【つづき】

 

 自由は対象ではないけれども、存在の自己現前なのであり、この存在にとってのみ超越者は存在し、この存在が自分自身にとって再び超越者の暗号であるという、二重の可能性においてあるのである。すなわち:

 

 自由は自らを独自自立性として開明した。この独自自立性は自分自身を創造したのではない。この自由は、意志の諸々の二律背反によって、残り無く生成することが出来たのであり、(191頁)また、超越者にたいして最も甚だしく他の仕方で在ることによって、自らを拒絶されているように感じることが出来たのである。この拒絶性はただ恩寵に差し向けられているのみなのである。あるいはまた、自由は自らの確信によって超越者へ関係づけられて、自分自身の根拠に信頼することが出来たのである。

 私は、自分の現存在のつまらなさを傍観しながら、私が拒絶されているという意識をもって生きることがある。私の自己嫌悪は、人間一般がそうであるところのものに関する知として了解されるのである。すなわち、あらゆる動機づけは両義的なものへと引き渡されているのだと了解される。善なるものも悪になる。というのも、私はその善なるものを善なるものとして知覚し、そして私の功績を誇りに思うようになるからである。善なる意志の一義性が欠けているか、あるいは、私は善なるものを知っているけれどもその善を為さないということが起こるか、のどちらかなのである。私が為すものは何であれ、私にとって逆転してしまう。私に絶えず繰り返し戻ってくる、私の負債を、私は認知し、私に神の恩寵が啓示による保証を通して出口を示さない限り、絶望しているのである。この恩寵は、私に功績が無くとも、私がけっして達することの出来なかったものを私に贈ることによって、この出口を示すものなのである。傲慢が、自分は自由であると見做すことであるように見える一方で、すべては反対に神性のためにあるのである。

 あるいは、私は、生まれつきの高貴さの意識をもって生きることがある。この高貴さは私に諸々の要請を立て、私がこの高貴さに従うよう勇気づける。なぜなら私はこの高貴さを信頼しているからである(略)。私は自分を尊敬する。善なるものは私にとって私の存在のなかに存し、この存在に行為は従い仕えるのである。私は、私がそこでは真であるところの自分へと帰還する。私が堕落する処では私は自分を見捨てたのである。私を支配しているのは与えられている存在への誇りではなく、たとえ危険であっても自らを実現することを欲する存在への信頼である。私は不忠実性に我慢しないのであり、私自身にたいして不忠実であれば私は咎あるものとなるのである。不忠実性の現実は私の自己意識を齧り取り、私に安らぎを許さない。私は自分の為したことを引き受け、私が破壊したことの埋め合わせをしようと努める。私は自分に満足するようにはなり得ない。しかし、自己嫌悪は人間に相応しくない自己矮小化として現象し、この自己嫌悪は恩寵のなかに救いを探す。これは何の代わりにかというと、神性は自らの意志を隠れたものとして告知するように見える如く、私を私自身の自由から助ける代わりになのである。私はこの自分の自由の本来的な存在においては、自分を愛することが許されるのである。

 なるほど、恩寵意識自由意識との対立は、見捨てられていることと高貴さとの対立と一致はしない。それでも、恩寵意識と自由意識の対立は、この両方の意識の間に関係があるということなのである。見捨てられていることにおいて私は恩寵を求め、高貴さの意識において私は私の自由を確信している。しかし、私が希望を無くして、そのために(192頁)何も為し得ないところのものへの無関心のなかで沈み込むべきではないならば、見捨てられているという意識においてもまだ何らかの自由が在らねばならない。そのように、高貴さの意識においては、高ぶった勇気が人間を欺いて神になることを許すべきではないならば、自己が贈与されることが在らねばならないのである。

 とはいえ、私が私に贈与されるのは、啓示を通してでもなければ、客観的保証を通してでもなく、諸々の瞬間においてなのである。これらの瞬間において私の意欲の決断が到来するのであるが、この決断は、歴史的伝承の我有化を通して、模範と導きを通して、準備されていたものであり、交わりにおいて明瞭となってきていたものなのである。超越者が人間に到来するのは、人間が自分を超越者へと用意するに応じてなのであり、そして、用意していることが出来るあり方と一緒のこの到来自体が、超越者の暗号なのである。

 

 

暗号文の解読に基づく言葉としての芸術

 

