕美ちゃん、2018年のお誕生日、おめでとうございます 10月11日 きょう寝る前の覚書 10月12日 03:33 歴史性・過去 (故郷性 個性と愛と形而上) 10月17日 00:30原石の美しさを大事に10月06日 18:31無条件に命令するもの 09月23日 01:23愛は自分で安定させるもの 09月14日 23:56教えてほしい :詩 09月14日 18:05愛は言葉にするものだ 09月14日 02:10魔彩鏡の「いのちある無限空間」 09月13日 18:46小休止 休日 09月13日 02:01小休止 語らい 09月11日 19:19IN MY … 告白 09月10日 02:23 永遠に はじまったばかりの愛 09月08日 00:23奥の深い魂07月29日 01:46個 08月22日 16:21愛するということ 08月24日 23:39ノヴァーリスの言葉 08月20日 21:56送信記録 個 08月20日 02:50 《現実が心を通すときはじめて現れる真の具体化》 08月19日 23:01愛への組み込み 08月21日 02:02ぼくは知っている 08月13日 22:41 ぼくの心は神の鏡 08月16日 23:38寂しさは恩寵 08月17日 23:25自分の内部の秩序いがいの外部の秩序は、じぶんの思うように作りかえればよい。 8.19 *知性人としての尊厳をもつ 10月07日 19:31「神」は主体性のため 08月22日 01:20自分の定位 「生き」て創造する 08月22日 04:05心の原則 08月23日 18:57*愛と祈りは形而上的な意志として同一 '19 04月02日 23:37記録 6月7日 ”(参照)10月11日生まれ” 07月17日 12:37愛はすべてを許す 08月03日 00:01愛おしく思えるのは相互同意あってこそ 08月10日 05:21祈りは呼ぶこと 08月09日 20:27記 08月25日 精悍 集中 08月28日 「強さ」をだれが理解するか 08月28日 ”Suite 紫のひかり 暖炉(665)” 11月18日 13:23 ほんとうの覚悟とは 08月30日 22:17バッハを凌ぐ魂の深い世界 09月12日 03:25自己の反省 09月12日 02:16ぼくを仕合わせにする行為 10月04日 15:41愛とは 10月04日 22:14最後まで信じる者は救われる 10月12日 23:07”小休止 音つくりの天才 きみとぼくのこと” 10月13日 03:01きみへの感嘆と尊敬の一貫した実感 10月21日 01:35超越であり解脱であるきみのピアノ 10月21日 23:26私記 10月22日 18:52*知と美 10月26日 18:56”きみの本質への信仰” '19年10月28日 01:20”真摯 慈悲 「神の神経」の手” '15'21 03月16日2018年11月25日(日) 03時00分31秒ぼくには、きみの本質を信仰する気持がある。きみは きみの演奏によって自分の魂を直接に証して、経験させてくれるから。 この信仰は、きみの経験させてくれる内的世界の美の実感に支えられた、きみへの純粋な魂的な愛であり、そしてこの魂的愛を核とした、きみの存在全体への包括的愛です。そしてぼくがこの、きみへの、証された美の実感とひとつである愛を信仰としてもつのは、或る、といっても痛切に実感する、親しさと懐かしさがひとつであるような憧れとしてなのです。そこでは、きみにおいてぼくはぼく自身を根源的にとり戻し、同時に、きみの魂とも融合しています。これらはすべてひとつのことなのです。このひとを畏れよ 10月28日 02:132015.9.3 *演奏できみがどれだけ苦心して集中しているか!なのに聴く側がどれほど散漫で注意力が欠けているか、きみが実際に表現しているものがどれだけ深い心情の世界か、そういうことをきみを聴きながら感知するたびにぼくはいつも愕然とします。ぼくはおもうのだけど ほとんどの人はね、いま、きみの居るような世界に住んでいないのです。そうぼくはおもっています。やかましい騒音音楽を聞いている人々が きみの表している世界に沈めるとはぼくはおもっていないのです。きみもやはり、「文化は少数者がつくる」という言葉をぼくに噛みしめさせるひとなのです。純粋さが いかに深い奥のある世界か、きみがぼくに感知させてくれるのはこのことであり、ぼくはきみの「深い純粋さ」の前に頭を垂れます。 きみの演奏で、あふれるような優しさの泉から注意深い知性の配慮努力を通して生みだされないようなものはひとつもありません・・・ きみは、平和に貢献するというよりも、平和が何かをおしえてくれる ひとなのですぼくはもうこの欄に純粋なものしか入れずにきみとだけ語りたい、ぼくを養ってくれた世界を。それがもうずいぶんまえからのぼくの意思でしたね…小休止 語り合い きみの魅力は本物 '19年10月29日 01:33 深い静謐から生まれてくる音楽 10月30日 01:56””album cinquième” この時代のなかでの恩寵”11月01日 02:00心を一つに 11月03日 17:31きみの微笑みの明るい深さ 11月09日 21:11*愛とは、ほかを捨てることを命じる唯一性である'20. 02月23日 00:08*ぼくの最深の思想 03月05日 23:10祈りと音楽 03月09日 00:07路の生んだ表情 03月10日 02:17きみはぼくのなかという安心感 06月23日 23:58満足さえ超えさせるきみの完璧な演奏 09月18日 22:46✙不思議な偶然09月30日 23:42小休止の会話 10月07日 03:45 正統的でありながら個性的10月13日 23:41*”私記”10月22日 01:45✙記録 意識の塵と、純粋ということ 10月25日(日) 17:52きみへ11月15日 23:22かけがえのない存在であること11月17日 23:42完璧とはどういうことかを知らせてくれるきみの演奏(魂の夢と覚醒) 11月19日 22:52””「私」と「私の身体」” マルセルの反省意識”12月01日 14:14✙ぼくときみとは最も理想的な形で結びついている12月01日 21:19”きみのピアノだけが” '2012月13日 03:33 きみの多様な表情の不思議さ 12月13日 17:06小休止 12月15日 01:50人間の最大の幸福は 精神的にしていられるということ12月16日 00:16遠いまなざし 愛という深淵 愛の修道院の路で 12月16日 16:55神がどういうものかをわれわれは知らないように、愛がどういうものかをわれわれは知らない。 ただ愛を生きるのである。いっさいの愛論からの独立12月22日 00:46祈りという充実 12月20日 02:46””おなじ人間だから …””愛の修道院の路で '2101月05日 16:03きみについて02月16日 02:22きみのこと03月08日 22:18*公開に向かない秘密の真面目な会話03月09日 01:18 ぼくにとって大事な私記 03月14日 02:46きみとぼくは期待をうらぎらない04月01日 01:51きみの「BEST+3」04月05日 19:19私記04月06日 23:17”信仰日課”04月07日 15:10きみはぼくの護り神 04月09日 14:39ふしぎだなあ …05月02日 13:50portrait 05月31日 15:08覚え書き06月04日 02:52まず自分が悔い改めること 06月04日 22:01高雅 06月22日23:38表情に内容が溢れている 08月08日 01:53アルバム「君に逢いたくなったら」讃 08月31日 22:57きみの人間性を尊敬しきっている 09月02日 23:11*生活に追われる生ではなく魂の生を 愛の修道院の路で '22 02月14日 01:25自己を諦めない者にしか未来も永遠も神もない02月16日 03:10*自己肯定感をあたえてくれるきみの演奏03月28日 22:58⁂私語 04月09日 23:10⁂私事記録04月25日 22:58遠くて近い神10月27日 01:05
それは、いろいろ参照できるにせよ、それはぼくの路ではない、という、強制的な啓示だったのである。ヤスパースは「真理」を問うたが、「交わり」という方向で問うたことで間違ったのである。人間現実という分厚い壁は、それを許すようなものではない。その点においてぼくは「他者」というものを全く解っていなかったのである。他者よりも他者のことをずっと感じとっていたのに、そのこととは違う面で、他者を認識していなかったのである。ヤスパースの哲学理念よりも大事なことを学べ、という指示だったのである。真理とはそういうものではない。真理に触れた瞬間から、他者を用心すべきようなものであり、孤独を護るべきようなものである。
ぼくにとって高田博厚を語ることは、ぼくがぼくの人生において高田博厚によってどう動かされたかを語ることと不可分である、と、ぼくには感ぜられる。ぼくに与えられた状況のなかで高田さんがぼくに作用したその仕方は、無論、ぼくの状況とも不可分である。ぼくに与えられた状況はとても厄介なものであり、いまも厄介なものであり続けている。二十五歳の時の耳疾患の治療の不手際による耳鳴りが今もずっと続いていることを先ず挙げねばならない。普通なら繊細な思索など不可能なほどの耳鳴りである。しかしそこからぼくのほんとうの思索活動は始まったと言ってもいいのである。活動が不可能な状況のなかでその活動そのものを敢行する、それをぼくはしてきた。その空前絶後の苦しみは誰にも想像できるものではない。ハイリゲンシュタットの遺言をベートーヴェンも同じ二十五歳のときに書いた。ぼくも同じ歳にぼくの遺言のようなものを書いたので、彼の気持は自分のこととして痛く同感している。仕方も解らないまま、前に進むしか無かったのだ。この歳だったと思う、高田博厚と出会ったのは。高田さんとは、先に愛読期間が長かった森有正の遡及的後継として出会ったのだった。遡及的というのは、高田さんのほうが森さんの先輩格だったからである。ぼくもやっとそれに気づいた。高田さんの思想的次元での親友は森さんであり、その次元での密な親交が二人にはあった。ぼくには同時に、自分で独立に見いだしたヤスパースがあり、専門的研究としてはヤスパースをやり、隠し味をつけるために森有正を勉強し、この二本立てでずっとやってきた(森さんの「経験」の思想とヤスパースの「歴史性」の思想の照応という基本線に沿って)。ここに新たに高田さんが加わることとなって、さしあたり三本立てになった。その頃、いちばん理解が難しいと感じたのは高田さんだった。事実、高田さんには、その文章に慣れるだけで、二十年かかった。それでもその間、高田さんは、尊崇の念をもって根源的に惹かれ続ける存在であった。ゆるぎない真理を語っているのは高田さんだという確信がぼくにはあった。だが、高田博厚との出会いによって、ぼくの内心の魂の舵は既にフランスへ切られていた。「どうやって」ということも分からぬまま。ぼくの状態では、運命に押し流されてゆくしかなかった。やはり「神」だったのだろう、ヤスパース、森有正、高田博厚の精神を通してぼくの関心だった(いまもそうである)ものは。「現代的個人」を通して「神」を求めるその各々の求め方に根源的に惹かれた。「人生」の窮極が「神」に収斂するような思想こそ、最も深く美しい思想だと、ぼくには確信できた。各々の魂のかがやきは、「神」との照応のかがやきである。人間の個性とは、各々の「薔薇窓」(個のあり方そのもの)を透かしてかがやく太陽(「神」)の光なのだ。そのかがやきを最も純粋で豊饒にしめしている国域は、森有正や高田博厚が証言しているフランスであると、ぼくはこの二人から学んだ。そして哲学とは、人間が「神」を求めることそのものであると、ぼくは既に確信していた。高田博厚に、その神探求の感覚的に最も緻密で高度なものを、その難解で簡潔な文章において、理解を超えて感じた。ぼくは哲学する者であるよりも、詩人なのだ。詩心あってこその哲学なのである。高田博厚がいなければ、ぼくは美と神とがこれほど深く結びつくことを啓示されなかった(その感覚的確信を与えられなかった)し、それに全人生を注ぐことこそ人間の最高の価値であると思わなかっただろう。そして、それに自分を賭けることに、ぼくの猛烈な耳疾患の苦しみが無ければ、行動しなかっただろう。この苦しみは、ぼくが高田博厚の世界に没入することを、むしろ決定的に促進したのである。まるで、ぼくには予め「高田博厚の世界」との出会いが設定されていて、耳疾患も、その苦しみで雑念を振り切ってその出会いと針路に集中するために、組まれていたかのようなものである。「フランス」は、すこしの身動きをする余裕も無く運命そのものになりきり苦しんでいるぼくに、向こうからやって来た。運命としか出会わない。「苦」という限界状況が、ぼくを美の探求に集中させ、世間を超越させたのである。そういう集中状態においてぼくは高田さんの思想に迫り沈潜した。神への関わり方として、ヤスパースは哲学的信仰、森有正はプロテスタントのキリスト教信仰を持っていた。高田さんはロマン・ロランの人道主義に深く共鳴していたが、高田さんが「神」に関わるのはフランス・カトリックの圏内で出会った宗教的美の経験を通してである。高田さんはだからといってカトリックになったわけではなく、カトリックに心情的な親近感を抱きながらも思想的には哲学的な貞節を貫いた。この点、ヤスパース的でもあったわけである。このことが、ぼく自身の思想的継続性にも適うこととなった。神的美の受肉的象徴としての「フランス」、まさにヤスパース的暗号存在としての「フランス」は、日本的桎梏を打破して ぼくの実存的状況のなかに到来した。ぼくはこの到来に自分を合わせるだけでよかった。ぼくの絶望的な「苦しみ」は、この接合(ドッキング)に、不思議な役割を果たした。当時既にいたドイツからフランスへの移動は、地理的には造作もないことながら、意味的にはぼくの過去との断絶であり、これには一生に一度の決断を要したはずだが、運命に従順に運ばれて行くような穏やかさでそれは為された。まさにぼくの「分水嶺」だったのであり、しかも高田さんが第二次大戦後に、日本人であったゆえに入れられていた難民収容所を後にしてドイツを去った最後の同じ川であり橋であった。この渡橋をぼくは、家族関係者全員の承認の許に静かに果たした。だがあの渡橋の瞬間は、生涯の最大の文字どおりの分水嶺として、忘れようもない。どうしてぼくはひとつの圏から別の圏へと「動いた」か。魂が魂へと「動いた」のである。そういう「ひとを動かす」魂が ぼくにとっての高田さんの存在だった。ひとを「動かす」信仰とはこういうものではないのか。イエスの誘いに漁師は網を捨てて従った。導きに従い密林に赴いたシュヴァイツァーの心を了解する者が現代いるだろうか。ぼくには唯一ほんとうにぼくを「動かした」高田さんがいた。すべては魂と魂との出会いなのである。壮大なシャルトルのカテドラルを築かせた信仰もそうだろう。高田さんは、魂に基づかないそれまでの人間関係からぼくを解放してくれたのだ。具体的な行動によって「高田さんへの信仰」をぼくは得た。それを忘れまい。その前とその後とはちがうのだ。そのことを思い出し自覚しよう。魂の出会いには、人間を「動かす」ものがある。信仰は、けっきょく、魂と魂の出会いであって、その力は、人間が「動く」ことによって証される。そのほかは虚ろな動きであって、本来の「動き」ではない。ほんとうの動きは、魂によるものだ。高田さんとの出会いからそのことを経験した。けっきょく、ぼくの分水嶺は、高田博厚かヤスパースかという選択だったのであり、ぼくに前者を選ばせたのは、試練の状況で純化されたぼくの魂であり、このぼくの魂は、この状況で自分の本音に賭けたのだった。この本音は、ドイツよりも絶対的にフランスを、理論よりも正直に感覚を選択した。苦しみの状況が無ければ、脱世間的な本音に、これほど脱世間的に従うことは、いくらぼくでもなかったのではないか、という気がするのだ。《戦後私は時折り日本の雑誌や新聞に文を載せたが、いずれも頼まれて書いたもので、自発的なものは一つもなかった。フランスに行って、徐々な時間のかかる自分の生成に自分を賭けるのが唯一の道であった私にとっては、フランスにおりフランスを学んでいるからとの理由で、紹介したり解説したりする意欲はまったくなかった。むしろ逆の力が私に働いた。三十年前の初春の夜パリに着いて、翌朝ばら色のもやに輝く町に立ち出で、その風景と作品を見た時、天から降ってきた啓示のようなものを感じたが、それは、フランスについて、またフランスが経験したものについて私はなにも知っていないのだという、またこのフランスの中で、私はなにものでもないぜろな存在なのだという、高い感動が絶望感とすれすれになる粛然としたものであった。》これは高田さんの「著作集第一巻」所収「友人と自分」冒頭の全一節である。なぜぼくがこの文をいま、高い感動で、導かれるような偶然に任せて筆写せざるを得なかったかというと、「フランス」という語を「高田博厚」に置き換えれば、ぼくの真実そのものになるからである。高田さんは、自らの国の歴史でまったく経験しなかった「フランス」に、なぜこれほどまでに愛執したのか、できたのか、それを問うことは、とりもなおさず、なぜぼくはこれほど、自分の社会的歴史を捨てて、高田さんという、生活的には縁もゆかりも無い存在に就く気になったのか、それを自問することと本質は同じであることに気づくのであり、かつ同時に、この二つの問いには合理的解答はけっして見出されない、ということに気づくのである。
【つづき】 自由は対象ではないけれども、存在の自己現前なのであり、この存在にとってのみ超越者は存在し、この存在が自分自身にとって再び超越者の暗号であるという、二重の可能性においてあるのである。すなわち: 自由は自らを独自自立性として開明した。この独自自立性は自分自身を創造したのではない。この自由は、意志の諸々の二律背反によって、残り無く生成することが出来たのであり、(191頁)また、超越者にたいして最も甚だしく他の仕方で在ることによって、自らを拒絶されているように感じることが出来たのである。この拒絶性はただ恩寵に差し向けられているのみなのである。あるいはまた、自由は自らの確信によって超越者へ関係づけられて、自分自身の根拠に信頼することが出来たのである。 私は、自分の現存在のつまらなさを傍観しながら、私が拒絶されているという意識をもって生きることがある。私の自己嫌悪は、人間一般がそうであるところのものに関する知として了解されるのである。すなわち、あらゆる動機づけは両義的なものへと引き渡されているのだと了解される。善なるものも悪になる。というのも、私はその善なるものを善なるものとして知覚し、そして私の功績を誇りに思うようになるからである。善なる意志の一義性が欠けているか、あるいは、私は善なるものを知っているけれどもその善を為さないということが起こるか、のどちらかなのである。私が為すものは何であれ、私にとって逆転してしまう。私に絶えず繰り返し戻ってくる、私の負債を、私は認知し、私に神の恩寵が啓示による保証を通して出口を示さない限り、絶望しているのである。この恩寵は、私に功績が無くとも、私がけっして達することの出来なかったものを私に贈ることによって、この出口を示すものなのである。傲慢が、自分は自由であると見做すことであるように見える一方で、すべては反対に神性のためにあるのである。 あるいは、私は、生まれつきの高貴さの意識をもって生きることがある。この高貴さは私に諸々の要請を立て、私がこの高貴さに従うよう勇気づける。なぜなら私はこの高貴さを信頼しているからである(略)。私は自分を尊敬する。善なるものは私にとって私の存在のなかに存し、この存在に行為は従い仕えるのである。私は、私がそこでは真であるところの自分へと帰還する。私が堕落する処では私は自分を見捨てたのである。私を支配しているのは与えられている存在への誇りではなく、たとえ危険であっても自らを実現することを欲する存在への信頼である。私は不忠実性に我慢しないのであり、私自身にたいして不忠実であれば私は咎あるものとなるのである。不忠実性の現実は私の自己意識を齧り取り、私に安らぎを許さない。私は自分の為したことを引き受け、私が破壊したことの埋め合わせをしようと努める。私は自分に満足するようにはなり得ない。しかし、自己嫌悪は人間に相応しくない自己矮小化として現象し、この自己嫌悪は恩寵のなかに救いを探す。これは何の代わりにかというと、神性は自らの意志を隠れたものとして告知するように見える如く、私を私自身の自由から助ける代わりになのである。私はこの自分の自由の本来的な存在においては、自分を愛することが許されるのである。 なるほど、恩寵意識と自由意識との対立は、見捨てられていることと高貴さとの対立と一致はしない。それでも、恩寵意識と自由意識の対立は、この両方の意識の間に関係があるということなのである。見捨てられていることにおいて私は恩寵を求め、高貴さの意識において私は私の自由を確信している。しかし、私が希望を無くして、そのために(192頁)何も為し得ないところのものへの無関心のなかで沈み込むべきではないならば、見捨てられているという意識においてもまだ何らかの自由が在らねばならない。そのように、高貴さの意識においては、高ぶった勇気が人間を欺いて神になることを許すべきではないならば、自己が贈与されることが在らねばならないのである。 とはいえ、私が私に贈与されるのは、啓示を通してでもなければ、客観的保証を通してでもなく、諸々の瞬間においてなのである。これらの瞬間において私の意欲の決断が到来するのであるが、この決断は、歴史的伝承の我有化を通して、模範と導きを通して、準備されていたものであり、交わりにおいて明瞭となってきていたものなのである。