(211頁)
【つづき】
ここで、少なくとも一つの問いを予見すべきである。すなわち、私は、私が自分の行為によってそこから私を締め出すところの、その生について語っているが、この生は実際に実現されているのか? この生は現実のものなのか? 問題は深い。というのも、もし私が間違っているのでなければ、本当に通用する諸規則の形式的総体が問題なのではありえず、むしろ、この諸規則は私に提供され、示されているのであるから。この諸規則を拒否することで、私は、それらに、規則としての性格を否認しているのである。《それらは他の人々には規則であろうが、私にとってはそうではない》、と。だが、そのことによって我々は、それら規則を、全く偶然的な諸々の生き方に改変してしまうのではないか? もっと正確には、当事者自身にとって、その《諸規則》はそういったもの〔偶然的な生き方〕でしかない、ということを我々は承認することになるのではないか? ところで、この当事者が罪ありと判断されるのは、彼の行為を評価するために、彼自身は採用することをまさしく拒否する基準を人が採用する場合しかあり得ない。すなわち、その諸規則に、普遍的に規範的な価値が帰属させられる場合しかあり得ないのである。別の人には非-順応主義でしかないものを、或る人は有罪だと言うのである。誰がこれらを裁決するのであろうか? そしてここで、先述の論議がその全重量で迫るのである。私は、あの当事者にたいし、正しいのは私であり、彼は実際に有罪者だ、と証明できると期待してはならないのである。しかしそれなら? 我々は、モナド〈単子〉主義と呼び得るものにおいて、純粋な道徳的存在なのである。我々、《有罪者》と私、は、自分の評価方法という各自の囲い城壁の中に閉じ込められているのである。——《有罪者》は原因の認識を否定することを、私が承認する瞬間から、私は私自身に、道徳的真理について語ることを禁じることになるのである。私が知っており、また、彼が知らないような、何かが存するのではないのである。私は、私の状態で、彼よりも多くの諸要素を有しているのではない。また、私は彼よりも良い条件にあるのでもない。私の本性は私を優遇すると言うことは、再び道徳性そのものを否定することに帰着するだろう。しかし、そうなると?
私が或る規範に適合した仕方で行為する場合、私は、自分の行為がひとつの価値を有すると思う。この定式は、未だ我々を積極的な解決へ向かわせるものではない。私が彼の拒否するものを受け入れ、彼が投げ捨てるものに同意する、というのが、我々が現在までで言い得ることのすべてである。そして承認せねばならないことは、これはそれほど教化的ではないということである。私は単に同意するだけでなく、私の同意は正しいと断定する。もし私が(212頁)自分を同意に限定するならば、我々は各々自分の見方、感じ方、あるいは在り方を持っている、と言い得ることになろう。だが、私は、自分は正しい、と言う。これは明晰なことではない。というのも、私は、少なくとも権利上、つぎのことを断定する効力のある動機を有していないからである。すなわち、「《有罪者》は彼自身と矛盾した状態に置かれているかも知れず、自分の前言を取り消すべく定められているかも知れない」、と断定することである。しかし、そうなると? 問題は、彼がそのなかにいる諸条件を変えることではなく、彼の存在そのものを変容させること、彼を回心させることであろう。人は多分反論するだろう、「この、諸条件と存在との区別は、恣意的なものであり、そしてとりわけ、個的存在を熟考することにするなら、人は単なる経験的なものに舞い戻るだろう」、と。私は一つの仕方で〔のみ〕存在することになり、その個的存在は私とは違った仕方で存在することになる。すると、「私は正しい」と言うことは、どのような意味を示すことになるのであろうか? この反論は大事であって、それは、この反論が、この自己表明の仕方〔「私は正しい」〕が示す危険を明らかにするからである。しかしながら、このことは術語の問題でしかない。私は、私が有罪宣告に固執する当事者と比較して或る種の優越性を強く求めることがあるのではないか? —— しかし、この有罪とされる当事者は、私のものである観点に置かれ得るのか? —— 繰り返し言わねばならないことは、私は、実際に彼より上位にあるのではない、ということであり、彼には拒まれているような知を所有しているのではない、ということである。—— それでも問題は、我々の目には実に曖昧なものに留まっている。というのは、もしほんとうに《彼は有罪だ》と言うことが《彼は誤っており、私は正しい》ということを意味するならば、我々はすっかりパリサイ〈偽善・独善〉派だということになり、真の道徳的生から千里も離れており、その上、諸々の矛盾の迷路のなかに居ることになるからである。他方で、それは彼と私との間に存在におけるひとつの差異を措定することになる、と主張することは、じつに曖昧なことである。彼を赦免せずに、「彼は私が参与している生の外部に居る」と宣明することが、私に出来るだろうか?