 自然、歴史における、そして人間における暗号の解読を伝達することは、伝達が直観的なものそれ自体において起こり、思弁的思想において起こるのではない場合、芸術である。芸術は諸々の暗号を語らせるが、芸術が芸術として語るものは、いかなる他の仕方でも語られ得ず、そのように語られるものは、それでも、本来的存在に触れて、あらゆる哲学する運動が生じるのであるから、ここでは芸術は哲学の器官(シェリング)となるのである。芸術哲学としての形而上学は、芸術において思惟することであり、芸術に関して思惟することではない。思弁的思惟にとって芸術は、芸術学におけるような対象とはならないのであり、むしろ思惟にとって芸術の直観が眼となるのである。この眼をもって思惟は超越者を見遣ることになる。芸術直観における哲学的思惟は、哲学としては自らを、様々な一般化へと逸脱することによってのみ伝達し得るのである。ここでは哲学は「第二の手」から生きる。〔つまり〕哲学は、内実に関しては哲学に属するもの、しかしそれでも哲学自体が創造するのではないものを、招来するのではなくて、摑み取ることを教えるのである。哲学することは、本来的に問題であるものに達すると思う処では、完全に役に立たない論説で満足しなければならない。シェークスピアが、解釈されずに、そして解釈不可能なまま、彼の根源的な劇中人物たちのものである挫折的な自己存在において語るものを、私がより良く聴取することが出来るのは、私が哲学しつつも、哲学へと翻訳しない場合なのである。

 1.中間領域としての芸術。— 暗号が単に、暗号を間もなく無きものとし、暗号がそこから離れていたところの超越者と一つとなるための、始まりである場合、それは神秘主義である。隠れた神性が自己存在の事実的行為からして聴取される場合、実存の決断的な時間現存在が存在するのである。とはいうものの、暗号において存在の永遠性が解読され、純粋な観想が(193頁)完成されたものの前で立ち止まり、それゆえ、私と対象との分離の緊張が続くが、時間現存在が見捨てられている、そういった場合には、芸術の領域は、無時間的に沈み込んだ神秘主義と無時間的な実存の事実的現在との間のひとつの世界として存在するのである。自我が自らを神秘的に、無差別な一なるものの中に解消する場合、また、時間現存在の内で自己存在が、隠された神性の前へ自らを献身する場合、自己存在は芸術を直観することで存在の暗号を解読するが、そこにおいてはただ可能性のみが存続しているのである。神秘主義は対象を欠いた全神性へと陥る。〔一方、〕芸術はその諸暗号において、神的なものの多様を実現するが、その諸形態は測り難く豊富であり、それら形態のいかなるものもそれだけで全的にその神的なものなのではない。実存の一なる神において芸術は打ち砕かれ、芸術の諸暗号の生は可能的なものの遊戯となるのである。

 芸術を観想する夢想による満足は、私を、単なる現存在からと同様、実存の現実からも、解放する。この満足は、絶対的意識の飛翔のひとつであり、現存在の悲惨から自由にする。〔古代ギリシャの詩人〕ヘシオドスは、ミューズの女神たちが証言されるようにしている:「彼女たちは苦からの救済と悲惨の軽減とをもたらすであろうに」、と。しかし夢想は無拘束でもある。というのも夢想は未だ私の自己存在の現実を作り出すものなのではなく、「在り得る」という空間を作り出すものであるのだから——あるいはひとつの現前を。この現前の存在は私の内的態度を変革するものなのであるが、そこにおいて私はもう実存として現実的な一歩を踏み出すというのではないのである。芸術を享受する者、「素早く彼は苦を忘れ、悩みをもはや思わない。そうして彼を即座に女神たちの贈り物は変えてしまうのだ」。しかし実存は忘れず、他なるものの充実で気が逸れることによって変化することはない。現実的なものを引き受け我有化することで変化するのである。