超越者が人間に到来するのは、人間が自分を超越者へと用意するに応じてなのであり、そして、用意していることが出来るあり方と一緒のこの到来自体が、超越者の暗号なのである。暗号文の解読に基づく言葉としての芸術 自然、歴史における、そして人間における暗号の解読を伝達することは、伝達が直観的なものそれ自体において起こり、思弁的思想において起こるのではない場合、芸術である。芸術は諸々の暗号を語らせるが、芸術が芸術として語るものは、いかなる他の仕方でも語られ得ず、そのように語られるものは、それでも、本来的存在に触れて、あらゆる哲学する運動が生じるのであるから、ここでは芸術は哲学の器官(シェリング)となるのである。芸術哲学としての形而上学は、芸術において思惟することであり、芸術に関して思惟することではない。思弁的思惟にとって芸術は、芸術学におけるような対象とはならないのであり、むしろ思惟にとって芸術の直観が眼となるのである。この眼をもって思惟は超越者を見遣ることになる。芸術直観における哲学的思惟は、哲学としては自らを、様々な一般化へと逸脱することによってのみ伝達し得るのである。ここでは哲学は「第二の手」から生きる。〔つまり〕哲学は、内実に関しては哲学に属するもの、しかしそれでも哲学自体が創造するのではないものを、招来するのではなくて、摑み取ることを教えるのである。哲学することは、本来的に問題であるものに達すると思う処では、完全に役に立たない論説で満足しなければならない。シェークスピアが、解釈されずに、そして解釈不可能なまま、彼の根源的な劇中人物たちのものである挫折的な自己存在において語るものを、私がより良く聴取することが出来るのは、私が哲学しつつも、哲学へと翻訳しない場合なのである。 1.中間領域としての芸術。— 暗号が単に、暗号を間もなく無きものとし、暗号がそこから離れていたところの超越者と一つとなるための、始まりである場合、それは神秘主義である。隠れた神性が自己存在の事実的行為からして聴取される場合、実存の決断的な時間現存在が存在するのである。とはいうものの、暗号において存在の永遠性が解読され、純粋な観想が(193頁)完成されたものの前で立ち止まり、それゆえ、私と対象との分離の緊張が続くが、時間現存在が見捨てられている、そういった場合には、芸術の領域は、無時間的に沈み込んだ神秘主義と無時間的な実存の事実的現在との間のひとつの世界として存在するのである。自我が自らを神秘的に、無差別な一なるものの中に解消する場合、また、時間現存在の内で自己存在が、隠された神性の前へ自らを献身する場合、自己存在は芸術を直観することで存在の暗号を解読するが、そこにおいてはただ可能性のみが存続しているのである。神秘主義は対象を欠いた全神性へと陥る。〔一方、〕芸術はその諸暗号において、神的なものの多様を実現するが、その諸形態は測り難く豊富であり、それら形態のいかなるものもそれだけで全的にその神的なものなのではない。実存の一なる神において芸術は打ち砕かれ、芸術の諸暗号の生は可能的なものの遊戯となるのである。 芸術を観想する夢想による満足は、私を、単なる現存在からと同様、実存の現実からも、解放する。この満足は、絶対的意識の飛翔のひとつであり、現存在の悲惨から自由にする。〔古代ギリシャの詩人〕ヘシオドスは、ミューズの女神たちが証言されるようにしている:「彼女たちは苦からの救済と悲惨の軽減とをもたらすであろうに」、と。しかし夢想は無拘束でもある。というのも夢想は未だ私の自己存在の現実を作り出すものなのではなく、「在り得る」という空間を作り出すものであるのだから——あるいはひとつの現前を。この現前の存在は私の内的態度を変革するものなのであるが、そこにおいて私はもう実存として現実的な一歩を踏み出すというのではないのである。芸術を享受する者、「素早く彼は苦を忘れ、悩みをもはや思わない。そうして彼を即座に女神たちの贈り物は変えてしまうのだ」。しかし実存は忘れず、他なるものの充実で気が逸れることによって変化することはない。現実的なものを引き受け我有化することで変化するのである。 しかし、実存が自分自身の空間を獲得しない場合には、実存は、この新正な変化に成功することはない。実存はこの空間を、存在を観想することにおけるあの自己忘却が、間に入ることによって、獲得するのである。この自己忘却は、芸術が叶えるものなのである。芸術の無拘束性においては、拘束性が可能性として存在する。人が審美的となり、その結果すべての真剣さが不可能となり、恣意的な疎遠なものを享受し、この疎遠なものが決して人自身の可能性の空間の中に入って来ず、ただ好奇心による取り換えと産出に役立つのみで、私自身にとっては決して自分の内心の運動として貢献するはずもないものである場合、そういった場合に初めて、いかなる真理ももはや存在しないのである。というのも、現存在と実存との現実の前で、芸術の言葉が実存的に空虚となった諸像が生じるからであり、そうなると、いかなる本来的なものももはや観ぜられないからなのである。このあり得る退化は、芸術観想での浄福への根源的権利にたいして、いかなる異議をも意味するものではない。芸術観想の無拘束性が初めて私を、(194頁)実存することの可能性へと解放するのである。現存在現実のなかに全く沈み込み、ただ、私の実存の現実のみに配慮しているならば、私は拘禁されているようなものであろう。私は、いかなる運動も能わずに、〔何も〕出来ないまま憔悴し、諸々の盲目的暴力性のなかに散逸してしまうであろう。もし、私が実存として、根源的な暗号の前に立つことがあるなら、特定の諸暗号が言葉にならないとすると、私は自由へと解放されないままであることになろう。芸術のこのような言葉において現実が瞬間的に止揚されることは、〔私が〕実存として現実を自由に摑み取る可能性のための条件なのである。 現実は、たしかに、芸術より以上である。なぜなら、現実は、実存の決断の真摯さにおいて、実存の有体的な自己現前だからである。しかし現実は芸術より以下でもある。なぜなら、現実は、芸術を通して獲得された諸暗号の言葉が反響することによって初めて、現実の鈍さから出て言葉となるからである。 2.形而上学と芸術。— 人間は、形而上学的思惟において芸術へと押し迫る。人間は自らの感覚を根源にたいして開くのであり、この根源において初めて芸術は思念されたのである。その場合、芸術は単に装飾や戯れ事、感覚の喜びではなかった。諸々の暗号を残したのである。諸作品のあらゆる形式分析を通して、諸作品のあらゆる精神史的な叙述を通じて、諸作品の創作者たちの伝記を通して、人間は次のものとの接触を求めているのである、すなわち、人間が多分自分でそれであるのではないもの、しかし実存として存在の根拠において問い、観じて、形成したもの、そういうものとの接触を求めているのである。そしてこの〔根拠としての〕存在をも人間は探求しているのである。人間が作ったものの外的指標に従って芸術作品と呼ばれるあらゆる事物を通して、ひとつの区切りがなされる。ある芸術作品は、超越者の暗号の言葉であり、他の芸術作品は、根拠も深みも無いものなのである。形而上学的思惟において初めて、人間はこの区切りを、反省された意識性をもって感知するのであり、自分が真摯に芸術へと接近していることを信じるのである。 3.模倣、着想、天賦の才。— 暗号として解読されたものを現表し得るためには、芸術家は諸々の現実を模倣しなければならない。模倣することは、しかしながら、まだ芸術ではない。模倣は、世界定位としての認識において、ひとつの役割を演じる。例えば、解剖学上の描写として、機械の模写として、模型や略図の構想としての役割である。ここでは思考のみが、経験的な実在や、意味の一貫した構想、といった基準に従って、言葉を導くのである。このような模倣は、或る合理的なものを、直観においては意味深長で透いて見えるように、ただ言表するだけなのである。 芸術家は、経験的実在性や思考的構成よりも以上のものを知覚する。諸々の事物において、全体性と形式性とは、無限の諸理念として存するのであり、この諸理念は一般的であるにしてもやはり適切に模写され得るようなものではないのである。諸々の類型や様式形式としての諸図式は、抽象的で(195頁)不適合にではあるが、合理的な世界定位には適った仕方で、諸理念の実体として世界の内で継続して翻訳されるものを表現する。芸術は諸々の力を現前させるのであり、これらの力は諸々の理念のなかで自分を表現しているものなのである。 これらの力は、芸術家によっても一般的なものとして、一般的に表現されるものではない。これらの力は天才の作品において、絶対的に歴史的な、代替され得ない一回性へと、自らを具体化するのである。にも拘らずこの一回性は、反復され得ない一般的なものとして了解されるのである。そこにおいて初めて、超越者が語り掛けるのであり、〔このとき〕超越者は暗号となったのである、なぜなら実存は自らの歴史性において超越者を摑み取っているからである。 弟子的身分の人間による反復は、根源的真理の魔力を失ってしまう。このような根源的真理として天才は言わば超越者それ自体を天国から持って来ていたのであるが。結局、諸々の現実の模倣、あるいは先人たちの諸作品の模倣、あるいは考案された悟性的諸事物の模倣は、存続しつづけるのである。 芸術の模倣理論は、ただ、芸術の言葉の素材に触れるだけであり、美学的観念論は一般的な諸力に、天才論は根源に触れるだけである。とはいうものの、天才概念には両義性があり、一つには、天才概念に創造的な天賦の才を思念することであり、この天賦の才は、客観的な業績評価の根底に存するものとされている。二つには、歴史的実存であり、この実存の根源から超越者の啓示が生じていたのである。実存は、作品を貫いて語り掛ける本質であり、この本質から私は、ひとつの交わりにおけるように、この本質の言葉において触発されるのであるが、天賦の才のほうは、私には遠い客観的な意義を有する〔だけな〕のである。だが、存在の諸々の根拠に手を触れる人間が諸暗号において、何が存在するのかを言うことが出来る処では、実存と天賦の才とは天才として一つとなるのである。 4.超越的幻視と内在的超越者。— 暗号は、芸術においては、超越的幻視として直観に至るか、あるいは、内在的超越者として現実性そのものにおいて可視的となるかである。 自然世界の外の、あるいは世界内の特殊な諸存在者としての、神話的な諸人格は、芸術家を通して形態を獲得する。ホメロスとヘシオドスは、ヘロドトスによれば、ギリシア人たちに彼らの神々を創造した。これらの歴史的存在者は、考案されるものでも、発明されるものでもなく、ひとつの言葉の根源的な創造なのである。この言葉は「語-言葉」(Wort-sprache)に似たものであり、この言葉において超越者が理解されるのである。これらの歴史的存在者は、諸々の力において、いまだ暗い諸象徴に留まっている。この諸力は、ただ、呪物や人間の顔をした偶像としてのみ、形態を有するのである。この諸力は人間の諸形態となり、人間の現存在の高まりのようであることを要求する。だが、(196頁)神的なものを、人間を超えゆく途上において構想することは、人間が神々の常に不充分な似姿となることである。この神々は、超越者が特定の映像に啓示されたものだったのである。神話的な諸映像において観られるのは、ユングフラウ〈聖女〉—母— 女王、受難のキリスト、聖人たち、殉教者たち、そして、キリスト教的な諸々の形姿、情景、出来事である。現存在の可能的完成ではなく、経験的現存在の裂散性(Zerrissenheit)が、ここでは超越者の形態となる。しかし常に神話においては、あらゆる単に人間的なものを己れから分離する神性が、人間の形態において、単に現実的な世界と並んだひとつの特殊な世界として、〔つまり〕自然的なものと並ぶ奇蹟として、直観的な対象となるのである。 ただ経験的現実そのもののみを描くように見える類の芸術にとっては、内在的超越者が上述とは違った仕方で在るのである。たしかに、あらゆる芸術は、ただ諸々の直観性においてのみ語り掛け得るのであり、これらの直観性は自らの根源においては経験的なものである。しかし、神話の芸術は、現実性の諸要素からして異なった世界を形成する。すなわち、この芸術が真正である処で可視的となるのは、諸要素そのものによっては構築され得ないであろうものであり、この諸要素によっては構成不可能なものなのである。このものはほんとうに別の世界であり、この世界をその経験的諸要素へ分解することによっては破壊されてしまうものなのである。だが、内在的超越者の芸術は、経験的世界自体が暗号になるようにする。この芸術は、世界の内に現われるものを模倣するように見えるが、このものを透明にするのである。 超越的諸映像の芸術は祈祷の世界を前提する。この祈祷を信仰によって行じることによって人間たちは一つになっているのであり、それと同時に、〔各人〕自身の映像は依存し合っているのである。そしてこの映像の深みが達せられるのはまさに、個的人間が自分にのみ拠って立つことによってではなく、彼がすべての者たちと共に知ったことを言うことによってなのである。一方、内在的超越者の世界は、個々の芸術家たちの独立性に結びついているのである。この個々の芸術家は現存在を根源的に観るのであるが、単なる模倣や認識的分析へと逸脱したり、自分自身の自由に拠って、いかなる儀式や共同体も彼に教えないものも可視的となる状態へと飛翔したりするのである。純粋な超越者に関わる芸術家は、伝承される諸表象を形成し、内在的超越者に関わる芸術家は、現存在を新たに暗号として読む〈解読する〉ことを教えるのである。 これまでで最も偉大な芸術家たちは、二つの可能性の間に立っていた。彼らは神話的諸内容を見捨てることなく、現実のなかに掬い上げ、この現実をそれ自体として、彼ら自身の自由から、超越者において新たに発見したのである。アイスキュロス、ミケランジェロ、シェイクスピア、レンブラントは、そのような芸術家たちであった。(197頁)神話的なものと現実との根源的な相互従属性は、彼らにとって、高められた現実となるのであるが、この高い現実は、その都度一回限りそのように観ぜられ、形成され得たものだったのである。静かになった伝承から取り出されて、諸神話は彼らを通してもう一度、大きい声で別の言葉を語るのである。現実的なものは、もはや現実性の言葉においてのみ捉えられるのではないところの諸力に参与しているのである。しかし、あらゆる神話が脱落するなかで、現実的なものに甚だしく制限されている状態において、ファン・ゴッホは超越者を — 必然的に無限に〔それ以前の時代よりも〕より貧しくではあるが、我々の時代にとっては真なる仕方で — 語らせたのである。 5.諸芸術の多種多様性。— 音楽、建築、彫刻は、これらによって現実とさせられた時間性、空間性、物体性において、暗号を読ませる。絵画と文学は、非現実の諸表象の世界において表現をする。これらの表象の一方のもの〔絵画〕は、可視性の全領域であるものとして限定されているが、この可視性とは、線と色彩によって平面上で幻想的な現前へともたらされ得るもののことなである。他方の表象〔文学〕は、あらゆる直観的なものと思惟可能なもの一般の表象におけるものであって、この直観的で思惟可能なものが言葉で表現されるのである。 音楽においては、自己存在の形が時間現存在として暗号となる。時間的には消滅することで自らに形態を与える存在の内面性において、音楽は超越者をして語らせるのである。音楽の素材が可視性も空間性も無く、表象性も無くて、その限りにおいて最も具体性を欠いた素材である限り、音楽は最も抽象的な芸術である。だが、音楽のこの素材が、まさに、世界の内では我々にとって本来的な存在であるところの自己存在の、常に自らを駆り立て消尽する時間性という形式である限り、音楽は最も具体的な芸術なのである。音楽が自らの普遍的な現存在形式を自らの現実にする時、音楽は言わば実存の核に触れる。何ものも、音楽と自己存在との間に対象として押し入ることはない。音楽の現実性は、その都度、音楽を奏でるか傾聴して共に遂行する人間の現在的現実性となり得るのであり、人間は自らの時間的現存在形式を、分節化してただ音のみで満たすことにより、透明ならしめるのである。したがって音楽は、人間が音楽する場合にのみ存在する、唯一の芸術なのである。(舞踏〈ダンス〉は、踊られることによってのみ存在すること極まりないので、舞踏が翻訳されるべき楽譜さえ不可能である。舞踏は人間から人間へと教えられ得るのみである。舞踏に暗号が存在する限り、それは音楽的なものが舞踏に存在しているからである。それは、あらゆる音楽が、身体運動を伴い得る何かを持っているのと同様である。演劇はどうしても上演を必要とするわけではない。最も意味深い演劇は上演にほとんど耐えない。リア王、ハムレット。)(198頁) 建築は空間を分節化し、空間性を存在の暗号として創出する。建築が、建築のなかでの私の運動の諸様態へと導くものであり、そうして一連の私の時間的行為によって初めて、完全に現前化しても、建築はやはりここではまさに存立するものであり、音楽のように消え去るものではないのである。限定、分節化、諸々の均衡としての、私の世界の空間的形態は、完結して留まる存立を暗号にするのである。 彫刻は物体性そのものをして語らせる。呪物やオベリスク〈方尖塔〉から人間形態の大理石彫像に至るまで、暗号としての彫刻においては、他者の肖像ではなく、三次元的量の濃密さにおいて存在の現存在が摑み取られているのである。この、存在の現存在は、人間の形態において、最も具体的な現象を物体性としては持つので、この人間形態が、彫刻の支配的対象となったのである。しかし、このような彫刻の暗号においては、〔この人間形態は〕人間ではなく、超人間的な形態における神であって、この神が物体的に現前するのである。 音楽は、時間の充実のために、音を音楽の素材として必要とする。建築は、空間の充実のために、限定する物質を必要とする。この物質は、現実的人間現存在にその世界として役立つ特定の空間性の目的と意味とに関連しているものである。彫刻は、その物体性の経験のために、諸々の内容をもつ素材を必要とするが、これらの内容は特定の形姿として形態となっているものなのである。どの場合でも、特定の充実させるものが自立してしまうと、芸術は本質を欠いたものとなる。なぜなら暗号が薄れてしまうからである。すなわち、音楽は自然界の物音の模倣となり、彫刻は任意な事物の形態化、一般に肖像制作における対象化となり、建築は目的のために造られた有形物の孤立化となる。この有形物は今や機械的で合理的な透明さがあるだけなのである。 音楽と建築と彫刻が、自らの暗号で語るとき、自らの基本要素である現実的現在に結びついているのにたいし、絵画と詩文は、現在としては現実を欠いているものの諸幻影のなかで運動する。この非現実的なものは可能性として投機されたものであり、無限な諸世界に打ち開かれており、色彩と語言葉を、他のもののために、自立してはいない媒介として利用するのである。 ゆえに、最初の諸芸術は、自らが現前する感性を通して、私が音楽を聴く場合は、時間性での事実的な自己行動を摑み取り、私が建築物を捉える場合は、空間での事実的な生活と運動との形を摑み取り、私が彫刻作品を理解する場合は、物体性の重厚さと身体性とを摑み取るのである。これらの芸術は、自らへの本来的な接近にとっては壊れやすいものであり、その深みの富は限定されたものである。この深みは執拗に持続する自己訓練にのみ自らを開くのであるから。暗号が自らを啓示すべき場合、 私は私自身としてそこに居合わせなければならない。(199頁)自己活動性は真っ直ぐに、対象として間に挿入される他のもの無しに、この暗号存在へと関係する。したがって、総じてこの接近が成功する場合には、欺瞞もまた比較的容易に防がれるのである。 これに対して、絵画と詩文は、軽快な遊戯において、あらゆる事物の無限な空間を生成させ、あらゆる存在と非存在とが接近可能であるようにするのである。先ず、自己活動性が表象幻想の獲得へ赴き、そうしてこの表象幻想を通して初めて、暗号へ赴くのである。この表象幻想に感動させられるのは比較的難しい。なぜなら無際限な趣向変えによって絶えず他のものが示されるからである。容易に接近可能であることが、苦労のかからない多種多様性によって欺くのである。 その代わりに絵画と詩文は、現実の世界の豊かさを開示する。絵画と詩文はただ時間と空間および身体性の諸暗号を読ませるだけでなく、充実した現実の諸暗号を読ませるのである。この現実のなかに絵画と詩文は、表象形態において前の三つの領域を、概して存在し存在し得るすべてのように、一緒に引き入れるのである。絵画と詩文がそれに即して運動するところの対象的なものの間挿入的なものは、絵画と詩文を存在の近さの基本的重量感から遠ざけるが、我々にとって遍く在るところの現存在を間挿入的存在として摑み取るのである。絵画と詩文は暗号としては存在から遠ざけるが、私が現実的に現存在において諸々の暗号に出会う仕方へと、近づけるものなのである。—— この区分を横切って、音楽と詩文は共にその他の諸芸術に対立させられる。この二つ、音楽と詩文は、直接に最も感動させる芸術である。この二つが欺くのは、急に興奮させられた心の運きによって暗号が失われる場合であり、音楽においては〔単なる〕感性によってこの欺きが起こり、詩文においては緊張させる体験の雑多さによって起こる。音楽と詩文が真実である場合は、この二つが、音と言葉という最も抽象的な素材で、時間的にアクセントづけられた共働を最も決定的に要求するからである。それにより自己存在が現前的に覚醒して、暗号が感得されるようになるのである。空間による諸芸術は、より距離を保ったものであり、より冷ややかであり、その限りで、より高潔なものである。この、空間による諸芸術は、自らの暗号を、より静かにこれらの芸術に歩み寄る凝視にたいして開示するのである。