一九一九・十一・二七。— 私は、私が昨日たいへん苦労して説明を試みたことに立ち戻る。何よりも先ず、よく解っていることは、ここでの私の関心は、もっぱら、道徳的価値それ自体を承認することを言わばひとまとめにして拒否する者の態度である、ということである。もし私の議論が正確であれば、問題の人間に関して彼が有罪であると言うことは、彼がそれでも或る仕方で、私が彼はそこから除外されていると言明するところのその生に、彼は参与していると承認することである。だが、いかにしてそれは可能なのか? それは間違いなくつぎのことを意味するのではない、すなわち、「彼は彼が否定していると思うものを肯定しているのであり、形而上学的には彼はやはり、彼がそこから自分を締め出しているところの社会の一員なのである」、ということを意味するのではない。— 私がとてもよく知っていることだが、人はこのような解釈に賛同するようには殆ど出来てはいないだろう。また、〔それでも〕人はおそらく、人がこのような解釈に賛同するように出来ていることは可能だと信じるだろう。たとえ、意図されたケースは実際には生じないと言いながらであっても、また、そういうケースが生じた場合でも(p.213)病理学的な性格異常をしかそこには見るべきではない、と言いながらであっても、である。私は続いて、この二つの逃げ口上を吟味することにする。
先ず、人は断定できるだろうか? 実際には誰も、我々が共通して道徳性と呼ぶものの外部に断固として自らを措定しはしない、ということを。私は答えるだろう、実際にそれは不正確なことであるが、いずれにせよそれは可能であるとはいえる、と。私はもっと先まで進むだろう:我々各々の内には、少なくとも、あの非道徳性の一耕作地が存すると思わなければならない、と。他方で、人は容易に示すことだろう、ここで健康あるいは規範の観念に口出しさせることは、再び知性主義に陥ることであるか、あるいは、道徳性を単なる重要ならざる存在様態のように扱うことである、と。
ゆえに私は、有罪者を、或る関係の許ではあるひとつの世界に属しているものの、他の関係の許ではその世界から締め出されている、と考えざるをえない。そして、この二元論は形而上学的性格を有する、と言うことは、これら二局面、これら二本性の絶対的な還元不能性を断定することである。プラトン的な仕方で推論によってこの二つを統一することは不可能であり、回心が必要なのである——すなわち、この統一を実現するためには、本来の意味での超自然的な行為が必要なのである。
また、明晰さのためには、「有罪者」という語を使わないようにし、この語を、本来の意味での「責任」が存するケースのために取っておくほうが、多分良いだろう。つまり、既知の公認された或る規則に違反した場合のために取っておくのである。有罪性について語ることを拒否することで、我々が乗り越えたと主張していた次元に我々があらためて身を置いていると言ってはならない。つまり、有罪宣告はここでは生の様態に関わるものであり、当事者自身に関わるものではない。以上である。
さらにこう問われるだろう、どんな権利からか、と。ここには、経験的諸条件における差異は存しない。私はもう一つの条件を、超-経験的な、もしくは形而上学的な秩序において、措定する。人は多分言うだろう:《根底において、あなたが求めているのは、実際には無謀な企てを正当化する方法であって、その企てというのは、あなたに、あなたとは違う領野に居る者をも、あなたの観点から有罪宣告させ得るものなのだ。あなたの観点と当事者の観点とは全く異なることを承認するのをあなたが拒んでいるところから問題は生じている。だが多分そのことによってあなたはあなた自身に、人為的で克服不可能な障碍を創り出しているのだ。私は、あらゆる社会的生の根本的諸条件を受け入れてきたので、この諸条件から自分を解放することを主張する者を裁く権利を要求するのである。》と。これはしかし大いに疑わしいことである。ひとつの存在が実際に何を裁くのだろうか? 審判というものは本質上、裁かれる者によって正当であると承認され得るのでなければならない。ところでそのことが正に、ここで不可能なことなのである。
(214頁)
人は言明するだろうか? ひとりの人間を、彼の不測の反応を気に掛けること無く、審判することは出来るのだ、ひとつの操作を検証するように、と。だが、ひとりの人間を論理的複合体に似せることが出来るのだろうか?…
一九一九・十一・二九。— しかしながら、私の思うに、人は次のような仕方で論議することに固執する:《あなたの語っている問題当事者は、其々の特殊な場合において考えられねばならない理由のために、あなたがあなたに関してはその実在性を肯定するところの秩序を承認する状態にはないのだ。この不能力のなかにひとつの不具、一種の盲目以外のものを見ることを、何ものも、あなたに、資格づけはしない。知性の盲目は存在しないのか? (例えば数学)》と。このように提示された反論は無力なものではない。しかし、私はこの反論を決定的なものだとは思わない。というのも、ひとつの証明を理解することが出来ないということのなかには、何の積極的なものも存しないからである。それ〈証明を理解するしない〉は制限することではない —— そして他方では、人はこう付け加えることができないだろうか? 理解していない者は、少なくとも、彼が理解していないことを知る、と。だがこれでは充分に言ったことにはならない。もし、この差異が根本的に、それを変容することが我々の力の内には無いところの諸条件に関係するものだと判断されるのならば、我々はひとつの選択をするよう導かれる。この選択は自然〈当然〉なものであり、道徳性の概念自体を破壊するものなのである。実を言えば、このことにはまだ異議を唱えることが出来るであろう。美的な享楽もまた、自然的諸条件に依存しているのである。このことは、美学的諸価値が存することを否定する理由となるであろうか? 同様に、類似の意味において道徳的諸価値が存するということがあり得ないであろうか? 道徳的諸価値の経験的承認は或る事実状態の偶発的実現に結びついているにしても。— ただ、この定式は見かけにおいてしか明晰ではない。事実、誰が、その諸価値が《実存する》と断定するのか? その諸価値を承認する者である。彼は、その諸価値を全然認識しない《不具者たち》の断定をアプリオリに無意味と断ずるまでに到るのである。