 しかし、実存が自分自身の空間を獲得しない場合には、実存は、この新正な変化に成功することはない。実存はこの空間を、存在を観想することにおけるあの自己忘却が、間に入ることによって、獲得するのである。この自己忘却は、芸術が叶えるものなのである。芸術の無拘束性においては、拘束性が可能性として存在する。人が審美的となり、その結果すべての真剣さが不可能となり、恣意的な疎遠なものを享受し、この疎遠なものが決して人自身の可能性の空間の中に入って来ず、ただ好奇心による取り換えと産出に役立つのみで、私自身にとっては決して自分の内心の運動として貢献するはずもないものである場合、そういった場合に初めて、いかなる真理ももはや存在しないのである。というのも、現存在と実存との現実の前で、芸術の言葉が実存的に空虚となった諸像が生じるからであり、そうなると、いかなる本来的なものももはや観ぜられないからなのである。このあり得る退化は、芸術観想での浄福への根源的権利にたいして、いかなる異議をも意味するものではない。芸術観想の無拘束性が初めて私を、(194頁)実存することの可能性へと解放するのである。現存在現実のなかに全く沈み込み、ただ、私の実存の現実のみに配慮しているならば、私は拘禁されているようなものであろう。私は、いかなる運動も能わずに、〔何も〕出来ないまま憔悴し、諸々の盲目的暴力性のなかに散逸してしまうであろう。もし、私が実存として、根源的な暗号の前に立つことがあるなら、特定の諸暗号が言葉にならないとすると、私は自由へと解放されないままであることになろう。芸術のこのような言葉において現実が瞬間的に止揚されることは、〔私が〕実存として現実を自由に摑み取る可能性のための条件なのである。

 現実は、たしかに、芸術より以上である。なぜなら、現実は、実存の決断の真摯さにおいて、実存の有体的な自己現前だからである。しかし現実は芸術より以下でもある。なぜなら、現実は、芸術を通して獲得された諸暗号の言葉が反響することによって初めて、現実の鈍さから出て言葉となるからである。

 2.形而上学と芸術。— 人間は、形而上学的思惟において芸術へと押し迫る。人間は自らの感覚を根源にたいして開くのであり、この根源において初めて芸術は思念されたのである。その場合、芸術は単に装飾や戯れ事、感覚の喜びではなかった。諸々の暗号を残したのである。諸作品のあらゆる形式分析を通して、諸作品のあらゆる精神史的な叙述を通じて、諸作品の創作者たちの伝記を通して、人間は次のものとの接触を求めているのである、すなわち、人間が多分自分でそれであるのではないもの、しかし実存として存在の根拠において問い、観じて、形成したもの、そういうものとの接触を求めているのである。そしてこの〔根拠としての〕存在をも人間は探求しているのである。人間が作ったものの外的指標に従って芸術作品と呼ばれるあらゆる事物を通して、ひとつの区切りがなされる。ある芸術作品は、超越者の暗号の言葉であり、他の芸術作品は、根拠も深みも無いものなのである。形而上学的思惟において初めて、人間はこの区切りを、反省された意識性をもって感知するのであり、自分が真摯に芸術へと接近していることを信じるのである。

 3.模倣、着想、天賦の才。— 暗号として解読されたものを現表し得るためには、芸術家は諸々の現実を模倣しなければならない。模倣することは、しかしながら、まだ芸術ではない。模倣は、世界定位としての認識において、ひとつの役割を演じる。例えば、解剖学上の描写として、機械の模写として、模型や略図の構想としての役割である。ここでは思考のみが、経験的な実在や、意味の一貫した構想、といった基準に従って、言葉を導くのである。このような模倣は、或る合理的なものを、直観においては意味深長で透いて見えるように、ただ言表するだけなのである。

 芸術家は、経験的実在性や思考的構成よりも以上のものを知覚する。諸々の事物において、全体性と形式性とは、無限の諸理念として存するのであり、この諸理念は一般的であるにしてもやはり適切に模写され得るようなものではないのである。諸々の類型や様式形式としての諸図式は、抽象的で(195頁)不適合にではあるが、合理的な世界定位には適った仕方で、諸理念の実体として世界の内で継続して翻訳されるものを表現する。芸術は諸々の力を現前させるのであり、これらの力は諸々の理念のなかで自分を表現しているものなのである。

 これらの力は、芸術家によっても一般的なものとして、一般的に表現されるものではない。これらの力は天才の作品において、絶対的に歴史的な、代替され得ない一回性へと、自らを具体化するのである。にも拘らずこの一回性は、反復され得ない一般的なものとして了解されるのである。そこにおいて初めて、超越者が語り掛けるのであり、〔このとき〕超越者は暗号となったのである、なぜなら実存は自らの歴史性において超越者を摑み取っているからである。

 弟子的身分の人間による反復は、根源的真理の魔力を失ってしまう。このような根源的真理として天才は言わば超越者それ自体を天国から持って来ていたのであるが。結局、諸々の現実の模倣、あるいは先人たちの諸作品の模倣、あるいは考案された悟性的諸事物の模倣は、存続しつづけるのである。