第三部暗号文の思弁的解読超越者が存在するということ(神の諸証明) 超越者がそもそも存在するということは、いかなる経験的な確定も、いかなる強制的な推論も、確かなものにすることが出来ないものである。超越者の存在は、超越することにおいて遭遇されるものであり、観察されたり考案されたりするものではない。(200頁) 超越者の存在を私が疑うのは、私が純粋な意識一般としてその存在を疑おうと欲し、そして同時に可能的実存からの衝動の許に立つ場合である。可能的実存にとって専ら大事なのはこの懐疑なのである。今や私は確信を得たいのである。私は、超越者が存在するということを私に向かって証明しようと欲する。このような諸証明は、数千年来、範型的な諸形式のなかに流れ入ってきては、挫折している。というのも、超越者は一般的に存在するのではなく、ただ歴史的な暗号において実存にとってのみ存在するからである。 にもかかわらず、それら証明はただ誤りではないのは、その諸証明において、存在の実存的な確認が自らにはっきりとなる限りにおいてなのである。それらの証明の思惟は、未だ、現存在以外のものではないあらゆる現存在を相対化して実存が飛翔することではないが、この事実的な飛翔を思想的に澄明にするものとなるのである。それらの証明の形式は、なるほど、ひとつの存在から出発して超越者へ至り着くことであるが、それらの証明の意味は、本来的存在意識の浄化なのである。 諸証明が欺瞞となるのは、知の帰結として、実存的確認と入れ代わる場合である。欺瞞とならない場合でも、諸証明はそれらの合理的客観性において、やはりまだ、存在浄化の究極の希薄化の如きものなのである。これらの証明は、実存的充実の反響において実際に思惟されたものとして、それ自体、斯く思惟する者の暗号であり、この暗号において彼の思惟と存在は一つとなるのである。 私が私の存在を本来的に覚知している場合でも、私が知において有するものから私が摑み取るものは、特定の内容なのである。あたかも、かの覚知状態がもはや現前していない場合でさえ、私がこの内容を尚も有しているかのように。すなわち、この内容は、超越者の存在の無規定な深みなのであり、この深みが諸々の否定的規定(Negationen)において言表されるのである。この内容は、絶対的な理想として最も高きものであり、最も偉大に思惟され得るもの、あらゆる意味において最大限のものである。この最大限のものを私は案出したり表象したりすることは出来ないが、私を充実させるあらゆるものが高まりゆく途上で、表象において現前化させ得るのである。この内容は、特別に宗教的な者にとっては、「汝」であり、この者が祈るときには、この者はこの汝に向き直り、傾聴していると信じている。この者にとってこの汝は、かの深みと高みの主体なのである。 否定的諸規定においては、あらゆる現存在への不満が表現されるのである。高まりにおいては、現実を通しての充実が、祈りにおいては、超越者が私への関係に歩み寄ることが、表現される。覚知しているということ〈一種の悟りのような気づき〉(Innesein)は、超越することへの絶え間なき衝動である-ここでは超越者は無規定に留まっているが現実的である-(否定的諸規定で表現される)か、あるいは、私がそこでは到る処に真理と美と善意志を見るところの存在の積極的な輝きである(高まりとして表現される)か、あるいはこの覚知は、祈りにおいては、(201頁)実存の根拠と庇護性であり、基準と幇助であるところの存在者(Wesen)の方へと、実存が向かうことである(神性の人格性として表現される)。 合理的言表としての証明は、今や、つぎのような形をとる: 実存的な覚知状態において存在として現前しているものは、現実的にも存在しているはずである。というのも、そうでなければ、かの覚知すること自体があり得ないであろうから。 こういうことである: 思惟しつつ存在すること、これはここで言う覚知状態のことであるが、それはつぎのように存在することである、すなわち、自らの思惟と実存的統一において同一であること、そしてこのことによって、自らの思惟されるものの現実をも立証すること。 あるいは: 特定の実存的存在の思惟が、この思惟の内容の現実と—超越者と—結びついていないとするならば、この思惟もそれ自体、思惟しつつの存在(Denkendsein)としては存在しないであろう。しかしこの思惟が存在するということは、超越者も存在するということなのである。 あるいは: 実存の存在は、ただ超越者の観念と共にのみ在る。統一は差し当たり、思惟する者における、存在と思惟との実存的な統一であり、次いで、観念と超越者との統一という暗号である。 そうでなければ、一方では、世界の内の至る処、意識一般にとっては、ひとつの思惟されたものは、未だ現実的ではなく、むしろ二つのものが分離されたままに留まり、現実は固定化を必要とすることになる。また他方、分離が結果する場合には、この〔特定の〕思惟しつつの覚知状態の意味は止揚され、この覚知状態の事実性は否定されることになるから、〔特定の〕此処、そして此処でのみ、存在と思惟との分離は不条理なのである。一方では、超越することが、可能的実存としての現存在にとって、単にひとつの可能性でもあり、そして、自己存在の生成とともに遂行されるかどうかが、自由によって決断されねばならず、他方では、実存の超越することは、今やもう現実であって、この現実と超越者の存在の確信とは同一なのである。私はこの覚知状態の事実性を否定することができる(そしてこの否定を心理学者として為すのであるが、この場合私はこの覚知状態をひとつの現象にするのである。私はこの現象の由来と諸条件を探究し、そしてこの現象をこれらでもって汲み尽くされるものとしておくのである。この場合私はそのようにして単に、ひとつの体験の経験的実在性を有することになるのみであり、実存的な存在を目撃することにはならない)のであるが、この事実性は、この事実性の拒否同様、自由なのである。可能的実存として私は実存の可能性を拒否出来ず、現実的実存としては実存の現実性を拒否出来ない。私は実存として超越しないことは出来ず、どんなにしても、超越することを自由に基づいて否定することが出来るだけであり、そしてこの場合の否定行為においても尚、超越することを遂行し得るのである。 証明の一般的形式はつぎのように変容される: 最大級に思惟可能なものというのは、ひとつの可能的観念(Gedanke)である。この観念が可能であるならば、最大級に思惟可能なものも現実に存在するにちがいない。というのも、この最大級に思惟可能なものが現実に存在しないならば、(202頁)最大級に思惟可能なものよりもっと大きいものが、つまり更に現実に存在しもするものが、考えられ得ることになろうから — これは矛盾である。— とはいえ、単なる観念として、これは遂行不可能であろう。すなわち、私が最大の数を思惟し得ること少ない程、何か或る他の最大のものが少ないのである。というのも、あらゆる限界を私は観念において再び踏み越えるにちがいないであろうから。私は最大のものを完成されたものとして観念内容にすることは出来ないのである。しかし、最大級に思惟可能なものは、ただ空虚で不可能な観念ではない。この観念は充実した、だから必然的な観念なのであり、この観念を私は、私が本来的に存在において在る場合には、思惟せざるをえないのである。 私は無限の観念を思惟する。私自身はひとつの有限な存在者であり、現存在においてはただ有限なものと遭遇するのみである。無限の観念が私の内に存し、私は自分の有限を意識するということは、根拠を有さねばならず、この根拠は私の単なる有限性に存し得るのではないのである。観念のとてつもなさに相応する根拠が存在しなければならないのである。すなわち、私が思惟する無限が存在しなければならない。なぜなら私は、その場合にのみ、私が無限を思惟していることを概念的に理解するからである。 カントによって存在論的神証明と名づけられた観念〈思想〉の、これやあれやの諸変容は、決定的な場で実存をして語るに任せるのであり、そのことによって、自らの客観化する合理性に反して、自らの証明としての性格を弱めるのである。この客観化する合理性自体は、既に強制的なものではなくなっているのである。単なる合理性としては、この諸変容は、諸々の循環論法と同義語反復において、論理的には不可能な諸対象を用いて、自らに何ものかをひねり出すことだろう。だが、合理性は明晰性によって充実していることがあり得る。この明晰性は、私が自分の内に担っているものの明晰性なのである。この合理性は、そのことによって、なるほど決して証明を意味することはあり得ないが、超越者の存在のための暗号を意味し得るのである。合理性は、論議の意味における証明としては無価値であるから、ただ、言表の最高度の一般性へと押し迫る存在意識の表現を意味し得るのみである。したがって、この合理性は内実としては決して同じものではない。それとしては証明が同じものであるものとしては、つまり乖離した論理的形式としては、証明はどうでもよいものである。証明が本来的であるものとしては、証明は歴史的に充実している。それゆえ、証明は何らかの知のための所有ではなく、ひとつの言葉であって、この言葉はその都度新たに自分のものとして語られねばならないのである。 諸々の証明は、経験的でも論理的でもない。超越者の存在に、何処かに存立するものという意味において究極的に達することは、目指され得るものではない。そういうことではなく、これらの証明においてあるのは、自己存在にとっての存在であり、この存在は、経験されるとはいえ、自由によって初めて経験されるものであり、同様に、言表されはするが、言表されることによって暗号として思惟されるような存在なのである。(203頁) 存在論的証明の諸形式は、端的に超越者そのものへと係わる。これらの形式は、個別的なものは全く眼中に置かず、現存在における私の存在意識から外へ出てゆく。思惟する者としての私自身は、私にとって、これらの形式においては、暗号となる。だが、この暗号は、私がそれと一つであり、それを観て信じるところのものを通して、初めて充実させられるのである。それゆえ、あらゆる独特な神証明は、存在論的な神証明の諸応用なのである。この諸証明は、ある規定的存在から出発することによるものであるが、この存在は実存的に摑み取られた存在として、特殊な飛翔を特徴づけるのである。 宇宙論的証明は、世界の現存在から出発する。世界は己れ自体から存立していないのである。自然神学的証明は、生命あるものの合目的性から、世界諸事物の美から、出発する。道徳的証明は、善意志から出発するものであり、この善意志は超越者の存在を根拠かつ目標として要請するのである。合理的形式と直観的存在は、その度毎に、ただ媒体なのであり、この媒体において本来的証明が不満足の経験から駆り立てられるのである。人が合理的な言葉の覆いを貫いて見遣る場合、あらゆる証明の源泉を実存の存在意識において観るのであり、表現されるのはこの存在意識なのである。 思惟において諸々の神証明が、そこから証明が為されるところのものを委縮させる場合には、諸々の言表は空虚となる。諸証明の力は、ただ、存在の現前の実存的に充実された内実にのみ存するのであり、そこにおいて超越者が暗号として聴取されるのである。 諸々の証明は本来的にはそれ自体として思念されているのではなく、歴史的に充実させられるべき諸々の暗号として思念されているのであるから、そして、これら証明はひじょうに容易く無価値なものへ逸脱するのであるから、これら証明は超越者の存在への懐疑を防ぐものではない。これら証明は、懐疑を除く手段ではない — これら証明は、懐疑を論駁するよう訴える場合には、懐疑をむしろ挑発するのである。これら証明は、覚知状態を明晰にして力強くするための手段でこそあるのである。 そもそも、どのようにして、超越者の存在を疑うことが可能であるのか? 存在意識は単なる現存在の盲目性のなかに失われることがあるのであるから、実存は随意なものではないのである。空虚な形式的思惟があり得るのであり、そのような思惟においては何も本来的には思惟されないのであるから、〔その場合には〕懐疑はただ語においてのみ存するだけである。そうは言っても、事実的に超越者の代わりに入ってきた超越者ではない何かが絶対的に措定されたことが、気づかれない場合には、懐疑は専ら、明晰になっていない無制約性にたいする防御なのである。 私の懐疑に対しては、論駁があるのではなく、ただ、ある行為があるのみである。超越者が証明されるのではなく、超越者について証言が為されるのである。暗号において超越者は私にとって存在するのであるが、この暗号は、私の行為無しには現実的とはならない。不満と愛において、(204頁)能動的に暗号を実現する行為は生じるが、暗号〔それ自体〕はまだ存在するものとは言えない。この行為が、暗号がそれとして私に語り掛けるところのものを、観想的に掬い上げるのである。 超越者は、このように、世界の内での哲学的自己存在にとっては、自由無しに現前することはない。哲学する人間の超越者は、儀式の内に見いだされる宗教の神のように証明されることは、まずないのである。暗号が存在するということ(生成の思弁) 超越することの諸公式が、超越者の存在について言表するために使用され、諸々の思惟経験が存在論的な知へと変えられるなら、およそ次のようなものとなる: それは超越者である。存在としての存在は絶対的である。というのも、このような存在は他の何ものにも依存していないからである。また、他のものに関係づけられているということもない。というのも、このような存在は自らの外部に何も有していないからである。このような存在は無限である。我々にとっては分裂しているものも、この存在においては一つである。それは端的な統一である。〔すなわち〕思惟と存在との、主体と客体との、真理と正確さとの、在ることと在るべきこととの、生成と存在との、物質と形式との〔統一なのである〕。それでも、この一つで全的な存在が自己充足していると、自らを現存在の内に見いだす実存が問うのである: なにゆえ現存在が在るのか? なにゆえ分裂が存し、主観と客観とが、思惟と現実とが、当為と存在とが、相互に引き離されるのか? どのようにして存在が現存在へと、無限なものが有限なものへと、神が世界へと、到来するのか? これらの問いにたいしては、つぎのような諸々の試戯的な答えが存する: 存在は、もし自らを開顕しないとすれば、本来的な存在ではないであろう。自己充足的な存在としては、存在は自らについて知ることはない。存在はただひとつの可能性にすぎず、現実性を欠いたまま自らの内で旋回しているのである。存在が現存在の中に入り込む場合にのみ、そうして、あらゆる分裂から再び自らに還帰する場合にのみ、存在は開顕的となりかつ同時に現実的となるのである。存在は、最も甚だしい分裂、存在自体と現存在との分裂をも、自らの内で転換し、一つにする場合にのみ、全きものである。存在であるところのものは、時間の内で生成しつつ存在することで存在であらざるをえない。存在は、有限性を自らの内に蔵する場合にのみ、無限である。存在は、有限なものと分裂したものとに、それ自体で存在する自立性を与える場合、至高の力であり完全性である。とはいえ存在は存在として包括者であり、この存在において全てのものは一者の内に存在するのである。至高の緊張は最深の開顕性を蔵しているのである。 すべてのものを一致共鳴へともたらす、このような答えは、あらゆる暗黒なもの、悪しきもの、無意味なものを見遣れば、拒絶される。新たな試戯においては、こう思惟される: なるほど、存在は自らを開顕せざるをえなかった。だが、今や現存在として在るところのものは、(205頁)いかなる開顕性でもない。このような現存在は在る必要はなかった。ひとつの破局が超越者の内で起こったのである。ひとつの堕落が諸々の存在者から生じたのであり、これら存在者はこの堕落において終結しながらも、しかしやはり、自分の存在を、措定された基準を超えて欲したのである。このようにして世界は成立したのである。 二つの観念において現存在は歴史である。存在の自己開顕として現存在は永遠な現在の無時間的歴史である。始まりも終わりも無い時間の内における拡張は、開顕性として存在の現象である。存在はどんな時にも自らと等しく、自らを永遠にし、自らに還帰する。これに対し、堕落として現存在は、始まりと終わりのある時間的歴史なのである。諸々の始まりは、没落による破局として、終末は再興として、そしてそれとともに現存在の止揚として、思惟されているのである。 むき出しの客観化としてのこれらの答えには、不足がある。すなわち、これらの答えは、存在として認識されたひとつの超越者の架空の点から出発している、という不足である。そしてこの存在があたかも知られたもののように扱われているのである。自己充足的な存在、その完成においては乱されずに不動であり得、現存在へ到来する必要がないところの存在に関する諸々の定式化は、ひとつの絶対的な存立の中へと諸観念を様々に投機することであり、これらの投機は思想としては、範疇的な超越行為あるいは実存開明的な訴え掛けの表現としてのみ、本来的な意味を持つのである。問いそのものの出だしが疑わしいものであるのは、問いが超越者の架空点の存在を、ひとつの存立するもののように出発点として見做しているからである。 現存在は実存にとって暗号となる。実存は、なにゆえそれが現存在するのか、という問いをすら明晰に満たし得ないのである。この問いにおいては、実存が諸々の語を用いて何らかの意味を接合しようと努める程、実存はただ一層眩暈(めまい)を起こすだけである。だが、現存在が暗号であるということは、実存にとって超越者が存在するならば、実存にとって自明なことである。すべてのものは暗号であり得るにちがいない。いかなる暗号も無ければ、超越者も無いであろう。諸々の分裂の諸々の統一が、暗号の解読においてはあるが、それによって我々がいつかは現存在から解き放たれた存在を摑み取ることが出来るということではない。それゆえ我々は、「なにゆえ存在が現存在へ到来するのか」という問いのための出発点にすら達することはない。我々は我々の現存在から暗号へと登攀することは出来るが、超越者の存在から暗号へと降下することは出来ない。そもそも暗号が存在するということは、我々にとって、そもそも超越者が存在するということと、同一なのである。というのも、我々は現存在として、現存在の内においてより他のいかなる仕方でも、超越者を捉えることはないからである。なにゆえ現存在が存在するのか、という問いの場に、なにゆえ暗号が存在するのか、という問いが現われる。この問いにたいする答えは、つぎのようである:暗号は実存的意識にとって、そこにおいてこの意識に(206頁)超越者が浮び上がる唯一の形式であり、〔また、〕実存にとって超越者はなるほど隠されてはいるが、消滅してはいないことの、表徴である。 このことによって、超越者そのものの超感性的な生成や、超越者が世界へと生成することについての、憶測的な知に対抗して、暗号としての不可解性の深みが、暗号の資格のなかに入れ込まれるのである。暗号は、そこにおいて私が自らを見いだし、本当には、私であるところのもののみが生成し得るような、承認されるべき現存在なのである。私はなるほど或る他者でありたいと思い、他の高貴な者と私が等しくあることを前提としたいと思う。さらに好ましければ、私は万人よりもより良くありたいと思う。私の存在は私に腹立たしい思いをさせる。もし神が存するならば、私は神そのものでありたいのだ。とはいえ、私がそのように思惟し欲し得るのは、私がいかなる暗号をも読まない場合においてのみである。暗号を通して私は、私の実存的な可能性の深き意識を、私の現存在の特定のこの場所で保持するのである。そして自己存在の安らぎのある処というものは、私が存在を暗号において概念的理解が不可能なものとして見いだす処なのであり、私がその場合には私の自由から全力で、私がそれでありそれであり得るところのものへと生成する処なのである。私は、私を端的に破壊する自己欺瞞を、超越者を欠いたでっち上げの思惟において、衝動的な意欲において、経験する。この意欲においては、すべてが実際にあるのとは違う仕方であるべきとされ、現実はもはや本来的に出会われるのではないのである。この自己欺瞞において私は、私が自分を投入することによって現実に別の仕方で生成させ得るものを、喪失するのである。暗号解読の現前はいかにあるか(思弁的な想起と展望) なぜ現存在が在るのか、という問いと、この問いへの応答という試戯は、にもかかわらず、すべての真理を欠いたものではない。この問いにおいて、「生成した」という意識が表現されているのである。実存の歴史性が端的な存在の現存在へと普遍化されるのである。私が私に基づいてのみ交わりにおいて知るところの、自己開顕化の過程は、超越者の反映となるのであり、この超越者においてこの過程は喪失されていないのである。離反〈没落〉思想は、自由の現実としてのみ実存的であるが、超越者のなかに根差す。なぜならこの思想は実存そのものにおいては充分に自らにはっきりとなることはないからである。また、この思想は、まるで私自身の前史的な選択行為への追想におけるかのように、超越者の存在からの全諸事物の根源的発祥において自らが根拠づけられると思うからである。実存的生成の歴史性が暗号となったのである。 しかし、歴史性の暗号の明晰性が世界生成の知へと客観化されるや否や、あらゆる欺瞞が生じることとなる。すなわち、始原と終末が問題である場合でも、世界現存在は研究的世界定位のみの対象なのである。〔科学的〕研究は(207頁)限界無きものである。この研究にとって、止揚が考えられない前提として妥当することは、世界は始原も終末も無い無際限なものとして時間現存在である、ということである。 