似たような見解が、無限に劣ったプラトニズムのようなものとしてある。だがそこでは、いかなる討論も、相対する諸派の間で行われ得ない。《丁寧にやらねばならない》、これが、道徳家の断定が帰着する処である(ここで想定されるのは、ある扱いが試みられ得るということである)。操作という観念が、回心あるいは確信という観念に取って代わる傾向がある。操作というものは、どのような諸条件で可能であり、理解可能であるか、今こそ探求されねばならないであろう…
一九一九・一二・一。— 処理、操作、というものが、目的として持つのは、或る装置に、《自由に》、《基準的に》、等々の仕方で、機能することを許すことである。だが、《基準的な》道徳的生が、ある装置の機能に準(なぞら)えられ得るであろうか? ここで更に問題を生じさせるのは、(215頁)美学的領域において起こることの実例である…
Pでの私の覚書を読むことで、私は「汝」という、この重要で難しい概念をもっと正確にすべく、この概念に立ち戻っている。「汝」は、単にそれだけのものとして問われているのではない。この問われているものは、それ自身は問いの対象としては扱われない限りで、問われているのである。私が誰かに、彼に質問をしようという意図をもって近づく場合、私は、彼は私に答えることが出来るだろうか、彼は私に教えるものを持っているだろうか、と自問しながら近づいているのである。この誰かは、私にとって《汝》ではなく、《彼》であり、ひとつの集合である。《汝》は、最も基本的な次元においてすら、信仰との関連でしか、つまり、問いにすることを自発的に拒否することでしか、定義されないというのが、正当な観方である。ただ、経験的に与えられた人物が問題である場合には、対象的に思惟することを、すなわち懐疑することを、自分に禁じることは、私には出来ない。人は私に気づかせようとするだろう、その懐疑は述語に関するものであって、主語の存在自体に関するものではない、と。だが、ここで、述語を唯一重要なものとするヘーゲルの古い議論を再び取り上げなければならない。我々の他者との諸関係の歴史において悲劇的に重要なものは、間違いなく実存的懐疑ではなく、存在に関する懐疑、より正確には、《価値》に関する懐疑なのである。そして人は自問するかもしれない、このことは諸述語と一致することであろうか、と。信じ難いような集中性で我々の諸カテゴリーの不充分さを感得するためには、つぎの簡潔な問い:「彼は私の彼にたいする愛に価するだろうか?」の深い意味を反省することで充分である。実際には問いは何に関するものなのだろうか?
ここで、あらためて自問せねばならないのは、どのような意味において私は述語を有しているのか、ということである。なるほど私は自分を叙述することが出来る — だが、いかにしてこの叙述が形而上学的に可能であるかを理解することは少しも容易ではないだけではなく、私の最も深い現実は、この叙述を無限にはみ出ることを、言う必要があるのではないか? そこに、かくももつれた諸問題が全部集まっているので、いかにしてそれらの問題を解きほぐすのか真には解らない程なのである。一連の諸述語が存在するのであるが、この諸述語を私が私自身に帰属させ得ること、他者がそれらを私に帰属させる如しなのである。つまり私は、その程度に応じて、私にとって他者なのである。私は自分について、誰でもよいような者について語るように語る。だが、私の内なる最も深いものは、このような様態の思惟から逃れる。例えば、自由が理解可能であるのは、私の内に、《彼》の次元を超越する何かが存する程度に応じてでしかない。私は深く感じる — この直観を議論的に詳論するには至らないが、私は自分がこの直観に達するであろうことを確信している — 、意欲するとは、自らを彼として扱うことを止めることである、ということを。この意味において一九一九年三月の私のノートを解釈すること。欲さないとは、《私であるものが与えられているのだから、私は出来ないだろう。(216頁)それは不可能だ》、と言うことである。ここで私は自分を、それについて私が語るところの第三者のように扱っているのである。欲することは、これとは逆に、自分を彼としては抹消することであり、弁証法が廃止するところの豊饒な不可分共有状態と言いうるものを、再び見いだすことである。それゆえ、意志のなかに内的緊張を見ることは、重大な誤りであり、この点で、コルネイユの演劇よりも欺くものは無い。逆であって、欲する〈意志する〉ことは、〔緊張が〕緩むことであり、引きつることではない、と私は思う。結局、諸々の可能性の計算に気を奪われることを欲しない者〔が、意志する者〕なのである。そして、「しかし」が介入するのは、ここなのである。すなわち、一方には、私が私の欲求、私の諸嗜好、等と呼ぶであろうものが存し、他方には、斯く斯くの諸障碍、諸困難が存する。私はその計算のなかに文字通り私を失う、つまり、私は自分を捨象する、か、私は自分を他の諸々の所与のなかの一所与として扱う。そして欲するとは、まさに、自分をこのように扱うことを拒否することなのである。この意味において、信仰との接近は、本質的に権利の据えられたものである。