 芸術の模倣理論は、ただ、芸術の言葉の素材に触れるだけであり、美学的観念論は一般的な諸力に、天才論は根源に触れるだけである。とはいうものの、天才概念には両義性があり、一つには、天才概念に創造的な天賦の才を思念することであり、この天賦の才は、客観的な業績評価の根底に存するものとされている。二つには、歴史的実存であり、この実存の根源から超越者の啓示が生じていたのである。実存は、作品を貫いて語り掛ける本質であり、この本質から私は、ひとつの交わりにおけるように、この本質の言葉において触発されるのであるが、天賦の才のほうは、私には遠い客観的な意義を有する〔だけな〕のである。だが、存在の諸々の根拠に手を触れる人間が諸暗号において、何が存在するのかを言うことが出来る処では、実存と天賦の才とは天才として一つとなるのである。

 4.超越的幻視と内在的超越者。— 暗号は、芸術においては、超越的幻視として直観に至るか、あるいは、内在的超越者として現実性そのものにおいて可視的となるかである。

 自然世界の外の、あるいは世界内の特殊な諸存在者としての、神話的な諸人格は、芸術家を通して形態を獲得する。ホメロスとヘシオドスは、ヘロドトスによれば、ギリシア人たちに彼らの神々を創造した。これらの歴史的存在者は、考案されるものでも、発明されるものでもなく、ひとつの言葉の根源的な創造なのである。この言葉は「語-言葉」(Wort-sprache)に似たものであり、この言葉において超越者が理解されるのである。これらの歴史的存在者は、諸々の力において、いまだ暗い諸象徴に留まっている。この諸力は、ただ、呪物や人間の顔をした偶像としてのみ、形態を有するのである。この諸力は人間の諸形態となり、人間の現存在の高まりのようであることを要求する。だが、(196頁)神的なものを、人間を超えゆく途上において構想することは、人間が神々の常に不充分な似姿となることである。この神々は、超越者が特定の映像に啓示されたものだったのである。神話的な諸映像において観られるのは、ユングフラウ〈聖女〉—母— 女王、受難のキリスト、聖人たち、殉教者たち、そして、キリスト教的な諸々の形姿、情景、出来事である。現存在の可能的完成ではなく、経験的現存在の裂散性(Zerrissenheit)が、ここでは超越者の形態となる。しかし常に神話においては、あらゆる単に人間的なものを己れから分離する神性が、人間の形態において、単に現実的な世界と並んだひとつの特殊な世界として、〔つまり〕自然的なものと並ぶ奇蹟として、直観的な対象となるのである。

 ただ経験的現実そのもののみを描くように見える類の芸術にとっては、内在的超越者が上述とは違った仕方で在るのである。たしかに、あらゆる芸術は、ただ諸々の直観性においてのみ語り掛け得るのであり、これらの直観性は自らの根源においては経験的なものである。しかし、神話の芸術は、現実性の諸要素からして異なった世界を形成する。すなわち、この芸術が真正である処で可視的となるのは、諸要素そのものによっては構築され得ないであろうものであり、この諸要素によっては構成不可能なものなのである。このものはほんとうに別の世界であり、この世界をその経験的諸要素へ分解することによっては破壊されてしまうものなのである。だが、内在的超越者の芸術は、経験的世界自体が暗号になるようにする。この芸術は、世界の内に現われるものを模倣するように見えるが、このものを透明にするのである。

 超越的諸映像の芸術は祈祷の世界を前提する。この祈祷を信仰によって行じることによって人間たちは一つになっているのであり、それと同時に、〔各人〕自身の映像は依存し合っているのである。そしてこの映像の深みが達せられるのはまさに、個的人間が自分にのみ拠って立つことによってではなく、彼がすべての者たちと共に知ったことを言うことによってなのである。一方、内在的超越者の世界は、個々の芸術家たちの独立性に結びついているのである。この個々の芸術家は現存在を根源的に観るのであるが、単なる模倣や認識的分析へと逸脱したり、自分自身の自由に拠って、いかなる儀式や共同体も彼に教えないものも可視的となる状態へと飛翔したりするのである。純粋な超越者に関わる芸術家は、伝承される諸表象を形成し、内在的超越者に関わる芸術家は、現存在を新たに暗号として読む〈解読する〉ことを教えるのである。