存在であるところのものを、現在として、私は有するのであるが、単なる現在として有するのではない。存在であったものとして存在であるものは、想起において私に現前するのである。予期において私に現前する存在は、生成し得るが尚決断途上にあるものとして現前するのである。 想起と予期は、単に存在への私の接近である。私が想起と予期において暗号を捉える場合、この両方は一つとなるのである。想起されるものは、可能性としての現在であって、この可能性としての現在は予期において再び獲得され得るのである。予期において摑み取られるものは、ただ想起されるものとしてのみ、充実もされているのである。現在はもはや、単なる現在に留まってはおらず、想起によって貫通された予期において、私がこのような予期のなかで暗号を読む限りは、永遠な現在となるのである。 1.想起。— 想起は、心理学的には、学習されたものに関する知であり、諸々の体験された出来事や状況、事物や人間に関する記憶である。想起は、私が表象しつつ再現し得る或るものを単に所有することとしては、死せる想起である。想起は、経験された生の無意識的かつ意識的な事後作用においては、加工する想起である。この加工とは、徹頭徹尾完全に自分のものとすることであるか、あるいは、一般的な知へ変換して全然経験されていないかのように遮蔽することによって忘却することなのである。 想起は、史実的なものとしては、伝統の我有化である。限定された時間間隔をもつ単に心理学的な記憶は、自我的現存在を貫通することが出来るのであり、ひとつの存在を、それが存在していた外部で、その存在自体が未だ存在していなかった時のように、捉えることが出来る。私が文献資料で私に到来する現存在を受け入れることによって、私は人類の記憶に参与する。〔つまり〕私は、私自身であるところの現存在を超えて、制限されない諸々の時間空間のなかへと、自分を拡張するのである。たしかに、私の現存在は、状況として、基準として、出発点であり続け、ここに準じて私は自分を測り、ここに自分を関係づける。しかし私の現存在は、史実的想起の仕方によって自ら変化するのである。この史実的想起は、私の目覚めの最初の瞬間から、無意識な伝承として私を形成する。この想起は、対象的知として、諸形態で充溢した過去の表象作用として、私の精神的教養の一部分となるのである。単なる観察と研究にとって、過去のものは、存在している硬化した存在としては、生成してしまったもののように存立している。歴史的想起作用は、生ける存在としての過去のものを、流れている途中の諸可能性が尚現前している現実性として把握する。つまり私はその諸可能性に参与し、本来的に存在していたものを、更に共に決定するのである。なるほど、存在していたものは、それ自体で決定的に存在している。だがそのものは未だ(208頁)究極決定的に、存在していたものとして我々に関わるようには存在していない。それゆえの、存在していたものの究め難さなのであり、この存在していたものは、それ自体で存立しつつ、我々にとって決して汲み尽くされない可能性なのである。 心理学的なものと史実的なものとにおいて、想起する者が自らを想起されるものに結びつける場合には、想起は実存的となる。与えられたものを自由に摑み取ることによって、私は私であるものを想起されたものにおいて引き受けるのである。私は、私であったところのものであり、私がそれであることを欲するところのものである。実存的な自己同一性確認が遂行されるのは、忠実としては、私の運命の歴史的意識においてであり、この運命は、私が彼らと共に生成したところの人間たちと不可分なのである。敬虔としては、自分自身の現存在を基礎づけるものにたいしてであり、崇敬の力としては、実存の本来的存在として私に語り掛けるものにたいして、実存的自己同一性確認は遂行されるのである。この自己同一性確認において私は初めて本来的に存在し、単に意識一般における空虚な自我ではない。想起を拒否することによって私は自分を根こぎにするであろう。 これらの想起のどの一つも、それだけとして既に形而上学的な想起そのもの(die metaphysische)なのではない。〔しかし〕あらゆる想起において形而上学的想起は可能である。 経験であるものは、しかし言表されると、単に解釈である。すなわち、ある洞察の出現においては、自明性があるが、その自明性は、私が〔今では〕洞察しているものを、あたかも私が常に知っていたかのようでありながら、今のみ初めて明晰に知ったかのような自明性なのである。それは自己に覚醒するかのようなことであり、私が既に携えていたがその時までは知らなかったものが再来するかのようなことなのである。— 歴史的に過去のものを了解することにおいて、私は長い間のものを外面的に知識とする。だが、この過去のものが私に出現する時、このものは想起するかのようであり、私にとって資料的なものはこの想起のための契機にすぎなかったのである。外的なものにおいて私へと歩み寄って来るものが、私の意識にもたらされようとして、私から到来するのである。— 私にとって実存的現在となるあらゆる内実のなかに、想起作用はあるのである。私が以前はそのようには欲していなかったものの、本来的には私自身であるものが、実現されるのであるけれども、そのものを私は知ってはいなかったのである。私の存在の決断と充実とにおいて、私は永遠な存在を想起するのである。 ここで、想起作用の意識は、現実に現在的なものにおいてあったものである。このものが私にとって想起となるのは、ただ、私がこのものを暗号として読む場合のみ、すなわち、事実的に根源的覚知状態にありながら、追補的な伝達において解釈する場合においてのみである。私は他のものを想起するのではない。私は暗号を超え出て彼岸の異世界の中へ突き入るのではない。暗号-存在とは、まさに、現存在と超越者との統一において、暗号それ自体の中でのみ読むことを、意味するのである。想起とは、ひとつの接近形態であり、ここにおいて、現存在が暗号となることが感得されるのである。 この想起作用は、私の現存在を、過去のものの深みの絶えざる意識として伴う。過去のものは、暗号において、(209頁)存在となる。「在ったもの」としての存在は、もはや存在しないが、それでも無ではない。想起は、現在的なものの事実性を通して、その「在ったもの」への接近となる。世界自体において、この「想起の世界」は、窮め難い過去のものの現前となるのである。世界定位にとって、来ては行くものの無際限な流れのなかで、ただ、新たな、今存在する現存在でしかないものが、実存にとっては存在の現象であり、この存在は、このような〔流れゆく〕現存在において想起されるのである。外面的に語られれば、現存在は存在の記号であり、内面的には現存在は暗号として想起によって貫通されている。愛の概念的理解の不可能性において、ゲーテはこの暗号存在を言表することが出来た:《ああ、汝は憔悴してしまった諸時代において私の姉妹か私の妻であった》。暗号としての総体的現存在の解読の情熱において、シェリングは、《〔神の〕創造と共にある共知(Mitwissenschaft)》について話すことが出来たのである。この共知に、人間は、現に居合わせたのであり、それゆえ今、創造を再び想起し得るのである、と。このような想起作用は、憧憬として、準備の衝動なのであり、既に子供の幼年時代に働いていることがある。この時期、過去というものは未だ殆ど無く、何も未だ失われてはいないのである。 ここから出発して、それ自体では価値的にどうでもよいような、心理学的に制約された諸体験が、それ自体としては夥しく現われながら、それら体験が実存的諸内実で自らを満たす場合には、時折、想起作用を有する暗号解読の関連の中に歩み入ることが出来るのである。これこそ「既視経験」〈デジャ・ヴュ〉であり、眠りからの目覚めであって、まさに、過去のものとしての決定的な深みから浮かび上がって来るという意識を伴ったものである。私に本来的存在を暴くかに見えた秘密の驟雨に深く打たれて、私はこの存在をもっと捉えようと欲する。だが、その存在は、〔私が〕覚醒するに応じて平板になり、全き意識に臨んでは私はおそらく尚、固有の準備的気分のなかにあるだろうが、存在したものは今やそれでも無であるのである。 2.予見。— 予見は、到来するであろうものを見遣ることである。予見が必然的に生じる生起を期待する限り、予見は予測を行なうのである。予測がひとつの目標を実現しようと欲する限りにおいては、予測は、実現されるはずの全体の像において、目的-手段-諸関係のひとつの計画を作る。予見が、無規定な諸状況において行為を規定する限り、予見は思弁となり、思弁は、単にもっともらしい予断に基づいて、常に浮動して移動し得る仕方でその都度、成果に通じ得るものを摑み取るのである。 未来とは、可能なものであり、可能なものの思惟である限りでの予見である。たとえ私が、必然的に起きることの予測を立てても、常に、可能的諸条件の無限性のために、或る余白が残る。つまり、未だ存在していないものが、(210頁)最も確実な予想が予見するよりも他の仕方で、さらに生成し得るのである。(つづく)第二部:諸々の暗号の世界(168頁) 概観(168頁)1. 諸々の暗号の普汎性 —(168頁) 2.諸暗号の世界の秩序 —(169頁) 自然(173頁)1.他者としての、私の世界としての、私自身としての、自然 —(173頁) 2.自然の暗号存在 —(174頁) 3.自然哲学による暗号の解読 —(175頁) 4.自然の諸暗号にとっての一般的諸定式の欺くものと乏しいもの —(178頁) 5.自然の暗号の実存的意義 —(180頁) 歴史(182頁) 意識一般(184頁) 人間(186頁)1.人間と人間の自然との統一性という暗号 —(187頁) 2.人間とその世界との統一性という暗号 —(189頁) 3.自由という暗号 —(190頁) 暗号文の解読に基づく言葉としての芸術(192頁)1.中間領域としての芸術 —(192頁) 2.形而上学と芸術 —(194頁) 3.模倣、着想、天賦の才 —(194頁) 4.超越的幻視と内在的超越者 —(195頁) 5.諸芸術の多種多様性 —(197頁)第三部:暗号文の思弁的解読(199頁) 超越者が存在するということ(神の諸証明)(199頁) 暗号が存在するということ(生成の思弁)(204頁) 暗号解読の現前はいかにあるか(思弁的な想起〈追想〉と展望〈予想〉)(206頁)1.想起 —(207頁) 2.予見 —(209頁)
公式ジャンル記事ランキング:イラスト・アート・デザイン92位26 4 30公式ジャンル記事ランキング:イラスト・アート・デザイン15位26 2 27公式ジャンル記事ランキング:イラスト・アート・デザイン115位 26 2 2〔仏語原文より著者・古川正樹自身による邦訳〕概要(提出論文裏表紙) メーヌ・ド・ビランの哲学は、人間知性の問題から出発し、本来の意味での宗教を基礎づけるに至った。我々の研究は、いかにしてビランの反省が、思考の原理を意識的能動性のなかに発見した後で、この、全認識の基礎として把握された原理に忠実に留まりながらも、宗教認識にまで拡張したかを、解明しようと試みた。そして我々が少なくとも結論したことは、この拡張のためには、彼の反省はそれ自体の内に受動的感受性を受け入れなければならなかった、ということである。この受動的感受性は、知性とは疎遠なものとして一度は排除されたが、受け入れられたのである。そしてこの二要素、能動的要素と受動的要素は、全的人間を構成するものとして、相互に影響し合い、人間をして、恩寵を受け取り得るよう準備させるのである。恩寵とは、神の助力であり、これのみが人間を魂として完成させるのである。さらに我々が結論することは、哲学によって可能な宗教の基礎づけは、このように、これら自然的諸要素が超自然的なものに参与するところに、その本質が存する、ということである。本文【p.3】序文メーヌ・ド・ビラン(1766-1824)の哲学は、その第一歩においては、宗教を批判しようとも、基礎づけようとも、思っていなかった。彼の哲学は、まず最初に、人間の知性を分析しようと思っていたのである。我々の思惟して認識する能力とは何か? いかにしてこの能力を発達させるのか? このことが、彼の最初の哲学の主要関心事であった(彼の『習慣の影響に関する第一論文』(1800)から『心学の諸基礎と、心学の自然研究との諸関係、に関する試論』(1811-1813)まで)。そして彼の哲学が見いだしたことは、あらゆる我々の思考と可能的認識との原理は、我々自身の内で我々各自によって直接に覚知される「自我」あるいは純粋な能動性である、ということであった。 人間の思考と認識との原理は、ひとつの能動性である。このことは本質的に重要である。なぜなら、このことが意味するのは、思惟は我々自身によって生み出されるひとつの運動とは別のものではない、ということだからである(1)。すなわち、人間の知性の原理と、人間の行為の原理とは、メーヌ・ド・ビランにおいては互いに明らかに同一なのである。さらに、このことが意味するのは、知性と道徳は共通の源泉を有する、ということである。すなわち、我々の各自において見いだされるところの一なる自由な「自我」のことである。 我々は、個人として、我々自身の内なるこの能動性を、直接に反省によって覚知する。この反省はそれ自体、実現されたこの能動性と別のものではないのである。【p.4】それでは、人間の実践の原理が人間の知性の原理と異なるものではないからといって、ビランはここから、道徳の原理も必然的に同じ反省によって我々自身の内で覚知され知られなければならない、と結論しているのであろうか? ここで反省と言うのは、この反省のみが、我々の思考と我々の行為との共通で同一の原理として我々の能動性を直接に覚知し知ることを我々に許すところの反省のことなのである。我々がこのことを問うのは、道徳は本質的に善と悪の、正義と不正義の、認識を、我々の行動の原理として前提とするからである。この意味するところは、我々は道徳の領域において我々の純粋能動性以上のものを知らなければならない、ということである。 メーヌ・ド・ビランは、自らの全著述において、我々の問いに断固として「然り」と答えているように思われる。彼は、人間の有する必然的で普遍的な全認識を、それら認識が、「自我」である能動性の直接的覚知に結びつく限りにおいて、反省の領域のなかに帰せしめる。しかも、それら認識を、想像力と習慣との影響の許に見いだされる諸認識に対立させることによってそうするのである。まさにここに、理論的であれ、実践的であれ、ビラン哲学の全諸領域を縦断する境界線が存する。これは人間の有する諸認識を二つに分割するものである。すなわち、内的認識と外的認識とに、換言すれば、反省的認識と想像的認識とに。 ビラン哲学と宗教との真の必然的関係が、これら二つの間の葛藤の可能性をふくめて始まるのは、ビランが道徳の第一諸真理を、宗教の第一諸真理と本質的もしくは根本的に合致するものとして理解するに至るときである。彼はそのとき、我々がちょうど見たばかりの彼の哲学的根本理説を固く保持するに至っているのである。 メーヌ・ド・ビランにおいて、反省は最も個別的ないし個人的な行為である。ところで、【p.5】反省から汲まれる諸認識が普遍性の性格を有するのは、この個別性の性格によってなのである。このことが意味するのは、本来の普遍的な諸認識を獲得するために我々自身の外部へ赴く必要はなく、反対に、我々はそのために我々自身に内的に集中しなければならない、ということである。 反省は、自己意識から出発して、何処まで自らを拡張するのであろうか? この自己意識は、自らを純粋な能動性として知るものなのであるが。 この問いにたいする我々の最大の関心は、つぎのことに存する: 我々の純粋能動性が自らを知るところの、この同じ反省において、あるいはこの反省によって、どのようにして必然的に、この自己意識は、道徳の原理と宗教の原理とに自らを結合するのであろうか。別言すれば、道徳法則の認識と神の実存の確信とに結びつくのであろうか。換言すれば、どれだけの、どのような諸認識(必然的で普遍的な諸確信あるいは諸信仰をふくめて)が、必然的に我々の自由のなかに含まれあるいは汲まれているのか? この自由は、我々によって反省的に覚知されるものであり、先ず能動的あるいは行為的な「私」として自己表明するものなのである。ここにこそ、我々の問いがあるのである。 我々の主題のために、我々は大きな重要性を、つぎのようなメーヌ・ド・ビランの諸論文の根本思想を把握することに認める。たとえば、一八一八年の『哲学の防衛』。ここでビランはひじょうにはっきりと、「哲学」と「宗教」の間の諸関係に関する自らの諸見解を表明している。そしてまた、ビラン哲学の発展過程において、そのような諸論文の位置づけをすることが重要である。より正確に言えば、その頂点は、ビランが「人間の生」と名づけるものから、彼が「精神の生」と呼ぶものへと、越えようとするものであるところの、彼の哲学の発展過程において、そのような諸論文の位置づけをすることが重要なのである。なぜなら、既にこれらの論文においてビランは、彼の「人間学」の企画のために根本的な理説を表明しているからである。その理説を彼は、自らの哲学と生の最後まで保持するであろう。彼は【p.6】これらの論文においてその理説を表明している、唯一、彼の最後の内的経験に彼が至る以前に彼が獲得した思想の諸成果に基づきながらも。すなわちそれは、「恩寵」の経験であり、これが「精神の生」の中核を構成するのである。 このような諸論文のなかに現れる本質的な諸命題や諸々の語を見るに先立ち、また、それらの命題や語がビランの哲学全体において占める位置を確定することを試みるに先立ち、我々は彼の思索に関して、つぎのことを表明しておく: どんなに前進しても、メーヌ・ド・ビランは常に可能な限り、自分が獲得していた本質的な思想を保持しようとする。そして、事柄それ自体が要求する仕方で、それら思想を、自分がその後に発見した新たな思想に結びつけようとするのである。彼の思索は、より高く上昇して新たな領域を発見すると、再び下降して、彼の思索が既に踏破していた下位の諸領域の不変なあるいは新たな価値を、それら下位領域とこの新たな領域との諸関係において、認識するのである。このような態度が、ビランが生涯の終わりまで保持した哲学的根本態度である。この態度は二重の運動であり、飛躍と下降とより成る、別言すれば、断絶と回復あるいは統合とより成るものである。このような態度に基づいてこそ、彼は自らの人間学の全企画を、生の三つの形という枠において構想したのである。すなわち、動物的生、人間的生そして精神の生、という三つである。 このことに関してだが、アンリ・グイエが『メーヌ・ド・ビランの諸回心』(1948年)と題した自らの論文でビランの思想を理解しようと試みた仕方の根本的な欠点は、この下降、この回復または統合に、彼がいかなる主題的な注意も払わなかったことに存する。すなわち、全的で具体的な人間を構成する全要素の回復あるいは統合への注意の欠如である。この欠点の原因は、グイエが専ら集中したのが、ビランの思想発展の諸段階であったことである。その諸段階をグイエは「諸回心」と呼んだ。彼によれば、これらの回心は、【p.7】伝統的なキリスト教へのビランの回心あるいはむしろ服従で終わったのである。つまり贖罪の教義への服従である。グイエが、この論文ではっきり述べていることは、《魂と身体との分離》こそは《第三の生を定義する》、ということである。第三の生とは、後期ビラン哲学における精神的生のことである(2)。一方、第二の生、つまり《人間的生》は、彼によって、《「自我」の能動性において魂が身体に結合している生》として規定されている。すなわち、《動物的生に結びついてはいるが、動物的生に還元されてはいない》生なのである。この動物的生が第一の生である(3)。《魂と身体との》分離と《統合》(4)という、この対比的展望においては、人間的生と精神的生との間の関係を、ただ対立として把握してしまい、これらの生の間の和合というビラン的問題を考慮して理解するどころではなくなることは、避けられないことがあるように思われる。事実、グイエは、《ストア主義の道徳と、努力》あるいは「自我」の能動性《の心学との間の》本質的一致を言明しながら、この対立あるいは《ストア主義とキリスト教との対立》を、ビランにおいて《1820年頃に》《完全に明らかとなった》ものとして確定したのである(6)。この確定された対立は、ビランの思想を「諸々の回心」の一続きとして捉えようと試みるグイエには、じつに好都合であることは、容易く気づかれるだろう。たしかに、グイエは我々に正につぎのことを明らかにしている: 「自我」の能動性が身体に結びついているからには、精神的生を人間的生と《和合させる》というビランの問題は、専ら、《二つではなく三つの生を》、《ひとつの事実をもうひとつの事実のために犠牲にする》ことなく、《再認する》という問題であろう、ということを。すなわち、ビランにおいては、《精神の生は、身体の生のなかにまで諸条件を持っている》のであり、《ゆえに心学者は、身体と精神とは宗教的経験においてはどのような諸関係を有しているかを探究せざるをえない》(8)、とまでグイエは述べているのである。しかし、グイエ自身は、《静寂主義(キエティスム)の教訓》に倣い、つぎのように断定する:《もし、単に【p.8】人間的な生の上に位置する精神の生が存するなら、それは、人間の本質そのものである能動的で意志的な「自我」を犠牲にすることによってでしかあり得ない》、と(9)。我々が見るのは、グイエは、ビランの思惟そのものに、高次の生のための下位の諸生の犠牲と、下位の諸生と高次の生との対立とがあることを、示せたと思うまでやめない、ということである。