というのも、信じることは、比較することを拒否することだからである。信仰の根本には、非-対決の意志が存するのである。これによって私が再び見いだすのは、私の昔の難しくて抽象的な諸議論である。だが、私に思えることは、私は現在ではそれらの議論をもっと強固に支えるものを持っているだろう、ということである。昔は私は言っていた、《私の内には、私自身に関するすべての真なる判断を超越するものが存する》、と。これによって正確には私は何を言おうとしていたのか? 私に関するすべての判断は、ある彼に関するものであり、この彼は定義からして私と一致し得ないのである。自分にとって私が汝であるような者は、彼がこのような判断に貼りついている場合でさえ、このような判断の彼方へと無限に赴く。彼は、私を愛することによって、私に一種の信用貸をするのである。だが、この信用貸は何に関するものなのか? ロイスは、愛は個別化することを、深く洞察した。しかし、個別化の原理は、彼が信じたように、そのような存在のみが実現し得る唯一目的に存するものなのか? よく注意しよう、このような目的は、この目的を実現すると見做される者にとっても、その他の経験的な諸主体にとっても、把握しうるものではないことに。このような目的は神にとって、そして神にとってのみ、把握可能なものである、と言わねばならないのであろうか? これは更につぎのことを認めることだろうと私には思われる、つまり、人格(personne)は神にとって彼女(elle)であって汝ではない、と。いずれにせよ、このことは、人間の本来の愛における、人間の繋がりにおける、判明なものを説明するものではないだろう。私は確信しているが、ここで、目的論的地平を無限に超出する思想あるいは経験の次元に訴える必要があるだろう。そしてこの探求は、個人の本来の性質といった観念に訴えることが虚しいと思われる程、より一層難しいのである。そういう性質は斯く斯くの他の個人のみが見分けうることのあるものであろう〔から〕。愛することは、適切に認識するといったことではない。愛が卓越した認識を与えることはあり得るが、愛は認識に先立つのであり、(217頁)それは愛が評価に先立つのと同様なのである。私は更に他の一点に気づく。それは、愛は、私が先に語った「私」からのあの解脱にしっかり結びついている、ということである。愛はこの意味で「私」の解放をふくんでおり、この「私」は、自らを本質として呈示するどころではなく、愛する者としてほとばしり出るのである。愛は祈り求めることとして、「私」から「私」への訴えかけとして、出現するのである。そして、私が以前、祈願と合図との間の対立について言ったことは、ここに完全に適合する。とはいえ、用心しなければならない。祈願〈祈り求めること〉は、私が情報の自己-源泉と呼んだものに向けられてはいない、ということから、祈願は述語を持っていない自己に向けられている、と結論しうるだろうか? 私は、その自己がそれであるところのもののせいで、その自己を好きではない。私が、その自己がそれであるところのものを好きな場合、それは、その自己がそれであるところのものが、その者〈彼〉〔自身〕だからである。ということは、私は、経験が私に与え得るであろうすべてを、勇敢にも先取りするということであり、そこに経験が自らを呈示するであろうすべての述語を、先取りするということである。じつを言えば、人は私にこう答えるであろう、この先取りの起源において既にひとつの述語の再認があるにちがいない、と。だが、それは間違いであると私は思う。すきに呼んでよいが、ある行為、ある状態、ある在り方というものがあり、これが叙述意識によって、ある述語の再認〈承認〉と同一視されることがあるのである。だが実際にはそれは、私の存在の思いがけない豊饒化なのである。
一九一九・十二・二。— 絶対的な更新、そして再誕すら存する処にしか、愛は存しない。愛とは、焦点移動する生であり、中心が変わる生である。ただ、このことが、とんでもない形而上学的問題を呈示するのである。愛は客体すなわち「彼」には関わらないということから、愛は、人が他者のなかの「非-彼」と呼びうるものに届く、と私は結論しうるのであろうか? 〔いわゆる〕普通の感覚は否定的に応答する。この感覚が承認する者は、私の愛が本来(記号によって)伝達されないとしても、私のこの愛によって事実的にであっても触れられて私が愛するところの者でしかない。しかも、この場合でも、接触するのは愛それ自体ではない。それにしても、普通の感覚が正しいなどということは、全然確かなことではないのである。そしてここで、愛のすべての主観主義的理解が、その諸原理を再検討されねばならないであろう。人は次のような仕方で論議するのが常である: 《あなたが愛している存在は、真実な存在とは異なる。ということは、愛は存在それ自体には関係しないということだ。愛には、いかなる存在論的なものも存しない》、と。しかし、人が言ってよいすべては、つぎのことのみである、すなわち、けっして判断に似ることはない本来の愛の上にこそ、全的に誤りであるかもしれない知的構成は建てられようとするものだ、ということである。このことは、実を言えば、困難さを遠ざけることでしかない。つまり、愛の根底に存する価値移行は、愛する者の現実的変化に対応することに、人は同意するだろう。しかしこの変化は、(218頁)《愛されている対象》の変容を必然的に相関者として持つだろうか? 私が直ちに気づくことだが、三幅対の系においては、問題はおそらく意味を欠いている。私は自分を、愛している者と愛されている者との外部に位置せしめているのである。私は彼らの関係を外から考察している。彼らは私にとって根本的に分離されているものとして現われているのである。