 これまでで最も偉大な芸術家たちは、二つの可能性の間に立っていた。彼らは神話的諸内容を見捨てることなく、現実のなかに掬い上げ、この現実をそれ自体として、彼ら自身の自由から、超越者において新たに発見したのである。アイスキュロス、ミケランジェロ、シェイクスピア、レンブラントは、そのような芸術家たちであった。(197頁)神話的なものと現実との根源的な相互従属性は、彼らにとって、高められた現実となるのであるが、この高い現実は、その都度一回限りそのように観ぜられ、形成され得たものだったのである。静かになった伝承から取り出されて、諸神話は彼らを通してもう一度、大きい声で別の言葉を語るのである。現実的なものは、もはや現実性の言葉においてのみ捉えられるのではないところの諸力に参与しているのである。しかし、あらゆる神話が脱落するなかで、現実的なものに甚だしく制限されている状態において、ファン・ゴッホは超越者を — 必然的に無限に〔それ以前の時代よりも〕より貧しくではあるが、我々の時代にとっては真なる仕方で — 語らせたのである。

 5.諸芸術の多種多様性。— 音楽、建築、彫刻は、これらによって現実とさせられた時間性、空間性、物体性において、暗号を読ませる。絵画と文学は、非現実の諸表象の世界において表現をする。これらの表象の一方のもの〔絵画〕は、可視性の全領域であるものとして限定されているが、この可視性とは、線と色彩によって平面上で幻想的な現前へともたらされ得るもののことなである。他方の表象〔文学〕は、あらゆる直観的なものと思惟可能なもの一般の表象におけるものであって、この直観的で思惟可能なものが言葉で表現されるのである。 

 音楽においては、自己存在の形が時間現存在として暗号となる。時間的には消滅することで自らに形態を与える存在の内面性において、音楽は超越者をして語らせるのである。音楽の素材が可視性も空間性も無く、表象性も無くて、その限りにおいて最も具体性を欠いた素材である限り、音楽は最も抽象的な芸術である。だが、音楽のこの素材が、まさに、世界の内では我々にとって本来的な存在であるところの自己存在の、常に自らを駆り立て消尽する時間性という形式である限り、音楽は最も具体的な芸術なのである。音楽が自らの普遍的な現存在形式を自らの現実にする時、音楽は言わば実存の核に触れる。何ものも、音楽と自己存在との間に対象として押し入ることはない。音楽の現実性は、その都度、音楽を奏でるか傾聴して共に遂行する人間の現在的現実性となり得るのであり、人間は自らの時間的現存在形式を、分節化してただ音のみで満たすことにより、透明ならしめるのである。したがって音楽は、人間が音楽する場合にのみ存在する、唯一の芸術なのである。(舞踏ダンス〉は、踊られることによってのみ存在すること極まりないので、舞踏が翻訳されるべき楽譜さえ不可能である。舞踏は人間から人間へと教えられ得るのみである。舞踏に暗号が存在する限り、それは音楽的なものが舞踏に存在しているからである。それは、あらゆる音楽が、身体運動を伴い得る何かを持っているのと同様である。演劇はどうしても上演を必要とするわけではない。最も意味深い演劇は上演にほとんど耐えない。リア王、ハムレット。)

(198頁)

 建築空間を分節化し、空間性を存在の暗号として創出する。建築が、建築のなかでの私の運動の諸様態へと導くものであり、そうして一連の私の時間的行為によって初めて、完全に現前化しても、建築はやはりここではまさに存立するものであり、音楽のように消え去るものではないのである。限定、分節化、諸々の均衡としての、私の世界の空間的形態は、完結して留まる存立を暗号にするのである。

 彫刻物体性そのものをして語らせる。呪物やオベリスク〈方尖塔〉から人間形態の大理石彫像に至るまで、暗号としての彫刻においては、他者の肖像ではなく、三次元的量の濃密さにおいて存在の現存在が摑み取られているのである。この、存在の現存在は、人間の形態において、最も具体的な現象を物体性としては持つので、この人間形態が、彫刻の支配的対象となったのである。しかし、このような彫刻の暗号においては、〔この人間形態は〕人間ではなく、超人間的な形態における神であって、この神が物体的に現前するのである。