この犠牲と対立は、「諸回心」という概念で表現されたグイエの主題には、あきらかに好都合なものである。このことが、メーヌ・ド・ビラン自身においても三つの生の和合という問題は第二義的で非本質的なのものに見えるというイメージを生じさせているのである。 このグイエの論文が、いかに綿密で有益であろうとも、研究の仕方に関しては、ジョルジュ・ル・ロワが『メーヌ・ド・ビランにおける努力と恩寵との経験』(1937)と題されたその論文で開拓していた地点から、メーヌ・ド・ビラン研究を逆行させたように思われる。この論文でル・ロワは、我々がそれに触れたばかりの二重の思惟運動を、的確に捉えていたのである。すなわち、ル・ロワは、ビランの思惟が承認している、生のあの階層化された三形式の間には、《上昇する歩みにおいては、非連続が存するが、下降においては連続性が存する》(10)、ということを、ひじょうに主題的に表明していたのである。我々はこの表明を、ル・ロワの同様に主題的な課題表明:《次々にその全ての形の許で》吟味された生を、その《力動性において取り戻す》という課題表明と、同一のものであると見做す。この吟味は、《抽象的に孤立化された斯く斯くの静的性格において〔為されるの〕ではなく》(11)、また、理解し易いひとつの統一へと生の全諸形を還元して為されるのでも決してないのである。ル・ロワはこのような運動におけるビランの思惟を高く評価していたのであり、その思惟の《独創性》(12)が示されるのは、この思惟がそのようにして、生において《下位のものが上位のものに参与する》(13)という考えを生じさせることにおいてであるとしていた。他方で、パスカルの思惟は、《三つの秩序の非連続性しか強調していなかった》— 三つの秩序とは《諸実在性の》諸次元のことであり、《すなわち、諸身体の秩序、諸精神の秩序、愛徳の秩序》のことである — ために、結果として専ら【p.9】《それらの秩序を分け隔てる無限な距離》(14)を《感じさせる》のみのものであった、としている。 我々は、ビランの思想における深い連続性を理解するために、ル・ロワが我々に示していたこの根本的な観点に固く留まろう。すなわち、ビランが一旦獲得した自らの本質的な思想を、更にもっと前進して自らの精神と心を深めながらも、けっして放棄しないことを理解するために。我々が以上のことすべてを述べた理由は、差し当たっては、ビランが彼の最後の「経験」に未だ達していないというだけの理由をもって、彼の哲学の発展過程のただ中で彼が表明している思想の価値を、例えば彼が自らの『哲学の防衛』において述べているようなことの価値を、軽率にも低めないためなのである。 我々は以下に、『哲学の防衛』において現われる重要な諸命題と諸々の語を見ることにする: メーヌ・ド・ビランにおいては、《反省》は《意識》と異ならない。この《意識》を彼は《内的感覚》(sens intime)とも呼ぶ(15)。内的感覚は、先ず、そしてとりわけ、《我々の個的能動性の実存の原初的感情》(16)である。我々はここに、我々が個として持つ内的感覚における、感情と実存と能動性との統一を、あるいは言わば三位一体を、見いだす。つまり、内的感覚は原初的には、我々の能動的自由における我々の実存感情なのであり、一言で言えば、《私の存在の感覚》(17)なのである。ところで、ビランは同時に言う:《知的で道徳的な諸々の第一真理の認識》は、《その根源において》この原初的感情《と同一》であり、《内的感覚に内属》している、と(18)。この意味することは、我々の思惟および実践あるいは行為に共通の原理として感じられ覚知される我々の自由は、同時に、我々の知性の根本的諸真理の認識および、我々が理解し得る道徳の普遍的諸真理の認識に共通の根源だということである。ここに、内的感覚の光ある根源と、この光の射程とが、優れて明らかになっているのである。【p.10】我々は、この諸真理と、この諸真理のこの根源との諸関係を、具体的に見ることにしよう。 我々の哲学者においては、我々が反省によって必然的に認識する基本的あるいは第一の諸真理は、同時に知性的かつ道徳的かつ宗教的なものである。つまり、《第一の諸真理》は、《道徳的あるいは知性的》と言われており(19)、また、《道徳的あるいは宗教的》とも言われているのである(20)。第一諸真理は知性的である。なぜならこの諸真理は、《人間の思惟あるいは知性の普遍的で必然的な諸条件あるいは諸法則》であるからである(21)。これら第一真理は、同様に道徳的で宗教的である。なぜならこれら真理は、《道徳的本性》の《神自身との、そこからその本性が発する至上の根源との》《必然的諸関係》を表示しているからである(22)。このことは明白に、メーヌ・ド・ビランにおける道徳と宗教との統一を表明している。ところで、ここでよく注意しなければならないことは、問題の《人間》は、《能動的自由》としての《私》である、ということであり(23)、また、「私」の、「神」との必然的関係は、自由な能動性である限りでの《私の、至高原因への依存性》(24)に他ならない、ということである。すなわち、神として見做される至高原因に依存するところのものは、私の自由な能動性そのものなのである。人間の《自由あるいは能動性》(25)は、人間の内的感覚においては、《人間の個人的実存の原初的事実と同一》(26)である。これは明らかなことである。メーヌ・ド・ビランは更に言う:《我々がそれに依存しているであろうところの至高原因という概念は、我々の個人的実存の原初的事実と、ほとんど同一なものとなってくる》(27)、と。この《ほとんど》という語が表現するものは、微妙で意味が深い。我々が自らの内的感覚において最も直接的かつ原初的に認識しあるいは覚知するものは、自由な能動性としての我々の個人的実存である。だが、我々は其処で必然的に、至高原因の実存を信じているのである。この至高原因は、存在論的原因と言ってもよい。この存在論的原因に我々は、我々各々が自由な存在である限りにおいて、依存しているのである。【p.11】このような理由で、反省における《二つの固定極》は、《認識の順序においては「私という人格」そして「神という人格」》であるが、《諸本質の順序においては》逆の順序で言われるのである。すなわち、《「神」そして「思惟する魂」》と(28)。我々が先ほど述べたことだが、第一諸真理は道徳的諸真理である。なぜならこの諸真理は、《人間》の《自らの同胞たちとの》《必然的諸関係》をも表明しているからである(29)。事実、道徳は、《行動諸原理》あるいは《人類の大社会に所属するものとしての、全個人に共通な》諸法規を、必要とするものである(30)。だが、メーヌ・ド・ビランにおいては、道徳法則、義務の法則は、必然的に《神の法》(31)として理解されている。この法は、道徳法則が本来的意味での反省の対象である限りでは、至高の根源から発するものなのである。我々の自由な能動性が神に依存するものとして、あるいは神によって創造されるものとして、感じられるのは、正にこのようにしてなのである。我々が理解するのは、我々の哲学者においては、あるいは一層正確に言えば、ビラン的反省においては、神は、人間同胞の誰よりも、個的人間にとって一層親密で一層直接的であるということだ。あるいはむしろこう言うべきであろうか、真で純粋な反省においては、二つの人格性しか存しない、すなわち「私」と「神」しか、と。これは、反省が、自己自身に集中する真に個的で人格的な行為であるからである。かくして、最も深い次元においては、我々の道徳的な《責任》は、我々の同胞たちを前にしたものではなく、《至高の審判者を前にした》(32)ものであり、この審判者は、我々に道徳法則を与えたか、あるいはむしろ命じたものとして見做されているのである。ビランが理解する道徳は、根本性格として、この宗教性を、この、神との内密で直接な関係を、有している。そして、人間が道徳的作用因として自らの同胞たちと、他の人間たちと、結びつくのは、神と神の法とを媒介としてなのである。 とはいえ、以上のことすべては、未だ我々の問いに如何なる実質的な答えを与えるものでもない。我々の問いというのは、すなわち、いかにして【p.12】このような反省による認識は、単に知的であるものから、道徳的で宗教的でもあるものにまで自らを拡張し得るのか、という問いである。目の前にあるこのテーズ〈学位論文〉における我々の諸考察の主要主題を成すのは、この拡張をし得る反省的認識のあり方の分析なのである。というのも、このテーズの表題である「メーヌ・ド・ビランにおける哲学と宗教」は、正にこの分析への我々の関心を表明しているからである。この分析は、先ず単に知的なものとして確認される哲学的反省の、宗教的反省への必然的諸関係を、解明するはずである。 このテーズの第一章においては、我々はビランの単に知的な反省を考察するだろう。第二章においては、我々は我々自身の仮説を展開することに没頭するだろう。この仮説は、いかにしてこの反省の上に道徳的・宗教的反省が基礎づけられるか、あるいは、接ぎ木されるかを、説明するはずのものである。そのために我々が主に解釈するビランのテクストは、『道徳と宗教との諸基礎に関する諸断想』(1818年)と題されるものであり、我々がこのテクストを選ぶのは、問題の問いのために実質的に重要な思想を表明していると見做されるからである。そして、第三章においては、我々はこの仮説を、ビランの諸テクストをもっと拡張して吟味することによって、検証し補完しようと試みるであろう。これが、このテーズの主題に我々が専念するための、我々の方法なのである。【p.13】註 1.参照:『直接的統覚について』(あるいは ベルリン論文)、1807、A、IV、p.28: 《思惟する主体(自我)の直接的統覚〈覚知〉は、身体の或る運動の、並びに、精神の或る操作の、産出的原因あるいは力の内的感情と、少しも違うものではなく、〔・・・〕》。原典著者の指示とは関係なく、我々の註はメーヌ・ド・ビランのテクストを参照させるものである。諸註の一覧、我々が使用した略号、そして使用された版は、文献目録の参照欄に示されている。A(続いて巻と頁の序列数)はアズヴィ版(ヴラン社)を示し、T(同様に巻と頁の序列数が続く)はティスラン版(スラトキン社)を示す。Journal(『日記』)は、グイエ版(ラ・バコニエール社)であることを示し、これに日付および巻と頁の序列数が続く。Journal intime(『ジュルナル・アンティーム』)は、ラ・ヴァレット=モンブラン版(プロン社)であることを示し、これに同様に日付、巻と頁の序列数が続く。 2. グイエ、『メーヌ・ド・ビランの諸回心』、四一〇頁。 3. 同、四〇六頁。 4. 同、四〇二頁。 5. 同、三八八頁。 6. 同、四〇七頁。 7. 同、四〇六頁。 8. 同、四一四頁。 9.同、四〇六頁。 10. ル・ロワ、『メーヌ・ド・ビランにおける努力と恩寵との経験』、三六六頁。 11. 同、四二二頁。 12. 同、四二七頁。 13. 同、四二八頁。 14. 同、四二七頁。【p.14】 15.『哲学の防衛』(所収『ド・ボナルド氏の諸見解の批判的吟味』)、1818、A、X-1、八三頁。 16.同、九七頁。 17.同、八三頁。 18.同、九七頁。 19.同、三八頁。 20.同、三九頁。 21.同、九九頁。 22.同、三九頁。 23.同、一〇〇頁。 24.同、一〇〇頁。 25.同、四三頁。 26.同、四四頁。強調部分は論者による。 27.同、四三頁。強調部分は論者による。 28.同、三八頁。強調部分は論者による。 29.同、三八頁。 30.同、一〇一頁。 31.同、四三頁。 32.同、四四頁。【p.15】第一章人間知性 宗教的領域に属する諸概念に関してビラン哲学により実施される批判を取り扱うに先立ち、先ず、ビランの哲学的反省の基本的射程を確認しなければならない。別言すれば、メーヌ・ド・ビランが「内的感覚」(sens intime)と呼ぶ内的認識能力の基本的射程を確認しなければならないのである。我々は、この、彼の哲学的反省の基本的射程の確認を、主に、ビランの最後期の著述に従って為すことにする。これら最後期の著述は、彼の最終決定的な学説をはっきり示すものにちがいないのである。 メーヌ・ド・ビランが《反省》という術語で意味しようとするものは、彼が《意識》あるいは《内的感覚》と呼ぶものと同一である。《意識あるいは反省能力》(1)は、ビランによれば、《哲学者が向かう第一の能力であり、全哲学の土台そのものを成す能力》(2)である。この能力そのものが、我々の《理性》を意味している。この能力である理性が構成するものこそ、《第一哲学あるいは内的諸真理の学》である(3)。この反省能力を構成するものは、我々の《自由な能動性》より他のものではなく、《これを神は人間の魂を創造しつつこの魂に賦与した》のである(4)。ゆえに、能動的で自分自身を意識する自由は、我々の最初〈第一〉の哲学的認識能力を意味するのであり、創造主によって与えられた能力を意味するのである。 この反省能力、【p.16】自己自身を意識し反省する人間的自由にほかならないこの能力こそ、我々が最初に、その基礎的射程において、あるいはその、哲学的または内的諸真理に到達する原初的仕方において、確認しようと欲するところのものである。さて、我々の反省能力は、我々の理性あるいは本来の意味での知性よりほかのものではなく、これこそ我々が確かめてゆこうとするものなのである。I.知性の原初的吟味§1.知的能動性の根源としての自己意識 メーヌ・ド・ビランによれば、本来の人間知性は、意志と同一である。知性は計算機械のような《知的自動装置》の如きものとしてあるのではない。《知性の第一条件》は、自己意識なのであり(5)、すなわちデカルト的コギトなのである。意志も知性も、自らの根源を意識に有しているのである。意識とは何であろうか? 意識は常に自己意識である。なぜなら意識は、意識している主体の自由で意志的な能動性を前提するからである。意識は常に、何であれ自らの結果を同時に生み出す自らの能動性の覚知である。既にここに、見かけ上、知的能動性をこの能動性の根源に先立って、すなわち自己意識に先立って前提するという、循環論法に人は気づくだろう。この表面的な循環性を解消することを試みつつ、ビランの論議そのものに入ってゆくことにしよう。 自らの全思想において、ビランは人間存在に関する二つの観察あるいは反省の方法を行使している。すなわち、生理学的方法と心学的(心理学的)方法とであり、別言すれば、外的観察と内的反省とである。強調すべきことは、この二つの方法に基礎づけられて、彼の【p.17】思想は並外れて実証的であり、具体的であることである(6)。この二つの方法の協同的省察により、三つの発展段階が人間の《筋肉》運動において見いだされる。すなわち、〔先ず〕《本能的運動》であり、これは《感じられも欲されも》しないものである。〔次いで〕《自発的運動》であり、《感じられて》《動物において(も)行使される》ことが可能な運動である。〔第三に〕《人間において(のみ)意欲〈意志〉によって直接に欲せられて行使される》運動である(7)。つまり、筋肉運動に、本能的、自発的、意志的、の三つの段階が見いだされるのである。 第一の段階:《本能的あるいは共感的な運動》は、《内的諸器官の感覚的諸印象に継いで起こる、(脳の)中枢》《の反応によって産出される》のである(8)。第二の段階:《自発的運動》は、《(同じ)脳の直接的行為によって生まれるものとして、あるいは脳から発する直接的行為によって生まれるものとして》見做される(9)。ただここで、本能の独立性が達せられているのである。メーヌ・ド・ビランは、この自発性あるいは《自発的な》運動を、《言わば意志的な》運動(10)と呼んでいるのである。そして彼は言う、これら運動は《動物において〔も〕感覚され得る》ものであるが、《判明に知覚され》得るのは《「自我」が実存する場合(のみ)》(11)、すなわち、人間の意識においてのみである、と。自発性の境位は甚だしく微妙であることが気づかれよう。では、筋肉運動の第三段階で生まれる意志は、言うなれば、意識的自発性でしかないのか? 習慣こそが、動物のであれ、人間のであれ、自発的運動を性格づけるのである。メーヌ・ド・ビランは言う、《習慣は不断に、そして全諸性質において、自発性の領域を増大させる傾向があり、この自発性こそが、習慣の産物を性格づけるのである。習慣は、動物本能と人間意志とを同時に支配するのであり、動物本能を持続させ、人間意志を曇らせて限界づけるのである》、(12)と。ゆえに、或る種の諸動物は、《自らの【p.18】原初的本能からは多かれ少なかれ離れた自発的諸運動の習慣》を身につけ得るのである。だが習慣は、《その諸規定性において本能に劣らず盲目的であり、本能と同様に必然的》である(13)。かくして、自発性と意志とは、むしろ対立しているのである。《習慣》は、《意志的な、あるいは意識によって照らされる運動または行為》を、《単なる自動機構へ》《退化させるであろう》、《もし、意志することの能動性が〔・・・〕この盲目的な力に抗して不断に闘わないならば》(14)。 今や、自発性と意志との対立は、習慣と意識との対立であることが、理解されるだろう。というのも、これら後者(習慣と意識)は、各々、これら前者(自発性と意志)の直接的基礎であるからである。さて、今や我々は、この対立を、鮮烈な対抗関係において見なければならないのであり、思惟あるいは思惟行為が何であるかを理解しなければならないのである。この思惟は今までは、知性、意志、意識、とさまざまに呼ばれてきているのであるが。 誰でも知っているように、デカルトは、彼がもはや疑うことが出来ないものを見いだす目的で、疑い得るすべてを疑ったのであった。そして遂に彼はその疑い得ぬものを見いだした。それが即ち「我思う」である。我思うは完全に具体的である。なぜならそれは「考える個的自我」であるから。しかし更に、この「考える」は本質的に「疑う」行為であり、「拒否する」行為であるから。あるいは「彼の純粋自我ではないすべてのものに抗して闘う」行為であるから。ところで、純粋「自我」あるいは純粋思惟が最も強く闘わなければならないもの、より正確に言えば、最大の注意をもって闘わねばならないものは、「習慣」であろう。なぜなら、我々の思惟は、言うなれば、習慣によって甚だ深く浸透されているので、デカルトのような(あらゆる情念を、思惟する実体的魂には属していないものとして拒否した)理性の人間にたいしてすら、人は、《精神の最初の諸習慣》を未だ克服していない、と非難するほどだからである。この、精神の最初の諸習慣は、《外的世界に全く合わせて造られた》ものなのである(15)。しかし我々はここでこの論議を進めることはしない。 現在のところは、つぎのことを理解しよう: このようなデカルト的コギトは【p.19】常に我々の日常的諸状況においても作用しているのであり、これら状況においてコギトは、我々の諸情念にたいしてと同様に、我々の諸習慣にたいして干渉し、これら習慣を支配して指導するのである、と。そして、デカルト的コギトが、我々のあらゆる認識をその認識という名に相応しく基礎づけるというのは、正しいことを、よく熟視しよう。知性とは、このコギトのことである。魂と身体というデカルト的二元論は、実のところ、静観的なものではなく、あらゆる瞬間毎に新たに内面的に遂行されなければならないものなのである。習慣の自動機構を拒否すること、それは、有機体の本能を拒否することと同じことであろう。《我々は瞬間毎に、この種の内的闘争における証言者であり実演者なのである》(16)、とビランは言うのである。この「我思う」が日常においていかに作用しているかを見ることにしよう。 《「努力」が用いられて互いに組み合わされ結びつけられた諸運動の一連続は、意志作用の繰り返された諸行為によって、繰り返しの力により、それら運動自体がいかなる意志作用も意識も無く自発的に自らを遂行するに至る。更に加えて、この同じ努力は、もともとこれら運動の遂行を司っていたのであるが、習慣が形成された場合には、これら運動を阻害しあるいは混乱させることにしか役立たないのである》(17)。ここに、意識と習慣との間の生き生きした対立関係が活写されている。それと同時にここに示されているのが、真実な知性と、知的な自動装置との間の、相異である。この二つは、いつも我々の内で混同されているであろう。というのも我々は、実際的成果を上げるよう我々を常に急き立てる世界の中に生きているからである。だが、真に考える〈思惟する〉ことは、意識を持つ〈意識する〉ことを意味する。ここにのみ、もはや動物ではないという人間の尊厳が見いだされる。この思惟する行為は、自分自身を「努力」の状態の中に内面的に置く行為なのであり、この努力状態においては常に、苦痛あるいは困惑が見いだされざるを得ないのであるが。 メーヌ・ド・ビランは続ける:《これら運動が斯くして盲目的にそれらの急速な流れのなかで引き起こされている間、自我の意欲あるいは意識は一瞬目覚めるのみであり、これら自発的運動は、【p.20】自我によって、自我のものではない盲目的力の産物として知覚され、自我の強制力の許に直接に移行して、それほど明瞭でも確実でもなくとも、努力によって停止させられたり継続させられたりするのである。この努力はこれら運動をその瞬間から自由に起こすことを再開するのである》(18)。このことから我々が正当に言い得ることは、自我の真実な覚醒は、原初的にはこの自我が生み出したかも知れない諸運動を知覚あるいは意識することで始まる、ということである。だがその際、つぎの意識を伴っている:斯くして知覚されるこれら運動はもはや自我のものではなく、習慣の諸運動として自我には無縁なものである、という意識である。