だが、このことは、もし私がこの愛に参与していないならば、私はほんとうにこの愛を思惟することは出来ない、ということに起因していないだろうか? もしこの愛が何らかの仕方で私の愛となるのでないならば、この愛は私にとって存在しないのである。このことからの帰着として言うべきことは、提起された問題は、まさに愛する者の観点そのものからしか、意味をもたない、ということである。私は問うだろう、私の愛は、私が愛する者の存在に実際に達してその存在を性格づけるのだろうか? と。二つの注記が必要となる: 第一の注記は、おそらく、少なくとも一般的には、愛されている存在は経験的には、彼が起こさせる愛によって変容されることはあり得ない、ということである。第二の注記は、我々各々の実在性、すなわち、お望みなら、この実在性の完全な概念は、我々が他の人々に起こさせる諸感情を含意している、ということである。ただ、この完全な概念は、一種の観念的なフィクション〈虚構〉ではないのか? 要するに、大事なのは、ここで私が探索を試みている世界において、何かが概念を豊かにすることそれ自体に対応しているのかどうかを知ることなのである。形而上学的には、問題は次のように分解される: 1° 愛は、単に存在の観念に関わるのではなく、存在に関わるか 1〈1. この同じ問いは、例えば、憎しみにたいしても、あるいは妬みにたいして、発せられないかどうか、自問してはならないのだろうか? 私は、まだその感情を絶対的に正当化することは出来ないが、この問いが愛にたいしてしか意味を示さないという感情を持っている。〉? 2° 愛は、存在に影響を与えること無く、存在に関わり得るか? 第一点に関しては、いかなる疑義も可能であるようには私には見えない。第二点は、逆に、とても疑わしいように思える。私は確かに、私自身の愛を、私が愛している存在には届かないものとして思惟することが出来る。だが、多分ここに錯覚があるのであり、この錯覚はつぎの行為に依るのである、つまり、私は自分を、私たち二人にたいして第三者として立て、まさにそのことによって私たちを、区別されたもの、分離されたものとして扱う、という行為である。つまりこれは、信仰を排除している愛なのである。結局、人は言うのではないか、私は、問いの意味を問いから奪うことなしには、この問いを提起することは出来ないのだ、と。もっと念入りに考慮を払うなら、人は分かるだろう、もし私の愛が愛されている存在に作用を及ぼし得るとすれば、それはただ、この愛が欲望ではない限りにおいてだ、ということを。実際、欲望においては、私は愛されている存在を私自身の目的に服従させる傾向があるのであり、私はこの存在を根底において客体に変換するのである。つまり、多分、完全に無欲な愛のみが、「汝」に影響を及ぼすことがあり得るのである。このことに気づくことは、聖性の実践的な働きについて或る光を投げかけるものだろう。
(219頁)
一九一九・十二・三。— 昨日以来、私は、ひとつの存在のために祈ることは何であり得るのかを理解するのに心奪われている。先ず、私がその者のために祈っているところの者は、神と私自身とに比較すれば、ひとつの第三者であるように思われる。だが他方ではっきりしていることは、この者は私にとって単純に「彼」なのではないことである。誰かのために祈ることは、この祈りの可能的有効性を信仰することであり、それどころか、この祈りは虚しいものではないことを確信することであるように私には思われる。たとえこの祈りの願いが物質的には叶えられないとしてもである。ここにひとつの広い路が我々の前に開けているように思われる。私には明瞭に思えるのだが、適法であるような、自己のための祈りの型というものがあり、適法でないような、他者たちのための祈りの型というものがあるのである。私のための祈りは、神の賜ものとして見做されることが出来るものにしか関わり得ないように私には思われる。あるいはもっと正確に言えば、私は、「優れて在る」ことのために祈ることは出来るが、「優越を有する」ことにために祈ることは出来ない。この区別は私には日毎にいっそう重要なものに思えてくる。所有され得るものに関しては何も問題ではあり得ないが、そこから為され得る使用が問題であり得るのである。つまり、私が有するものは、神に由来するものであるとは、私にはほとんど思うことは出来ないのである。いかなる場合でも、この世における私の領分が増大されるようにと祈ることは、私には出来ない(先の十月の十九日と二十日の覚え書きを見よ)。あの賜もののことを私が語っていたのは、「恩寵」においてだったのだ。この賜ものは、人がこれを伝えるとき、増大するのである。他方、もし、他者のための私の祈りが、私に役に立つことに配慮することによって、私に強いられるならば、私の祈りはその原理において悪徳のものである。私の奉仕者の快癒のために祈ることは、私の奉仕者が同時に私の友である限りにおいてでしか、私に許されない。要するに、ひとりの「汝」のためにしか、祈ることは正当ではないのであり、そしてここから、新たな三位一体的関係が浮び現れるのである。もっとも、この関係は、実際にはひとつの二者関係(dyade)を隠し持っている。つまり、根本においては私は我々のために神に祈るのである。換言すれば、私は、他者と私との間に、あの精神的〈霊的〉共同体が存する場合にしか、この他者のために祈ることは出来ないのである。この精神的共同体の本質的性格を示すことは、私は既に試みた。私の魂のために祈ること、あるいは、私の愛する者のために祈ること、これらはおそらく、唯一つの同じ行為である。このことによって、我々は、私が昨日、私心の無い愛について語りつつ示そうと試みていたものに、うまく復帰するように、私には思われる。