 音楽は、時間の充実のために、音を音楽の素材として必要とする。建築は、空間の充実のために、限定する物質を必要とする。この物質は、現実的人間現存在にその世界として役立つ特定の空間性の目的と意味とに関連しているものである。彫刻は、その物体性の経験のために、諸々の内容をもつ素材を必要とするが、これらの内容は特定の形姿として形態となっているものなのである。どの場合でも、特定の充実させるものが自立してしまうと、芸術は本質を欠いたものとなる。なぜなら暗号が薄れてしまうからである。すなわち、音楽は自然界の物音の模倣となり、彫刻は任意な事物の形態化、一般に肖像制作における対象化となり、建築は目的のために造られた有形物の孤立化となる。この有形物は今や機械的で合理的な透明さがあるだけなのである。

 音楽と建築と彫刻が、自らの暗号で語るとき、自らの基本要素である現実的現在に結びついているのにたいし、絵画と詩文は、現在としては現実を欠いているものの諸幻影のなかで運動する。この非現実的なものは可能性として投機されたものであり、無限な諸世界に打ち開かれており、色彩と語言葉を、他のもののために、自立してはいない媒介として利用するのである。

 ゆえに、最初の諸芸術は、自らが現前する感性を通して、私が音楽を聴く場合は、時間性での事実的な自己行動を摑み取り、私が建築物を捉える場合は、空間での事実的な生活と運動との形を摑み取り、私が彫刻作品を理解する場合は、物体性の重厚さと身体性とを摑み取るのである。これらの芸術は、自らへの本来的な接近にとっては壊れやすいものであり、その深みの富は限定されたものである。この深みは執拗に持続する自己訓練にのみ自らを開くのであるから。暗号が自らを啓示すべき場合、 私は私自身としてそこに居合わせなければならない。(199頁)自己活動性は真っ直ぐに、対象として間に挿入される他のもの無しに、この暗号存在へと関係する。したがって、総じてこの接近が成功する場合には、欺瞞もまた比較的容易に防がれるのである。

 これに対して、絵画と詩文は、軽快な遊戯において、あらゆる事物の無限な空間を生成させ、あらゆる存在と非存在とが接近可能であるようにするのである。先ず、自己活動性が表象幻想の獲得へ赴き、そうしてこの表象幻想を通して初めて、暗号へ赴くのである。この表象幻想に感動させられるのは比較的難しい。なぜなら無際限な趣向変えによって絶えず他のものが示されるからである。容易に接近可能であることが、苦労のかからない多種多様性によって欺くのである。

 その代わりに絵画と詩文は、現実の世界の豊かさを開示する。絵画と詩文はただ時間と空間および身体性の諸暗号を読ませるだけでなく、充実した現実の諸暗号を読ませるのである。この現実のなかに絵画と詩文は、表象形態において前の三つの領域を、概して存在し存在し得るすべてのように、一緒に引き入れるのである。絵画と詩文がそれに即して運動するところの対象的なものの間挿入的なものは、絵画と詩文を存在の近さの基本的重量感から遠ざけるが、我々にとって遍く在るところの現存在を間挿入的存在として摑み取るのである。絵画と詩文は暗号としては存在から遠ざけるが、私が現実的に現存在において諸々の暗号に出会う仕方へと、近づけるものなのである。——

 この区分を横切って、音楽と詩文は共にその他の諸芸術に対立させられる。この二つ、音楽と詩文は、直接に最も感動させる芸術である。この二つが欺くのは、急に興奮させられた心の運きによって暗号が失われる場合であり、音楽においては〔単なる〕感性によってこの欺きが起こり、詩文においては緊張させる体験の雑多さによって起こる。音楽と詩文が真実である場合は、この二つが、音と言葉という最も抽象的な素材で、時間的にアクセントづけられた共働を最も決定的に要求するからである。それにより自己存在が現前的に覚醒して、暗号が感得されるようになるのである。空間による諸芸術は、より距離を保ったものであり、より冷ややかであり、その限りで、より高潔なものである。この、空間による諸芸術は、自らの暗号を、より静かにこれらの芸術に歩み寄る凝視にたいして開示するのである。

 

第三部

暗号文の思弁的解読

超越者が存在するということ(神の諸証明)

 

 超越者がそもそも存在するということは、いかなる経験的な確定も、いかなる強制的な推論も、確かなものにすることが出来ないものである。超越者の存在は、超越することにおいて遭遇されるものであり、観察されたり考案されたりするものではない。

(200頁)