ところで、この意志的諸運動は、表面的に解釈されるなら、自発的諸運動として見做されるかもしれない。その場合、この自発的諸運動は、この諸運動自体を意識している状態の中に置かれているとされるのである。つまり、「意志」が、「意識的となった自発性」と言われるかもしれない。だが、もしそうであるとしたら、いかにして、自発的諸運動は、専ら知覚されることのみによって、意志作用あるいは意識の支配力の許に《直接に移行する》ことが出来るのであろうか? なぜなら、一般に知覚作用と支配作用との間にはいかなる直接的関係も存しないのであるから。それでは、自我が《直接に》諸運動を支配し得るということは不可能ではないのか? この諸運動は自我の本来の力に属さないものとして理解されているのであるから。 メーヌ・ド・ビランによれば、《無感覚な有機的収縮は、その原理を、知覚が遂行される中枢の外部にある或る内官に持つ限りは、〔・・・〕、自我によって意志され、規定されて実現される以前に、先ず、感覚可能あるいは知覚可能とならねばならず》、そして、《この自発的で感覚可能な諸運動は、盲目的本能の諸効果と意志の諸効果との間に、ある本質的に重要な媒介者を形成する》のである(19)。つまり、運動は、意志的となる以前に知覚されなければならないのであり、また、自我が運動を知覚するのは先ず自発的運動としてなのである。斯くして、言われねばならないことは、意識においては、知覚は意志に先行するということ、そしてまた、意識は【p.21】知覚することによって始まり、知覚することが自我の行為の最初の行為である、ということである。ゆえに、人間の意志は常に、意識的で、知的な意志でしかない。けっして、いわゆる盲目的な意志というものは実存しないのである。斯くの如きが、ビランの次の言葉で確認されることなのである:《子供は自分自身の叫びをその時自発的なものと知覚し得るだろう〔・・・〕。これらの運動は、知覚されると〔・・・〕、人間において、意志が行使する行動の性格を取ることになるのであり、これら行動を知性は知り、ある目標に向けて指導するのである。》(20) しかし、人が、先ず知覚されるのは自発的運動だと考えつつ、知覚が意志に先行すると考える限り、人は常に、この自発的運動が、知覚によって意志的運動になるのだと、思わざるをえないだろう。斯くして人は、自発的運動を、その根底において意志的運動と同じ質を有するものだと見做そうとするであろう、後者に前者の延長を認めながら。斯くの如きが、いわゆる「無意識」の観念の起こりであろう。この無意識は、自己覚醒の以前ですら同じ自我として作用するものと見做されるのである。というのも、意識、知覚、これらは、自我という実体に付加される一種の偶発的な属性でしかないことになるであろうから。そしてそれと同時に、我々は、「意識的な自発性」という観念ならびに「盲目的な意志」という観念をも、承認することになるであろう。 実際、メーヌ・ド・ビランは、つぎの順序は決定的なものだと断定しているように見える:《諸々の運動行為〔・・・〕は、自らが先ず感覚されるか知覚されるかする限りにおいてしか、自発的なものから意志的なものへ移行することはなく、意志され始めることはない。》(21)しかし同時に彼は、意志を、知覚の根源あるいは前提条件として承認しようとするのである。なぜなら彼は、つぎのように表明するからである、すなわち、《より一層の真理をもって、内的感覚の事実に基づき》、つまり、心学的反省における内面的な直接的経験の明証性をもって、《自我のみが知るのであり、そして、知るためには自我は実存しなければならない》、と。《ところで、自我は【p.22】自我自身にとっては、意志することと努力とによってしか、実存しない》、と。ゆえに、《意志するという行為》そのものが、《原初的事実》を意味する(22)のである、と。ここで、《内的感覚の事実》についてのビランの説明は、少々理屈っぽく、衒学的に見える。そして、意志と知覚との間の外見的循環論は、解決されたようには、まだ思われない。この問題の実際を、もっとよく見なければならないのである。 自発的な習慣運動が意識において捉えられるや否や、この運動は意志的なものとしてしか続けられなくなる。つまり、この運動は、あらためて意志されないかぎり、停止するのである。だが、この運動は、このように言われるだけでは未だ充分ではない。たしかに、上記のことは、意志作用の目覚めは意識することあるいは知覚することと同時に起こることをよく示している。だが実際には、人が自らの自発的な習慣運動を意識することは、この運動よりも他の何かを知覚すること無しには、けっして無いのである。もし我々がこの運動しか意識していないと思うとすれば、それは殆ど思弁的な錯覚であり、この錯覚は、我々をそそのかして、「無意識なもの」を既に言われた意味で想定させる傾向があるのである。その理由はこうである:人が「自分の」自発的運動を、本来の自分の力に属していないものとして意識する場合(23)、人は既に自分自身の運動あるいは行為を、自分自身の力の真に直接的な結果として意識していなければならない。この結果のみが自分の力を原因として意識させるのである。というのも、我々のものではない一切が我々に属さないものとして我々によって知覚され得るのは、ただ直接的なものを通してのみだからであり、この直接的なものは我々において我々自身に属するものとして、いかなる媒介的なものも無しに知覚されるものなのである。さて、このような、媒介するものを通して為される間接的な知覚は、言葉の真の意味で「知覚」と呼ぶことが出来るのであろうか? これはむしろ、推測、ではないだろうか? 思い出そう、デカルトの「我思う」を。すなわち「自我」の行為を。この自我行為は、本来身体的なものに属するすべてを疑い拒否するものなのである。この拒否行為は、【p.23】「自我」の思惟が「自我」の全行為に現前する限り、これら全行為に現前するものである。そして「自我」の能動性は意志でしかない。知覚行為も、意志的に拒否する行為である。なぜなら、全自発的運動は、知覚されるや否や、停止させられるからであり、「自我」は実際には自らの知覚行為の諸結果をしか、直接に感じたり知覚したりすることはないからである。つまり、根底において知覚とは、作動している意識なのであり、あるいはむしろ、実存し作用する意識の発生なのである。意識そのものとしてのこの知覚は、不断に能動的であり意志的である。作用主体としての、この、「自我」の能動的意識は、「自我」の行為以外の他の全諸行為を、必然的に排除し拒否する。知覚意識と意志意識との間の差異は、見いだされず、同じ意識が意志しつつ知覚し、あるいは知覚しつつ意志するのである。意識、それは《「自我」という力であり、一なるものであり、単純であり、同一かつ常に同じもの》である(24)。デカルト的「我思う」がそのようであるように。 脳中枢が直接に支配する筋肉運動に関しては、この脳中枢は生理学的観点からは自発性とともに意志の座であるから、知覚行為がこの行為自体によって自発的習慣運動を排除するかぎりは、知覚は、自分自身の結果あるいは産物の知覚でしかないのである。すなわち、《意志行為の結果としての〔・・・〕筋肉感覚》(25)でしかない。というのも、(つづく)
(211頁)【つづき】 ここで、少なくとも一つの問いを予見すべきである。すなわち、私は、私が自分の行為によってそこから私を締め出すところの、その生について語っているが、この生は実際に実現されているのか? この生は現実のものなのか? 問題は深い。というのも、もし私が間違っているのでなければ、本当に通用する諸規則の形式的総体が問題なのではありえず、むしろ、この諸規則は私に提供され、示されているのであるから。この諸規則を拒否することで、私は、それらに、規則としての性格を否認しているのである。《それらは他の人々には規則であろうが、私にとってはそうではない》、と。だが、そのことによって我々は、それら規則を、全く偶然的な諸々の生き方に改変してしまうのではないか? もっと正確には、当事者自身にとって、その《諸規則》はそういったもの〔偶然的な生き方〕でしかない、ということを我々は承認することになるのではないか? ところで、この当事者が罪ありと判断されるのは、彼の行為を評価するために、彼自身は採用することをまさしく拒否する基準を人が採用する場合しかあり得ない。すなわち、その諸規則に、普遍的に規範的な価値が帰属させられる場合しかあり得ないのである。別の人には非-順応主義でしかないものを、或る人は有罪だと言うのである。誰がこれらを裁決するのであろうか? そしてここで、先述の論議がその全重量で迫るのである。私は、あの当事者にたいし、正しいのは私であり、彼は実際に有罪者だ、と証明できると期待してはならないのである。しかしそれなら? 我々は、モナド〈単子〉主義と呼び得るものにおいて、純粋な道徳的存在なのである。我々、《有罪者》と私、は、自分の評価方法という各自の囲い城壁の中に閉じ込められているのである。——《有罪者》は原因の認識を否定することを、私が承認する瞬間から、私は私自身に、道徳的真理について語ることを禁じることになるのである。私が知っており、また、彼が知らないような、何かが存するのではないのである。私は、私の状態で、彼よりも多くの諸要素を有しているのではない。また、私は彼よりも良い条件にあるのでもない。私の本性は私を優遇すると言うことは、再び道徳性そのものを否定することに帰着するだろう。しかし、そうなると? 私が或る規範に適合した仕方で行為する場合、私は、自分の行為がひとつの価値を有すると思う。この定式は、未だ我々を積極的な解決へ向かわせるものではない。私が彼の拒否するものを受け入れ、彼が投げ捨てるものに同意する、というのが、我々が現在までで言い得ることのすべてである。そして承認せねばならないことは、これはそれほど教化的ではないということである。私は単に同意するだけでなく、私の同意は正しいと断定する。もし私が(212頁)自分を同意に限定するならば、我々は各々自分の見方、感じ方、あるいは在り方を持っている、と言い得ることになろう。だが、私は、自分は正しい、と言う。これは明晰なことではない。というのも、私は、少なくとも権利上、つぎのことを断定する効力のある動機を有していないからである。すなわち、「《有罪者》は彼自身と矛盾した状態に置かれているかも知れず、自分の前言を取り消すべく定められているかも知れない」、と断定することである。しかし、そうなると? 問題は、彼がそのなかにいる諸条件を変えることではなく、彼の存在そのものを変容させること、彼を回心させることであろう。人は多分反論するだろう、「この、諸条件と存在との区別は、恣意的なものであり、そしてとりわけ、個的存在を熟考することにするなら、人は単なる経験的なものに舞い戻るだろう」、と。私は一つの仕方で〔のみ〕存在することになり、その個的存在は私とは違った仕方で存在することになる。すると、「私は正しい」と言うことは、どのような意味を示すことになるのであろうか? この反論は大事であって、それは、この反論が、この自己表明の仕方〔「私は正しい」〕が示す危険を明らかにするからである。しかしながら、このことは術語の問題でしかない。私は、私が有罪宣告に固執する当事者と比較して或る種の優越性を強く求めることがあるのではないか? —— しかし、この有罪とされる当事者は、私のものである観点に置かれ得るのか? —— 繰り返し言わねばならないことは、私は、実際に彼より上位にあるのではない、ということであり、彼には拒まれているような知を所有しているのではない、ということである。—— それでも問題は、我々の目には実に曖昧なものに留まっている。というのは、もしほんとうに《彼は有罪だ》と言うことが《彼は誤っており、私は正しい》ということを意味するならば、我々はすっかりパリサイ〈偽善・独善〉派だということになり、真の道徳的生から千里も離れており、その上、諸々の矛盾の迷路のなかに居ることになるからである。他方で、それは彼と私との間に存在におけるひとつの差異を措定することになる、と主張することは、じつに曖昧なことである。彼を赦免せずに、「彼は私が参与している生の外部に居る」と宣明することが、私に出来るだろうか? 一九一九・十一・二七。— 私は、私が昨日たいへん苦労して説明を試みたことに立ち戻る。何よりも先ず、よく解っていることは、ここでの私の関心は、もっぱら、道徳的価値それ自体を承認することを言わばひとまとめにして拒否する者の態度である、ということである。もし私の議論が正確であれば、問題の人間に関して彼が有罪であると言うことは、彼がそれでも或る仕方で、私が彼はそこから除外されていると言明するところのその生に、彼は参与していると承認することである。だが、いかにしてそれは可能なのか? それは間違いなくつぎのことを意味するのではない、すなわち、「彼は彼が否定していると思うものを肯定しているのであり、形而上学的には彼はやはり、彼がそこから自分を締め出しているところの社会の一員なのである」、ということを意味するのではない。— 私がとてもよく知っていることだが、人はこのような解釈に賛同するようには殆ど出来てはいないだろう。また、〔それでも〕人はおそらく、人がこのような解釈に賛同するように出来ていることは可能だと信じるだろう。たとえ、意図されたケースは実際には生じないと言いながらであっても、また、そういうケースが生じた場合でも(p.213)病理学的な性格異常をしかそこには見るべきではない、と言いながらであっても、である。私は続いて、この二つの逃げ口上を吟味することにする。 先ず、人は断定できるだろうか? 実際には誰も、我々が共通して道徳性と呼ぶものの外部に断固として自らを措定しはしない、ということを。私は答えるだろう、実際にそれは不正確なことであるが、いずれにせよそれは可能であるとはいえる、と。私はもっと先まで進むだろう:我々各々の内には、少なくとも、あの非道徳性の一耕作地が存すると思わなければならない、と。他方で、人は容易に示すことだろう、ここで健康あるいは規範の観念に口出しさせることは、再び知性主義に陥ることであるか、あるいは、道徳性を単なる重要ならざる存在様態のように扱うことである、と。 ゆえに私は、有罪者を、或る関係の許ではあるひとつの世界に属しているものの、他の関係の許ではその世界から締め出されている、と考えざるをえない。そして、この二元論は形而上学的性格を有する、と言うことは、これら二局面、これら二本性の絶対的な還元不能性を断定することである。プラトン的な仕方で推論によってこの二つを統一することは不可能であり、回心が必要なのである——すなわち、この統一を実現するためには、本来の意味での超自然的な行為が必要なのである。 また、明晰さのためには、「有罪者」という語を使わないようにし、この語を、本来の意味での「責任」が存するケースのために取っておくほうが、多分良いだろう。つまり、既知の公認された或る規則に違反した場合のために取っておくのである。有罪性について語ることを拒否することで、我々が乗り越えたと主張していた次元に我々があらためて身を置いていると言ってはならない。つまり、有罪宣告はここでは生の様態に関わるものであり、当事者自身に関わるものではない。以上である。 さらにこう問われるだろう、どんな権利からか、と。ここには、経験的諸条件における差異は存しない。私はもう一つの条件を、超-経験的な、もしくは形而上学的な秩序において、措定する。人は多分言うだろう:《根底において、あなたが求めているのは、実際には無謀な企てを正当化する方法であって、その企てというのは、あなたに、あなたとは違う領野に居る者をも、あなたの観点から有罪宣告させ得るものなのだ。あなたの観点と当事者の観点とは全く異なることを承認するのをあなたが拒んでいるところから問題は生じている。だが多分そのことによってあなたはあなた自身に、人為的で克服不可能な障碍を創り出しているのだ。私は、あらゆる社会的生の根本的諸条件を受け入れてきたので、この諸条件から自分を解放することを主張する者を裁く権利を要求するのである。》と。これはしかし大いに疑わしいことである。ひとつの存在が実際に何を裁くのだろうか? 審判というものは本質上、裁かれる者によって正当であると承認され得るのでなければならない。ところでそのことが正に、ここで不可能なことなのである。(214頁) 人は言明するだろうか? ひとりの人間を、彼の不測の反応を気に掛けること無く、審判することは出来るのだ、ひとつの操作を検証するように、と。だが、ひとりの人間を論理的複合体に似せることが出来るのだろうか?… 一九一九・十一・二九。— しかしながら、私の思うに、人は次のような仕方で論議することに固執する:《あなたの語っている問題当事者は、其々の特殊な場合において考えられねばならない理由のために、あなたがあなたに関してはその実在性を肯定するところの秩序を承認する状態にはないのだ。この不能力のなかにひとつの不具、一種の盲目以外のものを見ることを、何ものも、あなたに、資格づけはしない。知性の盲目は存在しないのか? (例えば数学)》と。このように提示された反論は無力なものではない。しかし、私はこの反論を決定的なものだとは思わない。というのも、ひとつの証明を理解することが出来ないということのなかには、何の積極的なものも存しないからである。それ〈証明を理解するしない〉は制限することではない —— そして他方では、人はこう付け加えることができないだろうか? 理解していない者は、少なくとも、彼が理解していないことを知る、と。だがこれでは充分に言ったことにはならない。もし、この差異が根本的に、それを変容することが我々の力の内には無いところの諸条件に関係するものだと判断されるのならば、我々はひとつの選択をするよう導かれる。この選択は自然〈当然〉なものであり、道徳性の概念自体を破壊するものなのである。実を言えば、このことにはまだ異議を唱えることが出来るであろう。美的な享楽もまた、自然的諸条件に依存しているのである。このことは、美学的諸価値が存することを否定する理由となるであろうか? 同様に、類似の意味において道徳的諸価値が存するということがあり得ないであろうか? 道徳的諸価値の経験的承認は或る事実状態の偶発的実現に結びついているにしても。— ただ、この定式は見かけにおいてしか明晰ではない。事実、誰が、その諸価値が《実存する》と断定するのか? その諸価値を承認する者である。彼は、その諸価値を全然認識しない《不具者たち》の断定をアプリオリに無意味と断ずるまでに到るのである。 似たような見解が、無限に劣ったプラトニズムのようなものとしてある。だがそこでは、いかなる討論も、相対する諸派の間で行われ得ない。《丁寧にやらねばならない》、これが、道徳家の断定が帰着する処である(ここで想定されるのは、ある扱いが試みられ得るということである)。操作という観念が、回心あるいは確信という観念に取って代わる傾向がある。操作というものは、どのような諸条件で可能であり、理解可能であるか、今こそ探求されねばならないであろう… 一九一九・一二・一。— 処理、操作、というものが、目的として持つのは、或る装置に、《自由に》、《基準的に》、等々の仕方で、機能することを許すことである。だが、《基準的な》道徳的生が、ある装置の機能に準(なぞら)えられ得るであろうか? ここで更に問題を生じさせるのは、(215頁)美学的領域において起こることの実例である… Pでの私の覚書を読むことで、私は「汝」という、この重要で難しい概念をもっと正確にすべく、この概念に立ち戻っている。「汝」は、単にそれだけのものとして問われているのではない。この問われているものは、それ自身は問いの対象としては扱われない限りで、問われているのである。私が誰かに、彼に質問をしようという意図をもって近づく場合、私は、彼は私に答えることが出来るだろうか、彼は私に教えるものを持っているだろうか、と自問しながら近づいているのである。この誰かは、私にとって《汝》ではなく、《彼》であり、ひとつの集合である。《汝》は、最も基本的な次元においてすら、信仰との関連でしか、つまり、問いにすることを自発的に拒否することでしか、定義されないというのが、正当な観方である。ただ、経験的に与えられた人物が問題である場合には、対象的に思惟することを、すなわち懐疑することを、自分に禁じることは、私には出来ない。人は私に気づかせようとするだろう、その懐疑は述語に関するものであって、主語の存在自体に関するものではない、と。だが、ここで、述語を唯一重要なものとするヘーゲルの古い議論を再び取り上げなければならない。我々の他者との諸関係の歴史において悲劇的に重要なものは、間違いなく実存的懐疑ではなく、存在に関する懐疑、より正確には、《価値》に関する懐疑なのである。そして人は自問するかもしれない、このことは諸述語と一致することであろうか、と。信じ難いような集中性で我々の諸カテゴリーの不充分さを感得するためには、つぎの簡潔な問い:「彼は私の彼にたいする愛に価するだろうか?」の深い意味を反省することで充分である。実際には問いは何に関するものなのだろうか? ここで、あらためて自問せねばならないのは、どのような意味において私は述語を有しているのか、ということである。なるほど私は自分を叙述することが出来る — だが、いかにしてこの叙述が形而上学的に可能であるかを理解することは少しも容易ではないだけではなく、私の最も深い現実は、この叙述を無限にはみ出ることを、言う必要があるのではないか? そこに、かくももつれた諸問題が全部集まっているので、いかにしてそれらの問題を解きほぐすのか真には解らない程なのである。一連の諸述語が存在するのであるが、この諸述語を私が私自身に帰属させ得ること、他者がそれらを私に帰属させる如しなのである。