だからといって私は、「我々であるところのもの」と「我々が所有しているところのもの」との間に私が設けようと試みる区別が、明晰であるには程遠いことを、自分に隠す気は全然無い。たとえば、どこに知性を位置づけるのか? 人は、よりいっそう知性的であるために祈ることが出来るのか? 多分出来るだろう、もしそれが意味することが、力を増すために祈ること、自然の秩序をいっそううまく支配するために祈ることではなく、存在にいっそう完全に参与するために祈ることであるならば。祈りの効果に関しては、私に思われるのは、人は、意志について私が言ったことを基礎とすることが出来るはずだ、ということである。祈ること、それは、(220頁)「すべては与えられている」ということを承認するのを拒否することであり、意志として扱われる実在性を祈願することである。だが、言ってはいけないのか? 祈りながら、私はほんとうに意志としての存在を創設するのだ、私はこの存在をそのようなものとして創造するのだ、と。
一九一九・十二・四。— 私には思われるのだが、先ず、「祈ること」と「要求すること」との間の差異を深く究めなければならばいであろう。あらゆる要求は、共感への訴えを包含している。もし私が見知らぬ人に道を尋ねる〈私の道を求める〉とすると、私は彼が《私の立場に身を置く》ことを当てにしているのであり、彼が私の窮状を思い描くであろうこと、彼が有している情報を私に提供してくれるであろうこと、彼をこの共感が規定して、私の要求〈私が道を尋ねること〉が無ければ彼が表明しなかったであろう話をさせる(あるいは身振りをさせる)ことを当てにしているのである。だから、私のこの質問は、私の対話〈質問〉相手の行為の仕方を変容するにちがいないと見做されているのである。祈りの場合は、明らかにこのようではないかもしれない。〔だが〕私の祈りが要求〈質問〉に近くなる程、この私の祈りは私の権力を増大させる方法に類似し得る何か(ある情報、ある何らかの対象)に関わることになる。そしてその分、私の祈りは本来の意味での祈りではなくなるのである。反対に、私の祈りが私の存在そのものを豊かにする傾向があるに応じて、この祈りが向かうのは、明らかに、有限な個人性ではあり得なくなるのである。つまるところ、私に思われるのは、祈りは常に、《私のそばに居なさい、私と居合わせなさい》という型のものだ、ということである。そして〔祈りは〕抽象的なものにおいてあるのではなく、厳格に規定された斯く斯くの状況においてあるのである。人は言いたくなる、すべての真摯な祈りは応答される祈りである、と。しかしこの公式は危険である。実際、この公式は、次のような仕方で解釈される恐れがある:《もしあなたが充分に集中して祈るなら、あなたは自分の祈りが、叶えられないまでも、少なくとも聞かれると信じているのである》、と。さて、私の思うに、人はあまりに形式的にこのような解釈に対峙することは出来ない。この解釈は、祈りの生ける現実を、機械的な図式で代用するものなのである。それに、重要なことは、祈りの強度ではなく、祈りの質である。本当を言うと、これでは心理主義を論駁するには充分ではないことは確かだ。私の思うに、人が心理主義の論駁に到り得るのは、心理主義が常に二元論を想定していることを示すことによってでしかない。この二元論は、個人の在り方でしかないものと、実際に客体であるものとの間の二元論であり、形而上学的に維持し得ない二元論、また、救援に呼ばれる社会学も、その正当化には無力であるような二元論なのである。
いずれにせよ問題となるのは、私が「祈りの存在論的価値」と呼ぶであろうところのものである。すなわち、祈りのなかには、実在的なものを意志の言葉へと偶々解釈することよりも他のことがあるのか? という問題である。この問いを解くための方法は、私がひじょうにしばしば使ってきた方法であるように、私には思われる。(221頁)先ず自問する必要があるのは、人が、祈りはひとつの表象様態あるいは解釈様態でしかないと主張するとき、人は何を言おうとしているのか、ということである。この解釈が、この解釈に同意する者の存在を明瞭に変える程、問いはますますはっきりする。信仰者は自らが助けられていると感じ、この感情から力を汲むものだ。これを単純に、彼は自分が助けられていると信じるから助けられている、と言わねばならないのか? 彼はどんな場合に別のあり方をするのだろうか? 実在的な助けは、助けへの信仰とは明瞭に区別されなければならないであろう。もし私が誰かを、私がドアを開けるのを手伝ってもらうために呼ぶとするならば、私はおそらく彼を信頼しているのであり、それどころか私の彼への信頼は、彼にドアを開ける力を与えるのに貢献することもあり得るのである。だが、それでもやはり、ドアを開けるのは彼であり、私の彼への信頼〔がドアを開けるの〕ではないことに変わりはないのである。非信仰者は、それと全く似た意味において、神の応答の客観性を打ち立てることを求める。だが、私には思われるのだが、客観的に確認可能な助けは神を起源とするものではあり得ないであろうことを、非信仰者に確かめさせるのは正当なことである 1。〈1. あるいは、より正確には、この客観性は、信仰によって認められるのでしかあり得ず、観察者一般によって証拠立てられるのでは全然あり得ない、ということ。(一九二七年の覚書)。〉私がそのために他者に助力を求めるところの行為は、事実、私が私自身で完遂し得る諸行為と同じ型のものである。そのような行為は、少なくとも、そのような諸行為の延長上にあるものである。私が祈りによって懇願する助けについては、確かに同様ではない。おそらく人はこう答えるだろう、この助けは私に実際に与えられるのではないか、あるいは私自身の無意識な諸部分から発するのである、と。とりわけ反省を関わらせる必要があると思われるのは、この第二の場合である。私は現在、一般的な仕方で、つぎのように思う傾向がある、すなわち、この助けにたいして医学的な原因論の考えそのものを適用しても、意味は無く、神の行為は意志そのもの以上に因果的な理解が可能なわけではない、と。ところで私は、このような因果的理解を打ち立てることが、まだ私に出来るとは確信していないのであり、あるいはむしろ、あの最初の否定論にたいして肯定的反論をすることが出来るとも確信していないのである。