 超越者の存在を私が疑うのは、私が純粋な意識一般としてその存在を疑おうと欲し、そして同時に可能的実存からの衝動の許に立つ場合である。可能的実存にとって専ら大事なのはこの懐疑なのである。今や私は確信を得たいのである。私は、超越者が存在するということを私に向かって証明しようと欲する。このような諸証明は、数千年来、範型的な諸形式のなかに流れ入ってきては、挫折している。というのも、超越者は一般的に存在するのではなく、ただ歴史的な暗号において実存にとってのみ存在するからである。

 にもかかわらず、それら証明はただ誤りではないのは、その諸証明において、存在の実存的な確認が自らにはっきりとなる限りにおいてなのである。それらの証明の思惟は、未だ、現存在以外のものではないあらゆる現存在を相対化して実存が飛翔することではないが、この事実的な飛翔を思想的に澄明にするものとなるのである。それらの証明の形式は、なるほど、ひとつの存在から出発して超越者へ至り着くことであるが、それらの証明の意味は、本来的存在意識の浄化なのである。

 諸証明が欺瞞となるのは、知の帰結として、実存的確認と入れ代わる場合である。欺瞞とならない場合でも、諸証明はそれらの合理的客観性において、やはりまだ、存在浄化の究極の希薄化の如きものなのである。これらの証明は、実存的充実の反響において実際に思惟されたものとして、それ自体、斯く思惟する者暗号であり、この暗号において彼の思惟と存在は一つとなるのである。

 私が私の存在を本来的に覚知している場合でも、私が知において有するものから私が摑み取るものは、特定の内容なのである。あたかも、かの覚知状態がもはや現前していない場合でさえ、私がこの内容を尚も有しているかのように。すなわち、この内容は、超越者の存在の無規定な深みなのであり、この深みが諸々の否定的規定Negationen)において言表されるのである。この内容は、絶対的な理想として最も高きものであり、最も偉大に思惟され得るもの、あらゆる意味において最大限のものである。この最大限のものを私は案出したり表象したりすることは出来ないが、私を充実させるあらゆるものが高まりゆく途上で、表象において現前化させ得るのである。この内容は、特別に宗教的な者にとっては、「」であり、この者が祈るときには、この者はこの汝に向き直り、傾聴していると信じている。この者にとってこの汝は、かの深みと高みの主体なのである。

 否定的諸規定においては、あらゆる現存在への不満が表現されるのである。高まりにおいては、現実を通しての充実が、祈りにおいては、超越者が私への関係に歩み寄ることが、表現される。覚知しているということ〈一種の悟りのような気づき〉(Innesein)は、超越することへの絶え間なき衝動である-ここでは超越者は無規定に留まっているが現実的である-(否定的諸規定で表現される)か、あるいは、私がそこでは到る処に真理と美と善意志を見るところの存在の積極的な輝きである(高まりとして表現される)か、あるいはこの覚知は、祈りにおいては、(201頁)実存の根拠と庇護性であり、基準と幇助であるところの存在者(Wesen)の方へと、実存が向かうことである(神性の人格性として表現される)。

 合理的言表としての証明は、今や、つぎのような形をとる: 実存的な覚知状態において存在として現前しているものは、現実的にも存在しているはずである。というのも、そうでなければ、かの覚知すること自体があり得ないであろうから。

 

 

第二部:諸々の暗号の世界(168頁)

 概観(168頁)

1. 諸々の暗号の普汎性 —(168頁) 2.諸暗号の世界の秩序 —(169頁)

 自然(173頁)

1.他者としての、私の世界としての、私自身としての、自然 —(173頁) 2.自然の暗号存在 —(174頁) 3.自然哲学による暗号の解読 —(175頁) 4.自然の諸暗号にとっての一般的諸定式の欺くものと乏しいもの —(178頁) 5.自然の暗号の実存的意義 —(180頁)

 歴史(182頁)

 意識一般(184頁)

 人間(186頁)

1.人間と人間の自然との統一性という暗号 —(187頁) 2.人間とその世界との統一性という暗号 —(189頁) 3.自由という暗号 —(190頁)

 暗号文の解読に基づく言葉としての芸術(192頁)

1.中間領域としての芸術 —(192頁) 2.形而上学と芸術 —(194頁) 3.模倣、着想、天賦の才 —(194頁) 4.超越的幻視と内在的超越者 —(195頁) 5.諸芸術の多種多様性 —(197頁)

 

第三部:暗号文の思弁的解読(199頁)

 超越者が存在するということ(神の諸証明)(199頁)