つまり私は、その程度に応じて、私にとって他者なのである。私は自分について、誰でもよいような者について語るように語る。だが、私の内なる最も深いものは、このような様態の思惟から逃れる。例えば、自由が理解可能であるのは、私の内に、《彼》の次元を超越する何かが存する程度に応じてでしかない。私は深く感じる — この直観を議論的に詳論するには至らないが、私は自分がこの直観に達するであろうことを確信している — 、意欲するとは、自らを彼として扱うことを止めることである、ということを。この意味において一九一九年三月の私のノートを解釈すること。欲さないとは、《私であるものが与えられているのだから、私は出来ないだろう。(216頁)それは不可能だ》、と言うことである。ここで私は自分を、それについて私が語るところの第三者のように扱っているのである。欲することは、これとは逆に、自分を彼としては抹消することであり、弁証法が廃止するところの豊饒な不可分共有状態と言いうるものを、再び見いだすことである。それゆえ、意志のなかに内的緊張を見ることは、重大な誤りであり、この点で、コルネイユの演劇よりも欺くものは無い。逆であって、欲する〈意志する〉ことは、〔緊張が〕緩むことであり、引きつることではない、と私は思う。結局、諸々の可能性の計算に気を奪われることを欲しない者〔が、意志する者〕なのである。そして、「しかし」が介入するのは、ここなのである。すなわち、一方には、私が私の欲求、私の諸嗜好、等と呼ぶであろうものが存し、他方には、斯く斯くの諸障碍、諸困難が存する。私はその計算のなかに文字通り私を失う、つまり、私は自分を捨象する、か、私は自分を他の諸々の所与のなかの一所与として扱う。そして欲するとは、まさに、自分をこのように扱うことを拒否することなのである。この意味において、信仰との接近は、本質的に権利の据えられたものである。というのも、信じることは、比較することを拒否することだからである。信仰の根本には、非-対決の意志が存するのである。これによって私が再び見いだすのは、私の昔の難しくて抽象的な諸議論である。だが、私に思えることは、私は現在ではそれらの議論をもっと強固に支えるものを持っているだろう、ということである。昔は私は言っていた、《私の内には、私自身に関するすべての真なる判断を超越するものが存する》、と。これによって正確には私は何を言おうとしていたのか? 私に関するすべての判断は、ある彼に関するものであり、この彼は定義からして私と一致し得ないのである。自分にとって私が汝であるような者は、彼がこのような判断に貼りついている場合でさえ、このような判断の彼方へと無限に赴く。彼は、私を愛することによって、私に一種の信用貸をするのである。だが、この信用貸は何に関するものなのか? ロイスは、愛は個別化することを、深く洞察した。しかし、個別化の原理は、彼が信じたように、そのような存在のみが実現し得る唯一目的に存するものなのか? よく注意しよう、このような目的は、この目的を実現すると見做される者にとっても、その他の経験的な諸主体にとっても、把握しうるものではないことに。このような目的は神にとって、そして神にとってのみ、把握可能なものである、と言わねばならないのであろうか? これは更につぎのことを認めることだろうと私には思われる、つまり、人格(personne)は神にとって彼女(elle)であって汝ではない、と。いずれにせよ、このことは、人間の本来の愛における、人間の繋がりにおける、判明なものを説明するものではないだろう。私は確信しているが、ここで、目的論的地平を無限に超出する思想あるいは経験の次元に訴える必要があるだろう。そしてこの探求は、個人の本来の性質といった観念に訴えることが虚しいと思われる程、より一層難しいのである。そういう性質は斯く斯くの他の個人のみが見分けうることのあるものであろう〔から〕。愛することは、適切に認識するといったことではない。愛が卓越した認識を与えることはあり得るが、愛は認識に先立つのであり、(217頁)それは愛が評価に先立つのと同様なのである。私は更に他の一点に気づく。それは、愛は、私が先に語った「私」からのあの解脱にしっかり結びついている、ということである。愛はこの意味で「私」の解放をふくんでおり、この「私」は、自らを本質として呈示するどころではなく、愛する者としてほとばしり出るのである。愛は祈り求めることとして、「私」から「私」への訴えかけとして、出現するのである。そして、私が以前、祈願と合図との間の対立について言ったことは、ここに完全に適合する。とはいえ、用心しなければならない。祈願〈祈り求めること〉は、私が情報の自己-源泉と呼んだものに向けられてはいない、ということから、祈願は述語を持っていない自己に向けられている、と結論しうるだろうか? 私は、その自己がそれであるところのもののせいで、その自己を好きではない。私が、その自己がそれであるところのものを好きな場合、それは、その自己がそれであるところのものが、その者〈彼〉〔自身〕だからである。ということは、私は、経験が私に与え得るであろうすべてを、勇敢にも先取りするということであり、そこに経験が自らを呈示するであろうすべての述語を、先取りするということである。じつを言えば、人は私にこう答えるであろう、この先取りの起源において既にひとつの述語の再認があるにちがいない、と。だが、それは間違いであると私は思う。すきに呼んでよいが、ある行為、ある状態、ある在り方というものがあり、これが叙述意識によって、ある述語の再認〈承認〉と同一視されることがあるのである。だが実際にはそれは、私の存在の思いがけない豊饒化なのである。 一九一九・十二・二。— 絶対的な更新、そして再誕すら存する処にしか、愛は存しない。愛とは、焦点移動する生であり、中心が変わる生である。ただ、このことが、とんでもない形而上学的問題を呈示するのである。愛は客体すなわち「彼」には関わらないということから、愛は、人が他者のなかの「非-彼」と呼びうるものに届く、と私は結論しうるのであろうか? 〔いわゆる〕普通の感覚は否定的に応答する。この感覚が承認する者は、私の愛が本来(記号によって)伝達されないとしても、私のこの愛によって事実的にであっても触れられて私が愛するところの者でしかない。しかも、この場合でも、接触するのは愛それ自体ではない。それにしても、普通の感覚が正しいなどということは、全然確かなことではないのである。そしてここで、愛のすべての主観主義的理解が、その諸原理を再検討されねばならないであろう。人は次のような仕方で論議するのが常である: 《あなたが愛している存在は、真実な存在とは異なる。ということは、愛は存在それ自体には関係しないということだ。愛には、いかなる存在論的なものも存しない》、と。しかし、人が言ってよいすべては、つぎのことのみである、すなわち、けっして判断に似ることはない本来の愛の上にこそ、全的に誤りであるかもしれない知的構成は建てられようとするものだ、ということである。このことは、実を言えば、困難さを遠ざけることでしかない。つまり、愛の根底に存する価値移行は、愛する者の現実的変化に対応することに、人は同意するだろう。しかしこの変化は、(218頁)《愛されている対象》の変容を必然的に相関者として持つだろうか? 私が直ちに気づくことだが、三幅対の系においては、問題はおそらく意味を欠いている。私は自分を、愛している者と愛されている者との外部に位置せしめているのである。私は彼らの関係を外から考察している。彼らは私にとって根本的に分離されているものとして現われているのである。だが、このことは、もし私がこの愛に参与していないならば、私はほんとうにこの愛を思惟することは出来ない、ということに起因していないだろうか? もしこの愛が何らかの仕方で私の愛となるのでないならば、この愛は私にとって存在しないのである。このことからの帰着として言うべきことは、提起された問題は、まさに愛する者の観点そのものからしか、意味をもたない、ということである。私は問うだろう、私の愛は、私が愛する者の存在に実際に達してその存在を性格づけるのだろうか? と。二つの注記が必要となる: 第一の注記は、おそらく、少なくとも一般的には、愛されている存在は経験的には、彼が起こさせる愛によって変容されることはあり得ない、ということである。第二の注記は、我々各々の実在性、すなわち、お望みなら、この実在性の完全な概念は、我々が他の人々に起こさせる諸感情を含意している、ということである。ただ、この完全な概念は、一種の観念的なフィクション〈虚構〉ではないのか? 要するに、大事なのは、ここで私が探索を試みている世界において、何かが概念を豊かにすることそれ自体に対応しているのかどうかを知ることなのである。形而上学的には、問題は次のように分解される: 1° 愛は、単に存在の観念に関わるのではなく、存在に関わるか 1〈1.この同じ問いは、例えば、憎しみにたいしても、あるいは妬みにたいして、発せられないかどうか、自問してはならないのだろうか? 私は、まだその感情を絶対的に正当化することは出来ないが、この問いが愛にたいしてしか意味を示さないという感情を持っている。〉? 2° 愛は、存在に影響を与えること無く、存在に関わり得るか? 第一点に関しては、いかなる疑義も可能であるようには私には見えない。第二点は、逆に、とても疑わしいように思える。私は確かに、私自身の愛を、私が愛している存在には届かないものとして思惟することが出来る。だが、多分ここに錯覚があるのであり、この錯覚はつぎの行為に依るのである、つまり、私は自分を、私たち二人にたいして第三者として立て、まさにそのことによって私たちを、区別されたもの、分離されたものとして扱う、という行為である。つまりこれは、信仰を排除している愛なのである。結局、人は言うのではないか、私は、問いの意味を問いから奪うことなしには、この問いを提起することは出来ないのだ、と。もっと念入りに考慮を払うなら、人は分かるだろう、もし私の愛が愛されている存在に作用を及ぼし得るとすれば、それはただ、この愛が欲望ではない限りにおいてだ、ということを。実際、欲望においては、私は愛されている存在を私自身の目的に服従させる傾向があるのであり、私はこの存在を根底において客体に変換するのである。つまり、多分、完全に無欲な愛のみが、「汝」に影響を及ぼすことがあり得るのである。このことに気づくことは、聖性の実践的な働きについて或る光を投げかけるものだろう。(219頁) 一九一九・十二・三。— 昨日以来、私は、ひとつの存在のために祈ることは何であり得るのかを理解するのに心奪われている。先ず、私がその者のために祈っているところの者は、神と私自身とに比較すれば、ひとつの第三者であるように思われる。だが他方ではっきりしていることは、この者は私にとって単純に「彼」なのではないことである。誰かのために祈ることは、この祈りの可能的有効性を信仰することであり、それどころか、この祈りは虚しいものではないことを確信することであるように私には思われる。たとえこの祈りの願いが物質的には叶えられないとしてもである。ここにひとつの広い路が我々の前に開けているように思われる。私には明瞭に思えるのだが、適法であるような、自己のための祈りの型というものがあり、適法でないような、他者たちのための祈りの型というものがあるのである。私のための祈りは、神の賜ものとして見做されることが出来るものにしか関わり得ないように私には思われる。あるいはもっと正確に言えば、私は、「優れて在る」ことのために祈ることは出来るが、「優越を有する」ことにために祈ることは出来ない。この区別は私には日毎にいっそう重要なものに思えてくる。所有され得るものに関しては何も問題ではあり得ないが、そこから為され得る使用が問題であり得るのである。つまり、私が有するものは、神に由来するものであるとは、私にはほとんど思うことは出来ないのである。いかなる場合でも、この世における私の領分が増大されるようにと祈ることは、私には出来ない(先の十月の十九日と二十日の覚え書きを見よ)。あの賜もののことを私が語っていたのは、「恩寵」においてだったのだ。この賜ものは、人がこれを伝えるとき、増大するのである。他方、もし、他者のための私の祈りが、私に役に立つことに配慮することによって、私に強いられるならば、私の祈りはその原理において悪徳のものである。私の奉仕者の快癒のために祈ることは、私の奉仕者が同時に私の友である限りにおいてでしか、私に許されない。要するに、ひとりの「汝」のためにしか、祈ることは正当ではないのであり、そしてここから、新たな三位一体的関係が浮び現れるのである。もっとも、この関係は、実際にはひとつの二者関係(dyade)を隠し持っている。つまり、根本においては私は我々のために神に祈るのである。換言すれば、私は、他者と私との間に、あの精神的〈霊的〉共同体が存する場合にしか、この他者のために祈ることは出来ないのである。この精神的共同体の本質的性格を示すことは、私は既に試みた。私の魂のために祈ること、あるいは、私の愛する者のために祈ること、これらはおそらく、唯一つの同じ行為である。このことによって、我々は、私が昨日、私心の無い愛について語りつつ示そうと試みていたものに、うまく復帰するように、私には思われる。だからといって私は、「我々であるところのもの」と「我々が所有しているところのもの」との間に私が設けようと試みる区別が、明晰であるには程遠いことを、自分に隠す気は全然無い。たとえば、どこに知性を位置づけるのか? 人は、よりいっそう知性的であるために祈ることが出来るのか? 多分出来るだろう、もしそれが意味することが、力を増すために祈ること、自然の秩序をいっそううまく支配するために祈ることではなく、存在にいっそう完全に参与するために祈ることであるならば。祈りの効果に関しては、私に思われるのは、人は、意志について私が言ったことを基礎とすることが出来るはずだ、ということである。祈ること、それは、(220頁)「すべては与えられている」ということを承認するのを拒否することであり、意志として扱われる実在性を祈願することである。だが、言ってはいけないのか? 祈りながら、私はほんとうに意志としての存在を創設するのだ、私はこの存在をそのようなものとして創造するのだ、と。 一九一九・十二・四。— 私には思われるのだが、先ず、「祈ること」と「要求すること」との間の差異を深く究めなければならばいであろう。あらゆる要求は、共感への訴えを包含している。もし私が見知らぬ人に道を尋ねる〈私の道を求める〉とすると、私は彼が《私の立場に身を置く》ことを当てにしているのであり、彼が私の窮状を思い描くであろうこと、彼が有している情報を私に提供してくれるであろうこと、彼をこの共感が規定して、私の要求〈私が道を尋ねること〉が無ければ彼が表明しなかったであろう話をさせる(あるいは身振りをさせる)ことを当てにしているのである。だから、私のこの質問は、私の対話〈質問〉相手の行為の仕方を変容するにちがいないと見做されているのである。祈りの場合は、明らかにこのようではないかもしれない。〔だが〕私の祈りが要求〈質問〉に近くなる程、この私の祈りは私の権力を増大させる方法に類似し得る何か(ある情報、ある何らかの対象)に関わることになる。そしてその分、私の祈りは本来の意味での祈りではなくなるのである。反対に、私の祈りが私の存在そのものを豊かにする傾向があるに応じて、この祈りが向かうのは、明らかに、有限な個人性ではあり得なくなるのである。つまるところ、私に思われるのは、祈りは常に、《私のそばに居なさい、私と居合わせなさい》という型のものだ、ということである。そして〔祈りは〕抽象的なものにおいてあるのではなく、厳格に規定された斯く斯くの状況においてあるのである。人は言いたくなる、すべての真摯な祈りは応答される祈りである、と。しかしこの公式は危険である。実際、この公式は、次のような仕方で解釈される恐れがある:《もしあなたが充分に集中して祈るなら、あなたは自分の祈りが、叶えられないまでも、少なくとも聞かれると信じているのである》、と。さて、私の思うに、人はあまりに形式的にこのような解釈に対峙することは出来ない。この解釈は、祈りの生ける現実を、機械的な図式で代用するものなのである。それに、重要なことは、祈りの強度ではなく、祈りの質である。本当を言うと、これでは心理主義を論駁するには充分ではないことは確かだ。私の思うに、人が心理主義の論駁に到り得るのは、心理主義が常に二元論を想定していることを示すことによってでしかない。この二元論は、個人の在り方でしかないものと、実際に客体であるものとの間の二元論であり、形而上学的に維持し得ない二元論、また、救援に呼ばれる社会学も、その正当化には無力であるような二元論なのである。 いずれにせよ問題となるのは、私が「祈りの存在論的価値」と呼ぶであろうところのものである。すなわち、祈りのなかには、実在的なものを意志の言葉へと偶々解釈することよりも他のことがあるのか? という問題である。この問いを解くための方法は、私がひじょうにしばしば使ってきた方法であるように、私には思われる。(221頁)先ず自問する必要があるのは、人が、祈りはひとつの表象様態あるいは解釈様態でしかないと主張するとき、人は何を言おうとしているのか、ということである。この解釈が、この解釈に同意する者の存在を明瞭に変える程、問いはますますはっきりする。信仰者は自らが助けられていると感じ、この感情から力を汲むものだ。これを単純に、彼は自分が助けられていると信じるから助けられている、と言わねばならないのか? 彼はどんな場合に別のあり方をするのだろうか? 実在的な助けは、助けへの信仰とは明瞭に区別されなければならないであろう。もし私が誰かを、私がドアを開けるのを手伝ってもらうために呼ぶとするならば、私はおそらく彼を信頼しているのであり、それどころか私の彼への信頼は、彼にドアを開ける力を与えるのに貢献することもあり得るのである。だが、それでもやはり、ドアを開けるのは彼であり、私の彼への信頼〔がドアを開けるの〕ではないことに変わりはないのである。非信仰者は、それと全く似た意味において、神の応答の客観性を打ち立てることを求める。だが、私には思われるのだが、客観的に確認可能な助けは神を起源とするものではあり得ないであろうことを、非信仰者に確かめさせるのは正当なことである 1。〈1. あるいは、より正確には、この客観性は、信仰によって認められるのでしかあり得ず、観察者一般によって証拠立てられるのでは全然あり得ない、ということ。(一九二七年の覚書)。〉私がそのために他者に助力を求めるところの行為は、事実、私が私自身で完遂し得る諸行為と同じ型のものである。そのような行為は、少なくとも、そのような諸行為の延長上にあるものである。私が祈りによって懇願する助けについては、確かに同様ではない。おそらく人はこう答えるだろう、この助けは私に実際に与えられるのではないか、あるいは私自身の無意識な諸部分から発するのである、と。とりわけ反省を関わらせる必要があると思われるのは、この第二の場合である。私は現在、一般的な仕方で、つぎのように思う傾向がある、すなわち、この助けにたいして医学的な原因論の考えそのものを適用しても、意味は無く、神の行為は意志そのもの以上に因果的な理解が可能なわけではない、と。ところで私は、このような因果的理解を打ち立てることが、まだ私に出来るとは確信していないのであり、あるいはむしろ、あの最初の否定論にたいして肯定的反論をすることが出来るとも確信していないのである。 一九一九・十二・七。— 先述したことのすべては、結局、無神論に関する私の諸々の覚書に再び辿り着く。私は言っていたが、無信仰者は次のような仕方で論議する: 《私は経験のための普通の状態にあるが、神の経験を持っていない。ところでこの経験は、もし本当のものならば、客観的でなければならず、つまり、すべての普通の存在のものでなければならない。これは今の場合ではない。ゆえにそれは本当の経験ではない》、と。独断的無神論は、要するに、或る者にとっては存在しないものが、他の者にとっては存在し得る、ということを否定するものなのである。しかし、私が当時言っていたことだが、《(222頁)経験の通常諸条件》という観念は、多分ここでは何の意味も持たない。この諸条件は、必然的に、この諸条件を措定し定義する或る判定能力に拠っているのである。D.氏は調査によって自分は通常の諸条件内にあると評価した。つまり彼が自由にし得る(物理的ないし論理的な)諸装置の集合は良好状態であると評価したのである。我々はここで能力の次元に、《持つ》の次元に、いるのである。もし私が眼科医であれば、私に緑に見えるものが赤に見える者にたいして、私は検査して、彼は誤っており、彼は経験の普通の諸条件のなかにはいない、と宣言する資格があるだろう。ここでも事情は同様であり得るのだろうか? 私の思うに、D.氏は、もし彼が心理学者なら、私に言うだろう、彼は彼自身の経験が信仰者の経験よりも一層通常だとは判断しなくとも、少なくとも信仰者の経験にたいして、自らを客観化してひとつの実在性に関わる資格を認めない、と。ただ、信仰者の経験にとって、そのような関わりこそが本質的に重要であることに、気をつけよう。彼の経験にその資格を認めないことは、その経験に手をつけずにその経験から任意で外的な補足をただ差し引くことではなく、その経験を大破することである。—— 確かに、もしこの実在性が信仰者によって客体の如く、自然の力の如く考えられるなら、心理学者の態度はそのこと自体によって正当化される。というのも、その程度に応じて信仰者自身がそれによって心理学者に検証の権利を与えることになるからである。