一九一九・十二・七。— 先述したことのすべては、結局、無神論に関する私の諸々の覚書に再び辿り着く。私は言っていたが、無信仰者は次のような仕方で論議する: 《私は経験のための普通の状態にあるが、神の経験を持っていない。ところでこの経験は、もし本当のものならば、客観的でなければならず、つまり、すべての普通の存在のものでなければならない。これは今の場合ではない。ゆえにそれは本当の経験ではない》、と。独断的無神論は、要するに、或る者にとっては存在しないものが、他の者にとっては存在し得る、ということを否定するものなのである。しかし、私が当時言っていたことだが、《(222頁)経験の通常諸条件》という観念は、多分ここでは何の意味も持たない。この諸条件は、必然的に、この諸条件を措定し定義する或る判定能力に拠っているのである。D.氏は調査によって自分は通常の諸条件内にあると評価した。つまり彼が自由にし得る(物理的ないし論理的な)諸装置の集合は良好状態であると評価したのである。我々はここで能力の次元に、《持つ》の次元に、いるのである。もし私が眼科医であれば、私に緑に見えるものが赤に見える者にたいして、私は検査して、彼は誤っており、彼は経験の普通の諸条件のなかにはいない、と宣言する資格があるだろう。ここでも事情は同様であり得るのだろうか? 私の思うに、D.氏は、もし彼が心理学者なら、私に言うだろう、彼は彼自身の経験が信仰者の経験よりも一層通常だとは判断しなくとも、少なくとも信仰者の経験にたいして、自らを客観化してひとつの実在性に関わる資格を認めない、と。ただ、信仰者の経験にとって、そのような関わりこそが本質的に重要であることに、気をつけよう。彼の経験にその資格を認めないことは、その経験に手をつけずにその経験から任意で外的な補足をただ差し引くことではなく、その経験を大破することである。—— 確かに、もしこの実在性が信仰者によって客体の如く、自然の力の如く考えられるなら、心理学者の態度はそのこと自体によって正当化される。というのも、その程度に応じて信仰者自身がそれによって心理学者に検証の権利を与えることになるからである。しかし信仰者は、自らの信仰を反省して、このような断定をやめるや否や、そうではなくなる。もっとよく見るべきことは、心理学者が、この信仰を実在的なものとして承認するとたちどころに、(信仰を単なる主観的現象として扱うことを止めて)この信仰と連帯するということである。私は、——ある意味において神は同様に私にとって存在すると考えること無しには——神は現実にあなたにとって存在する、と言うことは出来ない。「あなたにとって」と私は言った。つまり、もし実際に私が「彼にとって」と言うに留めれば、私には明らかに思えるのだが、私は客体の領域から脱してはおらず、私は《彼》と神との間のあの関係を変質させているのである。ただ、心理学者は、心理学の次元から人間の次元へと降りること無しには、「汝」における判断を表明することは出来ないのである。彼はもはや、人間たちのなかの一人間であるにすぎない。
私は、どの点まで、この議論が神の救いの問題に適用され得るか、見たいのである。斯く斯くの人は私にこう言う:《私は祈った。そして、祈ったということから私は自分がいきなり一層強くなったことを感じた》、と。私が心理学者として対処する程、私は「斯く斯くの人」を客体のように、すなわち、或る行為機構のように扱う。祈りは私には、その機構の只中で遂行された、定義可能な過程のように思われるのである。たとえ、私が祈りに何の効用も認めないとしても、私は少なくとも、そのような効用を信じることにだけは、ここで因果的価値があることを承認するだろう。(223頁)ゆえに私は承認するだろう、《斯く斯くの性格を呈する主体においては、このような態度の取り方の有効性への信仰は、このような帰結を引き出し得る》、と。〔これが〕《暗示作用》についての普遍的命題〔である〕。—— つまり心理学者は信仰者に自らを向けておらず、心理学者が信仰者のことを話すのは、斯く斯くの現象の「場」であった誰かのことを話すようなものなのである。これは討論と探究の一主題である。そしてこのようにして、信仰者自身の語りが無価値なものとして断ぜられるであろう。心理学者はそれゆえまさに、単に独断的な仕方で対処しているのである。彼は自分自身を規範として扱っている、ということになる。明白なことであるが、彼は、普遍化され得ない術語で表明された断定を、自分が普遍的言語に翻訳しているのを観察させることによって、自分を弁護するであろう。だが、この翻訳が理に適ったものであるかどうかを知ることこそが、〔問題の〕すべてなのである。私が信仰者であれば、私は心理学者に言うだろう:あなたには、この — あなたが生きたことのない — 経験を翻訳するための資格がありますか ? あなたの翻訳が可能なのは、あなたがこの経験を生きたことがないからでしかありません、と。
ここから私は結論したくなる、祈りが完全に真摯で、祈りを表現する者に応答されたと思われる場合には、我々はあらゆる妥当な批判の彼方にいるのである、と。
一九一九・十二・十五。— 大事な二つの反省:
1° ある与えられた個人 1〈1. X…氏が神の実存を発見したと告げる或る取り次店公文書を想像されたい。これがどうしてそれほど根本的に不条理なのか?〉が神の実存を証明し得るということを想像することは、どうして不条理なのか?(誰か特殊な者によって見分けられ得るものとして理解され得ないものは、自然においては何も存しないのに)—— その実存が証明され得るようなものは、神ではないであろうし、神ではあり得ないであろう。神の実存の客観的証明〈証拠づけ〉は不可能であること、このような仕方で宗教的問題を提起することは不条理であること、これらこそ疑い得ないことなのである。何か或るものが実存することを確かめることは、その何か或るものを特定し、位置確認することであることを、とりわけ示すこと —— それが単に観念的な関係を発見することではない限りは…
2° 対象を思惟することは、それにとっては私は重要でないような何か或るものを思惟することであるように思われる(保留付きでであり、この保留に私は立ち戻るであろう)。そうなってくると、自然崇拝(naturalisme)が世界の総体を牛耳ることとなり、この世界総体は、〔私とは〕斯くも全く無縁な客体〈対象〉の如き宇宙なのである。だが、私がそれにとっては重要ではないこの総体のなかに、それには私が重要であるような諸部分が存する、ということには、言うべき意味が存するのだろうか? 私に明白だと思えるのは、私がこの諸部分にとって重要である程度に応じて、それらは諸部分ではなくなる、ということである。〔これは〕観てみるべきことである。
他方において、どの点まで人には、(224頁)私が客体にとって重要ではないと言う資格があるのか? 物質的には、逆に、客体が私を考慮するのである。だが、客体への客体のこの関係は、ここで問題である関係ではない。
一九一九・十二・十七。— 私は先程、神と私との間に打ち立てることの出来る関係について、反省していた。この関係は、我々にとって、神が「汝」であり、世界が「彼」である程度に応じて、打ち立てることが出来るのである。だが、世界はほんとうに我々にとってひとつの第三者となることが出来るのか? このことは確かではない。というのは、そのためには、世界は神の外部にあるものとして思惟され得る必要があるだろうからである。私が(例えば政治的な)問題をひとりの友人と扱う場合、この問題は彼にとっても私にとっても「第三者」(elle)である。しかし、世界に最も内密に触れるものが問題である場合、例えばひとつの神秘(un secret)が問題である場合、事は同様であろうか? 「世界は神にとってひとつの客体であり得る、と思惟することは、神それ自体を否認することである」、と思うほうへ私は傾く。だが私はこの感情を未だはっきりと説明することは出来ない。それでも私に思われるのは、私が一昨日に書いた幾つかの註記は、この感情を理解するのを助けてくれる、ということである。私は言った、ある客体を思惟することは、それにとっては私は重要ではないところのものを思惟することである、と… だが正確には、と人は問うだろう、私は世界をそのように思惟することは出来ないのではないか? と。そして、私が、それにとって私は「汝」であるような生ける神の観念に高まるのは、それにとって私は重要でないような世界の観念からではないのか? と。そこには、完全に把握可能な弁証法が存する。だが、問題であるのは、神と私との間のこの関係が生ける豊饒な関係であるためには、この関係を言わば宇宙を越えて捉えることを断念してはならないのかどうかを知ることであり — 斯くの如き関係において捨象すると危険な存在を総体として越えてはならないのかどうかを知ることなのである。私は次のように思うほうへと傾く、すなわち、魂が、過ぎ行くすべてを越えて、神へとこのように高まることは、真の宗教的生の、ひとつの予備的道程でしかなく、前置きのようなものである、と。根本において、私が存在するのは、私にとって意味がある諸事物や言うなれば諸存在が存する程度に応じてでしかないという理由から、これら事物、これら存在が神にとって意味があるのは、私がそれら事物、それら存在 — と神との間に入り込む程度に応じてでしかない、と信じることが出来るであろうか? それは単なる自己中心主義(égotisme)に拠るものだろう。私が神へと真に高まるのは、私が、無限にある他の諸存在が神にとっても意味あるものであることを、思惟し、私の全力を挙げてそのことを欲する瞬間からのみであろう。
世界の内なる何かが神にとって「彼」でしかないということがあり得るかどうか、という問題をあらためて取り上げる必要があるだろう。この問題に断言的に答えることは、世界の内に絶対に愛され得ない、あるいは救われ得ないような何かが存する、と認めることに帰着する。だが、「そういうもの」が実在するとしたら、それはどんな型の実在性であろうか? 経験的なものか? 先ずすべきことは、神にとって経験的なものが存し得るかどうかを自問することだろう。これが主要問題である。
一九一九・十二・十八。— (225頁)フランソワ・ド・キュレルの『野生の娘』のなかに、つぎのようにある:《ほら、あなたは、まるで神の実存を承認しているかのように、語っておられる。—— 私は、諸々の仮説の中の最も尊敬すべき仮説について、恭しく語っているのです。》そして、もっと少し先では:《神と、魂の不死とは、人間精神の最も荘厳な諸概念と並ぶ、周知の諸仮説でしかない》。私の全仕事は、このような考え方にこそ、抗して向けられているのである。神とは、絶対に仮説としては考えられ得ないものなのである。仮説、それは実際、そこでは理性あるいは別の理性にとって、観察は不可能であるような場合に、それで諸事物が起こる或る様式を表象する仕方のことである。(つづく)