しかし信仰者は、自らの信仰を反省して、このような断定をやめるや否や、そうではなくなる。もっとよく見るべきことは、心理学者が、この信仰を実在的なものとして承認するとたちどころに、(信仰を単なる主観的現象として扱うことを止めて)この信仰と連帯するということである。私は、——ある意味において神は同様に私にとって存在すると考えること無しには——神は現実にあなたにとって存在する、と言うことは出来ない。「あなたにとって」と私は言った。つまり、もし実際に私が「彼にとって」と言うに留めれば、私には明らかに思えるのだが、私は客体の領域から脱してはおらず、私は《彼》と神との間のあの関係を変質させているのである。ただ、心理学者は、心理学の次元から人間の次元へと降りること無しには、「汝」における判断を表明することは出来ないのである。彼はもはや、人間たちのなかの一人間であるにすぎない。 私は、どの点まで、この議論が神の救いの問題に適用され得るか、見たいのである。斯く斯くの人は私にこう言う:《私は祈った。そして、祈ったということから私は自分がいきなり一層強くなったことを感じた》、と。私が心理学者として対処する程、私は「斯く斯くの人」を客体のように、すなわち、或る行為機構のように扱う。祈りは私には、その機構の只中で遂行された、定義可能な過程のように思われるのである。たとえ、私が祈りに何の効用も認めないとしても、私は少なくとも、そのような効用を信じることにだけは、ここで因果的価値があることを承認するだろう。(223頁)ゆえに私は承認するだろう、《斯く斯くの性格を呈する主体においては、このような態度の取り方の有効性への信仰は、このような帰結を引き出し得る》、と。〔これが〕《暗示作用》についての普遍的命題〔である〕。—— つまり心理学者は信仰者に自らを向けておらず、心理学者が信仰者のことを話すのは、斯く斯くの現象の「場」であった誰かのことを話すようなものなのである。これは討論と探究の一主題である。そしてこのようにして、信仰者自身の語りが無価値なものとして断ぜられるであろう。心理学者はそれゆえまさに、単に独断的な仕方で対処しているのである。彼は自分自身を規範として扱っている、ということになる。明白なことであるが、彼は、普遍化され得ない術語で表明された断定を、自分が普遍的言語に翻訳しているのを観察させることによって、自分を弁護するであろう。だが、この翻訳が理に適ったものであるかどうかを知ることこそが、〔問題の〕すべてなのである。私が信仰者であれば、私は心理学者に言うだろう:あなたには、この — あなたが生きたことのない — 経験を翻訳するための資格がありますか? あなたの翻訳が可能なのは、あなたがこの経験を生きたことがないからでしかありません、と。 ここから私は結論したくなる、祈りが完全に真摯で、祈りを表現する者に応答されたと思われる場合には、我々はあらゆる妥当な批判の彼方にいるのである、と。 一九一九・十二・十五。— 大事な二つの反省: 1° ある与えられた個人 1〈1. X…氏が神の実存を発見したと告げる或る取り次店公文書を想像されたい。これがどうしてそれほど根本的に不条理なのか?〉が神の実存を証明し得るということを想像することは、どうして不条理なのか?(誰か特殊な者によって見分けられ得るものとして理解され得ないものは、自然においては何も存しないのに)—— その実存が証明され得るようなものは、神ではないであろうし、神ではあり得ないであろう。神の実存の客観的証明〈証拠づけ〉は不可能であること、このような仕方で宗教的問題を提起することは不条理であること、これらこそ疑い得ないことなのである。何か或るものが実存することを確かめることは、その何か或るものを特定し、位置確認することであることを、とりわけ示すこと —— それが単に観念的な関係を発見することではない限りは… 2° 対象を思惟することは、それにとっては私は重要でないような何か或るものを思惟することであるように思われる(保留付きでであり、この保留に私は立ち戻るであろう)。そうなってくると、自然崇拝(naturalisme)が世界の総体を牛耳ることとなり、この世界総体は、〔私とは〕斯くも全く無縁な客体〈対象〉の如き宇宙なのである。だが、私がそれにとっては重要ではないこの総体のなかに、それには私が重要であるような諸部分が存する、ということには、言うべき意味が存するのだろうか? 私に明白だと思えるのは、私がこの諸部分にとって重要である程度に応じて、それらは諸部分ではなくなる、ということである。〔これは〕観てみるべきことである。 他方において、どの点まで人には、(224頁)私が客体にとって重要ではないと言う資格があるのか? 物質的には、逆に、客体が私を考慮するのである。だが、客体への客体のこの関係は、ここで問題である関係ではない。 一九一九・十二・十七。— 私は先程、神と私との間に打ち立てることの出来る関係について、反省していた。この関係は、我々にとって、神が「汝」であり、世界が「彼」である程度に応じて、打ち立てることが出来るのである。だが、世界はほんとうに我々にとってひとつの第三者となることが出来るのか? このことは確かではない。というのは、そのためには、世界は神の外部にあるものとして思惟され得る必要があるだろうからである。私が(例えば政治的な)問題をひとりの友人と扱う場合、この問題は彼にとっても私にとっても「第三者」(elle)である。しかし、世界に最も内密に触れるものが問題である場合、例えばひとつの神秘(un secret)が問題である場合、事は同様であろうか? 「世界は神にとってひとつの客体であり得る、と思惟することは、神それ自体を否認することである」、と思うほうへ私は傾く。だが私はこの感情を未だはっきりと説明することは出来ない。それでも私に思われるのは、私が一昨日に書いた幾つかの註記は、この感情を理解するのを助けてくれる、ということである。私は言った、ある客体を思惟することは、それにとっては私は重要ではないところのものを思惟することである、と… だが正確には、と人は問うだろう、私は世界をそのように思惟することは出来ないのではないか? と。そして、私が、それにとって私は「汝」であるような生ける神の観念に高まるのは、それにとって私は重要でないような世界の観念からではないのか? と。そこには、完全に把握可能な弁証法が存する。だが、問題であるのは、神と私との間のこの関係が生ける豊饒な関係であるためには、この関係を言わば宇宙を越えて捉えることを断念してはならないのかどうかを知ることであり — 斯くの如き関係において捨象すると危険な存在を総体として越えてはならないのかどうかを知ることなのである。私は次のように思うほうへと傾く、すなわち、魂が、過ぎ行くすべてを越えて、神へとこのように高まることは、真の宗教的生の、ひとつの予備的道程でしかなく、前置きのようなものである、と。根本において、私が存在するのは、私にとって意味がある諸事物や言うなれば諸存在が存する程度に応じてでしかないという理由から、これら事物、これら存在が神にとって意味があるのは、私がそれら事物、それら存在 — と神との間に入り込む程度に応じてでしかない、と信じることが出来るであろうか? それは単なる自己中心主義(égotisme)に拠るものだろう。私が神へと真に高まるのは、私が、無限にある他の諸存在が神にとっても意味あるものであることを、思惟し、私の全力を挙げてそのことを欲する瞬間からのみであろう。 世界の内なる何かが神にとって「彼」でしかないということがあり得るかどうか、という問題をあらためて取り上げる必要があるだろう。この問題に断言的に答えることは、世界の内に絶対に愛され得ない、あるいは救われ得ないような何かが存する、と認めることに帰着する。だが、「そういうもの」が実在するとしたら、それはどんな型の実在性であろうか? 経験的なものか? 先ずすべきことは、神にとって経験的なものが存し得るかどうかを自問することだろう。これが主要問題である。 一九一九・十二・十八。— (225頁)フランソワ・ド・キュレルの『野生の娘』のなかに、つぎのようにある:《ほら、あなたは、まるで神の実存を承認しているかのように、語っておられる。—— 私は、諸々の仮説の中の最も尊敬すべき仮説について、恭しく語っているのです。》そして、もっと少し先では:《神と、魂の不死とは、人間精神の最も荘厳な諸概念と並ぶ、周知の諸仮説でしかない》。私の全仕事は、このような考え方にこそ、抗して向けられているのである。神とは、絶対に仮説としては考えられ得ないものなのである。仮説、それは実際、そこでは理性あるいは別の理性にとって、観察は不可能であるような場合に、それで諸事物が起こる或る様式を表象する仕方のことである。これは形態表示の一様式である。だが、これは存在には関わることが出来ない。神を愛すること、神に祈ること… これらのことすべては、もしほんとうに神が仮定のように扱われ得るならば、ある意味を呈示するだろうか? 仮定の本質的意味は、これらの行為が現実の客体に関わることを認めるところにある、と人は言うのだろうか? だが、私は答えるだろう、この語自体が曖昧なのだ、と:「現実の」という語は、ここでは、僅かしか真実のものを意味しないので、実施される全検証は、神的なものそのものの除去にさえ達するだろう。 一九二〇・一・二八。— 今朝、はっきりと分かった — 多分部分的にはリチャードソンの影響の許で — 次の連関が:間違いなく、これら〔二つ〕の事実の間には繋がりが存する。一つの事実は、身体は単純に魂の道具のようには取り扱われ得ない、ということであり — もう一つの事実は、形而上学的客体(お望みならヌーメノン)は私と交信状態にあるものとしては見做され得ない、ということである。感覚はメッセージ〈伝言〉ではなく、身体は機械ではない。このことが何処に通じるのか、私には未だ分からないが、これは間違いなくとても重要なことである。いずれにせよここには、ワードおよびリチャードソンの理論を論駁する何かがある。この理論によれば、客体は、他の主観に現れる主観でしかないであろう。このことは、事実、客体は諸主観の間に措定されるものであることを、承認することだろう。人は私に言うだろう、この類の情報伝達〈コミュニケーション〉というものがある、すなわち、言葉、身振り、等が、と。だが、すべてが考えさせるのは、諸主観にとってコミュニヨン〈魂的交信〉というものがあり得るのであって、これはコミュニケーションではない、ということである。感覚とは、この次元のものではないのか? 人は一般に承認している、感覚はひとつの情報伝達である、なぜなら感覚は何か或るものの伝達を含意しているから、と。しかし感覚は、ひとつのメッセージの受容に比較できるだろうか? (どうにでもとれる表現群は、ここでは追い出されるべきだろう。というのも、感覚が存する場合しか、メッセージの受容は存しないのだから)。私が香りを感じる時、それは私がキャッチするメッセージだろうか? 感じることは、〔暗号を〕解読することだろうか? 実際、どのような条件で私は或るものをメッセージのように扱うことが出来るのだろうか?(つづく)
古川正樹 訳(p.208)第四幕第一幕および第ニ幕と同じ舞台装置。四か月後。第一場フィリップ、アンリ、クリスティアーヌアンリ それで息子さんのことを、マックスはどうするつもりなのですか?クリスティアーヌ 彼はあの子をエコール・デ・ロッシュに入学させるつもりです。アンリ 皆は知っているのですか、ドニーズが…クリスティアーヌ いいえ、彼らはお互いにかなりうまく調整し合っていました… 血栓について話していたのです。皆は、彼女の血液循環がいつも良くなかったことが思い出されるべきだという考えでした。アンリ それで、ベルトランは、それについてはどういう考えでしたか?クリスティアーヌ 知るのは難しいですね。彼は奥さんとエジプトに出発しましたわ。(p.209)アンリ マックスについては、私はおおよその見当はつきます…クリスティアーヌ 彼は、身体の調子は良いほうですから。フィリップ 私を見ながらそれをおっしゃいましたね。クリスティアーヌ まさか、ねえあなた、誓って申しますわ。フィリップ 私は《壮健な》ほうではないと?クリスティアーヌ 壮健というには至っていませんが、壮健におなりになるかも知れませんわ… いずれにせよ、お気になさらないで。ほとんどチャンスが無いのですから。フィリップ 何のチャンスですか?クリスティアーヌ ひとりの女性があなたのせいで睡眠剤のヴェロナールをお腹いっぱい飲むことになるチャンスですわ。フィリップ それは愉快なことですね!クリスティアーヌ 私はお世辞のつもりなのですが。(p.210)フィリップ そこまでは思いません…アンリ あの哀れなドニーズ… 私は肱掛椅子のなかで逆上している彼女を思い返します。ほら、びっくりパーティーの夜… そう、私が去る四月のあの夜を思い出す度に、いつもあのさまを… けっきょく、誰がこの不幸な女性を憐れむのでしょうか?… 彼女が自殺したのは、そうすれば人が憐れむと思ったからでしょうか? それとも憐れまないと確信していたからでしょうか?クリスティアーヌ おそらく、その二つの理由が同時に働いているでしょうね。アンリ それはただの論理です。(クリスティアーヌに身振りがある)この話はもっと酷いものですよ。クリスティアーヌ 彼女は六週間の間、私にぞっとする思いをさせました。その思いは殆ど消えかけようとしていたのですが。あまりこだわらないようにしていただけると助かります。あの思いがまた強く思い出されるかも知れませんから。アンリ あなたのヨコハマ宛の手紙は私に届いていません。この今、私はあの思いを感じています… 哀れなドニーズ!クリスティアーヌ 苦しまれているようには見えませんが… 本当のところ… お見事ですわ。(p.211)アンリ でも、その後は?… もし「その後」があるなら。フィリップ あなたは何を探そうというおつもりなのやら。いやはや!クリスティアーヌ (アンリに)そうね、私、時々自分に言ったものよ、殺人は一般に、殺人を犯した者の心の底に、強迫観念を残すのだから… やはり、これは殺人よ。自殺者なら、多分、自分も幽霊のままだわ…フィリップ ふーん!クリスティアーヌ ねえあなた、これはあなたのための着想ではないのよ。(アンリに身震い)こんな着想があなたの心をかすめることさえ無いほうが、私にはずっと好ましいわ。フィリップ ご安心ください。クリスティアーヌ 私が驚くのは、アンリさん、あなたが… これは柔らかに言うのですが、想像力の無い人間だということです。フィリップ あなたが話しておられるのは、私のことですか? それで、私のシナリオは…(p.212)クリスティアーヌ そうよ。私たちが創作しているシナリオをあなたは書いているのです。私たちはシナリオを生きているのです。アンリ 私こそ、これはちょっと奇妙だと思い始めているのですよ。クリスティアーヌ 出る幕ではないわ。どうぞ。フィリップ そのすべてをもっても、あなたは、明晩どこで私たちが再会するのかは、私におっしゃってはいませんね。クリスティアーヌ あ! それはそうですね… 宜しいこと、私は七時半頃、マリ=ルイーズ家に居ます。アンリ マリ=ルイーズ?クリスティアーヌ フィリップさんのいとこさん、チャーミングな。アンリ (フィリップに)そのひとについて全然話してくれませんでしたね。フィリップ 彼女のことは殆ど知らないのですよ。実際、クリスティアーヌのほうが… あ、これは馬鹿話になります。(p.213)アンリ 美人ですか? あなたのいとこさんは。フィリップ (クリスティアーヌに)彼女は美人ですか?クリスティアーヌ いいえ。アンリ 頭はおよろしいのですか?クリスティアーヌ あぁ、そうですねぇ、全然。フィリップ 素のままで彼女は魅力的です。クリスティアーヌ それで私たちは彼女をものすごく好きなのです。聞いて、フィリップさん、彼女の処にいる私を見掛けたら、最高に純朴な雰囲気なことでしょう。フィリップ 申し分ないですね。クリスティアーヌ あなたのおっしゃるのは、その通りなの?フィリップ たぶん、あなたにもまして。クリスティアーヌ 嘗て、もし私が遅れていなかったら、私はあなたを待っていたことでしょう。(p.214)フィリップ しかし私はあなたに説明しました…クリスティアーヌ それはあなたをじらすためよ。ではまたね。(フィリップは発つ決心がつかない感じである)あなたは服の試着に遅れますよ。フィリップ もしあなたが、試着は私にとってうんざりだと、知っていらしたら。クリスティアーヌ とんでもない、あなたは見とれるほどになりますわ。フィリップ その上、あなたは私をからかっていらっしゃるに違いないときては。クリスティアーヌ 私、けっしてからかってなどいませんよ。フィリップ そのこともばつが悪いですね。クリスティアーヌ さあ、さあ。フィリップ 私は多分、日没頃、クラン夫人のお宅であなたと再びお会いすることになるでしょう。クリスティアーヌ あなた、ローランが私と一緒に行くことをご存じ?(p.215)アンリ あなたの御主人が訪問なさるのですか?クリスティアーヌ 主人の課長の奥様ですから。フィリップ それでは、明日に。クリスティアーヌ ええ、七時半に、マリ=ルイーズの処で。(フィリップ、出てゆく)第二場アンリ、クリスティアーヌ(沈黙)クリスティアーヌ さあ、もう少しよく話してください。アンリ 私はもうこの話は十一回したと、あなたに申すしかありません。この話は私の記憶をすっかり食い尽くしました。私はこの話をそらで言えますが、見たことをすべて忘れてしまっています。クリスティアーヌ それは嘆かわしいことですわ。アンリ 質問をしてください、宜しければ。(p.216)クリスティアーヌ インドは?…アンリ 偉大です、インドは。ですがもっと具体的におっしゃってください。クリスティアーヌ ヴァーラーナシー〈ベナレス〉のことにしましょう。アンリ とてつもない印象です。クリスティアーヌ タージマハルは?アンリ まったく期待はずれでした。クリスティアーヌ セイロン島は?アンリ 旅行に呼び物がありました。クリスティアーヌ 興味を引きますね。アンリ 情熱をかき立てられます。お続けください。(沈黙)相変わらず解らないのですが、なぜ彼女は自殺したのでしょう… 彼女はあなたと仲直りしていたのでしょう?クリスティアーヌ ええ、私たちがスイスから戻った後に。(p.217)
天使の行為はこの世のその他大勢への復讐であるなぜなら、程度の低い人間はそれだけで魂を棄損する悪魔と同じであることを、ぼくは言ったから、天使が何をするかはおおよそ見当がつく。天使が悪魔に武器を行使することは、真剣に真面目にとられねばならない。程度の低いその他大勢にも。なぜなら、そうしなければ、優れた魂をどう護るというのか。よき魂を護るための王と貴族の国は、あってよいものだろう。これに天使と神が味方する。 天使が味方する民主体制など、聞いたこともない。
この一言で、ぼくには用は足りる。これを記しておこうと思ったのみ。経験の結実として。ぼくはようこそ、真理の偽装をかわして生きのびてきた。ふつうは、おかしいと思いながらもこの偽装領域から抜け出られないものだ。ぼくはほんとうに、多くの真理偽装者をかわしてきた。いまやかれらは反面教師としてその意味を定着させた。ふつうはここまで来れない。
こころで弾けば、聴覚も補われている、というより、回復していることを経験した。何の不足も感じないのだから。
人気記事ランクイン記事一覧 ガブリエル・マルセル 形而上学日記 第二部 翻訳5 705位 ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」4 705位 この世の不思議 705位 『壊れた世界』(ガブリエル・マルセル 戯曲作品)第四幕 705位 物語や芸術への参与は既に超越行為である 705位 *愛の信仰 日毎の観想 705位 ”思うことは観ずること、創造すること” 705位 高田博厚とぼくの人生 705位 メーヌ・ド・ビランにおける哲学と宗教(1) 705位 ”電子欄を始めて一年経ち、あらためて言っておきたいこと[749]〔加筆〕” 705位十九日 程度の低い人間は悪魔と同じ 772位 ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」4 772位 自己中心 772位 解けない二律背反 772位二十日 解けない二律背反 768位 程度の低い人間は悪魔と同じ 768位
程度の低い人間は、ただ低いに留まらない。低いことによって低い人間 感情に負け、他の魂を棄損する永遠の罪を犯す。つまりわれわれはこれ以外に悪魔を捜す必要は無い。程度の低い人間は結果的に、現実的に、悪魔と同じなのである。これがぼくの判断だ。昔からの判断であり、いま、いっそう明晰判明となった。この判断によってぼくは対処するだろう。
日課が無ければもっと自分に集中したものが書けるだろうと思いつつ、日課はこの世に生きる義務だと感じている。このままでいいのか、とどちらにも言える。
人間はどんな良心的な者も自己中心的で、良い人間をみかけると じぶんの陣営に引き込もうとする。どうしてひとりで寛いでいないのか。自己中心とは孤独なことではなく、善悪に関わりなく相手に引力を掛けることである。角度を変えて言うと、どんな高いセンスもビジネスに結びつけることができる。 これからの脅威(?)はこれだ。
この世は不思議なものだなあ、ぼくの苦しみなど過敏で問題にならないと周囲から公言されていたのに、むしろぼくの実感こそが基準(スタンダード)になってきている。かつての公言派こそ反基準になってきている。ほんとうに不思議なことだ。神さまはぼくと一緒にじっと堪えてぼくの味方だった。こういうのが世間(社会)規模で起こる。まるで世界が魔術にかけられているようだ。